「どうしたメリー? こんな時間に珍しいな」
夕飯を食べ終わってごろごろと寝転がりだらだら生活の醍醐味を謳歌していた俺は、かかってきた電話の相手にそう言って、椅子に座りなおした。……いや、珍しいというよりも初めてか、メリーがこんな時間に電話をかけてきたのなんて。だっていつもいつも昼間から夕方まで、午後まるまるを一緒に話してたもんな。
それが俺とメリーの関係だと思っていたから、なんとなく新鮮だ。
「なんだよ、一人が寂しくなって話し相手が欲しいのか?」
つまり俺のその言葉は、どちらかといえば照れ隠しみたいなものだったのだろう。メリーがいつも以外の時間に電話をかけてきてくれたことが嬉しくて、それを知られないためにからかってやろうと思ったのだ。
だから。
『こんばんは、アキラさん。……そうなのです。いっしょにお話ししませんか?』
……その言葉には、なんとはなしの違和感があった。メリーというやつは、ここまで素直な少女だっただろうか? もっと恥ずかしがりで、意地っ張りで、もっと……
──いや、そうじゃないか。俺が本当におかしいと思ったのはそんなことじゃなく、その濡れたような声だった。いつもと変わらないメリーの声なのに、その声は艶やかなまでの湿り気を帯びている。しっとりと耳の中に入ってきて、ずぶずぶと脳の中に融け入るような。可愛らしい声なのに、その中におぞましいまでに色気を含んだ、媚びるような声。
……明らかに違っていた。
俺の知っているメリーはこんな、相手に包み込んで融かしてしまいそうな声を出す少女じゃない。むやみに元気にあふれた、聞いているだけでこっちまで気分が明るくなるような、太陽の光のような声を出すやつなのだ、メリーという少女は。
そしてその俺の疑念は、次のメリーの言葉で確固たるものへと変化した。
『……そうです、最初からそうすればよかったのです。アキラさん、私と、ずっとずっといっしょにお話ししませんか?』
「……はっ?」
『昼も夜も、ずっといっしょに私とお話ししてください。そうすればきっと、私はもう何も恐れずに済むのです。あなたさえいればきっと、私は幸せになれるのです。……どうして、それに気づくのにこんなに時間がかかっちゃったんでしょうか。もっと早くに気づいていればもっともっとあなたと一緒に……』
「ちょ……ちょっと、待て」
俺はその声をとてもじゃないが聞いていられず、メリーの言葉を遮った。
「お前、誰だよ」
『……何を言っているのですか。私ですよ、メリーです。あなたと一緒にたくさんたくさんお話しした、そしてこれからはずーっと一緒にお話しする、メリーです』
「……なんだよ、おかしいな。俺の知ってるメリーってやつは、こんなに俺にデレデレじゃない、ツンデレ可愛いじゃじゃ馬な制御の効かないやつなんだが」
……イライラする。なんだか、もの凄くイライラする。
俺はもともとあんまり短気じゃないはずなんだが、今回に限ってどうしてまた、こんなにもイライラするのだろうか。何がイライラするんだかはっきりとはわからないが、とにかくイライラする。
そのイライラを押し込めて、俺はメリーに聞いた。
「……おい、メリー」
『はい、なんですかアキラさん?』
「聞こえないんだけどよ、歩く音。……どうした?」
『ああ──もういいです、あんなの』
「……あ?」
一応。あくまでも一応のこととはいえ、そのときの俺には確かにまだ、メリーと冷静に会話しようと考えるだけの心の余裕があったのだ。
だが。……その言葉は、駄目だった。
自分の心の抑えが外れていくのがわかる。
「おい、もういっぺん言ってみろ」
『……もういいのですよ。だって、そうでしょう? 歩くなんてやめてしまえばいいのです。メリーさんなんて諦めて、あなたとずっとずーっとお話ししているのです。だってそっちの方がきっと、ずっとずっと楽しいのですから。ねえ、アキラさんもそう……』
「ハァ?」
ぷちん、と頭の小血管が切れる音がした。
「お前、ふざけんなよ」
『ふざけたことなんかじゃありません。私はもう……』
「だから。それがふざけていると言ってる」
『……っ。関係、ないでしょう。私がメリーさんをやめても、私がメリーさんを諦めても、アキラさんには関係なんて』
「大ありだ。……おいお前、馬鹿にすんなよ? 俺の友達の、大事な大事な友達のメリーは、諦めるなんてやわな根性してねぇよ。……お前、誰だよ。諦める? そんなことをほざくメリーを、俺は知らない」
『……なんで、そんなことを』
「あぁ!? 言わなきゃわからねえか!?」
俺は怒鳴っていた。こんな腑抜けたメリーは俺の知ってるメリーじゃない。
……俺にだって分かる。人が自分の思っているのと全く違ったことを言ったからって、それに怒り出すのは理不尽だってことくらいは。……でもさあ、理不尽だろうがなんだろうが、それでも抑えきれない憤りのことを『怒り』ってんだ。
ただただ自分の感情に従って、俺は怒っていた。
「メリーさんを諦めたお前は、俺の友達なんかじゃねぇ、って言ってんだよ」
『……そん、な』
「反吐がでる。それ以上喋んな。めそめそ泣きてぇならどっか行っちまえ。そしたらもう二度と俺に電話すんな」
『……──っ!』
俺がそう言った瞬間、電話の向こう側から引き攣るような声が聞こえた。
余裕ぶった様子なんてまるでない、今まで縋っていた支えを失ってしまったような。
それだけに切実に、メリーは恐慌に陥っていた。
『……だっ、て。だって、だって、だって、だって、だってだってだってだって! じゃあどうすればいいのですか! もう無理です、もう嫌です! これ以上歩くのなんて、歩き出すなんて、私には無理です! そう、わかってしまったのですから……!』
「……話すならわかりやすく話せ」
『……怖かった、の、です』
メリーは一転して静かな、怯えたような声でそう言った。
『……事故に、あって。車が、ぶつかりそうだったのです。怖かったのです、もし本当にぶつかっていたらと考えると、もしあの子を助けられなかったらと考えると、もし私だけ助かってあの子の死体を見ていたらと考えると……! ……怖くて怖くて、もう二度と歩くことなんてできないのです』
「……」
『……同じ死でも、おじいちゃんの時はこれほどに怖くなかったのですよ。あの人は最後の最後まで生ききって、最後は笑っていたから。私を見て、笑って、くれたから……!』
「……」
『知らなければ、よかったです。この世にこんなに理不尽な恐怖があるなんて、知らなければよかったです。私の目の前で、私が何もできずに死んでしまうかもしれない命があるなんて、知らなければよかったのです。そうすればきっと、私は歩き続けていられたのです。……でも、知ってしまったから、私は、知ってしまったから。だから……無理、なのです』
「……そうか」
その言葉を聞くうちに、俺の頭は冷えていた。
……何があったのか、詳しくは知らん。知ったとしても、それは俺にとっては理解しきれない何かなんだろう。けれども今、電話の向こうのメリーという少女は確かに怯えていた。どうすることもできない絶望があるのだと知って、恐怖に震えていた。
……俺にはやっぱり、空気も人の心も読めないようだった。
メリーが何を思ってそう言ったのか聞き出そうとするんじゃなくて、ただ俺がメリーの言葉を認めたくなかったから怒鳴ってしまった。
失敗だ、と思う。だがだからこそ、俺のできることをしてやりたい、とも思う。俺は精一杯、俺にできる限りの慰めの言葉をメリーにかけようとして……
『……きっと、駄目な私が頑張ろうとしたのが駄目だったのですよ』
出かかっていた言葉が、止まった。
『もともと都市伝説ですらなくて。出来損ないのダメダメで。いっときの感情だけに流されて。身の程知らずに心を躍らせて』
「……おい、黙れ」
『無駄に頑張っちゃって、馬鹿みたいですよね』
「黙れ」
『──こんな私を、せめて笑ってください』
ガン、と大きな音がした。俺が立ち上がり、座っていた椅子を蹴り飛ばした音だ。
ブヂン、と頭の中で音がした。俺の頭の血管が二、三本纏めてキレた音だ。
あーーーーー……知らん、もう知らん。こいつが言ってることなんざ一切合切知らん。アホがアホなこと喋りやがって。馬鹿なのか? 知能が無いのか? どうして俺をこんなに怒らせることができる? ……いやいや、狙ってやっているとしたら大した策士だ。本当にもう、どうしようもないクソッタレが。
俺は深く深呼吸し、空気を肺いっぱいに吸い込み、思いっきり声に変えて吐き出した。
「この、馬──────ッッ鹿ッッが!!!!」
『へっ? えっ? ……え?』
「馬鹿! 馬──ッ鹿! ああーーっ、イラつくムカつく腹がたつこのクソアホが! 本っっっ当にメリーってヤツはこの大大大大大馬鹿が!」
『え? ……へっ!?』
困惑するメリーに言いたい放題に罵詈雑言を投げつける。
「常日頃からアホだアホだとは思っていたがここまでとは思ってなかったよこの馬鹿めが! どうしてその結論に至る? どうしてそんなふうに考える!? 客観的視点ってやつをほんの一ミリでもいい、持とうと努力しろやこのクソ馬鹿メリーが!」
『なっ……なっ!』
「どうせ空っぽの頭だろすっからかんにして何も考えんな考えたってどうせゴミみてーな結論しか出てこねぇに決まってるよバーカバーカ! あー無理無理無理だよなどーせつるっつるで鏡よりもぴかぴかの脳みそにゃ俺の言葉も聞こえやしてねえだろ!?」
『何、を。何を、言うのですか……!?』
メリーの声に怒りが篭った。
知らんわ勝手に怒れや。
「何度でも言ってやるよクソボケ! お前は! 馬鹿なの! 頭悪いの!」
『か、勝手なことを……!』
「なんだよいっちょまえに怒るだけはできんのかよ判断能力ゼロのみんなにつられて赤信号渡るちゃんでも! そりゃ大層なことだよ小学校からやり直してこいバーカバーカ!」
そう言った後に聞こえてきたのは、初めて聞く声だった。
『……ふざけないで、ください!』
……メリーの怒鳴り声だ。
『勝手なことを、どこまでも勝手なことを言って! どうしてそんなことを言うのですか、どうしてそんなことを言えるのですか!? ……私、頑張りました! 頑張って頑張って、太陽が昇っても沈んでも歩いて、たった一人で寂しくても泣かずにひたすらに歩いて! ……でも、それでも! それでも、怖いのに! 怖くて怖くてたまらないのに、どうしてアキラさんにはそんなことが言えるのですか!?』
俺はフン、と鼻を鳴らした。
お前はそこまで理解していながら、どうして一番肝心なことを理解していない。
『アキラさんに私のつらさがわかりますか!? アキラさんが私のことを理解できますか!? ……無理です、無理ですよ! だってアキラさんなんて、何にもしていない! 家に篭ってダラダラしてるだけの駄目な大学生じゃないですか!』
俺はガシガシと頭をかく。
……そーだよ。そりゃ俺はそういうやつさ。
でもな。
『アキラさんなんかに! ……頑張ってないアキラさんなんかに、私のことなんてわからないでしょう!?』
──それでも俺には、お前に見えないものが見える。
全部吐き出してぜぇぜぇと息をするメリーに、叫ぶ。
「だからこそだよ、この馬鹿メリーが!」
『……っ!?』
「いいか、よく聞け。……お前の言うとおりに俺はただの大学生だ。適当に生きて適当に暮らして、適当に大学に通ってるよ。だからお前のつらさは欠片もわからん、わかろうという努力なんざしてない! そもそも頑張るなんて言葉を親の体に忘れてきた俺みたいな男がお前に共感なんてできるはずもない、そりゃ当たり前だ! ……でもな!」
知ってるよ。メリーに言われなくても知ってる。
俺は中途半端なヤツだ。
夢も情熱も目的もとっくの昔にどこかに忘れてしまって、ちゃらんぽらんになんとなく、体が死んでないから生きている。そんな男だ。
当然、志なんかないし、ご立派な信念も持ち合わせちゃいない。大学には親から仕送りをもらうために行っている、くっだらねー男だ。
そして俺はそれを自分でそれを知っているから──だからこそ。
……なおさらに、思うのだ。
「
メリーに、ただただ思っていることをぶつける。
「目的のために、なりたいもののために、日本を歩き通す……!? アホか! そんなこと、俺はできん! お前はアホか! そんなに頑張れるとか、アホか! 俺にはお前の真似なんてできないしするつもりもない!」
本当にメリーは馬鹿だ。
どうしてわからない?
こんな、俺にさえ簡単に理解できる事実が。
「──だから! お前はすごいんだよ!」
『……え』
「一日くっだらねーことにうつつ抜かして死んでるみたいな生きかたしてる俺なんかより、俺の知ってる他の誰より、メリーはずっとずっとすごくて頑張ってる奴だ! 俺ですらそれを知ってんだよ! ……なのに、なのにだ! どうして、お前は自分で自分を貶める!? おかしいだろ、そんなのダメだろ! ざっけんな、メリーを馬鹿にすんな! メリーの努力は絶対に無駄なんかじゃねぇよ! だから、だからさ……!」
頑張ってないやつが頑張ってるやつにこんなことを言うのなんて反則かもしれないが、それでも。
「お前は、諦めんな! 諦めてんじゃねーよ、メリー!」
俺の勝手な言い分に、メリーは何も言わなかった。
数十秒たってから、ぽつりと呟く。
『……ありがとうございます、アキラさん。あなたがそう言ってくれるだけで、私は報われました。これまでが無駄じゃなかったって、そう思えます。……けど』
「……けど、なんだよ」
『私は、そんなに強くないのです。もう私はメリーさんになることを諦めて、とっくに折れてしまっているのです。だからアキラさんにそう言ってもらう価値なんて……』
俺はそれを聞いて、ため息をついた。
「嘘じゃねえけど、本当でもねえだろ、それ」
『……本当のことなのです。私はもう』
「メリーさんになりたくない、って言ってみろよ」
『で、ですから。私はもう、メリーさんになろうなんて……』
「違う。『メリーさんになるのを諦めた』じゃなくて、『メリーさんになりたくない』って言ってみろよ」
『……簡単なことじゃないですか。私は、メリーさんになんて、なりたく……』
電話の向こうが沈黙する。
メリーはその後の言葉が、言えなかった。
「ほらよ、やっぱりだ」
『……ち、違います。言えない、なんてそんなこと』
「違わねえよ。いいか、はっきり言ってやる」
どうして俺にすらわかることが、メリー自身にはわからないのか。
……本当、どれだけ不器用なやつなんだよ。
「お前、メリーさんになりたいんだろ」
『……』
「だってお前、メリーさんになるのが嫌になったとは一回も言ってねーしな。メリーさんになりたくないんじゃなくて、歩き出すのを怖がってるだけだ。自分が無力だから、そんなくだらない理由で諦めようとしてるだけだ。誰かを笑顔にしたいってお前の言葉は嘘じゃないし、嘘にできない。……そうだろ?」
『……そうだと、しても』
返ってきたメリーの声は、泣きそうだった。
『無理なものは、無理なのです』
メリーは澱を吐き出すみたいに、言う。
『もう私、頑張れないのです。これまで憧れだけで辛くても進んで来ました。でも、もう無理です。……アキラさんは、私がまだメリーさんになりたいと思っている、と言いました。……ええ、その通りなのですよ。私はメリーさんになりたくてなりたくてたまりません。まだこの憧れは、私の中から消えていません』
でも、とメリーは言った。
『でも、それでも……私は諦めたのです。憧れでは乗り越えられない、恐怖があるのです。だからもう私は、無理です』
「……もう、憧れのためには頑張れないってか?」
『……はい』
その静かな、けれど確かな重みを伴った声に俺は息を呑む。
願い──メリーさんになりたいという願い。
もどきじゃない、偽物じゃない、本物になりたいという願い。それこそがきっと、メリーを構成するもので、メリーそのものなのだ。その一番大切な部分が今、折られようとしている。
まだ、完全に折れてはいない。けれどもこの様子では遠からず折られてしまい、二度と取り返しがつかなくなる。……それは、ただの予感だ。霊感もないその辺の人間である俺の、ただの予感でしかない。けれども同時に、それは確かに当たっているのだという奇妙な確信があった。
だから俺は、メリーに言った。
「……いいかメリー。俺は今から自分勝手なことを言う」
それは俺の勝手な望みで、メリー自身それを望むかなんてわからない。でも、それでも俺は、メリーにメリーでいてほしい。
だから……メリーに諦めさせない。諦めさせて、たまるか。
「今だけでいい。……俺のために頑張れ」
『……え?』
何を言っているのかわからないという様子のメリーに、言葉を重ねる。
「もう自分のために頑張れねえってんなら、俺のために頑張れ。お前に感動した俺のために、諦めんな。……頼む。頼むから」
しばらく沈黙が続いて、ややあってからメリーが言った。
『頑張れ、と言うのですか……? もうこんなに辛いことをやりたくない私に、それでもアキラさんは、頑張れって……』
「ああ。俺のために頑張れ。俺のためにメリーさんになってくれ。俺は、どうしてもお前にメリーさんになってほしい」
『……か、勝手じゃないですか。そんなの、アキラさんの勝手じゃないですか!』
「そうだ。……俺が勝手な奴だってことは、俺が一番知ってる」
『……どういうこと、ですか?』
俺はちらりと腕時計に目をやる。
……十時間、ってとこか。
メリーの言葉に答えずに、一方的に言い渡した。
「悪いが電話はここで終わりだ。ちょっとした野暮用が入った。……じゃあな」
『ア、アキラさん? ……アキラさん!?』
通話終了をタッチする。
メリーから電話がかかってくるが、今は無視だ。
俺は壁にかかっていたメッシュジャケットを着込み、財布から数枚の紙幣を取り出してポケットに突っ込んだ。小物入れからキーを取り出し、フルフェイスのヘルメットを持ち出して駐車場へ急ぐ。
そこに停まっているのは最近とんとご無沙汰だった、遠出用のバイクだ。キーを差し込んでイグニッションキーをオンにし、エンジンをかける。
「──ちょっと待ってろメリーさん見習い」
夜の街に排気音を響かせながらバイクで走り出す。
目指すのはもちろん、あのアホな都市伝説のところだ。
「