あんまり読む意味は無い。
幕間 心を殺した少年と、初めてのクリスマス
「……ただいま」
どうやら小町は帰ってきているようなので、一応挨拶はしておく。小町の両親は共働きなので今はいない。というか、俺を避けるために社畜してるような節さえあるのだ。こんな時間に帰ってきているはずもない。
現在時間は午後六時。バイトの雇い主に呼び出されていたので、いつもより遅くなってしまった。
普通なら小町が心配過ぎて発狂しそうなところだが、雇い主との契約の中に小町の安全の保証も含まれているので、安全面での心配はあまりしていない。むしろ心配なのは小町の精神的なことだ。まだ中学二年生でしかない普通の女の子である小町は、クリスマスの日にさえ帰って来ない両親を見てどう思うのか。
いつの間にかかけ離れてしまった『普通の家族』という理想像との差異に挟まれ苦しんではいないか。狂人に堕ちた俺にとって、小町というのは光であり希望であり楔であり鎖であり、心も身体も狂いきった俺に遺された唯一『普通の』感情だ。
故に、俺は小町を愛し、小町を見守り、小町のために生きる。最早人外に成り果ててしまった俺にとって、小町だけが生きる意味であり理由なのだ。
「お兄ちゃんっ、おかえり!」
とてとてという可愛らしい足音と共に現れた小町。クリスマスだというのに、友達とパーティーをする予定もないらしい。まったく、そんなとこまで俺に似なくとも良いだろうに。
「おう。ただいま」
だが、小町の両親から迫害を受けている俺は、あまり小町と関わるべきではない。本家の庇護も、こんな歪な家庭内には届かないのだ。
そういうわけで、俺はさっさと宛てがわれた部屋に向かおうとしたのだが。予想外というのは、思いつきもしない事だから予想外なのである。
「その、お、お兄ちゃん。今日……さ、お母さんたち、帰って来ないから……小町と、パーティーしない?」
「……あの人達がいつ帰ってくるかなんて分かんねえだろ」
「その時は小町が説得するから」
「だめだ。下手すりゃ小町まで殴られる。あの人たちは小町の味方だが、自分のことが大好きなんだ。思いどうりにならなきゃ、癇癪起こして暴れるだろうよ」
「っ、それでも!……小町、クリスマスの日くらい、お兄ちゃんと居たいよ……」
「……あー……その、なんだ?……分かったよ」
「!ほんと!?」
沈んでいた小町の表情がパァーっと明るくなる。向日葵のように、太陽のように明るい笑顔は随分と見ていなかったので、数年ぶりに小町のこの笑顔を見られただけでも収穫はあったと言えるだろう。
「そうと決まればはやくはやく!お兄ちゃんは手を洗ってきてねー」
鼻歌を歌いながらスキップでリビングに消えて行く小町。小町の言葉から察するに、既に料理やらなんやらは用意されているらしい。ここ最近は素材をそのまま食べていたのでまともな料理は実に三ヶ月ぶりである。
ま、もうすぐ小町の両親への対抗手段も出来上がるし、これもクリスマスのプレゼントだと考えて、頑張って楽しみますかね。
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「どう?美味しい?」
「おう。流石小町だ。これまで食べてきた全ての中で一番美味い」
「えへへ、ありがとう」
クリスマスらしくチキンやピザの並べられた食卓。パーティーの華やかで楽しげな雰囲気が本来漂うべきその場にはやはり、久しぶりに使われたかのように小奇麗な椅子に座る俺だけが異質だった。
本当に幸せそうに、小町は笑う。
俺はそれを見て、ようやく安心出来た。
俺のような狂人には、それは本来許されざる事なのだろう。血と狂気に汚れた俺は、本来この笑顔を見る事さえしてはならない。まして、その笑顔を向けられるなどあってはならない。
けれど、俺はその光景に罪悪感など感じない。狂人にとっては、その程度の一般論など何の価値も無い。
俺にとって価値があるのは小町だけであり、その小町が喜んでいるのなら何も言うことは無い。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「んーん。呼んでみただけー」
「……そうか」
「……うん。そだよ」
そして、俺たちの間に沈黙が舞い降りる。
後悔、焦燥、恐怖。様々な感情が小町の顔を彩る。
何度も口を開いては閉じ、何かを躊躇っていることが如実に感じられる。
やがて、時計の秒針が三周したころ、小町が意を決して切り出した。
「……お兄ちゃん。小町は、まだお兄ちゃんの足でまといなのかな。小町は、お兄ちゃんのことを、苦しめてるのかな?」
小町の口から零れ出たのはそんな言葉だった。
そしてそれは小町の悲痛な叫び。あるいは悲鳴。小町を苛むのは俺が辿った狂人への変遷の記憶なのか。あるいは小町が、両親の俺への扱いのおかしさに気づいた時の記憶か。
小町のために生きているなんて言った後で情けない限りだが、俺には何が小町を苦しめているのかは分からない。
だが、俺が今すべきことは何となく分かる。
「大丈夫だ」
「おにい、ちゃん……」
俺は小町をそっと抱きしめた。狂人である俺にもこの行動の意味は分かっているし、検討の結果これが最善だろうと理解した。
狂気と理性が同居する、どうしようなく救いようのない俺のココロはけれど、理性が出した結論を、殺されたはずの感情で後押しした。それになんの意味がある訳でも無いが、小町を愛するのだから感情があって悪いことも無い。
「……もうすぐ、俺は独立の準備が整う。雪ノ下は、俺を本格的に取り込んできた」
「……そっか……そっかぁ……」
「大丈夫だ……俺は、お前を愛してる」
泣き出してしまった小町を相手に、咄嗟に出てきたのはそんな言葉。狂人へと堕ちたはずの俺が使うには、余りにも相応しくない。
だが、それを理解しながらもこうして口に出すのもまた狂人らしいと言えるだろう。外法の存在、狂い果てた修羅の先。超常の力などありはしないが、人でないことは確かだ。
「お兄ちゃんはさ、いっつもそうやって小町を助けてくれるよね……小町さ、悪いことだって分かってても、嬉しいんだ。お兄ちゃんは確かに普通とは違うのかもしれないけど、小町のお兄ちゃんなのは変わらないんだよ」
「……そうか」
そして、こんな俺に想いを向けて来る小町もまた、普通ではないのかもしれない。
だが俺は、小町の普通を守るため、殺した心で世界を生きる。それは狂人である俺には不可能なのかもしれないが、世界が定めた程度の運命とやらに元から従うつもりもない。矛盾で己を武装し、狂気と理性で己を動かす。人だった俺の名残は、最早小町に向ける情しか残っていない。
それでも、だからこそ、俺は今一度誓おう。
狂人の誓いに、大した意味は無いかもしれないけれど。
誓いも矜持も信念も、結局ぶち壊すのは俺自身かもしれないけれど。
せめて、人の皮を被っている内は。
俺が、狂気に飲まれるその瞬間までは。
小町を愛し、小町を護り、ただ小町の為だけにこの命を燃やそう。
「そう言えば、まだ言ってなかったね」
「?何がだ?」
「んっふふー」
顔を上げた小町は、いたずらな笑顔で俺を見やる。
「メリークリスマス!」
聖者の誕生を祝う聖なる夜。
引き裂かれていた狂人とその妹はもう一度、何があろうと互いを護ると誓い合った。