幸せな過程   作:幻想の投影物

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時間空いたので書けました。


風が吹く

 男が言うなら、それは艶めかしくも惚れっぽい。火傷しそうで手に入れられるからこそ、最後の一歩を踏み出しやすい。女で言うなら、それは羨ましくも妬ましい。自分には持ち得ぬ体は志望の的であるが、持ちえないからこそ気が立つのである。

 ならば―――彼女にとっては? それは着火剤。

 キャンプファイヤーなんかで処理する時、炭火の火は意外としつこく燃え続ける。今か今かと新たな燃料を待って、風が吹けばひと際大きな炎を。木の枝が落ちてくればその枝に合わせた大きな炎を。そして最後は、燃え尽きる。

 そんな娼婦で毒婦で、自覚の無い天然の精神。キュルケという「女」はそれほどまでに完成しつつも足りないでいた。切り裂かれた傷の様に、半ばから折れた鉄の剣の様に。彼女は多少の足りない部分を、持ち前の熱で溶かして男を丸ごと埋めてしまう。これは危険だと、ディアボロは彼女の在り方について危機感を持っていた。

 

 キュルケの視線は熱っぽい。はぁいと朗らかな挨拶をしながらも、ねっとり、溶けたマグマのように此方へとはいずり寄ってくる声色を醸し出す。ベビードールと言うべきか、己の胸を持ちあげる煽情的な下着を含め、それは男であるディアボロを落としにかかっている表れ。これに気付かない者は、よほどの馬鹿か作者の都合で鈍感と言う呪を請け負ったキャラクターだけであろう。

 故に、ディアボロはそのキュルケを浅ましいと一瞥し、何の感慨も抱かない無表情へと戻った。くだらない組織の反逆者を相手にした後と同じような、思い通りにならないむしゃくしゃとした感情が込み上げてくる。だが、今回ばかりは勝手が違う。相手のキュルケはむしろ好意から接しようとしているのだ。

 

「…あら、目も合わせてくれないの。そんなクールな殿方は―――ますます燃えた時の反応が楽しみですわ」

「…………」

 

 ディアボロは考える。だが、スタンドを使ったとしてこの手合いに使い魔と同様の効果は期待できない。

 彼のスタンドはパワーがとてつもなく強い。サラマンダーの場合、鱗の集まる外殻に覆われ、弱肉強食が当たり前の自然の中で頭部と言う物を守護する頭蓋骨は非常に硬い。だからこそ強力すぎる紅の王の手加減した指弾きはギリギリ傷つかなかったのだが、今回の相手は人間。更には主人たるルイズが敬遠する自称「ライバル」のツェルプストーだ。ここでひと悶着起こせば任務は失敗――いや、彼女を部屋に入れてしまった時点で意味を成さない、か。

 困ったものだと、心の中では天を仰ぎ、表面は平静を装って早く帰れと言わんばかりの呆れ半分、脅し半分の殺気を滲ませる。勘違いしてほしくないのだが、ディアボロは勿論、こうして学院と言う目立つ場所で殺すつもりなど禿げ男の頭に残った最後の毛一本たりともない。それは人情や手荒にしたくないというのではなく己が不敬を買う事で一度主と認めたルイズを共に侮辱する結果に繋がってしまうから。

 

 さて。一息つき、ディアボロは先ほどの威圧で更に興奮したように口角を釣り上げるキュルケを見た。いや、実質彼女は興奮している。隠しきれない息の荒さ、下着一枚に過ぎない格好の関節部から滲む汗。横目から見るだけでも、それだけははっきりと確認できる、いや、してしまう。

 

「……まずは服を着てこい。話はそれからだが……ああ、それと先の男どもの騒ぎ。あれらがまた来るようなら、今度こそ力づくで追い出させて貰う」

「ふふんっ。無粋な輩は居ても、見方が変わるだけで太陽の明るさは変わらないのよ。…とはいってもその太陽すら来るのは早いんだもの、少し御話しできれば本望。どうかしら?」

「それで構わん」

 

 結局、ディアボロは折れるという結論を下した。

 余計ないざこざを持ちこむよりかは、キュルケの言葉をとりあえずは信用し、ルイズが戻ってきた時は柔軟な対応で言い訳するしかあるまい。扉に指を示して彼女に退室を促し、ディアボロは自分用に備えて貰ったショー・ケースを開く。

 常温ながらも保管状態のいい酒はそれほど度数の高くない、ルイズ好みの酒。ついでに、酒に呑まれて醜態をさらすことを良しとしないディアボロのお気に入りの品々が揃っている。これらは全て、食堂の手伝いをした時にマルトーが厳選して送ってくれたものだ。こう言う時に限って、人の繋がりと言うのは役に立つ。ディアボロはそんな事を思いながら、一本のボトルに手を出した。

 

「……多少高いが、水で割るか」

 

 とあるリキュールを取り出し、冷水を同時に机へ置く。故郷イタリア発祥の酒と名称が違うだけで中身の同じ「ガリアン」は、この世界に来てからディアボロが初めて飲んだ酒でもあり、向こうと変わらぬバニラの香りは郷愁と絶望、そして世界そのものから弾かれた孤独を癒してくれた。

 しかし、彼は元の世界が一巡し、まったく別の世界へと道を進んでいる事を知らなかった。エンポリオと同じく、運よく助かった人間の一人だと気付く事もない。今となっては一巡してしまったトリッシュさえ、彼の事を知らないのだ。

 

「待たせちゃったかしら。―――あら、ガリアのじゃない」

「そう量も無いが、開けたからには飲んで行け」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 学生服に貴族のマント。

 普段の格好に身を包んだキュルケは、ディアボロの促しで着席するのだった。

 

 

 

 暗い廊下の中を、さっぱりとした表情で歩く女子が一人。

 石で造られた地面を靴が叩き、硬質な音が静寂の中に響き渡る。お化けでも出ようものなら、そんな事を言えば竦み上がるガリアからの留学生がいるが、生憎とこの少女――ルイズは、お化け如きに怖がるような小さな胆力は持ち合わせてはいなかった。

 

「この調子で魔法が出来ればいいんだけどね」

 

 さっぱりとした精神状態、他にも気が昂ぶった時などで魔法の威力は左右される。呪文によってその差はあるものの、こうして落ちついた精神でなら魔法ぐらい成功してもいいだろうに。そんな事を思いながら、ルイズはふっと見えた庭の方へ基本的な呪文を唱えた。

 

「ライト」

 

 だが込めた精神力の量に応じたのか、小さく爆発。

 杖の先が光り、廊下を懐中電灯の様に照らしだせば成功。だがやはりこのコモン・スペルでも失敗するとなると、ルイズの気持ちは少しばかり沈んで行く。一体、自分は四系統のどれなのだろう。母様のような風のメイジ? それとも、だなんて。そんな予想はとっくの昔に何度もしている。

 今はディアボロを呼びだした。この成功と、せめてこの爆発の活用性を見出せば何かが掴めるかもしれない。使い魔にガンダールヴというまさかの伝説のルーンを刻んだ身としては、ルイズはこれ以上なく張り切っていた。でも、空回りする事はもう慣れっこ。

 早く部屋に戻ろう。それに、ガンダールヴというのなら…彼のスタンドを誤魔化す為に武器を買ってあげるのもいいだろう。今度の虚無の曜日の予定を立てながら、彼女は階段を上がろうとする。しかし、はたと庭で死屍累々の男どものピラミッドを見つける。

 

「まぁたツェルプストーの男ども? アイツもそうだけど、こうなるって分かってるのに言い寄る輩も減らないのねぇ」

 

 男どもを囲って何が楽しいのやら。ルイズは知識を持っているが、当然その中には「あちら」の事情的な知も持ち合せている。下手をすれば欲望のはけ口に襲われる危険性もあるというのに、ああも男を侍らせる気持ちが理解できない。まぁ、因縁のある家柄の敵だからどうなろうと知った事ではないが。

 

 そう言えば、と。ルイズはキュルケとの部屋が真正面に位置している事を思い出した。一部焦げた跡のある男もいたことから、お得意の火の魔法で追い払ったのだろう。だとしたら、自分の部屋にいたディアボロや部屋の扉は大丈夫なのだろうか。

 部屋の事を考えた瞬間に嫌な予感がして、ルイズはまた汗を書かない程度に小走りに部屋に向かった。すると、キュルケの部屋の明かりは消えて自分の部屋のドアから光が漏れているではないか。この先に待ち受けている光景に多少の予想を抱きながら、ルイズは敢えて何も気づいていない風を装って部屋の扉に手をかけた。

 

「ただいま、ディアボロ」

「戻って来たか。お前の分も今淹れる」

「あーらっ、いいんですのよミスタ。今はあたしとの語らいの時間、無粋な輩はそこのベッドにでも放り込んでおけばいいわ」

「……アンタねぇ?」

 

 案の定というべきか、ディアボロは大事になりそうな面倒事を回避して長続きする面倒事を引きいれていた。視線を移せば何時か一緒に飲もうとまだ一度も開けた事の無い酒の棚を開き、あまつさえはあのツェルプストーに振舞っているではないか。

 

「ほら、部屋主が帰って来たんだから戻んなさい!」

「やぁねえ。せっかく燃え上がりかけて来たっていうのにね。貴方も、あたしの微熱に手を触れようともしないじゃない。だからね、ルイズ。彼を私の微熱で燃え上がらせるまでこっちが手を出したくなっちゃったのよ。それに見てたでしょ? あのギーシュに本気を出させたうえで打ち勝ったあの雄姿! あたしの炎は今、彼の様に燃え上がっているの!」

「結局いつもの事じゃない! なに、あんたもギーシュ見たいに愛想尽かされるわよ!?」

「いいわよあんな塵芥。あたしの微熱で燃え尽きちゃうような男は男じゃないわ。燃え尽きて、残った金貨だけは貰って行くけどね」

 

 憐れ、ギムリにペリッソン。他、記すも面倒なキュルケに遊ばれた男達よ。君達はただの財布としかみられていなかったようだ! というテロップが流れそうなほどに、キュルケの物言いはハッキリとルイズの部屋に響き渡った。

 その言い方がまた、ルイズはともかく気に喰わない。また反論の一言を上げようとしたところで、ルイズは両肩をディアボロにがっしりと掴まれ、そのまま席に促された。

 

「止めておけ。この女もしばらく好きに話したら出て行くと言っている。とにかく寝る前に喉の一つでも潤しておくといい」

 

 そう言って、コトン。とノンアルコールの一品を彼女の前に置いた。

 シンプルなレモン水である。

 

「あ、ありがと…じゃなくてっ。なんでわたしだけジュースなわけ?」

「寝酒はアルコール依存症の一歩目を踏み出すことになる。ナイトキャップという習慣もあるが、結局は寝るために必要な酒が増えて行く。結局は適度な位が丁度いいが、お前に酒は勧められん」

「ふぅ~ん? 体調管理とかもやってくれるんだ」

「精々が個人的な範囲だがな。……それで、ツェルプストーと言ったか。美味い美味いとたらふく飲んだようだが……」

「…あー、えーっ……し、失礼させていただくわ!」

 

 勢いよく出て行った扉の向こう側からは、美容だのなんだの、乙女らしい悩みの声が絶えず聞こえてくるようになった。騒がしい声は隠し続けてきた一人の「少女」としての一面がむき出しにされたことの証明。ふんと鼻を鳴らして所詮は子供だ、と危機感を捨て去ったディアボロは、ルイズの目線に気付いた。

 

「やるわね」

「だが三時間も経てば酒の効果は薄まるだろう。その代わり、睡眠時間は随分と減るが」

「あ、そうだディアボロ。あんたっていつ寝てるの? 召喚してからずっと起きてる所しか見たことないけど……」

「必要な時に必要な分だけ寝ている。主に食堂の仕事の後位か」

「うわぁ…それって昼夜逆転したりしないの?」

「……さぁな。向こうにいた時はもう一人に体を明け渡している。実質、あの日から一度も眠った事は無いかも知れん」

 

 もっとも、そのもう一人(ドッピオ)も帰らぬ人となっている。

 ディアボロは双子月を見上げ、表と裏でも無い、隣り合って存在していた可愛い部下で在り、同時にいざという時は必ず功績を残してくれるもう一つの人格を思い出す。だが、その過去は幾重にも連なった彼自身の価値観が邪魔をし、振り返る事にすら嫌悪感が込み上げてくる。ならば何故、あの時過去を語ったのだろうか? それは、あのシエスタに言った言葉がそっくりそのまま返ってくる。

 寂しかったのだろう。人のために尽くすと、そのためならより見えない犠牲を厭わないと。そうして心を変えても、いや、変えたからこそ彼は自分を知らない他人を求めていた。そのための過去語りだったのだろう。客観的に、己の日々を眺めながらにそう思う。

 常に自分の中に他人(じぶん)がいた。だから自分は―――

 

「……そうね。難しい話とか、前までの反省とかはどうでも良いわ。あなたは今を生きてる。今、わたしの使い魔として召喚されて、承諾して、あなたの意志でわたしに下っているのよ」

「何度確認するつもりだ。自信がないのか?」

「確認だけど、確定事項。あんた、それ忘れないでよね」

「……分かっている」

 

 つくづく、救われる。

 彼女は一種の到達点。マイナスの過去を乗り越え、常に未来と言うプラスをその手にし続ける求道者。そこらにいるような、生半可な偽物では無いのだ。全てをゼロとし、再出発の礎となる憐れな生贄。ただ、隣に誰かがいなければ輝けない存在だったとしても。

 

「おやす…あ、そうだ」

「どうした?」

「明日の虚無の曜日ね、あんたのガンダールヴを誤魔化す為にも剣を買いに行くから。少し遠出になるから最低限の準備くらいしときなさいよ」

「買い物、か。分かった」

 

 ふむ、とディアボロは頷いた。この学院の外を知れるまたとない機会である。対人恐怖症と言う訳ではないが、未だに彼は必要最小限の接触にするなどの正体を隠す癖が抜けていない。むしろ、数十年続けた癖をこの僅かな転機で直せと言う方が無理である。

 だからこそ堂々と人前に出てみてはどうか。ルイズのそんな気遣いも含まれた提案に、彼は頷きを返したのだった。

 

 

 

「35…40……45、ごぉー……じゅうっ!」

 

 バタン、と人影は真っ直ぐに倒れた。

 いや、正確には力を抜いて地面に倒れ伏したというべきか。

 

 まだまだ基礎的な体力が成っていない。自分が如何に貴族としてもだらけて怠けた生活をし続けていたかを実感して、昔の初めて杖を握った時の事を思い出した。原初の思いを起草することで自分への喝も込めて薔薇の茨を握りしめるように気付けにすると、彼は普段の二枚目な雰囲気すら感じさせない、暑苦しいトレーニングを再開した。

 

「ふっ、はっ、……せぃっ! はぁ、はぁ、はぁ………」

 

 まだトレーニングを始めて一週間ほど。それでも筋肉がついてきている事は実感できているし、別に見せるために鍛える訳でも無いので父親へ送ったハトの文から細かい指示を受けながら、この男――ギーシュは汗を流していた。

 実家から送られた運動用の服装は、既に彼の汗でべとべと。事情を知っており、なおかつ自分が虐げかけたシエスタというメイドがこの服の洗濯や整頓をしてくれているというのだから、我ながら自分が情けない。しかしっ、それでもこのギーシュは負い目を隅に追いやり、ただただその恩に報いるために己を鍛え高め続けている。

 

「こ、れ、でぇぇぇぇえ……終わりっ!」

 

 最後の一回、腕立てをしっかりとした後にちゃんと杖が触れるか握力確認も含めて杖を振るう。息も絶え絶えでルーンは途切れていたが、研ぎ澄ませた精神は練習用の小石を見事な青銅へと変化させていた。

 

「ふぅっ…すぅー…はぁー…………錬金」

 

 更に錬金。青銅の塊は小石の形から更に変わっていき、小さなデフォルメされたグリフォンを作り出す。あえて丸みを重視したデフォルメを目指した彼だったが、その表面をなぞってみてまだまだ自分は未熟であると首を振った。

 彼の指に伝わった感触はザラザラとした引っ掛かるような痛み。つまり、丸みを帯びさせたように見える青銅のミニグリフォンは、造形の細かい場所(ディティール)を想像通りにできなかったという事だ。

 人を傷つける美しい鑑賞物など、バラなどの自然発生したもので十分だというのに。

 

「あ~……モンモランシー、今日は来てくれなかったな。ま、当然かな」

 

 晴れて友好な関係を取り戻したモンモランシーを思い、ディアボロと会った後の事を思い出す。あの後、ヴェストリの広場で一人鍛錬を行っていた時にふたまた事件の時に言い合いになった一人、「ケティ・ド・ラレッタ」という一年生の女子が激励しに来ていたのだ。

 ギーシュはもちろん、このまま誠実に、全ての女性の事をちゃんと考えられる上での「薔薇」を目指していたので、ケティの改めての訪問には温和な笑みを持って迎えていた。ケティもギーシュの寛容さに惚れ直し、火のラインメイジとして出来る事を聞いてきたのだ。

 その時、彼は「火はトレーニングの耐久実験が丁度いいかな。それ以外は…そうだ、脱水症とかが怖いからね、水を持って来てほしい」とケティに言い、花の様な笑みを浮かべた彼女の後姿を見ながら再び魔法のトレーニングを再開する。しかし、その時に今度はモンモランシーが訪れていたのだ。彼女もギーシュを決闘後に治した第一人者で、彼に惚れている一人。ちょうどケティの事を見なかったのが幸いして、治癒魔法で補助に回ろうと言いだした。

 

 しかし、ここが転機である。

 

『あれ、ミス・モンモランシ!?』

『あなたは…あの時の一年生じゃないっ!』

 

 鉢合わせ。ギーシュは二人が不穏な空気を出し始めたところで、これは流石に不味いと空気を読んだ。一触即発の危険な状況下で彼は「二人共を愛し、決して不幸にはさせない。それが僕の夢であり、目指すべき器なんだ」と、気障ったらしくも決闘の前には持たなかった真剣さで告げる。

 ギーシュの剣幕は本気で、軽薄な様子が見えない。雰囲気に呑まれかけたケティとモンモランシーはしばらく互いを見つめ合った。それでも答えは出なかったのか、顔を俯かせ、難しい表情でギーシュもそっちのけに反対方向に歩いて行ってしまう。

 それが、モンモランシーもケティも彼の部屋へサポートに来ない理由。ちなみに、尊敬すべき父親にこの二人の事を手紙で話したら「実力で勝ち取れ、それがグラモン家の男だ」と、全女性を敵にするような助言を頂いている。だがギーシュにとっては数少ない父親から頂いた格言であり助言だ。日夜、それを実現するための鍛錬には手を抜くつもりは無かった。

 

「……ふぅ」

 

 吐き出した息はすぐさま夜の冷たさに染まり、彼の汗に濡れた体へ風邪の一歩を歩ませる。ギーシュは下着以外を全て脱ぎ捨て、温度をあまり上げないために消していたロウソクの燭台に火を灯す。その光の下で全身の汗をタオルなどを使って拭き取りながら、右腕を上げてこぶを作って見せた。しかし、

 

「うーん……まだ生フルーツの入ったゼリーみたいだ」

 

 言い得て妙だが、外皮はまだ柔らかいのに筋肉だけが少し硬い。要するにまだまだである。足の方も昼の間にランニングをしているのだが、普段女子の為に様々な場所を歩いているだけあってギーシュのフットワークは中々軽い。そう思ってバランスよく腕も鍛えようとしているのだが、どうにも数日では変化は読み取りづらいようだ。それより、そんな短時間で筋肉がつくほど人間の体は便利な構造をしていない。

 

 ギーシュは月を見上げ、寝間着に着換え直すと「場違いな工芸品」として流れついていた「朝を告げる(めざまし)時計」をセットする。動力はねじまき式なので、結構な愛用品だ。

 

「明日は……どうしようかな……」

 

 ベッドに潜り込んだ彼は、明日を待って夢の世界に浸る。朝一でシャワーを浴びてこようと思いながら。

 

 

 

 虚無の曜日が訪れた。

 朝日に照らされながら、この後に控えている買い物に向けてディアボロは武器を持つならどれがいいのだろうかと思案を巡らせる。とはいえ、インファイトを主とした戦闘を行ってきたが故に、武器を振るうという行為に体は付いて行けるのだろうかと疑問もある。それらをガンダールヴというルーンが解決してくれるなら始祖万歳の恩の字、今だけは感謝してやろうと思ったのだが…そうもいかないのは薪割りの時の感覚で分かり切っていた。

 

「お疲れさん、これで4日は持つぜ」

「マルトーか」

 

 斧を横に立てかけ、休憩所で水を煽っているとコックコートに身を包んだガタイのいい男が立っていた。彼はディアボロの隣に座ると、「精が出るな」と笑って見せる。

 

「いよっ! 我らが担い手。心なしか気分がよさそうじゃねぇか」

「ルイズと武器の調達に行く予定だ。この学院以外の場所を見れることに浮かれているのかも知れんな」

「ん? お前さんトリステインの人間じゃないのか?」

「遥か彼方の世界より来た…と言ったらどうだ?」

「そりゃいいな! ここの貴族なんて制度も関係なかったら尚更だぜ。だからこそ、お前さんはあの気障ボウズに立ち向かってくれたのかもしれねぇがな…」

 

 片肘をつき、ニッとマルトーは笑う。彼の言葉にはシエスタを助けてくれたことに対しての感謝の意が込められている。この世界に来てからは、己の行動に対して感謝されるばかりだ、と。何もかもが変わっている境遇に対し、彼は感慨深さを感じていた。

 

「ああ…そう言えば貴様らの言う“我らが担い手”とはどういう意味だ? このオレに対して代弁者であるというようにも聞こえるが」

「おう、そのまんまの意味だ。お前さんは俺達使用人…いいや! 俺達平民の希望の星だ! 貴族に虐げられるばかりの毎日を塗り替えてくれるような、俺達の心強い盾さ!」

「フン、盾か。奇妙な偶然もあったものだ……」

 

 マルトーに聞こえないように呟き、ディアボロは立ち上がった。

 

「お、行っちまうのか」

「貴様も話している暇があれば貴族共の為に腕を振るうんだな」

「へっ! 一朝前に皮肉言いやがって。まぁオールド・オスマンがいる限りは俺もここで働き続けるさ。ああ、帰ってきたらシエスタに会ってやってくれ。何か言いたい事があったらしいからな」

「そうか……覚えておくとしよう」

 

 そう言って、今度こそディアボロはその場を去った。

 建物の外を通る道で主の元に向かった彼を、マルトーは無言で見送っていた。

 

「是非とも会ってやってくれや。今生の別れかもしれねぇからな……」

 

 何もできない己への憤怒と、悲しみを携えて。

 

 

 

 門の前に足を運べば、既にルイズがスタンバイを済ませていた。二頭の馬が嘶き、乗れと言わんばかりに挑戦的な声を上げている。乗馬は初めてらしいと見抜いた馬の野生のカンと言うべきであろうか。そんな生意気な馬に少しばかり殺気を込めた視線を叩きつけてやると、周りのを含め全ての馬が萎縮していた。

 

「あー、背筋ブルッて来たけど…今のアンタ?」

「オレに従わん奴は恐怖で黙らせればいい」

「さっすが、わたしの使い魔は格が違いますこと」

 

 呆れたように言いながら、手綱を彼に渡す。しっかりと跨った所を確認すると、ルイズの後に続いてディアボロの馬が走りだした。

 

「乗馬は初めて?」

「生憎な」

「あ、そ。でも今のところは上手い事乗れてるわよ」

「それは光栄だな」

 

 と言うのも、先ほどの恐怖を本能に植え付けられた馬が最小限の揺れになるよう心がけているに過ぎない。ディアボロはそれを理解していながら、つまらなそうに馬への視線を投げかけた。

 すると、更に揺れは最小限になる。これでは馬の方が参ってしまうと言わんばかりの気遣いだが、これで丁度いいとディアボロはわざとらしく言葉を零すのであった。

 

 それからほんのちょっぴりだけ揺られること三時間。田舎の風景や街道を通りながら、遂に大きな建物群の姿が見えてきた。ディアボロの目に映ったのは、如何にも城下町と言った風の光景。しかし、ヴェネツィアやネアポリスと言った都市を見て来た彼にとっても、いや、日本の小市民であってもその光景は意外と言わざるを得ないだろう。

 狭いのだ。いや、何がと問われればその「通り」だ。

 街の近くで馬を繋ぎ、ルイズが案内した町並みは中世ヨーロッパに在りそうな風景であったが、唯一つ大通りらしきところが5メートル以下の幅しかない事がどうにも気になる。所狭しと並ぶ建物の間、路地裏程度しか通行用の隙間は空いていなかった。

 そんな中、ディアボロの鍛え上げられた巨体は、良くも悪くも目立ってしまう。どうにかしろと目線で訴えかけた彼は、ひたすらにルイズの反応を待った。

 

「あ~、もうちょっと…ああ、ここだわ。この路地裏入って行けば武器やはあるから、もう少し辛抱なさい。もう…自慢の使い魔だって言うのにこう言う所が欠点よね」

「噂も知らん相手から好奇の視線で晒されてみるか?」

「お断りよ」

 

 目の前の看板に描かれた剣を借りたかのように、ディアボロの言葉をばっさりと切って捨てた彼女は武器屋の扉を開いた。中からは大通りから逸れて辛気臭い空気の漂う脇道に相応しい、陰気で暗い雰囲気が漂ってくる。

 組織の中でも嗅ぎ慣れた空気だ。そんな下衆や下っ端らしい空気を感じ取ったディアボロは、懐かしさ半分鬱陶しさ半分で武器屋の中を見回す。ランプで照らされた怪しげな雰囲気は、奥に潜む人の気配と似通っていた。

 

「おや、これはこれは貴族の方。ウチは武器しか売れねぇ真っ当な商売。取り締まられる当ても何もありゃしませんぜ」

「今回ばかりは客よ。それとも、自ら言い出すほど胡散臭い商売でもしてるのかしら?」

「とんでもない! しかし、武器を扱うのはそこの旦那で?」

「少しばかり豪快に扱おうと壊れん物を探している。そこの粗悪なロングソード辺りに近いもので構わん」

「最近は天下のトリステイン城下町のここで、盗賊も増えて来ております。そう言ったご用で旦那は剣を?」

「そんな所だ」

 

 ディアボロの眼光は鋭く、同時に手を揉む店主を蔑んでいるかのようでもあった。

 

「……へぇ、ちょっくら奥で探すんで…お待ち下せぇな」

 

 店主はそそくさと店の奥に消える。しかし、去り際の彼の目はカモを釣ろうというものでは無く真剣なものだった。馬鹿な貴族が来た、最初はそう思って吹っかけようと思ったがあの男は別だ。こんな武器商売なんてやっている限り、多少「癖の悪い客」などの扱いも心得ている。ましてや天下のブルドンネ街唯一の武器商人だ。剣を必要とする常連の職種としては傭兵などといった荒くれも相手にしてきている故、相手を選ぶ目はあるつもりだった。

 しかし、あの男は些細な我欲でも掻こうものなら殺される。そんな冷徹な瞳をしているではないか。こりゃたまらん、命ばかりはとられちゃならん。誰にも聞こえない軽口を叩いて平静を保たねばならぬ程、彼は内心の動悸を無理やりに抑えつける。

 

「両刃のロングソード位か……直剣か曲剣か、あの旦那に合った方はどっちか」

 

 一旦客に尽くすとなると、商売根性が染みついているが故か。彼の目は細められる。

 武器の奥にはカウンターの辺りに並んでいる物よりも高価な物が立ち並び、観賞用と実戦用で大きく二分されている。

 さて、ここは迷わず実戦用。店主が其方に足を向けて大きな刃の類を探そうとすると、突如として彼に声をかける物(・・・・・・)がいた。

 

『いつになく真剣じゃーねぇか。命の瀬戸際でも感じ取ったのかよ?』

「だーってろデル公。こちとら久しぶりのマジ客なんだ」

 

 剣を探しながら、店主はぶっきらぼうにソレの声にこたえる。下品にも高らかに笑い上げたソレはそりゃ丁度いい、と言って己の存在をアピールし始めた。

 

『ちょーどいいぜ、日頃から散々厄介払いってんなら俺を買わせろ』

「馬鹿言え、てめえみたいなナマクラ売ればこっちの首が飛ばぁ」

 

 店主が呆れたように振りかえり、その()に向かって言葉を投げる。()は面白可笑しくケタケタと笑うと、柄の上部に在る金具を口の様に動かした。

 

『見たとこ、探してんのは丈夫で大の大人が扱えるようなシロモンだろ? だったら何をやっても壊れなかった俺の出番じゃねぇかよ』

「そりゃあ……確かにてめぇは丈夫だが、みてくれは錆だらけ。しかも初めて御客人に買われたいなんて願い出ると来た。今までおれの商売の邪魔した回数、忘れたたぁ言わせねえぞ」

『ハッ、そんな厄介モン(・・)が居なくなるチャンスだってぇのに頭のかてー奴だ』

「ったく…そうまで言うなら一応並べといてやる。だが覚えとけ、売れ残ったら今度こそ火メイジの旦那に頼んで溶かしきって貰うからな」

『上等だ。こちとらこの世の中に飽き飽きしてたんだぜ? ようやくつまらねぇ剣生が終わるってんならそれも悪かねーや!』

「よく言うぜ、デル公が」

 

 面倒臭げにその喋る剣を引き抜くと、店主は見繕った他の刀剣と共にカウンターへ戻って行った。店主が出てきた事でカウンターに集まる二人に良く見えるよう、一つ一つを台に置きながらこれでどうだと4本の刀剣を並べる。

 

「従者の旦那、見繕い出来やしたぜ」

「どれ……」

 

 第一に剣を扱うディアボロの意見を聞こうと、店主は彼に閲覧を促す。

 立派な白銀が光り輝くランプの光を反射し、磨き上げられた刀剣の輝きを返す中、やはりデル公と呼ばれていたその剣の錆だけが悪目立ちしている。なるべく目に触れないようにと一番隅の方に置いておいたのだが、やはりディアボロの目にとまり、ふむ、と声を洩らさせるに至った。

 

「店主、これは?」

「それはインテリジェンスソードです。錆だらけですが…本人がどの刀剣よりも丈夫だと言って憚らないのでこうして並べさせていただきやした」

『かぁ~っ! 卑屈にごたごた並べてんじゃねーぜ。いようピンクのおっさん、丈夫な剣なら俺で決まりだ。こちとら意識があろーとなかろーと…折れちまってもいいくらいに扱って貰って構わねぇぜ? どうだ、買ってみる気が起きたかよ』

「あら、本当にインテリジェンスソードね」

「へぇ。口の減らないばかりが特徴でして…おい、デル公っ」

「いや……少し見せてもらう」

 

 ディアボロはそう言って、デル公と呼ばれた剣の柄を握りしめた。すると、ルーンが反応してこの1・5メイル(恐らくメートル法と同義)の剣の振り方が頭の中に入ってくる。しかしその中には剣で直に防御を行う方法や、地面に叩きつけるなど普通ならば有り得ない使い方まで流れ込んできたのだ。

 これは……掘り出し物かも知れん。ディアボロが内心で情報の整理をつけていると、剣の柄からカチカチと金具の擦れる音が鳴り響いてきた。

 

『おぉぅ…マジかよ。てめ、なんか憶えがあると思ったら“使い手”か』

「使い手…? ちょっとそこの剣、ディアボロは剣なんて」

『そーいう意味じゃねぇぜ貴族の嬢ちゃん。…はっ、此処まで来て当たりに持ってもらえるとはな。縁って奴も捨てたもんじゃねー』

「……成程。使う以前に聞きたい事が出来た。店主、これと小ぶりのナイフを」

 

 興味深い、と口にした彼に店主は剣の鞘と適当に見繕ったナイフを進呈した。

 

「ナイフの方はこちらからのサービスにしときやす。値段の方は厄介払いも含めて新金貨で百になりまさあ」

「意外と安いわね」

「これでいつも通りの商売できるようになりゃあ儲けもんでして。どうしても煩く感じれば、鞘に入れて口を閉じちまえば黙ります。毎度ありがとうございやした」

 

 ルイズは迷い無く新金貨を支払い、ディアボロはデル公と呼ばれた剣のはいった鞘を背中に背負う形で紐を肩に回す。ナイフは腰にこれまたサービスで頂いたホルスターに入れ、いい買い物が出来たと扉に手をかけた。

 

「デル公! …まぁ、長生きしろよ」

 

 鞘に入れられたままの剣は答えられず、扉の向こうに数年期の付き合いだった剣は担がれていくのだった。

 

 店を出て、ディアボロ達は再び悪臭のする避け道に戻って来た。処理しきれなかった糞や生ごみから漂う異臭の発生源には汚い虫が群がり、その羽音がまた頭の中に不快な音波を奔らせる。目立っても大通りに行くしかないか、そう考えて大通りに足を向けたルイズであったが、ふと天を仰いだ際に何処かで見覚えのある青色を屋根の上に見つけた。

 確かアレは。どうにも衝撃的な事だったというのは覚えているが、そこから貴族を手繰り寄せるとなると難しいものである。しかし、三秒もすればその特徴的な形をした青色はどこで見かけたのかを思い出した。

 

「あぁ、そうよ! あれって確かタバサって奴が呼びだした風竜の幼竜じゃない。何でこんな所に……」

「……成程、そこの二人出てこい」

 

 路地裏の一角をキッと睨みつけた彼の言葉に従い、ばつの悪そうな表情でマントを羽織った赤毛の女が姿を現した。隣には、本を手にした背丈の小さな眼鏡の少女が付き添っている。これはまた大所帯になったものだ。内心で舌を鳴らしたディアボロは、騒がしくなるであろう隣の主人の顔が赤くなっていく様を見ながら、そう悪態をついた。

 

「あ、あ~ら奇遇ねディアボロ……意味無い?」

「意味無いわよッ! 何かと思ったら他の人まで使ってつけて来て…! これだからツェルプストーの女は豪快を憚ってその実陰湿なのよッ!」

「誰が陰湿よ? ほら、彼も動じずに私を見てくれてるじゃない」

「あ・き・れ・て・ん・のッ!!」

 

 まだまだ口論が続きそうだと判断したディアボロであったが、ルイズもからかわれてばかりの性格から一皮むけている。一通り叫んですっきりしたのか、彼女はゆっくりと深呼吸をした後に苛立ちを隠そうともせずに言い放った。

 

「そこまでディアボロにご執心なら、この四人で食べる分くらい払って見せなさいよね。器量や懐が深くないとこいつは容赦なく斬り捨てるわよ」

「ふぅ~ん、単にあなたが公爵家のお金を使いたくないだけじゃないの?」

「その分くらいはあるわよ」

「それじゃあ、今日はどうせ買い物なんだし彼を連れ回しても構わないわよね? あ、ちゃーんと夕飯も外食の代金は支払うわ」

「……ふんっ、だ」

 

 なにやら、今日一日は連れ回されることが決定してしまったようだ。

 こんな扱いはあんまりだと嘆く事もせず、これから始まる珍妙な一日に嫌気がさしながらも、渋々とディアボロはルイズについて行くことにした。そんな彼を見つめる、青髪の少女の視線に鬱陶しさを感じながらも。

 

 

 

 馬車が揺れている。こんなに高級な揺れの少ないものに乗れるのはしがない平民としては初めてであったが、そんな事で気分が高揚する筈も無い。ため息はつけどもつけども、内憂を取り除いてくれる事は無かった。

 ちらりと窓の外を見つめると、ゆっくりとだが確実に自分の働いていた場所が遠ざかって行くのが見えた。真っ直ぐ天に向かって伸びるトリステイン最大の学び舎も、今となっては郷愁に浸れるだけの思い入れと家族同然の温かさを幾らでも思いだせる。

 

 ――そう、私は買われたんだ。

 

 己の現状を再確認し、悔しさにメイド服の端を握りしめながら、涙だけは流すまいと彼女―シエスタは暗い表情を固く引き締めた。

 

 どうしてこうなったんだろう、と言う疑問は今更だ。自分が少し他の人よりも胸が大きかったから、たまたまその貴族の趣味に合った容姿だったから。そんな原因はいくらでも考えられるが、重要なのはこれから待ち受ける未来。ただ性欲のはけ口として、自分を気にいった貴族の(めかけ)として生きて行くことしかできない。そんな、自分の無い、肉体だけを求められる生活が待っているのだろう。どうせなら、永遠に待って訪れないでほしいとも願う。だが、都合のいい事なんか起こりはしない。

 

「そろそろだ。モット伯のお屋敷では他のメイドに従え」

「…はい」

「チッ、なんでこんな上玉ばかり運ばされなけりゃならんのだ。まぁいい、今度ラ・ロシェールの風俗の女を食うために金でも溜めるか……」

 

 下衆な男の想像を聞きながら、ついにシエスタは立派な屋敷の所有地内に訪れてしまう。少し考え事をするだけで、時間と言うのは良くも悪くも直ぐに過ぎて行ってしまう。どうせなら永遠に最高の時間で在り続けて、他の時間なんて止まってしまえばいいのに。感情の高ぶりは抑えられないが、ここで逆らおうものならすぐさま死、あるのみ。

 誰かに弄ばれる人生も散々だが、ここで耐えなければ実家への仕送りが出来ない。自分よりも親しい他人の幸せを優先するからこそ、シエスタには自殺と言う選択肢そのものが無い。

 

「出ろ」

「…………」

 

 屋敷に案内され、玄関からあっという間に控室(・・)にまで連れられてきてしまった。中には自分と同じく胸の大きな女性が多数メイドとして使えているらしいが、その全てが虚ろな目をしている。仕事の手は決して悪くは無いが、何よりも彼女達は感情が死んでいるようだった。

 自分もああなってしまうのだろうか。それとも、彼女達は自分もこうなってしまえと新参を憎むのだろうか。人間の汚い所を人一倍知っている彼女は、控室で着せ替え人形の様に夜伽(・・)の衣服を着回されながら、どこか虚ろにそう思っていた。

 

「あと数時間後にモット伯が帰ってくるわ。あなたは初日でしょうけど、抵抗しない方が身のためよ。腕や足を失うなんてざらだから」

「…はい、ご忠告ありがとうございます」

「逃げようなんて考えないでよね。しわ寄せが来るのはこっちなのよ」

 

 逃げる? そんなこと、何度考えた事か。

 シエスタの内心を知ってか知らずか、鼻を鳴らしたメイドは扉の向こうに消えて行った。自分でも中々に可愛らしくコーディネートされたものだと感心するほどに綺麗なドレスと、トレードマークの様に外さないメイドカチューシャが慎ましやかなシエスタを着飾り、普段は見えないような魅力がふんだんに押し出されている。

 だが、これもこれから世話になってしまうのであろうモットという貴族を興奮させるための材料に過ぎないのだと思うと、一度浮き上がった気分もすぐさま沈んで行く。されど、これではいけないとシエスタは己の頬を叩いた。

 

「駄目。ここで沈んでいたら…ディアボロさんに顔向けできないわ。……でも、家族を養うためには一度退職した学院に戻るのも……。でも、でも……」

 

 悩みは尽きない。何かないか、良い選択はどれであるのか。

 シエスタは散々迷った末に、血がにじむほどに細い柱を握りしめていた事に気がついた。手から滲み、柱のささくれた箇所に刺さっていた事で垂れてくる赤い液体が見える。そして、その血を自分に継いでくれた人物を思いだした。

 

「おじいちゃん……確か、戦争でテンノウっていう人の為に戦いを尽くして、何よりも自分が勝ち残るために自分を信じたって言ってたよね。…私も、こんな私でも出来るかな? ううん、行動してもいいのかな?」

 

 誰もいない部屋で、部屋の中に備えつけられた泉に映る自分に向かって語りかけた。

 曾祖父の魂が自分に在ると信じて、老いてなお屈強な身体が自分の背中を包み込んでいるような錯覚がシエスタに訪れる。何もないのに、でも、温かい。

 この温もりは決して手放してはいけない。だとすると、自分が取る選択肢はたった一つ。迷う事などもうあり得ない。孤独を恐れ、繋がりを信じ、あの温かな学院に戻るために自分は―――

 

「逃げよう。私は、絶対に学院に帰る。そうしたら、多少無理をしてもミス・ヴァリエールの専属にでも何にでもなって…! 帰るのよッ!!」

 

 自分に状況を打破する力はなくても…この熱意だけは忘れてはならないッ!

 シエスタの黒真珠の瞳は輝きを宿す。人の温かさを思い出した彼女には、あの何処までも己に忠義を尽くした祖父の血が流れているのだ。いつだって、どんな辛い時でも祖父が居なくなってからは彼の魂は家族全員の傍に在るとッ! そう信じて来たから此処まで幸運と認識して無事な身体で過ごしてきたんだ。

 

「よし……」

 

 服装を軽装に変え、スカートはいつもの行動に邪魔にならない程度のメイド服に変える。上着はひらひらしていない物を選んで一番質素であろう服装に変わったシエスタは、心臓の激しい動悸を感じながらも脱出の為に扉に手をかけた。

 扉に耳を当て、廊下の気配を探る。所詮素人の行動だが、鎧が擦れるような僅かな音も、メイドが歩く様な足音も何も聞こえない。

 

「うん…ツイてる(・・・・)……!」

 

 一歩踏み出し、一気に扉の外へ躍り出た。

 誰もいない。しばらく警戒しながら進んでいると、不意に明かりが少し弱くなっているようにも思えた…いや、これは実際に暗くなってきている?

 

「あ、燃料がほとんどないんだわ……」

 

 壁の明かりは、燃えるべき燃料が、ロウソクがほとんどない。ジリジリとくすぶる様に揺れた炎は、そのよるべき体を燃やしつくしてブシュンと消え去った。

 真っ暗な廊下に、日の暮れ始めた暗闇が重なって暗黒が支配する。更にはこの場所は日の出側で照らされているらしく、日の入りとなった現在の時刻から見れば、絶対に光が此方へ漏れる事は無い。

 

 ごくりと唾を飲み込み、また一歩を踏み出した。なるべく足音をたてないように、なるべく誰にも見つからないように、そして―――気配を読むために、息をも殺す。

 所詮は素人の技術だと嗤われるかもしれないが、それでも自分は必死だ。この闇なら素性は割れにくい…他のメイドと似たような格好なので、兵士達も違和感は感じないかもしれない。特徴的な黒髪は、被りもので何とかごまかせている―――!

 自分には何一つの非は無い。己の全てを信じ切り、シエスタは意気込んだ。

 

「大丈夫、イケるわ……ッ!」

『そうだァァァ………おまえさんは、最っ高なんだぁ…!』

 

 その意気込みは、新たな可能性を生み出す。

 背中の温かさから、そんな声が聞こえてきた。

 




と言うわけで本当のタイトルは「幸運の風が吹く」でした。
結構くどいぐらいにシエスタの描写は「幸運」に傍点使ってたので判っていた人もいたんじゃないでしょうか。
しかしこのスタンド覚えている人いるんだろうか?

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