やっと和谷を出してあげられました☺
「ヒカル、おかえりなさい」
「ただいま」
「パソコンが届いたわよ。いろんな設定は業者の人にやってもらったから、すぐに使えるわ。ヒカルの部屋に…」
ついにパソコンが届いたらしい。
「ありがとう!」
美津子が言い終わるのを待てず、ヒカルは急いで自分の部屋に向かった。
パソコンを起動し、早速ワールド囲碁ネットのページを開いた。顔も知らない相手と打つのはかなり久しぶりである。この時をずっと待っていた。アカウントを作ってログインする。“向こう”で使っていたパソコンよりも随分古い型だが、それでも十分だった。ハンドルネームは“sai”。
(佐為の名前を背負う以上、敗北は許されない)
この時代であれば、ヒカルは世界でトップクラスの実力と言ってもいいだろう。頭の中には未来の棋譜も記憶されている。“向こう”のアキラとは共に切磋琢磨してきた。確実とは言えないが、簡単には負けない。だからといって弱い者いじめがしたいわけではない。相手の棋力に合わせて指導碁に切り替えるつもりだ。
「対戦を申し込んで、っと」
相手は誰でもよくて、とにかく誰かに知ってほしかった。記憶に残してほしかった。佐為が、佐為の碁が、確かに存在していたことを。そのために“こっち”に来てから、あかりと共に自分の碁を高めてきたのだ。持ち時間は30分、コミは5目半。相手が承諾したので対局を開始する。最初の相手は対局が少し進んだところで、打ち筋から初心者だということに気づいた。早速指導碁に切り替える。
初心者相手の置石なしでの指導碁は、真剣な対局とはまた違う難しさがあるように思う。 “前回”のこの時期、佐為との棋力の差は天と地ほどあった。そのくせ、手加減されるのも、指導碁にされるのも嫌がっていた。始めたころの自分を思い出して、知らないうちにヒカルは笑みを浮かべていた。
(佐為、打ちにくかっただろうなあ)
佐為がいなくなってからというもの、今の自分との差はどれぐらいだろうかと幾度となく考えたが、その度に再戦を希う。しかし、それが叶うことがないのはとっくに分かっている。ヒカルにできるのは、こうして遠い過去と遠い未来を繋ぐこと。優しく手を引くように、次の一手を導く。あの頃の佐為が、自分にしてくれたように。
ネット碁をはじめて2週間ほど経つと、saiの噂は広まりつつあるようだった。対局を申し込まれる数、観戦者の数は日を追うごとに増えていく。対戦相手からのチャットは無視を決め込んでいる。
「なあ進藤、この後何か食べに行かないか?」
「いいぜ!オレも腹減ってるんだ」
入学式の翌日から放課後に毎日少なくとも一局、三谷と打っている。こうして、2人で遊びに行くことも珍しくない。友達と言えるような関係になっていた。囲碁部に入らないか、と勧誘があったが2人とも入部しなかった。プロではなく学生という立場上、囲碁をずっとやっていられるわけではないが、ヒカルは毎日が充実しているのを感じていた。
「ヒカル、最近楽しそうだね!何かいいことがあったの?」
つい頬が緩んで、あかりに気づかれてしまうぐらいである。
「まあな。そういえば、院生試験の申し込みは終わったのか?」
ヒカルはなんだか恥ずかしくなって話を逸らした。
「うん、7月に受けるの!」
あかりが院生になり、プロ試験に合格すればきっと2人でいられる時間は少なくなるのだろう。寂しい反面、あかりのこれからの活躍が楽しみである。
ヒカルはある日、見知った名前を見つけた。
「zelda…もしかして和谷?」
急いでzeldaに対戦を申し込んだ。
その頃、和谷はパソコンを前に固まっていた。
(強い!もしかして、師匠以上…?)
そこまで考えて和谷は頭を振った。これだけ強いのにプロの中で思い当たる人物は出てこない。強いのは分かったが、どのくらい強いのか分からないぐらい圧倒的な力の差。しかし苦しいだけの碁ではなく自分の力も底上げされるような感覚だった。余韻に浸っているとチャットが来た。ツヨイダロ、オレという文字。saiは相手からのチャットに返信しないという話は有名だ。一体何者だろうか。saiがいなくならないうちに返信する。その後、saiは画面上から姿を消した。
「ダレダ、オマエハ?オレハインセイダゾ…本当に和谷だ」
懐かしさで笑っているのに、なんだか泣いてしまいそうだった。院生のころからずっと、和谷はヒカルの友人だ。和谷の有難みに気づいたのは、一体いつだっただろうか。彼と出会って随分後のことだったような気がする。もう、“こっち”の和谷と親しくなるのは難しいだろう。ふと、“向こう”に戻りたいと思ってしまった。
それからも国を問わず対局を重ねた。中にはプロらしきユーザーもいた。勉強が疎かになってはパソコンを使わせてもらえなくなるかもしれないので、ネット碁は学校から帰って2時間までと決め、後は勉強に時間を使っている。優等生でいると、何かと都合がいいのだ。この時のヒカルは、あかりがsaiの存在によって厄介ごとに巻き込まれるとは思っていなかった。
あかりが院生試験に合格し、はじめて手合いに参加したときのこと。
「なあ伊角さん、新しく入ってきたやつの対局見たか?」
「あの子がどうかしたのか?」
「それがさ、打ち筋が似ているんだよ。saiに」