行洋はヒカルの手を握った瞬間に確信した。あまりにも馴染みがある手の感触。まだ小さいが、これは間違いなく碁打ちの手だ。それも長く続けている者の。そしてどこかで聞き覚えのある名前。
(確か、アキラが追い求めていたあの子の名前は)
――進藤ヒカル。
それに気付いた瞬間、行洋は握っていた手を解いてヒカルの爪を見た。ヒカルは反射的に手を引っ込めたが。
(これは…バレたな)
名人が気付かない訳がない。自分はどうしてこうも墓穴を掘ってしまうのか。助けを求めるように志水を見たが、渋い顔で首を横に振った。
「…君は囲碁を打つのかね」
「…嗜み程度に。オレは篠笛奏者だから」
今のヒカルに出来る精一杯の悪足掻きだ。やはり苦しいだろうか。今すぐ逃げ出したい。本当に逃げ出したい。そんな時に救世主が現れた。
「ヒカル!ここにいたの?って塔矢名人!?」
「え、本物?」
「本物だ」
「こんばんは。騒がしくてすみません」
あかり、奈瀬、和谷、伊角が現れた。チャンスだ。
「おー、あかり!と…」
思わず和谷たちの名前を呼びそうになった。こちらでは初対面なので知らないフリをしないといけない。寂しいが、自分が選んだ道だ。行洋があかり達に気付いた。
「こんばんは。院生の皆さんかな。君は新初段の藤崎さんだね。アキラを宜しく頼むよ。ところで、この子が君の師匠かい?」
あかりは急にとんでもない話題を振られ混乱した。言ってしまって良いのだろうか。
「ヒカルは…」
絶妙なタイミングでアナウンスが流れてきた。
「間もなくプログラム一番“篠笛工房 響”様による篠笛の演奏です。出演者の方は舞台へお願いします」
「もうそんな時間ですか。ヒカルくん、行きましょう」
「う、うん。それじゃあ、せっかくだし見てよ」
そう言い残してヒカル達は行ってしまった。
(…気まずい)
先程のアナウンス以降、行洋はそれ以上何も聞いてこなかった。何か考え込んでいる顔をしている。和谷たちも何を話して良いか分からないようで沈黙が続いた。
(早く始まって!)
数分がかなり長く感じられたが、いよいよ舞台が整ったらしい。助かったとあかりはようやく胸をなでおろした。
あの状況であかりは行洋に話してしまったかもしれない。行洋に聞かれたら嘘はつけないだろう。悪いのは自分なので仕方ないのだが。
(いや、今はこっちに集中だ)
マイクを持って志水が話し始めた。
「皆様こんばんは。“篠笛工房 響”です。本日の演奏は一曲ですが、心を込めて演奏します。この子の初舞台ですので、どうぞ温かく見守ってください。曲名は“灯火”。暗闇の中でも蝋燭や提灯のような灯りが、あなたの未来をそっと照らし続けますように」
ステージ周囲の照明が暗くなり、ヒカルにスポットライトが当たる。人前での演奏は初めてだが、不思議と緊張はなく心は凪いでいる。ここは神社。神々を祀る場所。だったら。
――だったら、オレの神様にも届けばいいのに。
ヒカルは篠笛を構えて目を閉じた。その姿はまるで誰かに祈っているかのように見える。その場所だけ、時間が止まっているようだった。周囲の虫の声だけが時を刻んでいる。始まりの合図は、ここにいる人々を撫でるように吹いた穏やかな風だった。ヒカルはゆっくり目を開けた。唄口から静かな旋律と少し寂し気な音色が流れ出す。そこへ大丈夫だと言うように志水の副旋律がそっと重なって、段々と曲が盛り上がっていく。2人の音は手を取り合って歩き出す。ステージ全体に照明が点いた。
いよいよサビが来る。その刹那、ほんの一瞬だけヒカルの神様が見えた気がした。こちらを少しだけ振り向いて、穏やかな微笑みを浮かべた佐為が。
(!?)
不思議な現象はそれだけではなかった。サビに差し掛かると志水の他にもう1本、篠笛の音が重なったように聞こえて。周囲を見ても演奏している人物はいない。誰も違和感を抱いていないようだ。
(オレにしか聞こえてない?)
ヒカルを支えるような対旋律。自分の願望が作り出した幻覚なのか幻聴なのか。都合の良い夢かもしれない。この際何でも良かった。
(少しだけ会いに来てくれたのかな?)
懐かしくて泣き出しそうだ。この時間を終わらせたくない。それでも曲は進む。高く澄んだ音が叫ぶように空気を揺らす。曲の盛り上がりが最高潮に達した後、いつの間にかヒカルを支えていた音は聞こえなくなっていた。
(お前が遺してくれた灯火を、これからも誰かへ灯し続けるよ)
最後はヒカルのソロで締めくくる。もう大丈夫だと、1人で歩き出すように。最初の出だしと同じ旋律だが、そこにはもう寂しさなくあたたかい音色だった。
曲が終わって暫くは静かだった。少し遅れて拍手の波が来る。泣いている観客もあちこちにいるようだ。
「終わった?」
小声で志水に尋ねた。
「うん、素晴らしい演奏だったよ。練習よりもずっと。ほら、涙を拭くと良い」
「あれ、オレ泣いてたの」
「うん。君の気持ちがお客さん達にも伝わったみたいだ」
自分では気付かなかったが、頬を触ると確かに涙で濡れていた。志水からの賛辞とハンカチを受けつつ舞台を降りる。
「ヒカル、おかえり!凄かったよ!」
「良い演奏だったよ」
あかり達が出迎えてくれた。
「聞いてくれてありがとう」
「ところでヒカル君、この後に時間はあるかね」
余韻に浸る間もなく、一気に現実へ引き戻された。