すべては、三千年前から始まった。すべては、我が誕生から始まった。
己の産声よりも早く、この世界に溢れる悲鳴が耳に入った。
おぞましい、と思った。痛々しい、と泣いた。
この世界は悲鳴で溢れていた。この惑星は悲劇で満ちていた。我が種族――人間という生命は悲痛に支配されていた。
それが人間を起点にしているならばいい。
俺たちは不完全だ。俺たちは進化の途中だ。どれだけ傷を負うとしても、どれだけ痛みを伴うのだとしても、それが本当に輝かしいものを掴むための代償だとするならばいい。理想に辿り着くための犠牲ならば、人としてはともかく王としては納得するしかない。
だが、悲劇の起点が人間ではないナニカ――神や悪魔、異形であるというならば話は別だ。
悪魔に弄ばれた子どもの亡骸を抱いたこともある。
堕天使に壊された女性の頭を撫でたこともある。
神の試練に敗れた戦士の死を悔やんだこともある。
異形の抗争で荒れ果てた村を前に祈りを捧げたこともある。
俺は必死だった。俺は本気だった。俺は全力だった。
俺が守らなければならない。俺が救わなければならない。俺が導かねばならない。俺が、俺が、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が!
俺がやらねば誰がやるのだ?
どうして、俺以外は誰もしようとしない?
無能どもが。無慈悲な王どもが。
『助けてください』
『悪魔が奪っていきます』
『神は助けてくれません』
『天使も何もしていません』
『哀しいことばかりです』
『苦しいことばかりです』
『どうして、私たちばかりがこんな目に』
『どうして、俺たちだけがこんな地獄に』
故に、俺は神になることを望まれた。生まれながらの王として完成していた俺こそが、人類にとって最高の神になると認識されていた。俺自身、そうなるしかないと思った。
『ソロモンよ、貴方様こそが我々の神になるべきだ』
『貴方が神になってくれたら、きっと全てが良くなる』
『貴方以外の神はいらないから』
『どうかこの星を貴方が統べて欲しい』
すべてを、人類の未来のために費やした。
神々の方も、俺という新しい神、新しい秩序を望んでいた。その方が効率的に人間を支配できると考えたからだ。
他の兄弟を蹴落とし、玉座を手に入れた。
ファラオの娘を娶り、主より指輪を賜り、守護天使として遣わされたベリアルを懐柔させ、悪魔からの監視として出向いたアスモデウスと結託し、ベルゼブブに信頼関係のない盟約を結んだ。
『我は、愛とは主を超えるべきだと考えた。それを主に否定された。故に、おまえの夢想を信じよう』
『俺は、人間を愛したかった。人間に愛して欲しかった。だが不可能だった。故に、おまえの理想にすべてを託そう』
『私は、ルシファーを超えたい。故に、おまえの妄想に付き合おう』
あの女に出会った。
『貴方がソロモンですね? 神より叡智を授かった人間の王。シバという国から参りました×××××と申します』
そして、己の目を異世界を見通す千里眼に作り替えた。
だが俺は知ってしまった。
他の世界の輝きを。
この世界のみっともなさを。
ああ、俺の世界は醜い。
此処とは違う世界を見たのは、価値を比べるためではなく、手段を模索するためだった。
だが、この異世界を見通す千里眼が、俺の信念を否定した。この世界の人間は、俺が見たどの世界の人間よりも価値がなかった。
同時に、肯定してくれた。俺の思想――人間には無限の可能性があると証明してくれた。
数多の世界を見た。数多の希望を知った。
どこにでもいる普通の少年がどこにでもいる普通の少女とともに世界を焼き払った獣から世界を救う聖杯探索――だけではない。
自身の内から湧く感情に従って真っすぐに進もうとする少年がいた。未来のために、己の限界や仲間の死を超えようとするものがいた。血筋の宿命に立ち向かう兄弟がいた。悲劇を断とうと因果に逆らう少女がいた。非力であるが故に、絶対的なものを打倒した逆転があった。悪意や敵意に戦いではなく心で分かり合った奇跡があった。言葉で語ることが無粋なほどの絆があった。過去に託され、未来に願うという連鎖があった。
生きるために、生き抜くために、守るために、守り抜くために、愛するもののために、愛してくれるもののために。
人間というやつは、どうしようもなく輝かしい。
俺たちもああなりたい、ああなれる――あれを超えるべきだ。
他の世界の輝きの一方で、この世界のある可能性も俺は見てしまった。ああなってはならぬという結論に至ってしまった。あの未来だけは回避すべきだという決定を下してしまった。
最も愛した女が俺を裏切ったこともあり、俺は『真理』を作り替えることにした。
元々、俺は神になるつもりだった。だが、愛しい女王が『真理』に施した呪いによって、俺が神に成り上がる手段は閉ざされた。
故に、俺は別の手段を用いることにした。
俺は――人類を信じることにした。彼らがこれから何千年と積み上げていくものこそが、俺の理想を実現してくれると信じて、『真理』を組み替えた。
最後に、神の怒りに触れて『システム』にくべられたら完成だ。死体という完全なアリバイのある状態で、『システム』に干渉すれば良いのだから。
リゼヴィムからルシファーの細胞は受け取った。サマエルの魂は手に入れた。並行世界とは違い、この段階で『真理』は健在。資源も機関も完璧だ。『システム』の主導権は握っている。
エネルギーは手に入れた。『真理』が集め続けた世界中の人類史と神話の膨大なエネルギー、その半分。保険として用意した泥とは対を成す、善性の上澄み。実に千五百年分のエネルギー。本来であれば、神を創り出すのにはこの三倍はいる。だが、俺は神の座を奪うだけだ。すでにある神の型に俺という魂を入れるだけだ。ならば、千年分のエネルギーで事足りる。
そして、俺は『真理』の原罪を担う。
最悪なる神の屍の先を超えることで、真の人類史が開闢されるのだ。
――ソロモンよ。
ようやくお出ましか、主よ。
だが残念だ。貴方はすでに俺に敗北している。このために、ビーストD/Lが必要だった。あの獣の敗北により、貴方は自らの絶対性に疑問を抱いてしまった。『真理』とはこれ即ち絶対の理。貴方の中で、貴方の絶対性が歪んでしまった。
天使の裏切りや悪魔の叛乱、他の神話の神魔の凶行ではどうやっても無理だ。貴方には奴らにそれほどの関心がないのだから。俺やモーセを始めとする、貴方が最高傑作と呼ぶものたちが貴方から離れていくことさえ、他の人間や異形のせいだと断じている。
そんな貴方の自分への自信を崩すには、期待される獣が必要だった。貴方さえもあの獣には期待していたのだから。俺は、そういう並行世界を見てしまった。
俺は泥によってビーストが生まれるのならば、誰でも良かった。誰でも良かったが……あの薄汚い悪魔が犠牲になるのならば最高だった。あんな汚らわしい生物が、我が偉業の生贄となるのだから。あの男が棄てた人間の輝きが証明される礎となるのだから。感謝こそされ、恨み言を向けられる筋合いなどない。
俺の計画が一から十まで失敗した世界において、あの男は黙示録の獣と邪龍、明けの明星を継ぐ魔王が戦役を引き起こす発端となった。外なる邪神メルヴァゾアが襲来する元凶だ。だというのに、誰もあの男を責めようとしない。誰もあの男に償わせようとしない。誰もあの男を罰しようとしない。何故だ?
トライヘキサが、アポプスやアジ・ダカーハが、リゼヴィム・リヴァン・ルシファーが、メルヴァゾアが奪った生命と平穏、それらすべてはあの男の原因だろう? 誰も彼も、兵藤一誠ひとりが殺したも同然だろうが。
あんな不愉快な世界の実現など、俺は断じて認めない。
そのための三千年だった。あの未来が間違いであると証明するための、あの末路が醜悪であると断定するための俺と人類の三千年だったんだ。
――ああ、そうだ。私はあの獣に……否、兵藤一誠に期待を抱いた。それが崩されたために、おまえは私の原罪を奪うのだろう。奪えるのだろう。私は理解した。私は納得した。私は何かを間違えていたのだと。それが何かは理解できないが。
だろうな。貴方はそういう方だ。
だからこそ、俺は『真理』の原罪を貴方に背負わせたのだ。俺はあくまでも『期待』の獣の片割れとして人類を育てるために、今日この場で奪うために。
――しかしな、ソロモンよ。それはおまえも同じだ。何が、と問われたら返答は難しいが、おまえも何かを間違えている。私も、おまえも、サマエルも、シバの女王に計画を狂わされたように。
愛しい女王か。確かに、あいつが何を考えていたのかは俺にも分からない。しかしだ。
「邪魔だ、役立たず。そこをどけ」
もはや貴方に用事はない。ようやく天の玉座を手に入れた。
これですべてが報われる。これですべてを始めることができる。
――ソロモンよ。私は間違えていた。
――だが、おまえも間違えているのかもしれんぞ?
そんなはずはない。
何故ならば、人類は俺を此処に連れて来てくれたのだから。
だから、今度は俺が人類を其処に連れていく。絶対にして至高の極点に。
■
「そういえば、だ。一つ謎があるな、ガブリエル」
獅子王アルトリアは最後の熾天使となったガブリエルに問う。
「シバの女王は何故、ソロモンを裏切ったのだ?」
「え?」
「ん?」
そんな簡単なことは理解していたものだと思っていたガブリエルは苦笑する。
「シバの女王はソロモンに神になって欲しくはなかった。最初からそうだったのか、途中からそうだったのかは知りませんが、とにかく。彼女は女王としてではなく、ひとりの女性として、最愛の人が人類史の生贄になることに耐えられなかった。ただ、それだけです」
「そうか」
なんて当たり前の感情。なんて有り触れた動機。
まさか世界を狂わせるだけの狂乱の起源が、愛しい人が自分から進んで犠牲者になろうとするのを止めたかっただなんて。
いつだって世界を救うのも、世界を滅ぼすのも、悪意ではなく愛なのだ。
だから。
『――それは、聞きたくもなかった真実だな』
その愛を向けられたはずの男は、一層憤怒を濃くした。
「……え……?」
「馬鹿な」
その声を、この二人は知っていた。
仮に声の主が聖書の神ならばこれほど驚きはしなかっただろう。だが、よりにもよって何故おまえの声がするというのだ。どうして『システム』から神以外の声がする。まさかこれがおまえの理想の正体だとでもいうのか――!
起きるはずのない『システム』が起動する。まるで本来動かない機関さえ巻き込んで暴走するかのように、歪な音と膨大な光が放たれる。
「そんな――そんなはずはありません! 機関もエネルギーもないはずです! こんなことが……!」
『それは間違いだ。だからこそ、俺はこうして此処に目覚めるのだから』
「地に増え、都市を作り、海を渡り、空を割いた。何の、為に……。聖槍よ、果てを語れ! 」
これこそは、嵐の錨にして世界の表皮を繋ぎとめる光の柱。
「
元より神の領域に届く聖槍の一撃。まして今の彼女は赤龍帝の力、倍加を使用できる。アグレアスを貫いたように、天地開闢に近い一撃を再現することさえ可能だった。
しかし、極光は健在だった。
『無駄だ。星を繋ぎ止める程度の槍では、俺には届かない。二天龍如きにやられたあの役立たずとは違うのだよ』
光が止むと、そこには人の形をしているだけの獣がいた。
「ははは」
頭部には、罪を象徴する角。
「ははははははははは」
顔面には、激怒を宿した笑顔。
「ははははははははははははははははははははははははははは!!」
神に成り下がった王は哄笑を上げる。
「喝采の時間だ。人類よ、誇るがいい。君たちこそが、どんな生命よりも尊いのだから。君たちは神さえ作り上げた。俺という絶対にして至高の神を。――だから、君たちは俺を倒すこともできるはずだ。それを以って、我が計画の達成とする。人類史の過去、現在、未来を費やして、俺を滅ぼしに来るがいい! そうすれば、君たちは必ず俺を倒せる!」
この神はそう断じた。この獣はそう定めた。
ならば、この獣の思想こそが真実なのだ。この獣の理想こそが現実なのだ。
これこそが最悪の人類悪。
御身の再臨を以って、彼のクラスは決定された。
「この星は完成する」
唯一神など偽りの座。
「あらゆる真実は我が手に落ちた」
其は人間が誤認し、人類史に最も
「称えるがいい」
その名をビーストX。『真理』の理を持つ獣。
「我が名はソロモン――」
「――人理否定式・唯一神ソロモンである!」
それこそが、ソロモンの真の獣性である。
■
「ゼパルより弾劾。此度の敗北は――」
「黙れゼパル!」
「我々はまだ敗北などしていない」
「時間は残されている」
「手段は残されている」
「勝機は残されている」
「我らの極点への道は、まだ閉ざされていない」
「だからおまえはゼパルなのだ」
「ゼパなんとかめ、ぺっ!」
「ぺっ!」
「ぺっ!」
「ぺっ!!」
「もういっそ名前をゼぺっ! なんとかに改名してはどうだ?」
「そろそろ泣くぞ? 本気で泣くぞ? いいのか? 人智を超越した魔術式が恥も外聞もなく泣き叫ぶぞ?」
「此処には我々とオーフィスしかいない」
「英雄派を始めとしたものは出払っているからな」
「泣きたければ勝手に泣くがいい」
「否、そも、ゼパルが魔神柱でなくなれば問題ない」
「後釜はオーフィスにしよう」
「前任者のゼパルは速やかに引き継ぎの準備をして退職届を提出するように」
「七十二柱ってそういう制度ではないのだが!?」
「我、頑張る。わーい」
「待て、オーフィス。喜ぶな。駄目と言えないだろう……!」
「サレオスより確認。現状は推測されたパターンにあったか?」
「マレファルより解答。存在した。想定された最悪から八番目のパターンである。無論、過程は度外視した評価ではあるが」
「ムルムルより質問。対処すべき手段は用意されているか?」
「ウェパルより返答。対処可能ではある」
「フルフルより補足。第二百十八作戦が該当する」
「ハルファスより通達。この作戦には失敗は許されない。全同胞の同意なしに実行は許されない。他の手段を検討する」
「ガープより否定。この作戦以外にソロモンを止める術は、否、この世界を救済する術はない」
「アガレスより評価。聖書の神ではなくソロモンならば、この作戦の成功確率は著しく向上する」
「アンドレアルフスより計算。実に七倍である」
「グシオンより疑問。この作戦の最悪と最善はどの程度か」
「シャックスより解答。最善で十二、最悪で零である」
「アムドゥシアスより歓喜。随分と楽観的な想定である」
「キマリスより同意。この作戦の実行を中止する意味がなくなった」
「バアル」
「まさか私に、あの平凡な男以外から逃げろなどとは言わないだろうな?」
「――アンドラス」
「この戦いは、死ぬためではなく、生き抜くために」
「――――フェニクス」
「本望である」
「――――――ラウム」
「我が命題の証明のために」
「――――――――フラウロス」
「もはや言葉など不要だろう」
「バルバトスより報告。七十二柱の全同意を確認」
「…………」
「………………」
「……………………」
「逝くとしよう、我らが極点に」
第二次逆光運河・創世光年『聖書推敲』を最終段階に移行する。
多くの喜びを見た。
多くの輝きを見た。
多くの希望を見た。
ソロモンは何も感じなかったとしても。
我々はこの世界に光を見出した。
“貴方は何も感じないのですか。この未来に何の不満があるというのですか”
『この世界に価値はない。この程度で停滞は許されない。この進化に終止符は認められない』
『まだだ。もっとだ』
『俺たちは更に先に進まなければならない』
『この世界の人類こそが最も素晴らしいと、証明しなければならないのだから!』
『たとえ――その結末に滅ぶとしてもだ!』
そんな理想があってたまるものか。
そんな渇望が許されてたまるものか。
私たちは理解した。
俺たちは覚悟した。
我らの手が届かなかったすべての過去に謝罪を。
僕らの手を取ってくれたすべての未来に感謝を。
――――あらゆる生命に祝福を。この知性体に、我々は必要ない。
次回「ソロモン七十二柱」
我々は今度こそ、極点に辿り着く。