軽い死生観ネタ注意。
サヨリ(鱵・学名:Hyporhamphus sajori)
(中略)
腹膜は真っ黒で俗に「見かけによらず腹黒い人」の代名詞とされることもある
(中略)
強い日光を浴びると、消化管に取り込まれた植物プランクトンが光合成を行って酸素の気泡が発生し、消化管が膨れ上がって水面に腹を上にして浮かぶなどの障害が発生することが報告されている。
――――出典・Wikipedia
三万の生徒と多彩なカリキュラムを擁する、私立汐美学園の敷地はとても広大だ。当然校舎数は多くなり、移動教室の所要時間は肥大する。業間は普通の学校と比べて長く取られているものの、それでも授業の組み方によって、歩いての移動では間に合わない事もある。しかしこの問題は学園敷地をぐるりと走る、路面電車を利用する事により解決した……はずだった。
汐美の名物として知られる路面電車は無期限の運休を続け、もう一年が過ぎた。私の入学は今年の四月だから、私からしたら最初から無かったものなのだけど、私は運休を始めた日付を知っている。忘れようがない。その日は開通以来初めての人身事故が起きた日で。よりにもよってそれが死亡事故で。
私の姉、白崎つぐみの命日だからだ。
私、白崎さよりが姉を喪った日だからだ。
その事故はいくつかの不幸が重なったものだと聞いている。駅近くで脱輪した路面電車と、何か物を拾おうと屈んでいたらしく、反応の遅れた姉。それが朝の通学時間帯で、暴走する電車は雑踏に突っ込んだ。怪我人も多数出るような大事故だったらしいが、死に至ったのは姉一人だそうだ。
あの白崎つぐみが。優しく、朗らかで、聡明で、人に好まれ、頼られ、面倒見が良く、可愛げがあり、万難を排す心の強さを持った姉が。意味もなく、ただの不幸で死んだという凶報は、どんな現実よりも現実感を持たず。あれから一年、姉の後輩として汐美の地に立った今でさえ、心底では実感できていないのだと思う。それは大きすぎる衝撃に反応が追いついていないだけかも知れないし、少なからず死に臨む生活を送った私は、案外既にすんなり受け入れているのかもしれない。
消えない空虚、戦えない相手。自分の事すらよくわからない、世間知らずの私が断言できるのは、ただ一つ。
路面電車は、今日も走っていない。
昼下がり。レールの上を、とぼとぼ歩く。
別に死体を探している訳では無い。
煉瓦造りの石畳に埋設された路面電車のレールは、しばらく利用されていないのにも関わらず、綺麗な金属光沢を放っていた。それを視界に捉えながら歩いていると、残念、始業のチャイムが鳴り響く。
五月半ばの今日で既に出席状況がギリギリだった授業だ。惰性で出てみようとするポーズだけは取って居たけど、必修でもなし、遅かれ早かれ落第を覚悟していただろう。それが偶然今日だった、というだけの話だ。
そもそもが間に合わない距離でもない。早足で歩けば丁度、くらいの所要時間だし、それに今年度からの汐美では条件付きで自転車での移動だって許可されている。
自分は走るまでは行かなくても、十数分の早歩きくらいは出来るだろう。と、自分の体力を過信して、少々挑戦的な時間割を組んでしまったのが完全に悪い。ちなみに自転車には乗れない。
私は小学校最後の数年と、中学校に通うはずだった丸々三年の間をほとんど、長い入院生活を送っていた。難病と称し、薄弱不幸のヒロインを気取るには一味足りない程度の病名だったが、元来の身体の弱さで長引いた結果である。まあとにかく、人生のおよそ3分の1を病床と車椅子で過ごした人間が、そう簡単に月並へ至る事は不可能だという事だ。ちょっとずつ馴染ませていくしか無い。
そういえば入学当初、姉の友人だと名乗る先輩が毎日毎限車で送迎させようと提案してくれる事件があったが、それは丁重にお断りさせて頂いた。それを甘受できるほど厚かましくも、目立ちたがりでもない。
等と色々心中で言い訳を並べ、未来を見据えた反省をしたふりでこの授業を諦めた私は、とりあえず今日の部活動まで、適当に時間を潰せる場所を探す事にした。
ふと先に部室まで行ってしまおうかと思ったが、鍵を持っていないので却下だ。生徒が個々人で受講の選択をする汐美では、終業時間に結構差が出る。なので人数の多い部活動では各部員が鍵を持っていたり、貴重品の保管場所を確保し部室は常時開放だとか、そういう事になっているのだけど、残念ながら図書部は例外だ。
私の在籍する図書部は、数十人の部員数を誇る大手文化部である。ただし、書類上ではの話に限る。
その殆どが履歴書や内申書の空欄を埋める為に在籍する、言わば幽霊部員であり、実質的な部員は私一人……ではなくて。そんな訳はなくて。私と、図書館の主のような先輩二人だけである。私が今年四月に入部し、継続的に顔を出すようになるまでは一人で活動していたらしい。なので鍵は一本あれば十分で、合鍵作成の許可が生徒会から降りるまでは、現状維持という事で先輩が管理している。よって自由な入室権利を持たない私は、先輩が来ると言っていた二コマ後の時間まで部活動に精を出す事は不可能である。
一度寮に帰る選択肢もできたら否定したい。管理者の厚意で、というよりかは腫れ物扱いの処遇だったのかもしれないが、事故以降しばらくそのまま維持されていた姉の部屋。それを私がここに進学する意志を見せた時に契約更新し、今も使っているのだけど。姉の高い家事能力を前提としたお洒落なレイアウトは、私ではどうしても運用に難がある。暮らす内に違う色に少しずつ変わっていく様を見ていると、理屈の上では当然だと理解していても、感情で少し、辛い。せめて外にいるべき時間くらいは、だ。
さて、五月にしては強い日差しに限界が近い。どこか座れる所は無いか……と、無為に足を動かしていると、学内に点在する公園の内一つを示す、案内板が目に入った(ちなみにこの公園、団地の隙間にあるように簡素なものでは無い。200ヘクタール程の湖を人工林で囲った、立派な自然公園である。本当にどんな学園だ)。先日一度中を通った時、ベンチのある東屋を見た気がする。肩にかけたトートバッグをまさぐり、読みかけの本がある事を確認して、レールをはずれ、公園へと足を向けた。
整備の行き届いた遊歩道を歩いていると、記憶の通り、角材と木版で構築される東屋が見つけられた。既製品にしては安っぽさを覚えるが、学生の作品か何かだろうか。三人がけの座面を一応軽く払い、腰を下ろす。すると息が切れている自分に気が付き、これでは老人のようじゃないかと、誰が見ている訳でもないのに姿勢を正してみる。
冷たいお茶が入ったタンブラーと文庫本を取り出し、一息つけてから本を開く。ほぼ無風のせいかとても静かで、期せずして絶好のロケーションに巡り合えた幸運を噛み締めながら読書に勤しんでいると、遠くから足音が聞こえた。随分ペースが早い、ジョギングだろうか。確かに走るにも絶好の場所ではあるが、他者から見てわからないとは言え、サボタージュ中の身である。体育の授業だったら少し気まずい。クラスメイトが居たらもっと気まずい。そう思った私は少し身を潜め、様子を伺っていたのだが、どうやら違うらしい。
ジャージ――あれはウィンドブレーカーとか言うのだったか。学校指定のものと違う運動着を身に纏った小柄なショートヘアの女生徒は、イヤホンをして、ランニングポーチを斜めに掛け、一人で走っていた。どこかで見た顔だが、同級生だろうか。一年生で今日の授業に空き時間があるとは珍しい……とは自分が言えた事じゃないか。
一芸入試枠を広く取り、各界の才人が天稟を伸ばし鎬を削るのも、この汐美の校風である。特技の活動時間を確保する為に便宜を図られる、なんて事例は珍しくもない。ウィンドブレーカーの彼女はそうかもしれないし、ただ時間を持て余し趣味で走っているだけかもしれない。彼女が遊歩道を挟んで反対側、湖畔の少し開けた方へ曲がり、今度はストレッチを始めた辺りで私は興味を失い読書に戻る。が、しかし数分後、再び、今度は完全に。私は意識を惹かれてしまった。
彼女が、声を出した。
味気なく言えばそれだけの事である。歌ったわけでも、演じたわけでもない。ただの発声練習だ。聞く者に傾聴を強いるような絶対的魅力と、それを損なわずこの公園に存在する木の葉を一枚余さず震わすかのような声量を両立させる、ただの発声練習。それでも私は聞き入るしかない。先程述べたように数多くの『本物』が在籍するここ汐美でも、更に別格。日本有数の才能どころではない。本場の本職までもを魅了する、世界有数の天才。私は彼女を知っていた。というか、つい先月知った。入学式で校歌の独唱が中継されていたのを思い出す。
彼女は御園千莉。声楽科二年の声楽家。
人呼んで、歌姫である。
……先輩じゃん。
芸術とは文化と技能であり、性能を語るものではない。という考え方は、今日をもって改めよう。生き様が文化で、在り様が技能という性能の人間は、確かに存在する。……とか、偉大さに感化されて妙なモノローグを入れていたので、御本人の接近に気づくのが遅れた。
ペットボトルのお茶を飲みながら近づいてきた彼女も、奥まった位置に座る私に気が付かなかったようで、屋根の下に一歩足を踏み入れた所で呆ける私を見て小さく
「あ」
とだけ漏らし、引き返そうとする。その声で気がついた私はベンチを荷物で占領していた事を自覚し、慌てて荷物をまとめながら
「すみません!大丈夫です、いま片付けます!」
そう声をかけた。何が大丈夫なのかわからないが、とにかく何らかの敬意を示したく、また、失礼を働きたくないのだけは本心である。思いが届いたのか、立ち止まり、振り向いた彼女はほんの少し困ったような表情を見せてから、そう、ごめんね。と言い、隣に座った。
ランニングポーチから出したハンドタオルで汗を拭う彼女と、このタイミングで再び本を開く訳にも行かない私。続く無言の時間。果てしなく気まずい。こんな事になるのなら、入れ違いにこの場を明け渡すよう立ち去ってしまえばよかった。こんな時、姉なら物怖じせず話しかけるのだろうか。自分にその胆力があればなあ、とは思うが、無いものは無いと諦めていると、彼女の側からコミュニケーションを試みてくれた。
「えっと、一年生だよね。この場所、好き?」
汐美ではタイやリボンの色で学年分けがされている。それでわかったのだろうが、そうでなくてもちっちゃくて頼りのない事は自覚している。当たりはついてしまうだろう。
「は、はい。一年です。ここには今日初めて来たんですけど、好きです。静かで、読書にピッタリで。よく来るんですか?」
「私も好き。朝によく走るんだけど、また雰囲気が違ってね。良いよ。」
「そうなんですか……今度来てみます。」
途切れる会話。そしてまた気まずい沈黙が訪れる。そもそも気まずさを感じているのは、おそらく私だけなのだ。彼女の雰囲気は談笑を好むようには見えず、むしろどちらかと言えばストイックな、孤高たる自分を認めているようなタイプだ。孤独でも孤立でもない、独り立ちしているからこその、孤高。その精神性、勝者たる所以。聞いておきたい。私はきっと、それを学びにここへ来た。
「それじゃ、私はこれで。邪魔しちゃって……」
そう言いつつ立ち上がる彼女の言葉を遮る形で
「あのっ!……すみません、いいですか?」
なけなしの勇気で呼び止める私を見て、なにか、と目線だけで先を促す。
「御園、千莉先輩ですよね?」
「そうだけど……」
彼女は認めながらも、面倒事の空気を嗅ぎ取ったのか、少し怪訝な表情を浮かべる。有名人だ、こういうのはよくある事なのだろうけど、慣れっこでは無いらしい。
「一つ、質問がしたいんです」
「ん、何?」
言葉の上では快諾だけれど(だよね?)、その表情は私には『ミーハーな事を聞きやがったらそのまま立ち去る』『っていうか殺す』とまで言っているように見えた。なんで整った顔立ちに宿る怒気はこんなに怖いんだろう。しかしいつまでも黙ってはいられない。意を決して、訊ねる。
「勝てない相手に勝ちたい時って、どうしたら良いですか?」
ああ、結局はそういう事なんだな、と。実は初めて、半ば弾みでこの質問を口に出した今、懊悩の正体を見た。浅ましい自分と、既に精神的敗北を喫している自分、そしてその両方を受け入れている事を自覚する。どうしようもない。
一方予想していた類の質問と違ったのだろう。一瞬固まった彼女だったが、ちょっと考え、こう答える。
「……私、勝てなかった事って無いから。よくわからないんだけど」
すごい事を言う人が居たものだ。と、今度は私が固まってしまう。続けて、今度は少し遠い目をして
「でも、勝たなくていいなら、超える方法は知ってる」
と、呟くように言った。教えて欲しい。そうお願いすると、彼女はハッとして、照れたように。後悔するように。あまりいい話じゃ無いけどね、とか言いながら。それでも話してくれた。
幼年の折、共に研鑽を重ねた友がいた。当時既に神童として知られた彼女は、友の後塵を拝する機会など無かった。そんな彼女を脅し、誑かし、たまには負けてやったらどうだと唆す大人がいた。それは他所の教室の保護者で、手段としては決して褒められないが、同じ世代に絶対者が居たとしても、我が子が一度も栄光を浴びないまま表現者として終わるのは忍びないという親心だったのだろう。そして言われた通り、投げやりに発表会へ臨んだのだった。
……という事らしい。でもそれって、つまり
「お願いして、それで負けて貰っても、勝ちは勝ち。って事ですか?」
プライドを捨て、何の為に勝つのかわからなくても勝つ為に勝て。それはもしかしたら競技者として必要な姿勢なのかもしれないけど、否定が入る。
「ううん。違う。……正直、私は今でもそれでいいと思ってるし、勝った理由なんて勝った後についてくるものだとも思うけど。」
むしろ綺麗に正々堂々勝とうだなんて、ナメてるのか、って感じだよね。そう小さく続ける彼女はやっぱり怖かった。
「ま、それはそれとして。ここからが本題なんだけど。私、その発表会でも一番だったの。友達も、並居る他の教室の子も蹴散らして、一番。そりゃあんまり適当にやったら後で怒られると思ったから、最低限の体裁は整えたけど。まったく気の入っていない歌唱で勝っちゃった。笑えるでしょ?」
笑えない。『とりあえずの体裁』がどの程度だかも知らないけど、つまりそれは、その時点でプロとアマ……いや、下手したらそれ以上の差がある訳で。いくらなんでも規格外が過ぎるんじゃないか、この人。
私の戦慄は露知らず、彼女はお茶を一口飲み、続ける。
「違う教室の生徒たちはいつも通り、泣いて悔しがってる子も、何事も無かったかのように笑ってる子もいて。保護者たちも軽口くらいのつもりだったのか、特別な感情を向けて来る事も無くて。先生も調子が悪かったのかくらいは聞いてきたけど、そういうのって子供なら特に水物だし、掘り下げられる事も無くて。ただ、なんでかなあ。友達にはバレちゃった」
才能ではなく、能力でもなく、御園千莉という人間性を評価し好んでいた友達だからこそ気がつけた違和感。だからこそそれは、取り返しのつかない――
「そ、大体あとはわかるでしょ?めちゃくちゃに怒られて、ピントのズレた謝り方をする私。火に油を注いで、引っ叩かれて。その子は二度と教室に来る事は無かった」
でもね、と言って彼女は笑う。今日初めての笑顔だ。
「あの子は私を超えた。センチメンタルな理由ではなく、ただ厳然たる事実として。別ジャンルへの転向を決めて、のし上がった。それが才能だか努力だかはわからないけど。『わかる人にはわかる』ような私とは違って、大衆の心を掴んだ。汐美で人気投票でもしたら、多分あの子に私は負ける。それは芸術がショービジネスの側面を持たなければ世間に存在できない以上、避け得ない敗北なの。」
私も、負けっぱなしでいる気はさらさら無いんだけどね。勝ち気の強そうな顔でそう締めくくり、すっと立ち上がる。大きく伸びをする姿はどこか猫に似ていた。
「私の話はこれでおしまい。さて、すっかり話し込んじゃったね。私はもう行くよ」
「あ、ありがとうございました!お時間を取らせちゃって、申し訳ありませんでした!」
慌てて立ち上がりお辞儀する私に、微笑ましいものを見るような目が向けられる。恥ずかしい。いいよいいよと手を振りながら立ち去る彼女は、最後に悪戯っぽい表情で
「でもなんで話しちゃったんだろ。まったくあなた、人たらしの才能があるよ」
と残し、立ち去っていく。
その評価を素直に受け取るには、私は上を知りすぎていた。それが私の持つ才能だったとしたら、絶望するしかない。
未だ明言するには口幅ったくも、勝ちたい……超えたい、姉が持つ一番の才能は、求心力だったように思う。ことその戦場では、敵う気など毛頭しない。
いい話を聞けたようで、なんでも出来た姉に、満遍なく秀でた姉に、どこか一分野でもいいから勝ってみせろ。というのは、今の私には随分な無理難題だ。他人と自分を比べたとき、自分の土俵で戦えば、一点突破できる何かを持つ人間ばかりじゃない事をあの天才は理解……した上で喋ってるんだろうなあ。
思わず溜息は出てしまうけれど、間違いなく一つの指針だろう。人生の大部分を足踏みに費やした私が、あれもこれもを望めば即座に破綻を迎える事は、火を見るよりも明らかで。もし本当に勝とうとするならば、取捨選択が出来るくらいの選択肢を持つことが先だ。というのは甘美な先延ばしで、彼女が言いたかった結論とは少し違う気もしたけれど、深く考えるとドツボに嵌りそうな命題なのも確かだ。
強引に思考を打ち切り、携帯電話で時間を確認したら丁度授業が終わっていた。ここには鐘の音も届かない。もし時を忘れて読書に熱中していたら、とんでもない時刻になっていただろう。あの図書部の先輩辺りなら本当に暗くなり、文字が読めなくなるまで居るんじゃないか。親切を兼ねた悪戯で教えてみてもいいけど、その場合、私が責任を取って帰宅まで見守るべきだろうか。むしろ時と場所を選ばない読書が持ち味の先輩だ、そもそもここまで来ない可能性だってある。
閑話休題。
とにかく、こんな入部早々に大きい遅刻などをしてしまえば、今後の部活動に多大な支障をもたらしかねない……というような団体でもないのだけど。行くと言ったのだから、行こう。
夜遅くまで安心して苦労せず、合法的に引け目無く、無料で外に居られる隠れ蓑は案外貴重なのだ。
湖畔の公園から図書館まで実際歩いてみると、私の足で三十分ほどの距離があった。回復したはずの体力は休憩前を下回り、大分にグロッキーの様相を呈してしまっている。
汐美が誇る施設の内一つ、大図書館の内部に図書部の部室はある。今のように図書委員が管理運営を始める前、専門の司書がいた頃。その控え室として使われていた部屋を再利用している。昔は文芸部や弁論部もあったらしいが、それぞれ様々な理由で追い出され、今は図書部しか残っていない。地上四階、地下二階の大規模な建物には空室が沢山あり勿体なくは思うものの、図書の貸出及び閲覧という、本来の機能を阻害するわけには行かないのだろう。まあ、それは当然私が気にすることではない。さっさと中に入ってしまおうとすると、見知った顔が見えた。桜庭先輩だ。
桜庭玉藻。
汐美学園三年生。実家が地元の名士で知られており、本人もその名に恥じず清廉にして高潔。姉の友人だったということで、妹の私は特別目をかけて貰っているが、本来私のような人間とは縁がない女傑である。
今日も数名の友人――口さがない言い方をしてしまえば、取り巻きだろう――に囲まれ移動している。さながらプチ大名行列、もしくはファランクス。どの道正面からぶつかったら死ぬのは間違いない。できるだけ脇に避け、軽い会釈ですれ違おうとしたが、しかし
「おお!さよりちゃんじゃないか!どうした、私とお前の仲だろう遠慮するな。とは言え年上ばかりじゃ萎縮するのもしょうがないか。……すまない、先に店まで行っててくれないか。すぐ追いかける」
上手く行かないのが私の人生だ。ああ、言われた通り先に行く御同輩方の視線が痛い。
「いえ、あの、桜庭さん。私もこれから部活なので、一緒だった先輩方にも悪いですし」
「いいや、ここで会ったのも何かの縁だ。近況を聞かせてくれよさよりちゃん。というか部活動に入ったのか。何部だ?」
近況も何も、四月末に会ったばかりなのに無いだろう。
……桜庭先輩は、私のことが好き過ぎる。自分でもとんでもない事を言っているとは思うが、ここまで言われて私の恥ずかしい勘違いだったりしたら、何を信じればいいのかすらわからない。こんな感じで会う度にその場のコミュニティを放り出し、私に構ってくれる。それ自体は有り難いし、邪険にするようなものでは決して無いが、常に人の輪の中心に立つような人間だ。背を向けた人間の視線は汲み取れないのだと、いつかは教えてあげないといけないのかもしれない。
「桜庭さんがそう言うなら、いいんですけど。えっと、図書部に入りました。」
「ああ、図書部か。なるほど。……で、悪いが知らないんだ。何をする部活なんだそこ。文芸部とは違うのか?」
実に痛い質問である。私も見学初日に聞いてみた時、要領を得ない返答をもらったものだ。とりあえずそれをそのまま流用してみる。
「アウトプットに特化した文芸部やインプットに特化した読書部とは違い、包括的に書籍と触れ合うことを目的とした部活動であり、その活動内容は多岐にわたるため一概には言えないものの、新時代の総合的な文化人育成――」
「わかったわかった。で、さよりちゃんは具体的に今日何をするつもりだったんだ」
誤魔化されなかったし、追求してきた。やはり私とは役者が違うなあ。
「本を読んで、読書感想文を書きます」
小学生の宿題みたいな活動内容である。読書部の活動内容は知らないけど、丸かぶりしてるんじゃないだろうか。そもそも、この読書感想文すら自主的なものだ。途方に暮れる新入生をガン無視して読書に没頭し、生返事しか返さない最上級生からなんとか聞き出した活動内容が
『レビューでも書けば、それを部誌に載せて出すから』
という曖昧なもので、文字数や形式すら指定されないそれを、二日に一枚ペースで簡素に書き続けているだけなのだ。
「そうか!いいじゃないか、素晴らしい活動じゃないか!無味乾燥に娯楽をただ消化しがちな現代において、感想文を書くとは見上げた精神だ。えらいぞー!」
桜庭先輩は無遠慮に私の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。……一応先輩のため弁明しておくと、この人は普段からこんな、こんな。こんな人ではない。逆に己を厳格さで縛り、怠惰な人間が居れば容赦なく峻峭さを押し付けるような人間だ。その二面性の甘い側を私が独占しているというのも、先輩方の視線をより尖らせる要因だろう。
「そんなこと、やめっ、桜庭ふぁ、そのふぇんでっ」
髪を逸脱し、顔面まで揉まれ始めた辺りで私が出した停止要求は、なんとか受理された。
「あっはっは。すまんすまん」
悪びれず豪快に笑う桜庭先輩だった。別に髪型に気を使っている訳ではないから、適当に手で撫で付け、それでとりあえずの身嗜みは整ったことにする。
「なるほどなあ。まあ入部したてだからそれだけなのだろうが、包括的に総合的にというのなら、ほら、将来的に小説を書いたりするんじゃないのか。読む人は書きたくなるって言うだろ」
あの先輩はド読み専だろうし、そうとは限らないんだけど。少しひらめいた私は話に乗っかることにした。
「そういう話は聞きますよ。というか、私も今まさに一作書いてみようと考えているんですが、ちょっと展開に悩んでて。一つ質問してもいいですか?」
そう言い終わるや否や、桜庭先輩は本当に嬉しそうな顔を浮かべた。頼りがいがある先輩を通り越し、頼られることが好きな先輩にすら見える。自らの境遇を顧みれば頼りないことこの上なく、一番頼られそうな私に構ってくれている。という想定すら立ちそうだったけど、それは流石に穿ち過ぎで失礼だし、仮にそうでもwin-winなのだから問題はない。甘んじて甘えさせて頂こう。
「おお!なんでも聞いてくれ。さよりちゃんの頼みならなんだって答える。プライベートな質問でもどんと来いだ。好いてくれる取り巻きを無視して後輩に構う気分でも、それを居心地悪く思う後輩を見る気分でも教えてやるぞ。もじもじしているのが可愛いな」
一発殴ってやろうと思ったけど、十センチ以上の体格差がある肉体的にも、桜庭先輩の出自を考えた世間体的にも。怪我をするのは確実に私なのでなんとか抑えた。ちくしょう、本当に毎回気まずいんだぞ。
「わかっているならやめてください。本当にお友達の方々の視線、怖いんですから……いえ、そうじゃなくてですね、小説の中の話です」
さよりちゃんを怖がらせた不届き者の特徴を教えろ。とか言っている桜庭先輩は無視する。主犯はあんただよ。とは返せなかった。
「勝てない相手に勝ちたい時、桜庭先輩ならどうしますか?」
突如訪れる静寂。桜庭先輩は今までの明朗快活な雰囲気を維持してくれようと頑張ってくれるのは分かったが、目だけはどうしても真剣だった。
何か、察されちゃったかなあ。
たっぷり十秒の長考を経て、口を開く。
「そうだな、まず、前提から見直す。『勝てない』と『勝ちたい』、どちらかが間違っていないかを考える。どちらかに誤謬があって、それが前者ならば簡単だ。己の修練が足りないだけなら、その分本気で努力を重ねればいいだけだ。仮想敵が日に二十時間の鍛錬を旨とするのならば、倍の効率を持つ修行法を編み出し二十二時間鍛錬すればいい」
清々しいほどの根性論に、私は感服してしまう。格好いい方の桜庭先輩だ。
「そして後者だった場合、これが難しい。本当に勝ちたかったのか。勝つか負けるかの選択肢しか見えて無くて、本当は誤魔化したほうが良かったり、本心では勝てなそうな相手に取り入りたかったり、なんてよくある事で。しかもこれをちょっとでも頑張った後に感じると、鍛錬から逃げたいだけの思考と区別がつかなくなる」
桜庭先輩の顔に自嘲が混ざったのには気づかなかった事にする。何かを抱えているのかもしれないけど、それを汲み取り追求するのは私の、後輩の職掌ではないだろう。
「長々とする程の話でもないな。まとめると、初動の見極めと潔い引き際だ。勝てるなら頑張れ。勝たなくていいとわかったら、適当に、なあなあで済ませてもいい。それは負けじゃない。選択だ。そして勝たなきゃいけないのに、勝てない場合は……どうしようもない。放って置いて、時折様子を見て、状況の再確認を繰り返す。呪われたような人生になってしまう」
勝負に臨む状況が常に敗北。誰しもがそんなマッチアップを否応なく組まれてしまう可能性があって。白羽の矢が立ったのが私で、多分桜庭先輩もそうで。
「でも、それでも、だ。被せた蓋を押さえながら過ごすような人生でも、無いより、いいだろ。私も、お前も。わかるだろ」
「……はい」
似合わない作り笑いを浮かべる桜庭先輩に、私は短い返事しか返せなかった。
私より強い桜庭先輩は、私より多くのものを抱えていて、私よりきちんと受け取り、向き合い、私より多くのことを考えたのかもしれないけど。私は、それを聞かない。
「……よし、以上!小説の参考にはなったか?」
センチな感じにはなっていたけど、そんな建前なのだから私も合わせないといけない。なので、ちょっとふざけて
「勿論です。ありがとうございました。桜庭さんも後輩をいじめるだけじゃないんですね」
とか言ってみたりして。
私が何時いじめた、こんなに愛しく想っているのに。だなんて桜庭先輩もおどけて。
「あんまりあいつらを待たせてもいけない。それじゃ、書いたら読ませてくれよ」
最後になぜかニヒルな笑いを浮かべ、背を向け颯爽と立ち去る桜庭先輩。
……ああいうクサい行動と言動が格好つくんだから、美人は得だよなあ。なんて思いつつ、私は部室へ向かう。
大図書館の玄関をくぐり、すぐ正面にある貸出カウンターの脇を通り過ぎ、立ち並ぶ本棚を避けつつ、一番奥まった所にある部室の前まで辿り着く。扉の脇には貼られたルームプレートには小さく『図書部』と印字された紙だけが挟まっている。節電の一環なのか、薄暗いここでは発見も判読も困難だ。この場所は館内地図にも表記されておらず、部外者が訪れる事の無い活動性も鑑みると問題はないのだろうが。並びの部屋が現状倉庫として利用されているのも相まり、悪い意味で隠れ家的な雰囲気を持ってしまっている。扉の隙間から電気が漏れているということは、もう先輩が来ているのだろう。ドアノブを引くと抵抗なく開く。
「こんにちわー」
……返事はない。業務用だろう二面使いの本棚六架に隙間なく本が詰め込まれ、脇には入り切らなかった本がなんとか倒れない高さまで平積みされていて、そのタワーを移動のため人間が通れるギリギリまで増設し、部屋の中央に置かれた机の上にも進出させ、六脚ある椅子の内四脚の座面にも数冊置かれている。生半可な書庫よりも書籍の占有率が高いこの部屋で、居るはずの先輩からの返事が聞こえない。地震一つ、衝突一つで死ぬまで本に埋もれかねない環境において、それは命の危機すら感じさせる事態なのかもしれないけど、ここの先輩に限ってその心配はない。本を読むことに関しては器用な人なのだ。
入り口正面に置かれた机の本タワーを回り込み、裏を覗くとやはりそこにいて、いつも通り本を読んでいた。
筧京太郎。汐美学園三年生。図書部部長。
いつだって本を読む、図書館の主。その眉目は秀麗であり、(読書の都合上)俯きがちな姿は掛け値なしに影のある文学美青年なのだけど、浮いた話は一切聞かない。浮かない話だってほとんど聞かない、という影の薄さも特徴の一つだろうか。優秀な学業成績を修めながらそれを鼻にかける事はなく、誰に対しても温厚な物腰を取るその姿は、ある種禁欲を極め、悟りの境地に至ったようにも見える。
それともただ元より、俗世に興味がないだけなのかもしれない。
以上が若干一年生にして対外折衝を一任された私が、図書委員から聞いた筧京太郎評の全てである。
しかし期間にしてほぼ一月、活動にして十数回を共に過ごした私に言わせれば、少しだけ違う。筧先輩は誰よりも、世界を愛する博愛主義者のようだった姉よりも、世間に興味があるのだ。
己の耳目に不足を覚え、他者の見聞を蚕食する。
己の人生で捉えられない世界を、他者の経験で補完する。
その為の手段として書に触れて、溺れ、縋り。ひたすら没頭した結果、耳目は衰弱し、人生は停滞を見せる悪循環に陥り。藁を掴み続け、万が一で紛れるかもしれない蜘蛛の糸を探し続け――
――なーんて、ただの妄想だけど。読書中に時折見せる、どこか必死な形相に惹かれて理由を考えてみただけで。単なる本の虫、というのが正味の所だろう。私も入院中は読書に勤しんだもので、密かに読書量は自負する所だったのだけど。この人と出会う前に吹聴する機会がなかったのは僥倖だ。一応海産魚なのに、井戸住まいの烙印を押されるところだった。
本を読む筧先輩に話しかけても返ってくるのはいいとこ生返事、というのはとっくにわかっていて。会話がしたければ本を閉じるタイミングまで待つか、肉体的手段を用いるしか無い。そして暴力を振るう程の用事もない私は、机上の本を少し避けて場所を開け、半ば指定席の椅子を引く。と、本が落ちる。一つ訂正をしよう、本が置いてあるのは六脚中五脚だ。
少し、泣きそうになった。
なんとか涙をこぼさずに(嘘だ。ちょっと悪気なく邪険にされた程度でくじけていては、この人と付き合って行けない)私も本を読み進め、今日は予想外に読書時間が取れたので、予定よりも早く感想文に取り掛かる。罫線の入ったルーズリーフを横向きに使い、縦書きで平均二枚ほど。前半は差し障りのないレビューを、後半は自分の感情を綴る事にしている。もし本当に部誌が作られるのならば、それが価値の無いものになろうと前半部分だけを採用してもらうつもりだ。
あまり面白くなかったミステリから、なんとか少しでも褒められる所を探すべく目次を眺めていると、筧先輩が本を閉じる音を耳にした。絶対に読む本は切らさない人だ、放っておけば余韻も楽しまず即座に他の本を開くだろう。いまを逃せばまた最低一時間、話しかける機会は失われる。別段用事は無いけれど、密室で二人、ただ無言で過ごすのが寂しく思わないほど枯れてもいない。筧先輩にしたらいい迷惑なんだろうけど、後輩の我儘に付き合って貰おう。本の山を動かし、顔が見える状態にしてから会話を試みる。
「お疲れ様です筧先輩。今日は何読んでたんですか?」
ああ、お疲れ。と社交辞令的に返しながら、新書判の表紙をこちらに向けて掲げる。悲しき熱帯の、下巻。創作と、時折エッセイくらいしか読まない私に哲学本は一切理解できず、そこから話を膨らませる目論見は一瞬で瓦解した。
「それ読んだこと無いんですよ、私。いつか読むべき本として心のリストにはあるんですけど、そんな枠に入れば入るほど読む意欲が薄まる、というか。筧先輩には無いんでしょうけど」
……苦しいっ。完全に変な後輩になっている自覚はあるが、一度口に出してしまったからには撤回したら恥の上塗りだろう。
「いや、そんなことはないぞ。結局全部読むけど、つい後回しにしてしまう本っていうのはある。俺の場合、流行った作者の次回作、特にそれがデビュー作で売れたタイプだと二の足を踏むな。経験上新たな味わいも、前作を超えてくる事はそうないから」
話を合わせてくれたんだろうけど、上手く拾ってくれたことに感謝する。全てが読書に優先し得るだけで、寡黙でも冷酷もなく、基本は優しい人なのだ。
「なるほど。勉強になります。っていうかやっぱり全部読むんですね」
軽口を叩いて顔を綻ばす私と、小さく照れ笑いをする筧先輩。何でもないコミュニケーションに達成感がある。
それから私は、期せずして盛り沢山だった今日の話をする。授業をサボってしまった事。読書に適した湖畔の公園の事。有名人に会った事。桜庭先輩の愚痴をこぼして。そして二人の結論をある程度交えながら、筧先輩にも尋ねようと思う。博学の士として右に立つ者はいない筧先輩にこそ期待していて、実は最初から決めていた行動。本日三回目の質問。若さの発露は恥なれど、聞くは一時の恥……というのは使い方が違うかもしれないけど。とにかく。
勝てない相手に勝ちたい時、どうしたらいいですか。を、尋ねる。
それを受けた筧先輩は小さく感嘆を口にしながら私の目を見て、至極簡素な答えを返した。
「時間が解決してくれるんじゃないか。それと、この本」
と言って山の中から一冊取り出し、差し出してくる。分厚い大判のハードカバーだった。
どこか肩透かしの返答を受けて、曖昧なお礼を言った後、普段の活動に戻った私達。
いつも通り下校時間を告げる放送が流れたのを聞いて、戸締まりをするから先に帰れと促す筧先輩に、それではお先にと挨拶し部室を出た。思えばいつでも私より先に部活へ来ていて、私が先に帰るものだから、部室の外で筧先輩に会ったことが無い。どころか、図書館から本を調達する行為すらいつの間にか済ましているので、部室から出た所すら見たことがないかもしれない。図書館に住んでいるんじゃないか?という疑念が鎌首をもたげたが、ちょっと考えてから否定した。冗談じゃない、と一笑に付せない辺りが筧先輩の恐ろしいところだ。まあそれも、いずれ鍵を貰える日が来たらきっちり解るだろう。今は気にせず今日の食事に思いを馳せ、私が住む弥生寮へと歩き出す。
にしても借りた本が嵩張るし、重い。たかだか本一冊が持ち運べないほどの箱入りを自称する気もないが、体力が不安なのも間違いなく、できれば持ち歩く本は文庫判が良かったのだけど。とは言え自分が相談を持ちかけ、その回答として手渡されたものだ。わかりましたありがとうございます、でそこらに放っておけるほど神経は太くないし、これ文庫化してないんですか?、で突っ返せるほど恥知らずでもない。どちらの行為でも筧先輩は顔色一つ変えないのは容易に想像できるけど、自尊心というか、良心の問題だ。
いくら自分の正当性を主張しても、ぱんぱんのトートバックは遠慮せず肩に紐を食い込ませてくる。とっくに日は落ちていて、構内であり、街灯が立つとは言っても薄暗い道。あまり長居をするべきではないのはわかっていても、そろそろ限界である。ベンチでちょっと休んでいく事にした。少しでも明るい所にしようと、明かりがついた掲示板の近くに座る。なんとなしに目を向けると、学内でバザーが開かれるとか、演劇科の講演会だとか、そういった通知の中にひときわ堅苦しい紙面の、だからこそ目を引く一枚があった。
学内路面電車運行再開のお知らせ。
目についたので頭から終わりまでちゃんと読んで、理解して。
もう一回読んで、内容を把握して。
私は、笑った。人目をはばからず、お腹を抱えて、涙を流しつつ笑った。
こんなものか。こんなものなのか。
筧先輩の言説に納得する。私が動こうと動くまいと、何を考えても何も考えなくても、世間は動く、世界は回る。
すべてわかっていたような、狙い済ました一撃。
ああ面白い。なんて下らない。こんなにも完璧なのか。こんなものだ。
私はいつまでも、いつまでも笑い続けた。
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「なんていうのはどうです?ラッシュ時線路内への立ち入り自粛と、整列乗車の呼びかけにかこつけて、好かれはしても威厳の足りない生徒会長の偉大さを知らしめ、ついでに未だ悪い噂の残る筧京太郎痴漢事件の真相を匂わせ、最後に新メンバーであるさよりちゃんの宣伝すら兼ねる。一石で何鳥落としてるんだ!って感じでしょう」
「表現者が作品をプロパガンダに利用したらおしまいだぞ。あと、悲しき熱帯は旅行記だ」
「ふうん。私、怖いんだ。そう、わかった」
「私は初孫ができたおばあちゃんか!いくらなんでもここまで甘やかしたりはしない!」
「そりゃあ膝からさよりちゃんを下ろしてからじゃないと説得力が無いだろ……あと、ねえ、俺の出番は?」
「ここまで間違った認知をされるくらいなら、出番なんて無い方がマシですよ」
「佳奈ちゃん、ひどい……」
口上でこそ責め立てるようなものだったが、場の空気は終始和やかだ。これもまた日常の風景たる悪ふざけ。それを理解していない者はこの場にいない。
けちょんけちょんにされた少女が嘘泣きをしながら謝り、ヤケなフリで印字されたペーパーをシュレッダーにかけるのを尻目に、一人の女生徒がこっそり生徒会室を後にする。それを目にした京太郎は追いかけ、廊下に出た。
先んじて退室した女生徒――小太刀凪は、引きつった笑みを浮かべていた。
「どうした。出番が無いのがそんなに不満か?」
「違うわバカ。……ねえ筧、あんた、あいつに羊飼いの事、話した?」
「いや、話してないぞ。俺も色々やらかしたし、察しくらいはついてるかもしれないけどな」
自らの失敗をなんでもないように話す。それは彼の過去を知る者にとって、とんでもない事件なのだが、今やそれを取り立てて騒ぐものはいない。
「じゃあ、あの子、筧に似てるって話じゃない。あんたと私、二人が抜けた補填として、スカウトされたって可能性は?」
あまりの発言に目を白黒させる京太郎だが、それはすぐに否定する。
「いや、それはないだろ。俺と佳奈すけが似ていたっていうのは過去の話だし、そもそもそれは発露した結果だけだ」
利己のための利他と、利他のような利己。ここが食い違ってしまっては、羊飼いとしては見込まれない。むしろ白崎つぐみと同類で、一番遠いとすら言える。弥生シスターズの名は伊達じゃない。
「じゃあ偶然って事?はあ~、これだから天才はおっそろしいわ~」
「……おい、まさか」
何かを察した京太郎と、同調して頷く小太刀。
「そ、『あの朝』もし何らかの形であんたを数秒足止めしたり、白崎の目をあんたと合わさなかったりしたら。『こうだった』という可能性、ドンピシャ」
もう私も大分うろ覚えだけど、たしかね。そう言う小太刀と、それを聞く京太郎は二人して眉をひそめた。悪寒に支配されそうな空気を無理やり打開するため、京太郎は極めて明るい声を出す。
「まあ、起きなかった事だ。過去は羊飼いだって変えられない。そうだろ?そんな事よりさ、一個気になるんだけど、聞かせてくれよ。小太刀だったらどうする?」
勝てない相手に勝つ方法を尋ねる京太郎に、小太刀は人を小馬鹿にしたような態度で即答する。
「はあ?ばっかじゃないの。他人を頼ればいいのよ。あんたたちはいつだって、そうしてきたじゃない」
答えを聞いた京太郎の顔は、とても満足気だった。
路面電車は、今日も学園を回る。
御閲覧ありがとうございました。
この作品にドハマリして自律神経が狂い、熱出したりゲロ吐いたりもした私ですが、なんとか二次創作が書ける所まで持ち直しました。
次回作がありましたら、その時もまたよろしくお願いします。
失礼します。