長い長い――永過ぎる悪夢を見ていた。
悪夢なんて見ても良い事はこれっぽっちも無いが、唯一救いがあるとするならば夢は必ず覚めるという点に違いない。夢と現の境界を浮き沈みする微睡みを経て、権兵衛の意識が浮上する。
「っ……」
瞼を開けると、最早そこには見慣れた天井があった。
上体を起こして周囲を見回して、失望とも安心とも取れる溜息を権兵衛は吐いた。正確に言えば男はまだ権兵衛ではない。これから遠くない未来、紅魔館の女主人レミリアと対面した時点で自らを名付ける予定である。
彼には記憶があった。
断片的な記憶だが、フランに殺される記憶。レミリアに殺される記憶。或いはもっと他の誰かに殺される――何度死んだのかは解らないが――紅魔館で過ごした日々の記憶があった。そんな絵空事を信じられる形のある証拠なんてのは無いが、その記憶こそが権兵衛に確信を持たせる十二分なものだった。
彼女らに倣って言えば『死んでやり直す程度の能力』とでも呼べば良いのか。
彼とて自分の能力の全容を正しく認識している訳ではない。確信は得ているものの、その記憶の一部は霞が掛かり朧気にしか思い出せない部分がある。なんとも半端な能力だ。感覚としては、他人の日記を覗いているものに近いかもしれない。そしてその日記は、そこそこ黒塗りされている、と。
そしてここが肝要なのだが、矢張り自分の正体が解らない事か。
記憶はある。紅魔館で過ごした日々の記憶は、不鮮明ながら大量に――それこそ人の一生では賄えない程の――記憶があるにはあるが。それより以前、紅魔館に連れて来られる前の、己の正体を判明させる類の物は何一つ覚えて無かった。
記憶のある記憶喪失者なんて前代未聞だろうし、これから先もおそらくないだろう。その事実は権兵衛をクスリと笑わせた。
さて。そんな能力を持つ自分はどうすれば良いのか。己の持ちうる記憶は、彼が一つの決意を抱くに十分な情報量があった。
紅魔館の皆を幸せにしよう。
馬鹿げた考えだと、自分でも思う。己は聖人でも、狂人でもないのだ。ごく当たり前に、そんな事は不可能だと指摘する知能は持ち得ている。だが己は、卑怯にも失敗をしてもやり直せる、幸いにも修正が出来る。何十何百何千と、幾ら掛かろうとも、失敗を元に成功へと導けるのだ。
彼にその決断をさせる程度には紅魔館の住人らは、皆不器用で自分勝手で、そして優しかった。
早速行動を起こそうとベッドから這い出る。悪夢から目覚めたばかりの身体は何時も通りに絶不調で、彼の思うようには上手く動きはしない。時計は無いが大体の感覚で、そろそろ咲夜が来る頃合いだとは理解していた。
「っ。……おはようございます」
矢張りであった。咲夜が音も無く姿を現す。
思えば初めて彼女に出会った時には、その身なりに混乱したものだ。慣れとは恐ろしいもので、今となっては彼女がメイド服以外を着ている方が強い違和感を覚えるだろう。
そう、違和感である。暗がりの中で佇む咲夜の姿を一目見て、権兵衛はほんの僅かな違和感を覚えた。
だが記憶と違わぬ咲夜の出現。その強い既視感が違和感を塗り潰してしまった。そして次なる彼女の行動に、権兵衛は軽い驚きを覚える羽目になる。
「お身体の調子は、あまり優れないようですね……。よろしければ、僭越ながら私めがお着替えのお手伝いをさせて頂きますが?」
おやっ? 権兵衛は首を捻った。
言うまでもなく、彼は数えきれぬ程の世界を繰り返して来た訳だが、咲夜がこんな申し出をする世界は経験していない。いや、経験していたとしても覚えていないだけかもしれないが、兎角、初めての事だった。
……問題は無い、か? 経験則上――実際に経験したものではないが――、世界と云うのは結構ブレる。多少の時間が前後したり、行うべき人物が変わったりと、大筋の物語はに影響を与えない程度の変化はしょっちゅう起きる。だからこそ、皆を幸せにする未来というのは不可能だと断じたのだ。
しかし少しのブレでも繰り返してゆけば、いつかは大きなブレとなって、大きく未来を変じてしまう。だからこそ彼は不可能を決意したのだ。
何時の世界だったか、レミリアは語った。権兵衛の運命を珍しいものだと。おそらく、この能力に起因しているのだろう。
前回の世界すら、どの様なものだったか。記憶の混濁は激しく、それさえも分からない。
だから咲夜の言動もブレの一つに過ぎないと、この時の権兵衛は深く考えなかった。
「いや、いいよ。自分で着替え――」
「よろしいですね?」
「……はい」
やんわりと申し出を断りつつ服へと腕を伸ばすと、目の前から服が消え去った。見れば咲夜が、己が着る予定の服を掻き抱いているではないか。
そうして間髪入れず咲夜の力強い、否定を許さぬ口調が飛んできて、この男がどうして断れようか。
蝋燭の光量は薄く、咲夜の表情に影を落としおおよそ窺い知る事は出来ない。だが見間違いでなければ、その頬がほんのりと朱に染まっていた。今のやり取りの何処に色付く要素があるのだろう? そんなもの、ありはしないのだからきっと、蝋燭の明かりが彼女を赤く照らしていたに違いない。
「それでは失礼します」
スススッと、音も無く咲夜が近寄る。必要以上に接近された気がするのは、自意識過剰なのだろうか。
着替えをさせ易いようにと腕を上げた権兵衛に不快感も無く裾が通る。パリっと仕立てられた新品のこいつに、袖を通すのも何度目になるのだろう。
咲夜の手付きは手慣れたもので、淀みなく素早かった。……のも途中までである。両腕をシャツに通して、咲夜は前へと回りボタンを止めようとして、動きを止めた。
「えっ、あの……?」
おもむろに胸板へと指を這わせてきた。……何かの間違いかと思い動かないでいると、着せたばかりの服の合間へと腕を差し込んできた。
「ちょっ、何してんの!?」
「いえ……、お身体のどこが悪いかも分かりません。こうしてくまなくチェックを」
「いや、いい! 大丈夫だから――」
「チェックです」
またも強い言葉に権兵衛は拒否が出来ず、なし崩しでボディチェックされる事になった。
彼女の細い指が全身のあちらこちらを触るので、どうしようもなくくすぐったい。腕から胸へ。胸から腹へとくまなく揉まれて、権兵衛は笑いを堪えるのに必死だった。しかも我慢するのは笑いだけではない。
「んっ……。あ、はぁ……」
何故か咲夜が呻いていた。いや、呻くという表現は適切ではない。その声は熱っぽい艶を帯びており、権兵衛の耳朶を震わせていた。
何故、と権兵衛が疑問を抱くのは尤もである。そんな疑問もすぐに吹き飛んでしまう。
上半身のチェックを終えて、咲夜は跪いた。足首の辺りを指が触れて、そちらもやるのかと些か気が滅入った。
徐々に徐々に、指先は足元から上へ上へと登り、咲夜の視線は股間の辺りでピタリと止まった。
ゴクリと、誰かが息を飲んだ。
「で、では。失礼して――」
「ストップストップストーップ! もう平気ほら平気だからっ! ねっねっ、ありがとう咲夜!」
無理矢理メイドを引き剥がし、右へ左へ身体を捻り元気いっぱいをアピールする。
咲夜は不満そうだったが、これ以上は色んな意味でまずい。
自分だって男だ。美少女にそんな事されて嬉しくない訳ではないが、恋人でもない、嫁入り前の娘さんに恥部を曝け出すのは流石に彼の倫理が許さなかった。
「こほん。お身体に異常はなさそうですわ。それでは、お嬢様がお待ちですので。私は部屋の外で待っています。準備が出来たら、声をお掛けになって下さい」
「あ、あぁ。分かった」
打って変わって咲夜は瀟洒なメイドへと変貌した。用向きを伝えて部屋を後にする。
残された権兵衛は、今も五月蝿い心臓をどうにかしようと、胸を抑え一つ二つと深呼吸をした。彼女の変わり身の早さが、先の出来事は幻だったのでは、との考えすら浮かんでしまう。しかし部屋に漂う自分のものではない、残り香が先程の出来事が現実だったことをしかと訴えていた。
「ふぅ……」
部屋の扉により掛かり、咲夜は小さく息を吐いた。
権兵衛が生きている。その事実が何よりも嬉しくて、つい気持ちが先走ってしまった。少々でしゃばりが過ぎて、危うくヘマをやらかしそうになってしまったが、問題は無いだろう。
だって権兵衛さんですもの。
自分が失敗をするなんて前提はあまり意味が無いが、例え失敗したとしても彼は許してくれる。いや、やっぱり怒るかもしれない。かつての妹様相手みたいに、頬を叩かれるかもしれない。そして彼は、自分を思っての叱責を檄してくれるのだ。
……それも悪くないな、と。そんな想像をして、咲夜は下着が湿るのを感じた。
慌てず騒がず、時を止めて新しい物へと変えてきたが、やっぱりすぐに濡らしてしまった。
洗い物が増えるなぁと、ちょっぴりズレた憂慮をする咲夜だった。
「……そう言えば私、名乗ったかしら?」
妄想の合間、ふと冷静さを取り戻したメイドは思い出した。愛しい男が私の名前を呼んだことを。
咲夜の呟きは廊下の闇へと飲み込まれていった。
「ようこそ客人、紅魔館へ。私が当主のレミリア=スカーレットだ」
このやり取りも何度目だろうか、権兵衛は苦笑した。
おっと、何周もしているって自分以外知らないのだ。レミリアからすれば男が急にニヤついたようにしか見えないだろうと、権兵衛は改めて真剣な顔をして小さな主と向き合った。
彼は知っているのは、当主の名前ばかりではない。少女が、何を求めているかも理解している。
だから権兵衛は先んじて答えた。
「俺は名無しの権兵衛。記憶喪失なんだ」
「は、へ……?」
その尊大な言葉遣いも、当主としての体裁を取り繕うための苦労だとも知っている。
「ちょっと待て!? そんな堂々とした記憶喪失があるか!?」
「いやぁ、嘘みたいな本当の話なんだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだよ、うん」
「はぁ~~!? 何よそれ!」
レミリアが酷く取り乱し、落ち込む事も知っている。
威厳という猫を脱ぎ捨てたレミリアは地団駄を踏み、一頻り騒いだ後、ようやく落ち着きを取り戻して玉座に腰を下ろすのだ。
「はぁ~……。いいわ。オマエには今後に期待するって事で」
盛大に溜息を吐き、頭を抱える。そして幻想郷の事、紅魔館の事吸血鬼の事。それとちょっとした雑談を交わして、己の腹の虫を合図にレミリアとの初めて邂逅は終わる。権兵衛の記憶が確かなら、そうなる筈だった。
だが、何がどうしてか、今回は毛色が違った。
「で、だ。オマエはどうしてそんな所にいるんだ?」
オマエという存在にレミリアは鋭い視線を送った。権兵衛ではない。彼の背後に静かに佇む十六夜咲夜に対しての言葉だった。そう、咲夜の定位置はレミリアの背後だった。だのに今回の彼女は、道中を案内する時ですら、権兵衛の前を出ようとはせず、彼の背後で常に一定の距離を保ちピタリと
主人の批難にも咲夜は怯む事なく、凛と響き渡る声で確かに言った。
あまりの堂々っぷりにレミリアは少し引いてしまった。
「レミリア様」
「な、何よ……」
「権兵衛さんは紅魔館に来たばかり。幻想郷は及び館にだって不慣れです。彼に万が一を及ばないようにする為にも、私がしっかりと付くのが最良かと存じます」
「馬鹿を言うな! 咲夜、オマエは誰のメイドだと思っている。勝手に出しゃばるような真似をして――」
とても受け入れられる提案ではない。レミリアの未来計画では自分と権兵衛は徐々に仲を深めて結ばれるのだ。咲夜の言葉が真に主人を考えての発言だとしても、その過程に自分以外の女が強く接触する様な案を採用するなんてとてもじゃないが耐えられない。
「レミリア様。どうかご賢明な判断を」
「う……、うー!」
しかし咲夜も折れず、主人に再考を促した。更には彼女は二度ばかり進言しただけではなく、権兵衛からは決して見えない角度、その瞳は薄く細められ主人を相手にも有無を言わせぬ迫力を秘めていた。
「うー! ……分かったわよ! 権兵衛が慣れるまでの間のっ、ちょっとだからね!」
「有難うございます」
咲夜は恭しく頭を下げ、誰にも悟られぬ様に小さくほくそ笑んだ。
「という事ですので権兵衛さん。よろしくお願いしますわ」
「あ、あぁ。よろしく」
「ちょっとだけなんだからね! ちょーっとなんだからっ!」
咲夜が自分の世話役、いや監視役か。を自ら進み出る事はあった。だが、ここまでトントン拍子に事が運んだのは無く、あまりの展開の早さに権兵衛は阿呆の様に口を開くしか出来なかった。
「ではお嬢様。私は権兵衛さんを部屋にお送り返して参ります。食事の準備もありますので」
行きましょうと。咲夜は権兵衛の手を引いて出て行ってしまった。男を引くその手も、決して権兵衛に不快感を与えないように立ち回り、正に権兵衛の為のメイドの姿だった。
レミリアは面白く無い。
部屋で一人むくれる事にした。
しかし、どうにも引っかかる。咲夜の言動と態度が。
だがそれも権兵衛との未来を思ってしまえばすぐに掻き消された。レミリアは沢山の期待と一抹の不安を胸に、夕食へと想い馳せる事にした。
そして晩餐の時。権兵衛の歓迎も兼ねた夕食は、豪勢と一言では到底現せぬ程の贅が尽くされていた。
広いテーブルを埋め尽くす程の料理の数々。
レミリアは呆気に取られた。宴会でもないのに、ただ二人なのに、どう食べろと言うのだ。勿論権兵衛も呆気に取られていた。
そう、呆気に取られているだけでは料理は減らない。二人はナイフとフォークを手に、黙々と料理を口に運んだ。
「あ、権兵衛さん。お口にソースが――」
「えっ……! じ、自分で拭けるからっ」
「もうっ、じっとしていて下さい」
男の言葉に耳を貸さず、咲夜はそっと彼の口元のソースをハンカチで拭った。出来ることなら舌で舐め取りたかったが、他人の目の手前、自重した。そして自分の能力を思い出し、今度はそうしようと固く誓うメイドがいた。
権兵衛の顔は熟れたトマトもかくや、という程であるし、レミリアもまた怒りで真っ赤になった。
「くあー! イチャラブすんなー!」
もうカリスマのバーゲンセールである。レミリアは嫉妬丸出しの絶叫をあげた。
「……レミリア様、食事中に叫ぶなんて淑女あるまじき行為です。私はメイドとして普段と何ら変わっていませんわ。これをイチャラブと言うなら、私とレミリア様の関係だってイチャラブしていた事になりますね」
しれり。咲夜は平然と主人に言い返した。
確かに、権兵衛の知る二人だと、レミリアの少しばかし未熟な食事作法を咲夜が常にフォローしていた。こうして口を拭わせていたのも、一度や二度ではない。
レミリアはぐぅの音も出なかった。
「う、うー! うーっ!!」
代わりに涙声で、うーうー声をあげた。
「疲れた……」
自室のベッドに突っ伏して、権兵衛は心の底からの声を呟いた。
食事も終わり部屋へ戻る際にも、咲夜の監視の目は苛烈を極めていた。それは男の心身を著しく疲弊させ、自室へ辿り着いた彼を真っ先にベッドへ誘う程だった。
咲夜の腕は確かで、食事は何時もと変わらず、いや何時もよりも美味いと感じた。だがその味を楽しむには、咲夜の過剰な給仕とレミリアの恨みがましい視線に挟まれて、満足に出来る筈もなかった。
「……」
疲労困憊だからと言って何もしない訳にはいかない。
権兵衛が描く未来は困難な道である。皆を幸せになんて息巻いたものの、具体的な案も策もない。
どうすれば良いのかウンウンと唸り、まず一番にフランを助けようと考え付いた。
実の姉に五百年に近い歳月を幽閉され、友人も知人も少ない彼女は、……到底幸福とは呼べぬだろう。せめて館を自由に歩けるぐらいには、救ってやりたい。それをまず、第一の目的に置いた。
手段はどうする? フランの部屋は、確か――記憶の中、札いっぱいが張られた鉄扉の光景がよぎる。よし、きちんと覚えているな。鍵は、咲夜が持っているがフランの能力を以てすれば開けるのも容易い。
だが、出会ってすぐの彼女は狂気の振り幅が強かった。魔理沙というフランの数少ない心許せる人物がいたからこそ、彼は割りと素直にフランへ受け入れられたのだ。
もし一人で逢いでも行ったら、無残に臓物を撒き散らす。そんな予感がある。
協力者が必要だ。真っ先に脳裏に浮かんだのは姉であるレミリアだが、論外である。好き好んで幽閉している訳ではないのは百も承知だが、一方で彼女こそ妹を閉じ込めている張本人なのだ。どうして協力が得られようか。
残念ながらパチュリーも却下だ。彼女の知識は大いに役立ちそうだが、性格上協力して貰えるとは思えない。小悪魔なんて論外も論外だ。
では美鈴は、……悪くないんじゃないのか? 彼女はおそらくだが、館の住人の中で一番フランを気にかけている節がある。同情もしている。何より彼女とは――三人で植物を育てている光景がフラッシュバックした。並んで映る美鈴とフランの姿は、矢張り仲の良い姉妹のようであった。その光景の人物らとこの世界の住人らは同一人物では無いにせよ、美鈴という選択肢は十分に及第点を超えている様に思えた。
それに、だ。またこの世界でも美鈴となら、同じようにフランの成長を促せるんじゃないかって、淡い期待を抱く。
後は――咲夜、か。彼女に関しては敢えて選択肢から外していた。どうしてかこの世界の咲夜は自分に好意的だ。それは嬉しい、嬉しいのだが――何せ権兵衛だって、咲夜を好いたままだ――、余りにも彼の記憶にある世界の人物像と異なりすぎている。
頼めば意外と二つ返事で引き受けてくれるかもしれない。しかし矢張り、己の知る彼女とはあまりに違い過ぎて、結局彼女がどう動くのか判断がつかない。
相談する相手は、決まった。