歩いて10分程経っただろうか。付近で祭囃子のような笛の音色が聞こえる。小さな神社が目の前にあるが、そこからではないようだ。引き寄せられるように音の発生源へ向かうと、木造の古い古民家があった。看板には“篠笛工房 響”と書かれている。
(こんな店、この辺にあったか?)
以前は囲碁に夢中だったせいで見落としていたのかもしれない。
(本当に、色んなものを見落としていたよな。大事な事まで)
自分へ向けられた優しさ、愛情、二度と戻らない時間。両手に掬い取った水のように隙間からすり抜けたものは多い。大事な事が見えていなくて、上手く受け取れなくて、相手を傷つけた日もあった。いつでも失ってから気付くのだ。これまでは手に残ったものを大事に抱きしめているばかりだったが。
(オレも、誰かに与える側になりたい)
いつの間にかそう思うようになっていた。あかりへ本格的に囲碁を教えるようになってから、その想いは更に膨らんでいた。そんな時にここへ来たのも何かの縁かもしれない。ヒカルは入口へ向かった。
入口は開いておりそっと覗いたが、見える範囲に店主の姿は見えなかった。陳列棚には沢山の篠笛が並んでいる。7本調子、8本調子、ドレミ調、古典調等の聞き慣れない単語が並んでいた。ヒカルには篠笛の色以外が全て同じように見えるが、それぞれ違うのだろう。
(あれは…)
店内をぐるりと見渡している途中で、奥に碁盤を見つけた。埃1つ被っておらず、よく手入れをされているようだ。暫く眺めていると笛の音が止んで、60代ぐらいの男性が現れた。
「おや、いらっしゃい。珍しく若いお客さんが来てくれて嬉しいよ」
ヒカルを見て驚いた顔をしたものの、優しく微笑んで迎えてくれた。
「笛の演奏が聞こえたから、気になって来たんだ」
「ありがとう。ここにあるのは篠笛っていう楽器で、平安時代にはもう広まっていたんだ」
「平安時代…!」
佐為も演奏していたのかもしれない。もしそうだとしたら、どんな音を、旋律を奏でただろう。そう思うと興味が湧いた。
「吹いていくかい?ああ、買わなくても良いから」
「…お願いします。初めてだけど良い?」
「大丈夫。若い人が見に来てくれただけでも嬉しいよ。私はここの店主で志水健三といいます。どうぞよろしく。君の名前を聞いても良いかな」
「進藤ヒカル」
志水はヒカルが来て喜んだ理由を教えてくれた。全国で篠笛奏者の減少に伴い、地域の祭りも消滅しているらしい。
「それじゃあヒカルくん、こちらへどうぞ」
清水はヒカルを椅子に座らせ、棚から数本の笛を持ってきた。
「ここにあるのは全て私の手作りだ。口元の形が少しずつ違うから、吹いてみて音が出やすいものを探してみよう」
言われるがまま試奏する。一本目は息が抜ける音だけした。
「大丈夫。最初は音が出ない事も多いからね。どんどん試そう」
5本目に漸く音が出やすい笛を見つけた。
「これが一番良さそうだね。簡単な音から出してみよう」
暫く練習すると、いくつかの音が出るようになった。
「今日はここまでにしよう。疲れただろう」
「思ったより疲れたけど、いい経験が出来たよ。ありがとう。楽器を演奏するのって意外と体力使うんだね」
「最初は皆そうだ。段々慣れて来るから。喉が渇いただろう。お茶を用意してくるよ」
志水はそう言って立ち上がった。その後すぐに小学校低学年と思われる男の子が入ってきた。
「爺ちゃんいる?今日から囲碁教えてくれるんでしょ?」
「こんにちは。お茶を用意してくるってさ」
「びっくりした!こんにちは。お兄ちゃんは誰?僕は健吾」
来訪者がいるとは思っていなかったらしい。きちんと挨拶の出来る良い子だ。
「オレの名前は進藤ヒカル。今日初めてここに来たんだ。オレも囲碁やってるんだ。一緒に打たないか?」
ヒカルは持ち歩いていた折り畳みの碁盤を出しながら声を掛けた。
「お兄ちゃんが教えてくれるの?ありがとう!」
「ルールは分かる?」
「ううん。まだ全然分からないよ。今日から教えてもらう約束だったから」
「分かった。じゃあまずは場所の名前から説明するよ」
最初から教えるのは健吾が2人目だ。あかりに教え始めた時を思い出しながら説明した。
「オレたちはこの碁盤の上で神様になるんだ。この黒い点の名前は星。石を置いて自分の宇宙を創っていくんだ」
「神様?」
「そう!」
以前はタイトル争奪戦のようなギラギラした目を相手にする事が多かった。そんなヒカルには、健吾の純粋で輝く瞳が新鮮で眩しい。浄化されそうだ。碁盤の各部位と基本的なルールの説明が終わったところで志水が戻って来た。
「健吾、来てたのか」
「うん。爺ちゃんがいない間に、お兄ちゃんが囲碁を教えてくれた」
「おや、君も囲碁が打てるのかい。ありがとう。良ければ私とも打ってくれないかね」
「うん、オレもしたい。健吾、さっきの説明を思い出しながら見てて。石の流れを見るんだ」
「分かった!」
志水は折角だから、奥にあった碁盤を持ってきた。
「立派な碁盤だね。志水さんが買ったの?」
「いいや、従弟からの贈り物だ」
「その人も囲碁をやってるの?」
「うん。私よりずっと強くて、今じゃ手が届かないね。強くなったけど、ライバルと言える存在がいないみたいで少し寂しそうだ」
ヒカルは嫌な予感がした。大体こういう時の勘は当たる。きっと送り主の名前も聞かない方が良いだろう。
「…その人には、今日の棋譜を見せないで欲しい」
「それはまたおかしなお願いだね。分かったよ」
志水は不思議そうな顔をしながらも承諾した。
「志水さんの棋力はどれぐらい?」
「アマ7段だよ。8段の壁が高くてね。ヒカルくんは?」
「オレは…タイトル取れちゃうぐらいかな」
「ハハ、それは凄いや」
タイトルが取れるぐらいだなんて、冗談だと思っていた。志水は指導碁をしようと考えていたが、その気持ちはすぐに吹き飛ぶ事になった。
志水はヒカルが不思議でならなかった。碁盤を挟んで座ると別人のような印象を受ける。外見こそ幼いものの、浮かべる表情は穏やかで大人びた印象。年の割に落ち着いているが、時折古い手を打ってくる。でも打ちやすい。次に打つべき場所が見えてきて、普段より対局のペースが速くなる。いつもより上手く打てている。そして途中で気付いた。
(もしかして、私が打たされている?)
これは指導碁だと気付いた時、夏にもかかわらず鳥肌が立った。志水は間もなく投了した。
「爺ちゃん、ここで止めるの?」
暫く呆然としていたが、孫の声で我に返った。
「差が大きくなった場合や、逆転の可能性がないと分かったら終わるんだ」
「最後までしないんだね。バスケとかは最後までするのに」
「うん、上手な人ほどそのタイミングが分かるようになる。健吾の爺ちゃんはそれだけ上手いって事だ」
ヒカルも目算は苦手だった。あの頃が懐かしい。
「健吾も少しやってみようか」
見ているだけではつまらないだろう。自分もそうだった。健吾はこの対局を最後まで真剣な目で見ていた。それだけでも十分素質があるとヒカルは思う。
「うん!」
「まずは石とりゲームをやってみよう」
朝にここへ来たが、気付けば時計の針は12時を指していた。
「もうこんな時間だ。今日はもう帰るよ。ありがとう、志水さん」
「ああ、ヒカルくん。今日はありがとう。これを君にプレゼントしたいから受け取ってくれ」
志水は思わず篠笛をヒカルに手渡していた。
「ハハ、それじゃあ笛を教えてもらったお礼にならないよ」
対局中の空気とは打って変わって、ヒカルはあどけない笑顔になって言った。
「いいや、今日はそれ以上のものを受け取ったよ。8段の壁が越えられそうだ。良かったら、また打って欲しい」
どうやら指導碁になっている事に気付いたらしい。
「それは良かった。…また来るから、篠笛教えてよ」
「いつでも歓迎するよ」
「またね、お兄ちゃん!」
「ああ、またな」
思わぬ場所で新たな師弟関係が誕生した。志水は約束をしっかり守ったが、この日を境にヒカルの周囲は賑やかになっていく。