プロローグ
日が暮れようとしていた。
雲間から差し込む宵の光は一面を鮮やかな朱に染め上げて、見る者の胸に感動と寂寥を与える事だろう。鳥よりも大きな影を一つ、湖面に落とし十六夜咲夜は思った。大根やら白菜やらが覗く籠の重みを手に感じ。
丁度人里から帰りの道中、霧の湖上空でのこと。湖は名の通り年中濃霧に覆われており、妖精達の悪戯も相まって土地勘のある者でさえ迷うこともある。故に地元の人間ですら用が無ければ近寄りたくはない場所だ。危うきには近寄らなければいい、成る程、賢い選択だが、咲夜はそうもいかなかった。館から里へと向かうには、湖を通らなければならなかった。迂回することも出来るには出来るが、時間が掛かり過ぎる。だので彼女の用いた方法とは、単純明快、霧よりも高く飛ぶ事だった。
晴れた視界ならば、妖精達に不用意な接近を許す心配もない。ベタベタと、一々霧に濡れ不快な思いもせずに済む。一石二鳥とはこの事であった。
少し飛んで視線の先、夕焼けの中で尚一際映える紅魔館が見えた。名は体を表すとは言ったもので、赤レンガで建てられた、悪魔の住まう洋館だ。その悪魔こそが館の主人であり、なんと十六夜咲夜は悪魔に仕える従者だったのだ。
ちらりと視線を憎々しい太陽に移すと、彼奴はその大部分を大地へと隠していた。日没が意味するのは主人の目覚め。出掛ける前に妖精メイドへときちんと言伝してあるのだが、如何せん役立たずで有名な我が妖精メイド隊だ。私の帰りが遅くなった時には、主人の起床を手助けするという指示をきちんとこなしているのか、不安が募る。
最も、咲夜にしたら間に合わないなんて事態は、余程の事が無い限り起こり得ないのだ。確固たる自信ではなく、純然たる事実。
その事実を裏付けんと咲夜は懐へと腕を伸ばして――。
ふと、視界の端に何かを見てしまった。
黒く蠢く、濃霧の中で尚一層濃い霞。高く飛んでいたのが幸いし発見出来た。はたまた厄介事に気付いてしまった事など不幸なだけか。日が落ちきってしまったら、全く解らなかっただろう。見て見ぬフリも出来ようが、館の近くでの異変なんて看過も出来ず。咲夜は大きく溜め息を吐き、絶え間なく形を変える黒いモヤへと進路を変えた。
近づくに連れ漆黒の正体が判明してゆく。
烏だ。黒く蠢く霞の正体は大量の烏だった。
何故か大量の烏が、一塊に集まっているではないか。烏は鳥の中でも特別賢い。ならばこそこの行動には何らかの意味があるはず。
中心には何があるのだろうか。その正体を確かめようと咲夜がズイと近づくと、烏らは彼女を避ける様に自然と空間を作ってゆくが、それだけ。決してその場から離れる素振りは見せなかった。
どの辺りが中心か分からずに注意深く進むも、結局そのまま反対側へと突き抜けてしまった。
――下か。そう、答えを導き出すのに時間は掛からなかった。
ゆっくりと高度を下げ霧へと身体を沈めると、矢張り。狭くなった視界に、上空よりも濃い黒が大勢いた。烏の波を掻き分けて、下へ下へと降りてゆくと、遂には爪先が地面に触れる。
そこは霧の湖と陸地との、丁度境界部分だった。地面の近くは湖上よりも霧が薄い。とは言え今度は霧に加え乱立する木々が咲夜の視界を奪った。更に木枝にはカァカァと、喧しく喚く烏達までいるので、彼女の気を滅入らせる事この上なかった。
早急に原因を調べて、必要があらば排除しようと咲夜は決意を新たにする。完全に日が暮れてしまえば、灯りを持たぬ彼女が夜の森を見通す術は無い。
霧と枝葉と、宵の夕焼けが彼女の行く手を阻む。しかし何の当ても進んでいる訳ではない。この厄介で賢い烏達が、今や彼女を先導する水先案内人と化していた。
より喧しい方へ、烏の多い方へ。それこそが目的の場所だろうとアタリを付けた咲夜は、澱み無い足取りでそちらへと向かった。すると間もなく、原因たる存在と遭遇した。
樹を背にもたれる、一人の男。
時刻は正に
一瞬妖怪かと警戒を露わにするも、男はぴくりとも動く気配がない。訝しく思いながらもゆっくりと近づく。一方で美しさすら感じさせる所作で、スカートの中へと腕を伸ばす。指先に冷たく硬質な感触が触れ、何時でも抜き打てる状態へと神経を張り巡らせる。
男の輪郭をはっきりと捉えられる距離まで近付いて、咲夜はようやく気付いた。
彼は意識を失っていた。
道理で動かない訳だが、咲夜は尚警戒の糸を緩めず男の首元へ指を伸ばした。とくんと、弱々しくも微かな脈動を指の腹に感じて、彼が命ある人間だと察した。
服装から察するに――ボロと見紛うばかりに汚れているが――外の世界の人間とは珍しい。所々に破れた隙間から覗く肌色には、凝り固まった血が覗き、その呼吸も今にも絶えてしまいそうな程に小さい。かろうじて命を繋ぎ止めていると、表現するのがぴったりだろう。
ならばこの烏共は、男の命の灯火が消えるのを、今か今かと待ちわびるハゲタカだったのだ。
それにしても、である。人間一人に対してこの烏の数は異常だ。彼奴らの腹事情なんぞ知った事ではないが、どうしても拭い切れない違和感が咲夜の脳裏にこびり付いていた。
さて、どうしたものか。
この、見るからに只事ではない男の生殺与奪は最早咲夜の手中である。
しばし考え、彼女は男の腕を取ってぐるりと、己が肩へ回した。
「重っ……!」
女一人の細腕に、男一人の体重は手に余る程に重い。まして意識を手放し、自立も出来ない野郎ならば尚更である。
人情ではなく、彼女なりの合理的な判断に従った結果だ。
それが最善の行為であったのか、瞬間、喧しく騒ぎ立てていた烏共の鳴き声が、一斉に止んだのだ。
ひたすらにじぃっと、こちらを見る無数の無機質な瞳。その黒い双眸の向こうに、何者かの意思を感じたのは、果たして彼女の妄想に過ぎぬのだろうか。
男を担ぎながら、無意識に咲夜は身構える。そして目にも留まらぬ速さで腕を振り抜いたかと思えば、刹那、銀の光が闇を切り裂き一羽の烏を木に縫い付けた。
ひゅば、と空気を裂いたそれはナイフ。彼女の最も信頼する獲物だ。寸分違わずに烏の喉元へと吸い込まれる。その正確無比の一撃たるや、見る者の背筋を凍らせること間違いない。
仲間がやられた事に驚いたのだろう。一番近くにいた一羽が慌てて飛び立つと、それを皮切りに烏達は煩い羽音を残して一斉に飛び去った。
油断なく、周囲を二度三度見回して今度こそ静寂さが戻る。知らず、咲夜は随分と強張っていたようで、額の汗を拭い、深く溜め息を吐いた。
しかし、これで終わりではないのだ。まだ大仕事が残っている。
苦しげに呻く声がして肩越しに男の様子を伺うと、彼女の予想よりも近くに男の顔があった。鼻先がぶつかりそうになって咄嗟に顔を戻す。
なんて馬鹿な、観客もいないのに慌てふためき一人漫才をする咲夜。らしくないのはきっと、嗅ぎ慣れた血の臭いと、嗅ぎ慣れない男の匂いのせいに違いない。
咲夜は飛び立ち、動物の気配がすっかりと消えた森を後にする。余計な荷物が増したせいで、右へ左へよろよろと危なげに飛ぶ姿は、華麗なナイフ捌きを見せた先の少女と同一人物には、とても見えず随分と微笑ましい光景である。
男は一先ず、命を繋ぎ止めたのだろうか。案外、少女に見捨てられ屍を晒し、烏達の糞尿にでもなっていた方が幸せだったのではなかろうか。それを決めるのは、多分、後の彼だけなのだろう。
厄介事など、不幸なだけだ。