一週間なんて、吸血鬼の永い寿命に比べてしまえば所詮矢の如き時間に過ぎない。だがフランにとって種を植えてからの一週間は、今までの生の中でも特別長いものに感じた。
「ふふっ、どうなってるかしら」
美鈴がくれた麦わら帽子を被り、今日も今日とて菜園に向かう。その足取りは軽い。
それもそうだろう。今日はお兄様がフランに平伏す記念日なのだから。
「嗚呼、フラン! 私の可愛いフラン! 君に勝とうだなんて、僕はなんと身の程知らずだったのだろう! どうか、許しておくれ!」
「そんな、許すだなんてお兄様! フランは最初から気にしていないわ。」
「なんと優しい娘なのだろう! まるで天使だ! フランは最高の妹だよ!」
「イヤだわお兄様っ。フランは天使じゃなくて吸血鬼よ」
なーんて、ね。フランはそう遠くなく訪れる未来に夢想し、ついだらしのない笑顔を浮かべてしまった。
「ん、どうかしたかいフランちゃん?」
「んーんー、なんでもないわ!」
そんな事も露と知らず、横目で見たお兄様は呑気なものである。
「妹様。権兵衛さん。お待ちしておりましたよ」
目的の場所もあと少しという所、既に美鈴があの格好で土弄りをしていた。最近、彼女の本来仕事が何だったのか、簡単に思い出せないぐらいにはこちらの仕事(?)に精を出している。
メイド長に怒られないかと心配になる権兵衛だったが、実は美鈴もそれは不思議に思っていた。権兵衛の仕事を手伝っているものの、門番の仕事を放り出している事に代わりないのだ。しかしその件で咲夜が美鈴を注意しにきた事は無かった。
門番なんていなくてもいい、という事だろうか。
確かに、紅魔館に侵入しようなんて馬鹿は幻想郷でも少なく、しても馬鹿正直に門を潜る泥棒はおらず、侵入を許しても中には門番よりも強いメイドやら主人がいるのだ。
自分の存在意義が揺らぎそうになり、美鈴は深く考える事を止めた。
「それで美鈴。どんな感じだ?」
「案の定、ですね。権兵衛さんが危惧していた通りになっちゃいましたよ」
「ん、そうか」
気が逸って仕方ないフランは二人の会話も聞こえている様子はない。
プランターの場所へ近付く頃には、少女の歩みはスキップへと変わっていた。その動きに合わせて水晶の羽が右へ左へ、綺羅びやかな輝きを見せる後ろ姿を、権兵衛は複雑な表情で見詰めていた。
そして一つの角を曲がれば、並んだ三つの鉢が視界に入る。
「うふふ、どうなってるかしらー?」
フランは自分の名札が付いたプランターを覗きこんで――。
同時刻、ヴワル魔法図書館にて。
「権兵衛は役に立っているか?」
二人の少女は友人の関係にあった。更に言えば親友と呼び合う間柄であった。
だが二人の間に会話は少なく、一般的な女友達の関係とは大分違う。どちらかと言えばすぐ側にあって思い思いに勝手する、男同士のそれに近かった。深い信頼で結ばれているからこその、無用な言葉は無粋にしか足り得ない。
レミリアが紅茶で口内を潤す事にも飽き、ついに図書館の静寂を破ることにした。
「彼は……、そうね。邪魔ではないわ」
「ククッ、そいつは何よりだな」
とても褒めているようには聞こえないが、レミリアは笑った。男の低評価っぷりにではない。そうね、と友人は答えたのだ。付き合いが長いからこそ分かる、十分な答えだった。
この頃はすっかり男にかまけていてパチェと話すのも、随分ご無沙汰になっていた。こんな風に書いたら自分がまるで悪女のようだ。
たまには親友と交流を深めてやらないといけない、と思い立ち久々に図書館へと顔を出してみたのだのだが。
しかしパチュリーは言わずもがな、レミリアも日光に弱い事も相まって引き篭もりである。二人の日常に変化は少なく、会話のネタが招かれざる客に焦点が当たることも必然と言えよう。
男の話題が続いたので、パチュリーの方からも珍しく話題が振られた。
「レミィ。どうして彼なのかしら?」
それはパチュリーならずとも館の全員が、権兵衛ですら抱いている疑問であった。
問いを投げ掛けられたレミリアはくつくつと笑うだけで中々答えようとしない。パリュリーは辛抱強く、無言で返事を待った。
「そうだなぁパチェ。どうしても手に入らない物があるとしたら、オマエはどうする?」
「何よそれ。どうしても手に入らない、という前提が覆し様の無いものなら諦めるしかない。そんな謎々、意味が無いわ」
「私はな」
喩え話は、話の流れから察するに男の事なのだろう。
「私はな、何でも手が入ってしまうからな。そんな奴が、一つぐらい欲しいんだよ」
「……」
パチュリーは首肯も否定もせず、黙々と思った。
自分であれば、手に入らない物なら無い物と同然と考えるが、親友は違うようだ。
手に入らないから欲しいのだ。自分の物じゃないから、欲しいのだ。
所謂、主義主張の、思想の差である。もしかすると。レミリアだって無駄だと分かっていながら尚欲せざるを得ない程の感情を抱いているだけなのでは……?
だからパチュリーは、友人の考えを子供の我儘だと切り捨てず、尊重した。
無言のまま、不干渉の尊重。
レミリアも話すことは話したと、それきりお喋りを止めた。
自分もまた本を開いて、図書館に静寂が戻る。それは形だけの読書であった。いつもならすんなりと文字が入る頭も、今は別の思考で埋め尽くされている。
先の喩え話。この場合の手に入らない物というのが、それは権兵衛にあたるのだが。どうにもパチュリーには、男がそれ程大したものには思えないのだ。少なくとも、親友がご執心する価値は見出だせない。
―――待て。彼女は本当にそう言ったのか?
手に入らない物。確かに言った。違う、気に掛かるのはそちらではない。
会話の前後を考えれば、手に入れてしまう或いは手に入れられないでなければ、文脈として成立しない。仮に私が聞き間違えて、手に入れてしまう、だとしても自信過剰に過ぎる。
「パチェの紅茶は、安心して飲めるなぁ。馳走になったよ」
「レミィ……!」
パチュリーが、新たに浮上した疑問を問う暇も無くレミリアは席を立ってしまった。
追いかけようか。そんな考えも、すぐに頭を振って掻き消す。
所詮、どうしたって彼女の問題なのだ。ならば好き好んで、自分から首を突っ込む事もあるまい。問題が波及して親友が泣いて縋り付いてきた時にでも助けてやれば良いのだ。
パチュリー=ノーレッジは動かない。
友人との会話とは、実りが無くとも矢張り楽しいものだ。
レミリアは気分も上々に図書館を引き上げようとして、最後の最後で台無しにされた。
「あっ」
「……チッ」
ノブに腕を伸ばして、触れようか触れまいかギリギリのところで、扉が勝手に開いた。
何時の間に幻想郷にも自動ドアが配備されたのだろうか。それも観音開きの自動ドアが。
なんて事はない。丁度小悪魔が、レミリアと入れ替わり図書館へと入ろうしただけの事。
「こんにちはレミリア様。ご機嫌いかがです?」
「ハッ。視界にいる目障りなヤツが消えてくれればすぐにでも良くなるだろうさ」
常人ならば、意識を失う威圧感を以った眼光を受けても、小悪魔はさして物怖じした様子もなくひょうきんにも肩を竦めた。
一々癪に触る女である。
小悪魔。館に長くいる者でも、彼女をパチュリーの使い魔だと認識しているのは少なくないが、勘違いも甚だしい。
この女は紅魔館に、図書館に、何時とも知れず勝手に住み着いている存在なのだから、当主たるレミリアが嫌うのも当たり前である。
排除してやろうと思ったことは、一度二度では無い。だが彼女は主に図書館に寄生して、主たる友人は何も言わない。
紅魔館とヴワル魔法図書館。二つの館は接していても、その管轄は各々違い、レミリアとて気安く手が出せないのだ。
ギリと歯軋りが鳴る。
「コワいですねレミリア様。今にも私を殺したそうな目をしてますよ。そんな目、権兵衛さんに見られたらコワがられちゃいますね。避けられちゃいますね」
ドスン、と。音がした方向を見れば、レミリアの拳が壁にめり込み無数の亀裂を生み出していた。
「フフ、悪魔だって命が惜しいので、ワタシ行きますね。さよならレミリア様」
行け行け、行ってしまえ、と。女と少しでも語る舌すら惜しいので、レミリアは心の中で愚痴る。
「あっ、そうそう」
すれ違って数秒、遠ざかる足音が止み、代わりに忌々しい女の声が響く。
「今お庭が楽しいことになってますよ。アナタの愛しい権兵衛さんと、フラン様が」
「何? おいっ、フランだと!? どういう事……チッ!」
振り向き問い詰めようとした所で、小悪魔は既に消えていた。
庭で一体何が……?
その前に何故権兵衛がフランと接触しているのだ……?
「クソッ」
苛立ちのぶつけ先としてまず目の前の扉に手を掛けた。レミリアの掌から弾幕が放たれると、重厚な扉が蓮の如き穴を開けて無残な姿となり、ゆっくりと床へ倒れ伏した。
一歩。扉だった残骸どもを踏み潰して、彼女は大きく翼をはためかせた。
突風が館の中で爆ぜた瞬間、レミリアの身体は宙へと浮き大した速度で廊下を駆け巡っていった。
「いやぁ、非道いですね」
その姿が豆粒ほど小さくなって、棚の影からひょこりと小悪魔が現れた。
彼女の足元には無数の本が散らばり、それこそ酷い惨状である。
それを嘆いて口にしたのか、否。言葉とは裏腹に小悪魔の口は弧を描いていた。
少女の顔に三日月が裂けたかの様に見えるそれは、正しく悪魔の笑みであった。
「あれ?」
少女は首を傾げた。
だっておかしいんですもの。二人の鉢には芽が吹いているのに、私の鉢は昨日と変わりない、土だけの状態なんだから。
「あれれ?」
もう一度見よう。美鈴の、おっきな双葉を開かせている。お兄様の、ちっちゃな芽が頭を出している。フランのは……、どれだけ目を凝らしても、雑草一つ生えていない。
「……なんで?」
なんでなんでなんでっ!? あんなに毎日お水もあげたのに! 肥料もあげたのに! 私のが一番日当たりだって、いいのにっ!
「あ、分かっちゃった。美鈴がフランの成長っぷりを妬んで交換したのね! もー、美鈴ったら駄目よそんな事しちゃ!」
「えー……。妹様、昨日もちゃんとトマトの状況見てたじゃないですかー……」
「そうだぞ。簡単に他人を疑うような真似は関心しないな」
美鈴の声は小さい。立場を鑑みてあまり強く否定はしたくなかったのだが、権兵衛にそんな気配りはない。悪いことは悪いと、はっきりと批判したのだが、少女には気に入らなかった。
「……つまんない」
その呟きは、あんなにも明るかった少女と同一が吐いたとは思えないほど、暗い音色を宿していた。
美鈴はただの一言で、全身から冷や汗が吹き出したのを感じた。自分の身の丈の半分程しかない、下手をすれば二桁の年齢にも満たないほど幼く見える少女の一言に、強い恐怖を覚えた。
辺りを、不穏な空気が包む。
彩り豊かな花々に群がっていた蝶たちは、今はもう見えない。塀の向こうの林で、楽しげに囀っていた鳥達の声も、今はもう聞こえない。剣呑とした雰囲気が、少女の全身から醸しだされていた。
「つまんないつまんナいツマんないッ! 何よ! 何がトマトよ馬鹿みったい! こんなの育ててなんになるのよ! こんな、こんなのっ! このっ、このっ!」
「フランっ!」
フランの目尻は光るものを滲ませながら、眼光鋭く鉢を睨んだかと思えば、美鈴の鉢を思いっきり蹴飛ばした。鉢は割れ土はぶち撒けられ、その中には当然、芽生えたばかりのトマトもあった。それでもなお気が収まらないのか、フランは何度も何度も土を、憎々しげに踏み潰していた。
見兼ねた権兵衛はフランへと歩み寄り、少女の頬を思いっきり引っ叩いた。
そんな光景をついに目の当たりにし、「やった」と歓ぶ者が一人がいた。
フランの発する怒気に当てられて、大気が揺れた。咲夜は地震かとも思ったが、次いでフランの怒号が聞こえたのでその考えを否定し、即座にテラスへと出る。すると、見えるではないか。庭の端で、男が妹様に手を上げる瞬間が。
決定的と言えよう。
男がどの程度妹様に懐かれているかは知らないが、彼女に手を上げて無事で済んだ者はいない。肉親であろうとそうなのだ。まして昨日今日知り合った、自衛するだけの力も持っていない男なんて、数秒足らずで肉片と化すのは火を見るより明らかだった。
どうなることかと、咲夜は逸る気持ちを抑えながら事の進展を見守った。
「何よ……! 何よアンタ! 私の本当の……! 本当の兄でもない癖に出しゃばってさ! 気持ち悪いんだよッ!」
「……」
フランの心底から男を誹る罵声のなんと心地の良い事か。
望んでいた通りの光景が、ようやっと展開されて咲夜は震える身体を自ら掻き抱いた。
「嫌い嫌い大っ嫌い! 皆嫌いよ! 私に優しくしてくれないお兄様なんて、一番キラいッ!」
癇癪そのものを発症させたフランが喚く度に、凄まじい怒気が発せられる。真正面から相対している権兵衛は、都度肌が灼け付くような感覚に襲われた。少女の持つ膨大な魔力が無意識の内、感情と共に発せられていたのだ。
「……もういいわ。もう、アンタなんかいらない。いらないわ。だから、バイバイお兄様。……楽しかったよ」
フランはおもむろに腕を突き出した。開かれた手の平からは弾幕を撃ち出す訳でもなく、一見意味のない動作に見えるが権兵衛は不思議と、それが何を意味するのか識っていた。
彼女の小さな手が、徐々に拳を形作る。一本一本折り畳まれてゆく指。まるで時の流れそれ自体が遅くなってしまったかような錯覚に陥るほどゆっくり。ゆっくりと目の前の光景を眺める。
「妹様っ!」
後残りの一本を折り曲げるだけ、となった所で美鈴が叫んだ。
胡乱な瞳を美鈴に向けると、その腕にはプランターが抱えられていた。
周囲を見れば一つ二つと、無惨に割れたのがあと一つ。ならば彼女の抱えるものは四つ目という事になる。
そう言えば何時の間にやら、美鈴の姿は見えなくなっていたな。危険を察知して真っ先に逃げたのかと思っていたが、どうやら四つ目のプランターを取りに行っていたらしい。
……だからどうしたのだ。
「美鈴、邪魔をするならアナタも――」
「聞いて下さい妹様! 権兵衛さんはちゃんと、妹様の為を想って――!」
「想う、想うですって!? 思い通りにイカなかったら、怒鳴りつけて叱りつけて! そんなのアイツとおんなじじゃない! 私のことなんて、ちっとも考えてなんかくれないわ! それを想うだなんて、勝手な自己満足を小綺麗に飾らないでよ!」
「フラン。甘やかすだけが優しさじゃないって、俺は想っているんだよ」
「な、何よ……」
じっと押し黙っていた権兵衛が、穏やかな口調で語りかけてきた。
フランの怒声と美鈴の哀願に比べたらその声量は小さいものだったが、フランの耳にはやけにハッキリと彼の言葉が届いた。
そして一歩。緊張が限界まで膨れ上がった空間を、何でもないように踏み出した。フランの怒気に当てられながらも、萎縮するでもなく竦むでもなく、その足取りはしっかりとしている。そんな人間を目の当たりにしたのはフランにとっても初めてで、少女を躊躇させるには十分なようだった。
フランばかりではない。美鈴も、離れて見ていただけの咲夜でも、その光景に異常性を覚えたぐらいだ。
「ありがとう美鈴」
「あ、はい」
美鈴が呆けている間にも権兵衛は歩みを止めておらず、彼女の抱える鉢を受け取る。
その鉢に彼は最後の仕上げを添えた。何一つ芽吹く事の無かったフランの鉢で唯一、淋しげに存在を主張している名札を引き抜いて腕の中の鉢に差し替えた。
「はい、どうぞ」
「な、何よアンタ……。何なのよ、コレ……」
「何って、フランちゃんのトマトだろ?」
フランは震える声を抑える事で精一杯だった。
差し出された鉢を覗くとそこには、先程に追加されたばかりの名札と、もう一つ。青々とした、双葉が芽吹いている。
「あー、そのー。権兵衛さんは妹様が失敗するだろうと見越して保険を掛けていたんですよ。それでもう一つ、妹様の為に、って育てて置いたんです」
「――えっ?」
権兵衛が、美鈴が、何を言っているのかフランには分からなかった。まるで二人の話す言葉が異国の言語のように、ちっとも理解出来なかった。
だから、少女は恐る恐る尋ねた。まるで怒られるのを怖がる子供のように。
「えっと。あの、コレ……。……貰ってもいいの?」
「貰うも何も、最初からフランちゃんのだってば」
さっきまではあんなに怒りを振りまいていた少女が、今はその翼すら縮こまらせているので男は思わず苦笑した。
男に力強く言われ、ようやくフランはおずおずと腕を伸ばした。そして受け取った鉢を大切な宝物のようにしっかりと両の腕で抱いた。
「私の……」
やれやれと、美鈴はフランから急速に気が収束していくのを確認して、額を流れる脂汗を拭ってそっと息を吐いた。一時はどうなることかと、生きた心地がしなかったがやっと人心地つけると、無意識の内に止めていた息を深く深く吐き出した。
「あの、お兄様……」
「ん、なんだい?」
思い詰めた表情でフランは切り出す。彼女からすればその言葉を一言口にするのは、清水の舞台から飛び降りる以上の覚悟だのに、対する男の答えは軽く、気持ちの格差にフランはちょっとだけムッとした。
ちょっとムッとしたから言葉を引っ込めてやろうかともフランは考えたが、やっぱりコレは言わなきゃならないと一世一代の決心を以って口にした。
「……ごめなさい」
「ふぅん~。それだけかなー?」
「えっ? あっ、あの、お兄様……?」
誰にも下げたことのない頭を下げたというのに。人間相手に屈辱だとか、そんな感情は全く湧き上がってこない。心の底から謝れば、この優しい兄と慕う男は笑って許してくれる。そうしてまた昨日みたいな関係になれると考えていたフランからすれば、権兵衛が口にした言葉は到底信じられなかった。信じたくなかった。
――許してくれない。その事実を前にフランは癇癪を起こすでもなく、ただ目の前が真っ暗になった。悲しみやら後悔やら絶望が、幼い少女の心を覆い尽くす。少女の瞳には溢れんばかりの涙が溜まって、慌てて美鈴は近付いてひっそりと小声で囁いた。
「妹様、こういう時は――ごにょごにょ」
流石の『気を使う程度の能力』だけはある。フォローもお手の物だが、美鈴は損な役回りだと認識していたので、恨めしそうな瞳を権兵衛に向けた。その視線から逃れるように権兵衛は顔を背けた、酷い男である。
「あのあのっ! お兄様……、ありが、とぅ……」
「どういたしまして」
「あっ……」
感謝を伝えるのは、謝るより何倍も照れ臭い事だとフランは理解した。その照れ臭さを堪えて思いを伝えた先に、こんな暖かい気持ちになれるのだったら、矢張りして良かったのだ。
権兵衛はフランと目線の高さを合わせて、くしゃりと、彼女の頭を撫でた。力強く乱暴な撫で方だったが不思議と不快ではなかった。それどころか彼の手が直接撫でるのを遮る麦わら帽子が邪魔だとすら感じたが、それを脱いだら灰になってしまうので、今回は脱ぐのを断念した。
「フランちゃん? 他人の嫌がることはしない。迷惑を掛けちゃいけない。なんて言うつもりは無いよ。そんなの無理だからね。だから迷惑を掛けて、掛けられて、それを許して助けて感謝して、そうやって生きるのって素敵だと思わないかい?」
「うんっ。分かるよ。今なら、すごく分かる……」
フランの声は感極まったように上擦っていた。
それを少し離れた所から見守っていた美鈴は「ほう」と感心する。
人の寿命は短い。妖怪とは比較にならない程に。だからこそ短い人生で、妖怪では到底及ばぬ密度の時間を過ごし、想像も付かない偉業を成し遂げたりするのだ。
権兵衛もまた、美鈴から見れば子供も子供であった。しかし彼は、人間としてはそれなりに年月を重ねているのだ。自分の物差しで測ってはいけないと、常々自戒しているつもりであったが、その点に関しては自分はまだまだ未熟だったようだ。
彼の意外にも達観した思考は、長年生きた美鈴でも中々至る事の難しい立派な考えであった。
記憶を失おうとも、人と人が支え合い、誰かの為に生きようとする考えは、きっと彼の根底にある原理なのだろう。
だがそれにしても、と美鈴は眉を潜めた。
フランの殺気を受けて尚、平然と近付いていったのは常人ではなく、狂人のソレに近い。
その事実の持つ不穏さを考えると、キャッキャと喜ぶ二人を純粋に祝う気持ちも翳ってしまった。
「ねぇねぇお兄様。どうして私が失敗するって分かったの? やっぱり細工でもしたんじゃないの?」
「こらっ。またそうやって他人を疑う」
「ごめんなさいー」
「それはですね。妹様が水をあげ過ぎたからです」
二人ばかりで和やかな空間を形作り、すっかり存在を忘れられてしまったんじゃないかって美鈴が、ここぞとばかりに解説した。ここらで強引にでも話に加わらなければ、これ以上に出番もなくフェードアウトしそうな気がして必死だった。
「水を? だってお花には水はあげなきゃ駄目でしょ?」
「えぇ、ですからあげ過ぎと申し上げたのです。水のやり過ぎで、種が芽を吹く前に腐ってしまったのです。水ばかりではありません。妹様は良かれと思ってやったのでしょうが、肥料も同様に多過ぎでした。あれでは仮に成長しても、葉ばかり育って中々美味しい実が成らないことでしょう」
「んー? んんんー……?」
「要するに、あんなに水をやっちゃ駄目なんだって」
「分かったわお兄様!」
「えぇー……」
同じ事を説明していた筈なのに、自分の言葉には首を傾げて、権兵衛の言葉には可愛らしい笑顔を浮かべて即座に解答するフラン。扱いの差に愕然とする。
「それじゃぁこのくらい?」
「フランちゃん、それは水をやるって言うんじゃなくて水滴を垂らすって言うんだよ」
「んー、じゃぁこれくらい?」
「……極端過ぎるだろ」
その仲の良さに美鈴は若干嫉妬の感情が芽生えるが、フランの笑顔を見れば、たまには損な役回りも悪くないと思った。
「まったく、見てられないですね」
フランは四苦八苦しながらも、どこか楽しげで。
権兵衛はそんな妹に苦笑を零し。
そして一日の長を披露するべく駈け出した私も間違いなく笑顔なのだろう。
そんな幸せな、何でもない日の一枚の風景。
「どうしてこうなるのよ!」
少し離れた場所で、憎悪の炎を瞳に灯した咲夜がいた。
途中までは順調だったのだ。フランが激昂して、権兵衛が頬を張って、彼女が能力を発動させようとする、ここまでは。
だのに美鈴が余計な横槍を入れるから、二人の仲は元通り、いや前以上に強固なものになってしまった。
テラスは菜園からは遠く、フランが怒りに任せて叫んだような声でもなければ、流石に何を話しているかは聞こえない。だから美鈴の横槍が、実は権兵衛の案だと言う事も咲夜には分からなかった。
……過ぎてしまった事は、仕方のない。次の算段を考えなければ。男を排除する算段を、と咲夜はテラスを後にしようとした。
「本当。どうしてこうなってるんだろう、なぁ?」
「お嬢様っ!?」
聞き間違える筈の無い声が、聞こえてはいけない声が響いて、咲夜は震えた。
眼前の出来事に集中するあまり、館内の動きへの気配りが疎かになっていた。主人の気配にも気付かないぐらいに。こんな失態らしい失態は咲夜のメイド生活の中でも前例が無い。
「い、何時からこちらに?」
「……いつからだ」
「は……?」
二人の会話は噛み合わない。咲夜は動揺を隠す事が出来ず如実に声色に現してしまっているが、従者の心情なぞレミリアには関係あるものか。
「いつからだって聞いているのよ! いつ、権兵衛とフランが知りあったのよ!? いつ、いつの間にあんな仲を深めたって聞いてるの、それくらい解りなさいよこの愚図!」
主人の立場を繕う事も忘れ、激情のまま咲夜へと当たり散らすレミリア。そこに紅魔館の当主たる威厳なんて欠片も存在せず、いるのは見た目相応の少女だった。とでも言えば聞こえはいいが、結局は子供の癇癪、フランのそれと変わらない辺り姉妹である。
「そ、それは……」
「オマエ、知っていたんじゃないよね」
まさか自分が知り合わせたなんて、口が裂けても言えなかった。主人に対して虚偽の報告をするのは咲夜の理念に反していたが、正直に応えたとしたら自分は明日の朝日も拝む事はない。
「知らせる必要も、無いかと思いまして――」
「ッ!」
次の瞬間、咲夜の頬が弾けた。
権兵衛がフランにしたことを、レミリアが咲夜にしたのだ。同じ平手に過ぎないが、二者には相手を思いやる心の有無という決定的な違いがあった。
「二度と余計な事をするな!」
「……畏まりました」
頭を下げる従者を冷たく見下ろして、レミリアは怒りも収まらぬままメイドに背を向けた。黒い翼の揺れるその背中は明らかな拒絶の意思を示しており、咲夜は声を掛ける事もままならなかった。
例え声を掛けようとも、口を吐いて出るのは女々しい嘘と言い訳にしかならないのだから。只々悔しさに歯噛みする事しか出来なかった。