そんな迷いに捉われていた女性シンガーは、過去の自分と出会う。そう。「夢」は叶うと、「夢」はなんでも叶えてくれると信じて疑わない、輝きに満ちた少女と――
ラブライブ! 劇場版に登場する女性シンガーの視点から、穂乃果との出会いを描く短編小説です。
女性シンガーを世知辛い現実に揉まれたフツーの大人として書いていますが、御容赦を。
歌は夢だ。
歌は現実を忘れさせてくれる。
私を悩ます、まとわりつくような不安を振り払ってくれる。
歌えば、高揚と安心が混ざったような幸せに心が溶かされていく。
かけがえのない幸福な時間。
それはどこか懐かしくて、心地よい夢を見ているようで――。
思えば、果てない願いを叶えてくれたのも歌だった。
母校が廃校寸前に追いこまれた高校時代。
夢は叶うと信じて疑わなかった私は、母校を救おうとスクールアイドルを始め、仲間とともに奇跡を起こした。
私たち――μ’sは注目を集め、その人気をもって廃校を阻止し、最後には「伝説」とまで呼ばれるようになった。
平凡な高校生が成しとげた奇跡。
それは歌の力なくしては叶えられないものだったと思う。
栄光の青春時代から時は過ぎ、一〇年後。ニューヨークの雑踏で私は歌う。
伸びやかに、しとやかに声を震わせて。
夢そのものといえる歌に感謝を込めて。
歌が終わる――夢から醒める。
歌のあとにやってくるのは、湧き上がる興奮と充実感。
そして、目覚めにはつきものの世知辛い現実だ。
(いつまで夢にしがみついて生きていくんだろう)
観客に笑顔を振りまきながら、冷めた心で考える。
伝説のスクールアイドル“μ’s”のセンター。
輝かしい実績を残した私は高校卒業後、歌を忘れられずに歌手を志した。μ’sの名の後押しもあり、すぐに芸能事務所に所属し、デビューすることもできた。
夢に満ちた順風満帆な船出。
……でも、そう上手くはいかなかった。
現実は甘くない。作曲も作詞もできなかった私に、厳しい芸能界で生き残っていくすべはなかった。すぐに仕事はなくなり、事務所との契約も二年で打ち切られた。
普通なら現実を知って身を引くタイミングだったのかもしれない。だけど、私は歌を諦められなかった。
エンターテイメントの本場、ニューヨークで歌を一から勉強したい。
μ’sの輝きを象徴するような場所。あの街でもう一度、夢に賭けてみたい。
そんな無謀で計画性のカケラもないことを思い立ち、周囲の反対を押し切って渡米。
最初の頃は危険な目に遭ったり、お金がなかったりで、何度か冗談じゃなく死にかけた。
でも持ち前のポジティブ思考と行動力で一つずつ克服し、今ではこうして路上ライブやショーパブの前座で歌ったりして生活費を稼ぐまでになった。
我ながら英語すらまともに喋られない状態から、よくここまでこられたものだと感心する。
怖いもの知らずの若者だからこそ成し得た芸当だろう。今の私に同じことをやれと言われても、とてもじゃないができる気がしない。
絶えまない苦労の末に掴んだ歌手としての生活。だけど、
――そろそろ潮時なのかもしれない。
生活費を稼げるといっても、それは糊口をしのいでいるに過ぎない。貯金だって微々たるものだ。
もう私も二七歳。結婚して子供を産んでいる同級生だっているし、OLとしてバリバリ働いている二歳年下の妹だっている。
いい加減、夢から醒めるべきなのかもしれない――いや、まだ浸っていたい。
「サンキュー」
歌い終えた私は、そんな揺れる心を隠すように取り繕った笑顔で聴衆を見渡す。
少しでも私の歌で楽しんでくれたらいいのだけど。
――と、そこで大仰な拍手が聞こえた。
反射的に拍手の主に目を向け、そして息が止まった。いや、呼吸どころか心臓だって止まっていたかもしれない。
だって。頬を紅潮に染めながら、懸命に手を叩く少女。
それは紛れもない一〇年前の私――μ’sの高坂穂乃果だったのだから。
尊敬の眼差しを向けてくる純粋な瞳。
必ず夢は叶う。そんな戯言を信じて疑わないだろう面持ち。
恥ずかしいぐらいに甘っちょろくて若い、希望に満ちた過去の自分。
見渡せば街は様相を変え、私の知っている街とはズレがあった。
古びた映画館が小奇麗になり、最近できた大きな商業ビルは昔よく通ったカフェに逆戻りしている。
行き交う人たちの服装が、流行に敏感なこの街にしてはどこか遅れている。
「ああ、そうか」と口の中で独りごちる。
どうやら私は一〇年前にタイムスリップしてしまったらしい。
普通に考えたらありえない出来事をひどく冷静に受け止める。
なぜなら私は、この邂逅を心の片隅で夢想していたからだ。
一〇年前、進むべき道に迷っていた私を導いてくれた歌手のお姉さん。
記憶の中の彼女は私に似すぎていた。
髪の色、喋り方、どこか抜けた性格。
話していないはずの幼い頃の思い出を知っていたこと。
年を重ね、彼女に近づいていく自分を鏡で見る度に、考えずにはいられなかった。
ニューヨークで出会った女性シンガー。
彼女は未来の自分だったのかもしれないと。あの出会いは、迷う私に神様がくれた奇跡だったんじゃないかと。
そんなバカな話、あるわけない。そう打ち消しながらも、どうしても捨てきれなかった想像。
そして私は、万が一この妄想が現実になったときは、覚悟しようと決めていたことがあった。
♪
「たまにいるよ。あなたみたいに迷子になっちゃう人。でも、まさかホテルの名前までわからないなんてね」
「うぅ……」
穂乃果が泊まるホテルへと向かう地下鉄の車内。私が呆れたように言うと、穂乃果は恥じるように身を縮こまらせた。
――大きな駅があるところの大きなホテル。
穂乃果が私に伝えた、ホテルの情報はそれだけだった。
昔の自分のことながら、本当に抜けたヤツだ。海外に行くのに、泊まるホテルの名前すら憶えてないだなんて、能天気にも程がある。
“大きな駅があるところの大きなホテル”なんて、ニューヨークにどれだけあると思っているんだろう。
とはいえ、もちろん私は穂乃果の泊まるホテルを知っている。
「大きなシャンデリアもあるでしょ?」
「あります」
穂乃果は目を輝かせて大きく頷く。
オーバーな動きに苦笑したとき、私は大事な忘れ物に気付いた。
「あっ!」
「どうしたんですか?」
大声を上げた私を、穂乃果が心配そうに覗きこむ。
「マイク……、忘れた」
「ええー!」
穂乃果が目を丸くして驚く。
……しまった。あのマイクは、この出会いに何より大切なものだったのに。
呆然としていると、穂乃果が遠慮がちに私の背後を指差した。
「あの……、それってもしかして、それじゃ……」
指の先を見やると、そこには私のマイクが堂々と鎮座していた。
「あ……、えへ」
照れ隠しに笑ってごまかす。
……どうやら私に穂乃果を抜けたヤツだなんて言う資格はないらしい。
ホテルのある駅に着くと、穂乃果にマイクを手渡した。
「さあ、着いたよ。悪いけど、これ持っててくれる?」
「あ、はい」
地下鉄から降りて、私の身の上話をしながら歩き始める。
「これでも昔は、仲間と一緒にみんなで日本で歌ってたんだよ」
「そうなんですか?」
「でも色々あってね。結局、グループも終わりになって」
今でも鮮明に思い出せるμ’sの記憶。
「それで……、それで、どうしたんですか?」
食い入るように聞いてくる穂乃果。
このあと、穂乃果はニューヨーク公演を大成功に導き、μ’sはスクールアイドルを代表する存在になる。
自分たちは解散を決めていたのに、周囲の期待が大きすぎて。やっぱりμ’sを終わりにするわけにはいかないんじゃないかって、悩みに悩みぬくのだ。
そんなこと、今の穂乃果は知る由もない。だけど、私の話に聞き入る当たり、日増しに大きくなっている自分たちへの期待を肌で感じているのかもしれない。
昔を思い出すように軽く目をつぶって口にする。
「簡単だったよ――」
伝えたい答えを、噛みしめるように繰り返す。
「――とっても簡単だった。自分たちはどうありたくて、何が好きだったのか。それを考えたら、答えはとっても簡単だったよ」
自分がどうしたいか。それはいつだって心の奥底に根付いている。
何があっても、本当の気持ちは揺るがない。ただそれに従えばいいだけだ。
「なんかわかるような、わからないような……、なんですけど」
私の言葉に穂乃果は、もどかしそうに首を傾げた。
「今はそれでいいの」
「ええー、いやです」
ふくれてみせる穂乃果を、微笑であしらう。
「いいの」
教えてあげたいのは山々だけど、こればっかりは穂乃果自身に見つけてもらうしかない。自分の本当の気持ちなんて、他人に言われて気付くものじゃないんだから。
ホテルに近づく。遠くにうっすらとμ’sのみんなの姿が見えてくる。
さて、これで私の役目はお終いだ。
遠い記憶。一〇年前に私を助けてくれたお姉さんは、ホテルに着くと同時に消えるようにいなくなってしまった。
だからきっと、穂乃果との邂逅はここまでなんだろう。
ホテルに走っていく穂乃果のうしろ姿を、目を細めながら見送る。
穂乃果の手には、私が持たせたままのマイクが握られている。
私と穂乃果は文字どおり住む世界が違う。長年連れ添ったマイクは、二度と私の手には戻らないだろう。
でも、これでいい。
私は決めていたのだから。
私が夢想したとおり、一〇年前の自分と会えたのなら――そんな奇跡が訪れたのなら、もう歌はやめようと。
いつまでも夢ばかり見ているわけにはいかない。現実と向き合って、地に足をつけた暮らしをするときが来たのだ。
これ以上ない存在に自分の夢を託せるのだから、未練なんてあるはずがない。
そう自分に言い聞かせると、ぽつりと呟く。
「……ありがとう」
愛用のマイクに。
今の自分には、眩しいぐらいに輝いていた過去の自分に。
私をここまで連れて来てくれた、かけがえのない夢に。
感謝の言葉を口にすると同時に、私は元の時代に帰っていた。
場所は変わらないものの、穂乃果の姿は見当たらない。
少しだけ目をつむって感慨に浸ると、私はポケットから携帯電話を取りだした。
日本に帰ることにしたのだ。まずは幼馴染に連絡しないと。
ちょっと長めのコールを聞きながら、日本は何時だったろうと遅ればせながら不安になる。
まあ、いいや。非常識な時間だったら電話に出ることもないだろう。そんなことを考えたときにコール音が途切れて、電話がつながった。
「はい。園田ですが」
番号が登録されているはずなのに、律儀な名乗りから始まる。
「もしもし、海未ちゃん? 久し振り」
「穂乃果。いきなり電話などかけてきて、一体どうしたというのですか?」
驚きと戸惑いを感じさせる声で聞いてくる。
無理もない。日本に電話だなんて、どこか過去にすがっているみたいなのが嫌で、ほとんどしてこなかったのだ。
海未ちゃんと話すのだって、ミカが結婚した時以来だから二年振りだ。
「……あ、それよりも時間は大丈夫? そっちって今は何時だったっけ?」
「まったく……。こっちの時間を考えずに電話をかけるだなんて、穂乃果は昔と少しも変っていませんね」
「えへへ、ごめーん。」
私が笑ってごまかすと、海未ちゃんはため息交じりに答えた。
「大丈夫ですよ、こっちは朝の一〇時前です。これから稽古の時間ですが、少しならお話しできます」
海未ちゃんは日本舞踊の名家、園田流の跡取りとして、舞踊教室も開いている。場末の流しみたいな私と違って、文句のつけようもないくらい立派な人生を歩んでいる。
「それで用件はなんですか?」
「うん……」
「……どうしました? 体調でも悪いのですか?」
珍しく煮え切らない態度の私を心配してくれる海未ちゃん。
「ごめん。そうじゃなくってさ。その……、そろそろ日本に帰ろうと思ってさ……」
「……………………」
意を決して口にした言葉に沈黙が返ってくる。
「……本当にいいのですか?」
歌をやめる。みなまで言わずとも、真意はちゃんと伝わったらしい。
経験も英語力もない私が単身ニューヨークに行くと決めたとき、当然のようにみんなが反対するなか、海未ちゃんだけは「穂乃果が言い出したことは、誰にも止められませんから。それにやると決めたからには、必ず成し遂げる穂乃果を私たちは見てきたじゃないですか」と快く送り出してくれたことを思い出す。
それが、どれだけ私の背中を押してくれたことか。
“かろうじて”だけど、歌で生活することができた。
海未ちゃんがいたから、私はここまでやってこられたのだ。
だからこそ他の誰でもない、海未ちゃんの諭すような言葉は私の心に突き刺さった。
本当にやめていいのかと。後悔はないのかと、私の胸を締めつける。
だけど、私だっていつまでも好き勝手ばっかりやってはいられない。
雪歩がOLとして働いている以上、穂むらはお父さんが元気なうちに、長女の私が継がなきゃいけないんだし。
「うん……。いい加減、潮時かなとはずっと考えてたんだよね。それにね、夢を託せる子にも出会えたからさ」
「夢を託せる子?」
「ううん、なんでもない。こっちの話」
クスリと笑いながら話を濁す。一〇年前の自分に会っただなんて話、電話で大真面目に話したって仕方がない。
「わかりました。それでは帰ってきたら、歓迎会をしないといけませんね。みんなに声をかけておきます」
「ありがとう。それじゃあ、細かいことは決まったらメールするね」
別れの言葉を交わして電話を切る。
さて、引っ越しの準備やら格安航空券の手配やら、これから忙しくなりそうだ。
大きく深呼吸をして、足を踏み出す。
「ああああああッ!」
そこで、私は自分の失態に気付いた。街中だというのに、一人で大声を出す。
穂乃果との邂逅。それは一度だけじゃなかった。
一〇年前。私はニューヨークから帰国したあと、実家の近くでも路上ライブをやっていたお姉さんに会っている。
場所はいい。どうせこれから実家に帰るのだし、もののついでだ。
でもマイクだけは、もう穂乃果に渡してしまっている。
「新しいの買わなきゃなあ……」
自分のマヌケさから来る手痛い出費に、ため息交じりに呟いた。
♪
歌う。
心地良くて、優しい夢に浸る。
それはニューヨークでも、東京でも変わらない。
終わったはずの夢が一度限りで蘇る。
ニューヨークから帰国した私は、実家に寄りもせず、神田で路上ライブを始めた。
実家に帰ったら、歌は忘れないといけない。それがケジメというものだろう。
だから、最後の宿題はここで終わらせておきたかった。
歌を終える。幸福感から現実に引き戻される。
そして――、
「また、会えたわね」
私は再び穂乃果と出会った。
穂乃果は、予期せぬ出会いに目をしばたたかせる。
「なんでここにいるんですか? あの時も突然いなくなっちゃって……。ああー! このマイク、私の家にもあります。ちゃんとお礼、言いたかったんですよ」
あいかわらずの大きな動きでまくし立ててくる。
「ごめーん」
大丈夫。そのマイクは穂乃果に託したものなんだから。
「そうだ。私のうち、すぐ近くなんです。お茶だけでも飲んでいってください」
穂乃果は私を実家に連れて行こうとする。
一瞬、マズイかとも思ったけど、こういう帰省も悪くないかもしれない。昔の自分に連れられて帰るだなんて、他の誰にもできない経験だ。
一〇年前の家族に会えるかもしれないと、ワクワクした気持ちで実家に向かう。
まだ中学生の妹は、客人の私をどんな顔で迎えてくれるのだろう。そんな想像をしながら歩き始めたのに、すぐに私の心は焦燥感に蝕まれていった。
――家に着いたら、夢が終わってしまう。
一歩踏みだすごとに、取り返しのつかないトコロに近づいているような感覚。
ゆっくり歩いているのに鼓動が早くなり、汗が背中をつたう。
歌はやめると覚悟したのに、実家に帰ると決めて帰国したのに――どうして私はこんなにも不安に襲われているんだろう。
募る焦りに呼応するように歩幅は小さくなり、そして実家の手前で完全に止まってしまった。
「いいよ。ここで」
不安を振り払って、思考を切り替える。
私には使命があるのだ。自分のことでクヨクヨしている場合じゃない。
弱気の虫にそう言い聞かせて、穂乃果に問いかける。
「答えは見つかった?」
今、穂乃果は悩みに悩みぬいているはずだ。
一度はやめると決めたμ's。だけど周囲の期待を受けて、簡単にやめるわけにはいかなくなって、どうしたものかと頭を悩ませている。
「あの時の……」
――答えは簡単だったよ。
ニューヨークでの会話を思い出してくれる穂乃果。
「さあ、目をつぶって」
それで、この奇跡の仕上げが始まるはずだ。
「こうですか?」
穂乃果がまぶたを閉じると、私の目論見どおり、私たちは二人だけの空間に取りこまれていた。
そこは思い出を一つにする、私と穂乃果だけの世界だった。
見渡す限りに続く、お花畑。
吹雪のように宙を舞う、無数の花びら。
そして、中央に広がる大きな湖。
「飛べるよ。いつだって飛べる! あの頃のように!」
湖の手前で、丘の上に立つ穂乃果に呼びかける。
心に浮かぶのは同じ、遠い昔の記憶。
幼かった頃のある日。雨上がりの公園で、大きな水溜まりを見つけた私は、無意味にもそれを飛び越えようとした。
当時の私には、到底、飛び越えられないような水溜まり。
当りまえのように私は何度も何度も失敗して、服が泥だらけになって、「もうやめよう」とことりちゃんからもとめられて――。
それでも私は諦めきれずに飛び続けて、最後には水溜まりを飛び越えてみせた。
何があっても、できると信じて挑み続ければ、想いは実る。
そうやって私は、夢を追いかけてきたのだ。
想いは通じたのだろう。私の言葉に頷いた穂乃果は、湖を飛び越えようと走りだした。
丘を駆け下りながら、どんどんとスピードを上げていく。
途中でつまずきながら、でも意に介さず、真っすぐに走り続ける。
そして、見守る私の横を全速力で通りすぎると、足を踏みこんで
――飛んだ。
人間技とは思えないほど、高く大きく飛翔する。
私が失ってしまった輝きと希望に満ちた穂乃果の姿を、遠くに見送る。
――限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き。
答えに気付いた穂乃果は、自分の気持ちに従ってμ’sの解散を決め、スクールアイドルの素晴らしさを伝えようと、全国のスクールアイドルと一緒にライブを開催することになる。
どうにか先人として、穂乃果を導くことができた。
これで私の役目も終わりだ。もう何も思い残すことはない。
「……って、あれ?」
なのに私は、現実に戻ることはなかった。
「おーい、こっちこっち」
困惑する私を呼ぶ声がする。振り向くと湖の向こう、遥か遠くで穂乃果が大きく手を振っていた。
「お姉さんも早く飛んできてくださいよー」
「私が……、飛ぶ?」
思ってもみなかった事態に呆然と呟くと、首を振る。
「無理だよ。私はもう……、飛べないの」
「なんでですか? そんなことないですよー」
「……飛べないよ。あなたと私はもう違ってしまったんだから」
見えないくらい遠く離れているのに、呟く私の声を穂乃果はあまさず拾っていく。
「大丈夫! お姉さんだって飛びたいんですよね!」
「それは……」
口ごもる私に穂乃果は畳みかけるように続けた。
「お姉さんだって、自分の“答え”があるんですよね」
「私の“答え”……」
そんなもの、はじめから決まっている。
私は歌を――
「………………………………」
そこで、しばらくの間、口をポカンと開けて絶句してしまった。
「ははっ……」
やがて自嘲の笑いがこぼれる。
――答えは簡単だったよ。
どうやら偉そうに語っておいて、その簡単な答えに私自身が気付いていなかったらしい。
私の心中を察したかのように穂乃果は頷くと、有無を言わさない感じで叫んだ。
「だったら大丈夫! 私だって飛べたんですから、お姉さんに飛べないはずないじゃないですか」
穂乃果の言葉に、衝撃が全身を貫く。
「……そうかな」
弱気なセリフを口にしかけて、自分を叱咤するように首を振る。
「ううん、そうだよね。……そうに決まっている!」
根拠のない自信に満ちた笑顔で叫ぶ。
そして丘に登ると、湖に目がけて走りだす。
自分たちはどうありたくて、何が好きだったのか。自分はどうしたいのか。何をやりたいのか。
――それはいつだって心の奥底にある。
私は穂乃果との出会いを言い訳に、歌を諦めようとした。夢を終わらせようとした。
でも決心したはずの心に訪れるのは、本当にそれでいいのかという、不安と焦燥ばかりだった。
それもそのはず。
どんなに言いつくろって物分かりのいい大人を演じてみたって、現実的に生きようと自分に嘘をつこうとしたって、本当の気持ちを変えることはできないのだから。
ようやく気付いた、私の答えを噛みしめる。
――まだ私は歌いたい。夢を追い続けていきたい。
単純な、だけど何より尊い誓いを胸にどんどんとスピードを上げていく。
つまずく。構うものか。今まで、どれだけつまずいてきたことか。
進むにつれて湖が大きくなっていく。湖岸が途方もなく遠くに霞む。
でも大丈夫。
私が乗り越えてきた壁を思い浮かべる。
作曲者すらいないスクールアイドルの船出。
観客のいない初めてのステージ。
メンバーの留学、仲違い。
あまりにも華麗で、指先さえ届きそうになかったライバル。
未来への行方をはばむ猛吹雪。
そして、自分たちの意思とは裏腹に急激に高まる期待、責任。
無理だと思った。
でもあきらめるのだけは嫌で、続ければ夢は叶うと。
全力を尽くせば、何かが残せると信じて、走り続けた。
そして、みんなの力を借りて乗り越えてきた。夢を駆け抜けてきた。
湖が迫る。最初は飛べないと思っていた。
でも、飛べる。飛べないはずがない。穂乃果の言葉が脳裏をよぎる。
『私だって飛べたんですから、お姉さんに飛べないはずないじゃないですか』
当然だ。
だって私は他の誰でもない――μ’sの高坂穂乃果なんだから。
足を踏み切る。
どこまでも高く羽ばたくように飛ぶ。
そうして私は、無限にさえ思えた大きな湖を飛び越えた。
♪
気付くと、私は実家の前に佇んでいた。
穂乃果の姿はない。
時が止まったような実家の姿は昔のままだけど、周りの風景が私の生きる時代に帰ってきたことを告げていた。
少しだけ実家を眺めてから、そっと背中を向けて歩きだす。
家族に顔を見せたい気もするけど、ここで会うのは違う気がした。
懐かしくも愛おしい故郷をあとにしながら、μ’sの最後の曲を口ずさむ。
「また飛べるよ」
できると信じて進み続ければ、どんな困難だって飛び越えられる。
心の中にある決して揺るがない“答え”が、きっと翼になるから。
読んでいただき、ありがとうございました。