「へぇ。そんなに良かったんだ」
「うん! 京都って凄いんだね! ボク感動しちゃった~」
目の前でニコニコと笑うのは木綿季だ。
ここは倉橋医師が木綿季のために用意したVR空間だ。すっかり僕もこの空間には慣れた。
今は丁度、先日の明日奈達の京都旅行の感想を聞いているところだ。木綿季も――他のスリーピング・ナイツも――双方向通信プローブを通してその旅行を体験していたのだ。
部屋着の木綿季が座卓から手を伸ばし、一本のDVDを取り上げた。
「見て! 旅行の映像、全部録画したんだ!」
「……倉橋さんには?」
「もちろん伝えたよ?」
可愛らしく小首を傾げる。
―――ああ……。
倉橋医師の苦労を想像した。そもそもこのVR空間すらかなり無理を言って容量を確保しているはずなのに、それに加えて京都旅行の全ての録画分の容量も新たに確保したのだ。本当に木綿季には甘い人である。
「それでもね、あの料理は食べられなかったからなぁ」
「ん? 料理?」
「そう! ――ええと、大体この辺かなぁ」
DVD型のファイルは木綿季が触ると起動し、ホログラムのウィンドウを表示した。木綿季はそれを操作して見せたいところまで一発で飛ばす。
これだけの長さの動画、それの見たいところが一瞬で分かるというのだ。木綿季はこのビデオを一体どれだけ観返したのだろうか。
「ほら、これ!」
木綿季が指差したのは、いわゆる御膳だろうか。京都の食材をふんだんに使った小鉢がたくさん並んでいる。それを明日奈達が美味しそうにつまんでいた。
―――うわ。
僕が目にしたのは珪子が使っている割り箸……の袋。そこに書いてある名前は、僕でも知っている有名な料亭のものだった。たしかあそこはかつて外国の使節団をもてなしたりもしていたはずだ。かなりの格の店である。それは美味しいのだろう。
「でね。この間アスナに頼んだら作ってくれるって!」
本当に花のように笑う。
僕はふと、木綿季にサプライズをしたくなった。この胸の感情は嫉妬、だろうか。
明日奈は京都旅行をプレゼントした。ならばそれに対抗して――
******
おかしいだろう。いくらVRだからといってあの店の味が出せるのは。旅行に行った他の三人が口を揃えて同じ味だと言ったのだ。
無論思い込みというものはあるだろう。しかしそれにも限度があると思うのだ。作成者の明日奈もあそこの店の味を食べ慣れているわけではないだろうに。
これは僕も手を抜けなくなってしまった。
「はい。無理なお願いであることは重々承知の上ですが。そこをなんとかなりませんか?」
『……うーん。そうだね。そこでのデータを貰えるのなら、取引成立としようか』
「ありがとうございます! ……データは僕と木綿季の分だけでしょうか? 接続人数は増えてしまいますが、和人君と明日奈さんの分も取りましょうか?」
『それはありがたい。日本の誇る高VR適性者四人の試験データはとても貴重なんだよ』
さて、これで準備は完了である。
僕はALOのキリトの家に皆を集めた。
「さて、実は今日集まってもらったのは、ある特別なチケットが手に入ったからなんだ」
「チケット、ですか?」
「うん。何のチケットかは言えないんだけど、面白いものであることだけは保証するよ」
「で、それをくれるから集めたのか?」
金曜の夜。クラインは今週末に時間が取れないそう――会社勤めで今もログインできないのはそういうことだろう――なのでここにはいない。エギルも同様だ。飲食店経営で休日の日中に抜けるわけにはいかない。
そのためここにいるのはスリーピング・ナイツの面々と高校生組だ。
「ただ、このチケット、枚数制限があってね」
ウィンクをしながらチケットを揺らす。実際にオブジェクト化してみた。そこには英数字の羅列が印字されている――所有権のないプレイヤーにはボヤけて読めなくなっている――。
「……だと思った。勿体つけないで。何枚?」
シノンがゆらゆらと尻尾を揺らしながら言った。
「まず、別口で取ったからスリーピング・ナイツの分はあるんだ」
そう言いながら
「――え?」
「アスナちゃんは外せないからね。これは一応この縁を祝して、ってことだから。その貢献者には渡さないと」
里香と珪子に直葉、そして詩乃も頷いている。
「で、僕も案内人だから貰って」
見せていたチケットから一枚抜けば、残り枚数は一目瞭然。残りの面子の顔がピクリと引き攣った。
残るは二枚。そしてそれを狙うのは和人、珪子、里香、直葉、詩乃の五人。お留守番が三人で過半数になる計算だ。
「「「「「さいしょはグーッ!」」」」」
壮絶なジャンケンの結果、勝ち抜いたのは和人と詩乃だった。
正直菊岡にはああ言ったが、和人を招待する口実が思いつかなかったので実力で勝ち取ってもらった。流石の勝負強さである。
負けた三人は燃え尽きている。どこに連れていくとも言っていないのに中々に白熱したものだ。
僕はチケットを手にした者に告げた。
「じゃ、明日の朝の七時半から入場可能になるから」
「七時半!?」
「うん。そのチケットに書かれているアドレスのVRワールドにコンバートしてね。僕は七時半に待ってるから」
「「「「「「「「「了解!」」」」」」」」」
******
というわけで、翌日土曜日の七時半。僕の目前には感嘆の息を漏らす九人がいた。
「これは――」
「東京……!?」
僕らは渋谷のスクランブル交差点のど真ん中に立っていた。
「おい、レント。これは何だ?」
和人に聞かれ、僕はこのワールドの説明をする。
「これは日本政府が作成したVRワールド、『
伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』にかけたネーミングなのだろう。そのスケールは圧巻の一言だ。途轍もないデータ量である。
「全国の公務員によって集められたデータで毎日このVRワールドは作り変えられているらしいよ」
「何でそんなものが……」
「ここはそのコピーワールド。元のデータは身元の確かな人間じゃないと弄れないんだったかな。それも複数人の監視下でね。だから基本的に使用する場合はコピーして使うんだ」
僕の説明は不十分だったようだ。和人はまだ不満気な顔をしている。
「だから、何でそんなものをお前が持っているんだ」
「別に僕が所有しているわけじゃないよ。ここは菊岡さんに頼んで用立ててもらったサーバーだから。残念ながらデータ量とかの関係で、実装されているのは東京二十三区までだけどね」
木綿季がとてもきらきらした目でこちらを見ている。尻尾があったら千切れんばかりに振っているだろう。
「ここの使用方法を説明するからちょっと待ちなさい」
木綿季に掣肘を加えて、皆の意識が集中したことを確認してから説明を始めた。
「ここは本来色々な検証を目的として作られたワールドなんだ。だからここでは物理法則が現実のままに生きている。だけど皆はALOからコンバートしているから現在のアバターはALOのもので、能力値もアバター準拠だ。つまりテッチさんとかならちょっと本気で殴ればビル一棟くらい壊せるってこと。オブジェクト保護は一切ないから。ちなみに今のプレイヤーIDを使っていたデータだったらどれでも引き出せるよ」
一応注意はしておく。オブジェクトの強度が確保されており、また破壊不能オブジェクトの括りが存在するALOとは訳が違うのだ。
「それとは別にここなら自由にアバター作成が可能で、そうした場合は体格に対応した平均的なステータスに調整されるから、好きな身体で動いてほしい」
ここまでがアバターの話。ここからは可能なことについて。
「で、さっきも言ったけどここには東京二十三区がある。そしてこの二十三区だけは、首都直下型大地震のシミュレーションのために店舗の
「本当ですか!?」
―――おおう。
以外にもシウネーが食いついてきた。いや、彼女も立派な女性だ。お洒落をしたい、ウィンドウショップを楽しみたいという思いもあるのだろう。
「う、うん。システムウィンドウはALOのものに統一してもらったから、そっちの使い方は分かると思うよ。所持金は全員一律無限になっているから、そこは好きなようにしてもらって構わない」
脳内で説明を反芻する。他に言うことは、特にないか。
「このデータは結局コピーでしかないし明日には全部消去されるから、各々好きなように過ごしてね。別に破壊行動に勤しんでくれても――「も、もう行っていい!?」……確かにちょっと長くなっちゃったね。じゃあ、どう、ぞ……」
許可を出した瞬間に、目の前からスリーピング・ナイツの七人の姿が消えた。明日奈は木綿季に連れていかれたようだ。ちなみに目の前のアスファルトには大きな穴が開いている。力の加減にしばらくは苦労しそうである。
「……じゃ、俺も行ってくる」
和人もそそくさと明日奈が引き摺られていった――アスファルトに跡が残っている――方向へと駆けていった。流石は和人だ。現実世界とほとんど変わらない動きをする。
というわけで、その場には僕と詩乃が取り残された。
「――じゃあ僕達も行こうか」
「……どこか当てはあるの?」
黙り込んでいた詩乃が聞いてきた。
「特にないけど、そもそも僕ら地元民と言えば地元民だからねぇ」
「二十三区の一部に住んでるだけでしょ。とても二十三区全部が地元とは言えないわよ。それに東京よ? 同じ面積だったとしても田舎の十倍は密度があるわ。どれだけ少なく見積もってもね。それを全部把握しているはずがないじゃない」
中々に饒舌だ。これはつまり何か僕に案内してほしいということだろうか。僕だって決してこの辺りに詳しいわけではないのだが。あ、確かに地元民と誇れるほどこの地に根づいていなかった。
「うーん。それなら、普段は人が多くて余り楽しめないところに行こうか」
「確かにこの東京に私達だけしかいないんだものね。ゴーストタウン・トウキョー。ゾンビもののタイトルみたいね」
どうやら詩乃はやや不機嫌なようだ。それは僕としても余り好ましいことではない。
僕が知っているスポットを頭の中でリストアップ。今日は詩乃を連れ回すことに費やすことになりそうだった。
僕はやや苦笑して、詩乃にある方向を指し示した。
「取りあえず、ここに法はないわけだし、移動手段を確保しよっか」
指差した方向には、停車した状態で再現された自動車が鎮座していた。
******
東京の中央部は基本的に小さな店の集合であり、一つの通りを歩きつつ楽しむのが正しい楽しみ方だろう。
そんなわけで乗ってきた車は乗り捨て、適当なところ――この適当は二つの意味だ――で降りる。
そこから浅草寺に向かって歩き出した。何でも、浅草寺に詩乃は行ったことがないらしい。近いとむしろ行かないものである。それに詩乃は人混みが余り好きではない。わざわざあそこに行く理由もないのだろう。
「それにしてもこの距離にある観光名所に行ったことがないなんてね」
「そんなものでしょ。地方の学校なら修学旅行で来るとかあるかもしれないけど、この距離じゃありえないわ」
「はは、確かに。修学旅行が浅草寺って言われたら暴動が起きるね」
談笑しつつ通りを下る。詩乃の態度はまだやや冷たいが、その機嫌は上向きになっている。
僕らの歩みは決して速くない。時折足を止めて通り沿いの店を冷やかす――店員はいないのだが――。たまに報道番組で見るような飲食店に入ってみる。そこで食事も楽しんだ。まさか明日奈ではあるまいし本来の味が再現されているわけではないのだが、ある程度のものは食べられるのだ。普段は決して近寄らないから雰囲気だけでも楽しんでおこう。……メニューを再現する必要性は皆無だと思うのだが。
こうなると疲労を感じないVRは便利である。それに僕らはVRでの食事に適応しきっている。慣れていない人や慣らしていない人は、VR空間で食事をすると食欲がなくなってしまったりするのだが、僕らはそこの調節ができる。空腹は紛らわせる上に、別に満腹感で食事ができなくなるようなこともない。VRだからこそこれだけ多くの店で飲食をできるのだろう。
途中で人気ファッションブランドの日本支店にも寄った。そこで詩乃は服に合わせてアバターを変えた。ケットシーの特徴である耳と尻尾を消して、髪色を黒に変えたのだ。要するに現実に近づけたのである。その後の詩乃はとても上機嫌だった――詩乃が選んだ服は合計すると一人暮らしの高校生には手を出しがたい値段になる――。
ちなみに僕も近隣の店で服装とアバターを変えた。僕のアバターはそもそも現実に近いので目と髪の色を変えただけだが。
そんなこんなで、二人で楽しみながら歩いている――普段ならこの通りはこんなに自由が利くほど空いていない――と、かの有名な雷門へと到着した。
そこで僕らはしばらくぶりに人の声を聞いた。
「ん? この声はジュンかな」
「あら。こっちはアスナじゃない?」
その通り、仲見世商店街には僕ら以外のこの世界の来訪者が全員揃っていた。
「あっ! レントさん」
「え! レント!?」
最初に気づいたのはタルケンで、駆け寄ってきたのは木綿季だった。
スリーピング・ナイツの面々はそれぞれ服装が変わっており、アバターのカラーリングも変わっていた。だが逆に言えばそのくらいしか変えていなかった。彼らは僕と同じコンバート族で様々なアバターを持っているはずなのだが。……流石に芋虫はご免だと思うが。
結局、全員が合流したまま浅草寺へと向かう。ただでさえ遅かった進みは更に遅くなった。
そうしてようやく浅草寺に到着。仮想で再現されたものにどれだけの御利益があるかは不明だが、一応本堂に一礼しておく。
無礼だが、実際問題仲見世を除いた浅草寺の本堂に然程時間をかけるところはない。すぐにそこを離れた。そして僕らは額を突き合わせて相談した。
「この後どうしますか?」
「うーん。ショッピングはもういいかなぁ」
木綿季は腕を組みながら唸り声を上げる。
「でももう時間があるわけじゃないからなぁ」
木綿季の言う通り、現実時間とリンクした太陽は既に中天を越えている。
「みんなはしたいこととかない?」
「私は久しぶりに渋谷が楽しめたので」
「俺は特にやりたいことはないですね」
「こっちも~」
皆が同じような状況。むむむ、と悩んでしまう。
最近はVRワールドの多様化も進み、現実世界でできる多くのことをVRでできてしまう――バーベキューなどその最たるものかもしれない――。そしてここは精巧に作られた現実世界のようなもの。ついついそこでしかできないことを望んでしまい、逆に身動きが取れなくなってしまっていた。
しかしこういったときの流れを崩す人間は決まっている。
「じゃ、ボク、お台場に行ってみたいな!」
******
「ふぅ」
その日の深夜、というか日付を跨いだから翌日か、僕はアミュスフィアを外して大きく伸びをした。
あの後は一日東京観光をした。他に人がいないのを良いことに、余り大きな声では言えない交通手段で東京中を巡ったのだ。
VRワールドで何ができないのか、確かに考えれば簡単な話だった。観光はできないのだ。東京が再現されているなら、再現された東京で何を楽しむのかではなく、再現された東京自体を楽しむべきだったのだ。
―――本当、敵わないなぁ。
木綿季といると新しい視点を与えられているような気分になる。だからこそ、その恩を返そうと努力するわけだが。
「おっ」
PCには招待した面々からの感謝のメールが次々に届いていた。僕の頬が思わず緩む。
プレゼントは喜んでもらえたようだった。
こういった形でシミュレーションした上での、アンダーワールドの広大な土地になるんだと思います。というか、実際ザ・シードみたいなのがあったら作るべきだと思うんですよね。CGとか物理エンジンなんかよりももっと正確なシミュレーションができますし。
では、また。