オーバーロード 天使の澱 ~100年後の魔導国~   作:空想病

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第十章 (たたかい) 最終話
……
ミカは嘘をついていた
ミカは嘘を──
ミカはウソ
ミカワウソ


ミカとカワウソ

/War …vol.15

 

 

 

 

 

 ×

 

 

 

 

 

「……カ、……あ」

 

 かすれた声と吐息。

 辺り一面に散る(あか)

 輝くように舞う(しろ)

 光に満ちる金色の髪が、切り裂かれた羽と同様、はらはらと舞い散り墜ちて、消えていく。

 

 倒れ伏す女天使の体を、カワウソの腕が、受け止めていた。

 受け止めようとしたのではなく、ただそうなっただけだ。

 あまりの出来事に、受け止めた拍子のまま尻餅をつく。

 

「────ミ…………カ…………?」

 

 倒れて打った体の痛みも忘れ、夢を見るように呟きを漏らす。

 腕の中にある女の感触は、現実そのもの。

 堕天使の喉が震える。

 心臓が跳ねる。

 

「か、ハぁ──ッ!」

 

 綺麗な天使の顔、美しい唇から吐き出される血袋の水音が、堕天使の鎧の上を跳ねて割れた。

 震える女が必死に呼吸を整えようと喘鳴(ぜんめい)を零す間も、致死的な光景は酸鼻を極めていくだけ。

 

「あ…………」

 

 彼女の口や背から溢れる生温い真紅、鎧と共に無残にも砕け散った六つの白翼、長かった黄金の髪も肩辺りから下が削ぎ落され、胸から下の身体は重傷と呼ぶのも憚られる惨状に染まって千切れ“落ちて”おり──そして、それらすべてが、嘘偽りのない光景、胸の奥の鼓動が早鐘を打つ……現実であった。

 

 しかし、カワウソは理解できない。

 

 彼女が、彼女自身に与えられた防御役(タンク)特殊技術(スキル)によって、味方(カワウソ)に注がれようとした攻撃のすべてを受け止めるポジションへ瞬時に移動したことだけは、(わか)る。この戦闘において、この最後の局面において、ミカが自己の本懐を遂げたのだと、判断できる。ミカに与えた神器級(ゴッズ)アイテム・第四天(マコノム)の鎧があったからこそ、天使の防御を砕いた魔法攻撃が貫通してくることなく、堕天使の男が致命傷を受けずに済んだことも──すべて。

 

 それでも、カワウソは理解(わか)らない。

 

 

「……生き、て、くだ、さ……ぃ……」

 

 

 何故、

 どうして、

 死にかけの天使が、

 切なく震える声と掌を、

 堕天使に──カワウソに──差しだしているのか。

 

 

「あな……た、だけ……は」

 

 

 そこにある感情は、果てしないほどの、情動。

 大切なものを護らんと欲する、慈しみの発露。

 だからこそ、理解できない。

 わからない。

 

「ミカ…………どうして? …………おまえは…………俺、を」

 

 嫌っていただろう?

 

「──嫌、い……です」

 

 嫌っているのに、何故?

 

「……大、嫌い、で……す」

 

 そうあるべく創造された女天使は、血の(あぶく)を吹き、震え崩れそうな身体を鼓舞するように、己の役目を、設定を、彼に与えられた“自分”を、貫徹する。

 

「あなた、が、そう願い、そう望ん、で……そう、創って、くれたぁ、……だからっ」

 

 女天使の片方のみになった掌が、かすかに堕天使の左頬を、女が男を抱き締めるように、とらえた。

 紡がれる言葉に宿るのは、清らかな祈りにも似た、切なる想いだけ。

 カワウソは、やはり、理解できなかった。

 

「でも…………」

 

 彼女の震え濡れる微笑みが、

 優しく切ない最後の音色が、

 なにを意味しているのかを、

 

「それ、で……も…………っ」

 

 

 

 

 カワウソは、理解しては────いけなかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

「でも…………それ、で……も…………っ」

 

 理解できていないカワウソに、彼の手で最初に創造されたNPC(ミカ)は、僅かに残った力をすべて(つい)やし、最後の思いを言葉に変える。己の血肉が輝きをこぼし、身体の端から光の粒子と化して溶けていくのにも構うことなく、一心に、目の前にある創造主──堕天使(カワウソ)にむかって、祈る。

 祈り続ける。

 

「どう、か…………どうか…………」

 

 己が失われることより兆倍も京倍も恐ろしいことにならぬよう、文字通り懸命に、祈り続ける。

 

 

 

 

「生きて……ください」

 

 

 

 

 ミカは思った。

 想い、焦がれていた。

 掌から伝わる、彼のぬくもり。

 至高なる創造主と、共に在れる、──奇跡。

 

 だけれども。

 それ以上、言葉は紡げない。

 この気持ちを、狂おしい想いを、伝えることは“許されない”と、わかっているから、口にはできない。

 

 ──嫌え、と。

 ──憎め、と。

 

 そう望まれるまま、そう願われるまま、創造主の意思に準じ、そうして今、殉じようとしている。

 ああ、どうか……どうか、お許しください。

『嫌っている。』と定められたのに、そのように設定されたにもかかわらず、まったくこれっぽっちも、その通りに思うことができなかった、不出来に過ぎる被造物(わたし)を。

 

 ミカはカワウソと同じだ。

 カワウソと同じ嘘つきだ。

 

 ミカは嘘つきだ。

 ミカは嘘をついていた。

 

 ミカには、それしか──できない。

 ミカには、それしか──ありえない。

 それくらいのことでしか、(カワウソ)に報いることは、許されない。

 そう『かくあれ』と、望まれているから。

 彼の、カワウソの、シモベ(NPC)だから。

 ──だから。

 

「…………ミカ…………」

 

 名残惜しくも彼の身体から頬を離し、自分を呼んでくれる声を、熱い眼で滲む視界いっぱいに、仰ぎ見る。

 だがもはや、主人の表情(かんばせ)を見る視力(ちから)すら、ミカにはない。

 最後だから、これが最後だから、思わず微笑(わら)ってしまう。

 

 ミカは堕天使(カワウソ)が嫌いだ。

 

 嫌いで、嫌いで、たまらない。

 憎くて、憎くて、たまらない。

 

 どうして……こんな私を、お創りになった。

 どうして……『嫌え』などと、定めてしまわれたのか。

 どうして……「憎め」などと、命じてしまわれたのか。

 

 

 

 

 こんなにも──あなたを慕い、愛し、想わずにはいられない、NPC(わたし)に。

 

 

 

 

 ──それでも、あなたが願うことであるならば、

 

 私はそれに──従おう。

 

 私の嫌いな──

 

 私の大嫌いな──

 

 たったひとりの、私たちの……、私の……創造主(あるじ)──

 

 私の……すべて……

 

 地獄の底まで、ついていこう……

 

 そのために、死ねというのであれば……よろこんで、死のう……

 

 

 

 ……だから……どうか。

 

 

 

 

 ……あなた だけ  は

 

 

 

 

 

 …… 生 ……  き      て

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

「……まて……待ってくれッ!」

 

 叫んだが、遅かった。

 震える声は、腕は、掌は、(くう)を掻くだけ。

 天使の澱(エンジェル・グラウンズ)、最後のLv.100NPC、防衛部隊隊長である女天使――ミカは、死んだ。

 最後に自分を護ってくれた者を抱き締めてやる間なく、感謝だろうか哀惜だろうかの言葉をかけてやる猶予もなく、カワウソの目の前で、彼女は幾多もの輝きを撒き散らす光の粒子となって、その構造のすべてを失い──最後の微笑みも、熱いほどの掌の温度も、初めて瞼の端から零し見せてくれた感情の発露も──あたりに撒き散らされた肉片や白い羽毛──血の一滴までも、滅び、尽きて、いった。

 逝ってしまった。

 

「っ、ッ……ぁ……あ?」

 

 カワウソは、瞳の奥に宿るミカの光の残滓を、限界以上にまで見開いた熱い眼で追ってしまう。

 幾億の星の瞬きのような輝きと化して、女天使ミカは、消滅した。

 堕天使を、たった一人、残して。

 

「ぁ、あああ?」

 

 

 

 

 一方で、

 その光景を無言で眺めていた死の支配者、アインズ・ウール・ゴウンは、疑問する。

 

「……どういうことだ?」

 

 彼女を、ミカという天使を、直接に(あや)め滅ぼしたアインズは、──健在。

 アインズは己の手足を眺める。骨の手指は問題なく、動く。

 

「足止め、スキルは?」

 

 発動しない。

 そんなものは最初から存在しなかったかのごとく。

 女天使の死体は欠片も残らず、如何なる封印や絶対拘束の効果を、アインズに伸ばすことはない。それを警戒していたからこそ、アインズ達は即座にカワウソたちから距離を取り、事の推移を見守るのに務めた。

 しかし。

 アインズの手足は、自由に動く。彼を縛る光──“足止め”のスキルは、現れない。

 

「まさか……あいつだけは、例外、だったというの?」

 

 主の盾となる位置に陣取って、困惑する最王妃・アルベドの理解は、正しかった。

 カワウソの創造したLv.100NPC、そのほとんどには天使種族固有の“足止め”スキルを与えられていた。

 だが、“すべて”ではなかった。

 実際、カワウソはすべてのLv.100NPCに、足止めスキルを発動できるよう設定していなかった。

 というよりも、設定できないものがいたのだ。

 

 その例外たるLv.100NPCは、12人の内、わずか2人だけ。

 

 まず一人目は、ナタだ。

 

 あの少年は、花の動像(フラワー・ゴーレム)という超稀少種族だが、彼はそのレア度故に、天使種族のレベルを獲得すること・併存させることは出来ないという制限があった。彼の種族レベルは最大値であるLv.5のみ。種族レベルのすべてを花の動像(フラワー・ゴーレム)の力を発揮する為だけに使用し、残るLv.95を近接系職業でほとんど埋め尽くしていたのだ。だからこそ、彼は天使の澱(エンジェル・グラウンズ)のNPCの中で、近接戦闘において最も驚異的な戦闘能力を発揮することが可能だった。思い出せば、ルベドとの戦闘で、ウォフとタイシャは足止めスキルの光を発動して、そうしてルベドには悉く効力を発揮しなかったが、ナタは足止めスキルを──あの光のエフェクトを一切発動することなく、その死体をカワウソたちの前で散らしている。

 

 残る二人目が、ミカだ。

 

 ミカという女天使は、カワウソがNPC作成用課金ガチャで獲得した種族レベルデータの中で、最高峰のレア度を誇る『女神(ゴッデス)』最大Lv.5を、他の天使種族レベルと共に与えられていた。女神という種族は足止めスキル獲得に抵抗はないが……そもそもにおいて、彼女はギルド最上層を鎮護する役目を与えられた存在。女神(ゴッデス)という超稀少種族レベルを獲得した際、“『女神』のレベル”を供与されるべき対象として白羽の矢が立ったのが、ミカであったのだ。女神という超レア種族をあたえられる際、ミカは足止めスキル発動に必要なレベルと交換する形で、熾天使にして女神という存在になりおおせた。彼女のタンク職としてのレベル構成を考慮した時、どうしても一番不要なレベルが、足止めスキル用のレベルデータであったのだ。

 

 第一、足止めスキル保有者が十体以上もいたところで、ギルド防衛にはあまり意味もなかった。にも関わらず、カワウソは彼らの作成コンセプトである「ナザリック第八階層攻略のための構成」にこだわった……それが結果として、カワウソたちを、この戦いの場にまで連れてきてくれたことは、周知のとおり。

 

 そうして、天使の澱(エンジェル・グラウンズ)に属するLv.100NPCの中で、ナタとミカの二人だけは、足止めスキルを発動できない――有事の際にはヨルムンガンド脱殻(ぬけがら)址地(あとち)城砦(じょうさい)・拠点内における最終到達地点の第四階層にて、主を守護する“矛と盾”として、ギルドの中でも最高位の力を完全に存分に全力で発揮できるよう、設定されていただけなのだ。

 

 ……もっとも、カワウソの築いた最小最弱のギルドに侵攻してくる物好きなプレイヤーたちはまったく存在せず、中級レベルの量産型ダンジョン・ヨルムンガンド脱殻(ぬけがら)址地(あとち)城砦(じょうさい)自体が、そこまで人気のある拠点ではなかった。また、彼が主に活動していたニヴルヘイム・ガルスカプ森林地帯そのものが、プレイヤーたちの琴線に触れるほどにレアなフィールドでなかった上、その地に住まうモンスターたちへの対策やフィールドエフェクトが厄介極まることからも敬遠される土地であり、結果として、彼と彼のギルドは、ユグドラシルサービス終了まで誰にも知られず、気づかれることもなく過ごすことができただけに過ぎない。

 

 

 

 こうして、女天使──ミカは、その命と力を代価として、主人(カワウソ)の守護を果たす“盾”の役割に殉じ、たった今ここで、消滅した。

 

 

 

「あ……ぁ…………ぁああああ…………?」

 

 その光景を()()たりにした堕天使──見事“盾”に守られたカワウソは、情けない声を漏らすばかりで、立ち上がらない。

 これを好機と判断して、アルベドは忌まわしい女天使の主人に対し、膨大無比な殺意を、黄金の瞳に宿らせて、見据える。

 

「次は貴様だ」

 

 戦斧を抜き払う女悪魔は、堕天使を刑する断頭台そのものと化した。

 アルベドの握る漆黒の斧は、ようやっと本懐を果たせる喜びに閃く。

 だが、

 

「アルベド、──下がれ」

 

 処刑人の一撃を、不遜無礼の極致を犯した大罪人・敵の首魁たる堕天使に歩み寄ろうとする王妃を、他の誰でもないアインズが制止した。

 制された純白の女悪魔は、疑念に満ちた声色で振り返るしかない。

 

「アインズ様、何故」

「見ろ……」

 

 主人に短く促され、アルベドはまったく動こうとしない堕天使の“異様”に、ようやく気付く。

 アインズは事実を──悲しみに染まっているような声音で──言葉にして示す。

 

「彼は、もう…………戦えない」

 

 手から取り落とした両手の剣を拾うことなく、堕天使は自分が怨敵の前に存在する事実すら忘れたように、カラッポな表情で、失われた女天使の残骸を……光の粒子の残りを掴もうとするかのように、何もない虚空を、震える両の掌で、包み込む。開いた両手には、当然のごとく、何もない。……カワウソの手には、もう、何も……

 

 瞬間、

 

 いかなる感情も消え失せた男の表情が小刻みに震え、音を立てて罅割れる。

 

 

 

 

「あ、ぁ、ぁあ、あ、あぁあ、……あ、ぁ……、ぁぁ――っ!!!」

 

 

 

 

 罅割れた表情から、血のように滔々(とうとう)と溢れかえる、透明な輝き。

 止めどなく、黒い両の眼から溢れる雫の量が、彼を襲う感情の正体を(あらわ)にしている。

 

「あああ、あ、……う……あ、あああ、ぅああぁぁぁぁぁっ!!!!!」

 

 それは、恐怖。

 それは、絶望。

 それは――「(いのち)

 

 たった一人でいることへの恐怖。

 目の前に存在する敵の強大さへの絶望。

 あまりにも明確で絶対的な「生」という結論。

 

 それらすべての、“重み”。

 

 積み重ねられた末の結実は、堕天使の身の上に、あまりにも残酷な顛末(てんまつ)をもたらした。

 彼はもう、自分の奥からこぼれる感情を、抑えられない。

 抑える力すら、ない。

 

「ぁ、ああああ、あああ、ああ、ぅああああっ…………」

 

 

 カワウソは、

 カワウソとミカたちは、

 アインズ・ウール・ゴウンたちですら、

 最後の最後まで────気づいていなかった。

 

 

 ミカが、熾天使(セラフィム)が保有する特殊技術(スキル)――“希望のオーラⅤ”。

 そして、“女神”の能力。

 

 

 彼女の保有する最上位レア種族である女神(ゴッデス)の特性やスキル……“女神のオーラ”などと相乗させることで、有効射程は数十キロ──拠点の階層間を隔てた先にまで効果が及ぶよう強化されたオーラ系特殊技術(スキル)は、アインズの強力無比を誇る“絶望のオーラⅤ”と拮抗し、アインズの発し続ける即死効果や恐怖から、自分の軍勢を守護する役割を果たしてきた。この特殊技術(スキル)の真価は、絶望のオーラなどの“「負の効果」が及ばない範囲”であれば、任意対象を常時回復させることは勿論、即座に蘇生復活させることも容易い。

 そして、さらに、このオーラは強力無比な「自軍鼓舞」や「治癒回復」、つまり──“希望”の加護を、自分たちの陣営に注ぎ続ける。外的な「恐怖」や「恐慌」――“絶望”に襲われない効果を、これまで日常的に、恒常的に、発揮し続けていたのだ。

 しかし、カワウソの堕天使という種族は、堕天使であるが故に、そういった希望・加護に対する知覚が不可能な設定テキスト──曰く、『神の威光や加護、慈悲を理解できなかった愚か者』──を与えられており、プレイヤーであるカワウソ自身が、NPCである彼女の力の恩恵に預かっていたことを知って自覚することは、この異世界では半ば不可能であったことが災いしていた。

 また、カワウソ自身から、その身の内側からこぼれる『普通の感情』についても、ミカのオーラは一定以上の効果を及ぼせないこともマズかった。

 

 カワウソはいつだって、ミカのオーラの加護に包まれ、その恩恵によって、この異世界で尋常ではない戦いを繰り広げることができた。

 

 実に、彼が自傷・自殺する実験ができなかったのも、彼に対して常に希望を与え続ける存在(ミカ)の力が、彼の生存を願う女天使の真摯な祈りが、堕天使の凶行を知らぬ間に抑止していたからにほかならない。

 

 それを、堕天使である(カワウソ)自身が知る術はなく、またミカ本人も、そのことを殊更に主張するような卑しさはなかった……というよりも、その必要性をすら感じなかった……自分の力がそこまでの効力を、この異世界転移で、創造主の生存に必要不可欠なものに昇華されていたなどとは、まったく認識できなかったのだ。

 彼を『嫌う』よう設定されたとしても、ミカが、彼に創造されたNPCである女天使にして女神が、偉大なる創造主であるカワウソを支え守ることは、至極当然な、「あたりまえの思想と行為」に相違ない。そのうえ、まさか自分の主人が、創造主が、自分がごとき被造物(NPC)の存在なくしては、この現実化した異世界で生きていけないような事態に陥るなどと、まったく完全に思考できるはずがなかったが故に。

 

 はじめての外での戦闘でも、飛竜騎兵との戦闘でも、NPCたちの救援時にも、

 そうして、このナザリック地下大墳墓への侵攻と、第八階層“再攻略”作戦にも、

 さらには、目の前にいる、アインズ・ウール・ゴウンたちとの、全力の戦闘でも、

 ミカは主人であるカワウソの盾として共に戦い、常に傍近くで、彼を支えてきた。

 

 

 

 だが、もう彼女は……カワウソの蛮勇に、ここまでついてきてくれたNPC・ミカは、……

 いない。

 

 

 

 明晰な頭脳を誇るミカですら、読みたがえていたのだ。

 今際(いまわ)の時までカワウソの生存を願った熾天使ではあったが、皮肉なことに、彼女(ミカ)がいなければ、カワウソは武器を手に執るどころか、この場で立ち上がり、生きる力すら、残らない。

 残るわけがないのだ。

 堕天使の保有する特性にして弱点……“状態異常(バッドステータス)脆弱Ⅴ”……状態異常への絶望的なまでの高感受性によって、「人間としての感情を残す(カワウソ)」は、戦闘に挑む気概はおろか、自らを生存させようとする意識すら、欠乏してしまった。

 この場に満ちる“敵意と戦いの空気”が黒い重圧となって、男の全身に襲い掛かっている。アインズの発する黒いオーラの効果は、堕天使の鎧 “欲望(ディザイア)”の力によって無効化され、瞬時に彼の能力値に変換されは、する。それは、これまでの戦いにおいても、彼の能力を向上させる効果を生み続けていた。

 

 しかし、

 

 恒常的な状態異常の発生…………つまり、彼の「内側から生じる負の感情」「カワウソ自身が体感する戦闘への恐怖や不安」「自分を護った女天使の死を目の前にした絶望と混乱」には、神器級(ゴッズ)の鎧であっても、まったくの無力でしかない。

 

 さらには、

 

 自らが失った存在(もの)の優しさとぬくもりを理解して、

 そのあまりにも(むご)い「罪悪の重み」に、

 (ニンゲン)の心は一瞬で圧殺された。

 

「あ、ぅ、ああ、ぉ、あ……」

 

 自分がどんなものを、

 どれほどに尊く優しいものたちを、

 残酷な「死」に追いやったのか省みてしまい、

 深い自責の念に襲われた。

 

「あ、あああああ、ああああああああああ、ア、アアアアアアアアア──!!!!」

 

 あるいは理解できずにいたら──理解さえしなければ──彼はもう少しだけ、戦いに身を投じ、生存を続けようと敢闘することができたかもしれない。完全不可知化を行える神器級(ゴッズ)装備を駆使し、ナザリックを脱出するべく、敵に対する復讐を諦め、何もかもから逃げ出して、無様に生存を続けようとしたかもわからない。

 

 だが、カワウソは──若山(わかやま)宗嗣(そうし)は、理解した。

 理解して、しまったのだ。

 

 

  ──翼の巫女は雷に灼かれ、

  ──鎚の踊子は溶け朽ちて、

  ──炎熱の杖は炭と化して、

  ──死の射手は星に潰され、

  ──聖天の奏は凍え砕けて、

  ──旅の牧人は巨岩に穿たれ、

  ──銀の聖女は風刃に裂かれ、

  ──鋼の巨兵はボロボロに壊れ、

  ──雷霆の僧はズタズタに千切れ、

  ──花の少年はバラバラに散らされ、

  ──赤子の傭兵はこの玉座の戦いで果て、

 

 

  ──そして、ミカは、…………ミカは…………

 

 

「ぁぁぁ、ぁぁ、あああっ──ぁぁぁぁあああああ、あああああああああああああああああぁぁぁぁぁあああああ──」

 

 この感情を、堕天使の被る圧倒的な心への負荷(ダメージ)を──いい意味でも、悪い意味でも──緩和してくれる唯一の手段として存在していた“希望のオーラ”は、既に()い。

 

 ミカの死と共に、カワウソを癒し、支え、護る力は、この世界にひとかけらも、残りはしなかった。

 

「ぁぁぁ、あ、ああ、あぅ――うぁぁぁあああ……っ」

 

 (せき)が切れた涙腺から、雫が止めようもなく落ちる。堕ちる。墜ちる。おちて砕ける。

 嗚咽を噛み殺し耐える(すべ)も力も気概も、堕天使の内側には、残されてはいなかった。

 

 彼が、カワウソが生き残るには、最低でもミカだけは、失ってはならない柱だった。

 だが、最後に失ってはいけないものを、カワウソは今──目の前で失ってしまった。

 

 もしも仮に、カワウソがこの世界へ──“たった一人で”転移してきたとしたら。

 彼は半日ともたずに自殺していただろう。

 

 ありえない状況に絶望し尽くし、恐慌と混乱のあまり自刃したか。さもなければ野山に潜在する強力なモンスターとの戦闘で、呆気なく狩られ喰われていたかもわからない。たとえそうでなくても、思考は余裕をなくし、感情の振れ幅に翻弄され、常人以上に傷や痛みを甘受しやすい堕天使の特性……堕天使の精神(こころ)は、この異世界で、単体で生存し続けることは不可能に近かった。

 熾天使にして女神(ミカ)という庇護者がいたからこそ、彼は十全な戦闘行為を、生存行動を、精神活動を可ならしめる。彼女からもたらされる希望の(オーラ)だけが、カワウソという堕天使を、死や絶望から恒常的に遠ざけ続ける唯一の手段たり得た。

 

 この異世界に転移した直後の、あれほどの恐慌・動悸・戦慄・心神喪失を被った──ミカの接触によって回復に専念されなければ、カワウソはあの時の狂態のままを永遠永劫にわたって維持し、乱雑かつ混沌化した思考と思想から回復されることはなく、そして、平常かつ平静な脳機能を保持することは不可能であったという──事実。

 

 それほどまでに、堕天使(カワウソ)は脆いのだ。

 

「お、あ、あ、ああ、あ、……あ、あああ、う、ああ、あ、ぅぅあ、ぁう……」

 

 歪み開いた唇からは、泣き濡れた声音が、言葉にならない嗚咽が、痛いほど乾き切った慟哭が、止めようもなく溢れかえってしまう。

 カワウソは、自刃するだけの衝動すら残っておらず、無様にも地に這いつくばり、泣き崩れる。

 もはや、正常な思考など何処にもない。

 まるで世に存在するすべての悲劇を、一身と一心に浴びせられたようにも見えて、無残だった。

 こんなにも憐れなものが、今この世界に存在していることすらも、敵対者であったアインズに対し、いたたまれない思いを懐かせるほどに。

 

「こ──……こ、ろぉ……ぇ」

 

 どれほど、彼の悲鳴に、悲嘆に、悲愴に、耳を傾けていたのだろう。

 

 

 

 

 

「お……ぉれ、を、……殺、せ、……ァイン、ズ……ウ、ル……ゴ、う、うううぅぁあああぁぁぁ」

 

 

 

 

 

 やっとの想いで紡がれた言の葉を、アインズは理解して、それでも思わず、問い返す。

 

「いいのか?」

 

 右手で顔を血がこぼれるほどかきむしり、左手で狂ったように痛む胸元を手繰り寄せる男は、敵である男へ確実に嘆願し、心願し、懇願し、哀願の限りを尽くす。

 

「た、の──むぅ…………ご、殺゛、じ、て……ぐれぇ…………っ、うぅ、ぁぁぁ、……あああああ、ああ……」

 

 顔を覆い背を丸め、自らを抱きしめ続ける堕天使の様は、親を失った幼童よりも弱々しい。

 終わりのない悲しみが、カワウソの総身を貫き、その場に(はりつけ)にしていた。

 鞭打たれ釘打たれ、許しを請う虜囚のごとく、堕天使は幾度となく額を床面に叩き続ける。

 

 もはや、勝敗は、決した。

 カワウソは負けた。

 敗けたのだ。

 

「――そうか」

 

 アインズがしばし言い淀む間すら、カワウソにとっては地獄の秒数でしかない。

 

 恐怖。

 絶望。

 敗着。

 失意。

 落胆。

 悪夢。

 虚脱。

 空疎。

 悲哀。

 惜別。

 後悔。

 

 それら諸々の感情が、堕天使の指先から爪先までをひとつひとつ、皮膚の一枚一枚を縫い止め縛り痛苦をもたらす針であった。あるいは心臓を抉る刃であり、または心を蹂躙する拷問具と化していた。ありとあらゆる意気が消滅し、己を構築すべき全部が摩耗に耐え切れず。耐える力もなく。

 

ごめんなさい

 ごめん、なさい

 ごめん……ごめん

 みんな……みんなッ

 

 ただ、何事かを、唇の隙間からこぼして、震え哭く。

 そこにあるすべてが、度し難いほどの罪科(ざいか)災禍(さいか)を内包する地獄の窯の底にくべられたように、一縷(いちる)希望(のぞみ)もなく──灰燼と化す。

 

 今、ここにあるモノは最早、愚かしくも勇ましい、アインズ・ウール・ゴウンへの敵対者……では、ない。

 

 ただちっぽけな、

 ただただちっぽけな、

 ……敗者でしかなかった。

 

 

「今、楽にしてやる」

 

 

 凍えるように、

 焦がれるように、

 震え咽ぶ堕天使を、

 アインズ・ウール・ゴウンは救済する。

 

 

ごめん……ミカ…………ミカぁ…………

 

 

 もはや声をあげることすら満足にいかぬ堕天使。

 彼の衰弱と悲劇を終わらせるべく、振り下ろされるのは介錯の斬撃。

 

 第十位階魔法〈現断(リアリティ・スラッシュ)〉の空間切断。

 

 致命的な急所(クリティカル・ポイント)である首への魔法攻撃は、容易に、簡単に、即座に、弱りきった堕天使の脆い肉体を、

 

 断殺した。

 

 

 

 

 こうして、

 見事に呆気なく、

 ギルド:天使の澱(エンジェル・グラウンズ)の長、

 

 

 

 

 

 

 カワウソは、

 

 

 

 

 

 

 

 死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …

 

 

 

 

 

 

 

 

 アインズ・ウール・ゴウンは、床に転がった堕天使の死体を沈黙と共に見下ろす。

 

 そして…………

 

 

 

 

 

 

 

【最終章 Epilogue へ続く】

 

 

 

 

 

 




…………ということで、連載当初からの予定通り、カワウソたち天使の澱の「敗北・敗戦」で終わりました。これで、長かったナザリック敵対ルートも、ひとまず終わりを迎えることになります。

でも、完結まで、あとちょっとだけ続きます。
次回からは、皆様待望の救済の話──「終戦」編です。

たぶん100話までに終わる、かな? ご期待ください     by空想病

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