「美鈴!」
権兵衛は朝食を食べ終えて直ぐ門へと向かった。そこには何時だって門番に佇む、彼女の姿があった。
当の美鈴と言えば、寝ていた。朝も早くから器用に立ち寝をして職務を放棄していた。起こす意味合いも兼ねて、ちょっと大きめの声量で名前を呼んでやると慌てて目を覚ます。大方メイド長のナイフが飛んで来るとでも思ったのだろう。
しかし瞼を開けた先にいた人物は、美鈴が想像していた人物では無い。声の主は、見ず知らずの男だった。美鈴はなけなしの警戒心を蜂起させる。
「む、何者ですか。私がいる限り紅魔館には一歩も……、ってあれー? もう館の中にいるじゃないですかー……」
身体は自然と構えを取り普段のぽややんとした様子が失せる。しかし男が門の外ではなく内にいる事に気付くと、美鈴の頭は混乱して何時ものぽややんに戻ってしまった。
「あれ? えーっと、あなたは権兵衛さん、でしたっけ?」
閉鎖的な紅魔館。妖精たちに溢れて噂の伝播は早い。
「って、どうして私の名前を?」
「それは……、妖精達から聞いたんだよ」
「ああ、なるほど」
お喋りな彼女らの扱いは一長一短である。
早速権兵衛は自分の迂闊さを呪いながらも、即座に適当を吹いた。その答えは美鈴を十分納得させる説得力を持っており、深くは追求されなかった。
「それで美鈴、君に相談したい事があるんだ」
「えっと、相談ですか? ……何でしょう」
むくりと、再度警戒心が鎌首をもたげる。知ったばかりの男が相談なんて、彼女の警戒も尤もだ。とりま警戒を解す手段を持たぬ権兵衛は「これも妖精から聞いたんだけど」と前置きして本題に入った。
「フランの事なんだけど――」
「わーっ! わーっ! ちょちょちょっ、ちょっと権兵衛さんこっち来て頂けますっ!?」
一言発した所で美鈴はじたばたと両手を暴れさせて、ぐいと塀の影、館からの死角に男を連れ込んだ。
そして声を潜めながら怒鳴るという、器用な真似を披露する。
「いやマズいですって! こんな真昼間の往来で妹様の話は……!」
「す、すいません」
その剣幕に権兵衛は配慮の足りなさを自覚し、謝る。
それ程までに彼女の、フランドールの話は紅魔館ではタブーなのだ。
妖精から聞いたなんて言い訳じゃ疑わしさが増すばかりか、との心配も杞憂のようで。意外すぎる話題に美鈴の脳内は冷静さをすっかり失っていた。
「……とりあえず、腕を離してくれないか。痛いんだが」
「へ……。あぁっ、すいませんすいません!」
今度は美鈴が、先の権兵衛とは比較にならぬ勢いで頭を下げて来た。互いが互い謝るなんて少しおかしくて、権兵衛は小さく笑った。
「それで相談っていうのは、……フランをどうにか外へ出せないかって言うのなんだけど」
ぴくりと、美鈴の眉が跳ね上がる。彼女にしては珍しい、不快の色だった。
「待って下さい。どうしてあなたがそんな事を、昨日今日目覚めた男が、一体何を企んでいるんです?」
美鈴が真っ直ぐな敵意をぶつけてくるなんて、若干予想外の展開となった。
しかし権兵衛は目ざとく見逃していなかった。彼女の瞳にフランへ対する憐憫にも似た感情が揺れ動いている事を。
だが何と答えれば良いのか、権兵衛は考えた。今までの出来事を正直な話をした所で到底信じられる内容ではなく、むしろ彼女の不信を買ってしまいそうだ。だからと言って嘘を積み上げても、不誠実さな事に変わりなく、協力が得られるかは怪しい。
故に権兵衛は、正直な気持ちのみを口にした。
「助けたいって思う気持ちはさ、そんな悪いことかな?」
「は……?」
そんな返答は予想して無かったのだろう。美鈴はぽかんと口を開けて、きっかり一分、時を止めていた。
「いや、いやいやいや! そんな事! えっとっ、良い事だと思いますよ!? だけど――」
「だったら良いじゃないかー」
「良くありませんって! そりゃ私だって、出来る事ならどうにかしてあげたいですよ! だけどリスキーなんです! あまりにも! 彼女に手を出そうって言うのは、下手をすれば死を意味するんです!」
「だから良いじゃないか。美鈴だって、助けたいって言っただろ?」
「ッ~~!」
美鈴は息を呑んだ。
全く道理の通じぬこの男に。ただ感情のみを論じ、優先させるこの男に。こんな、聖人みたいな馬鹿をのたまう人間がいるなんて、長く生きた美鈴ですら俄には信じられない事だった。だが、その瞳は何処までも真っ直ぐで、故に彼女は男が全く嘘偽りを抱いていない事を察し、ついたじろいでしまう。
権兵衛という男は卑怯だった。その動揺を見逃さず、一切邪気の感じさせぬ笑顔を作り、美鈴の心の隙を突く。
美鈴はかつてない程自分の顔が熱いのを感じていた。
彼の顔を、真っ直ぐに見られない。
ちょっとだけなら協力してもいいかな。そんな思いが心の隅に生まれてきた時、美鈴は弾かれたように顔をあげた。
「美鈴?」
「……すいません権兵衛さん。お返事はまた今度と言う事で。今は、その――」
「構わないよ。急な話しだもんな。聞いてくれてありがとう」
美鈴の心を知ってか知らずか、男は言葉を遮ってその場を後にした。
彼女が続ける筈だった言葉を発する機会は失われてしまった。いや、「危険だから」なんて、口にしない方が良いに決っている。
美鈴の『気を使う能力』が、自分に向けられる、これほど濃密な殺気に気付かない筈が無い。
去り際に権兵衛がもう一度美鈴に微笑みを向けた瞬間、殺気は数倍にも膨れ上がった。
「何者ですか」
殺気の出処。門戸の影へ、美鈴とは思えぬ鋭い声が放たれた。
只者ではない事は、尋常ならざる殺気から既に察している。不審者かもしれない相手に何者かなんて問うて、相手が正直に答えるとは思えなかったが、聞かずにも入られない。
殺気の正体は意外な人物だった。
「咲夜さん」
影から姿を現したのは美鈴のよく見知る人間であった。しかし何故、問い詰めようとした美鈴よりも早く、咲夜の口が開いた。
「何話してたの」
「……咲夜さん?」
「ねぇ美鈴? 何、話してたの? 彼と、権兵衛さんと、二人で何話してたのよ」
咲夜の声を耳にして、美鈴の全身が総毛立つ。
思えば咲夜の殺気とは、謂わば鋭利な刃物のようであった筈。だが今、眼前の少女が放つ殺気はドロリと粘着質な、身体に纏わりついては決して離れようとしない、そんな殺気だった。
平素から居眠りをしてよく向けられる美鈴には、違いがよぅく分かった。
そして壊れたオルゴールの様に同じ言葉を繰り返して、少しずつ美鈴との距離を詰めてゆく。咲夜の手には、太陽を鈍く反射させてはギラリと光るナイフが握られていた。
相手は長年の親しい人物だと云うのに、美鈴は何時の間にか拳を握り身構えていた。自慢の拳も異様な殺気の前ではどこか頼りなく見える。
咲夜は美鈴の様子を意に介した素振りも見せず、ゆらりと幽鬼の足取りで歩み寄ってくる。
「……話せないようなことなの?」
その言葉だけは音色が違った。狂った色はなりを潜めて、ただただ悲しみに満ちていた。
泥濘の中にあり動こうとしなかった美鈴の身体が、呪縛が解けた様に開放された。
「いえ、そんな! そんな……」
ようやく発した言葉は尻すぼみに消えていく。だって、実際に彼との会話は、おいそれと話せないような内容だったのだから。
「何、美鈴? 何の話?」
咲夜の歩みは止まったが、殺気は一向に消える気配はない。
一瞬誤魔化そうかと考えたが、それがバレた瞬間に自分は間違いなく死ぬ。身の危険を覚えて美鈴は、内心で男に謝罪し、あった出来事を全部話した。
「権兵衛さんが、妹様を?」
「ええ。彼は妖精メイドに聞いたって言ってましたけど……」
正直に話した所でも博打のようなものだったが、みるみる咲夜の殺気は萎んで今じゃ微塵も感じない。美鈴は一先ずの危機が去った事に安堵の息を吐いた。
先程の少女の様子は何だっただろう? 少し考えては何故か踏み込んではいけない領域な気がして、その思考を掻き消すように頭を振った。
傍から見れば突如頭を振り出した美鈴の奇行も、既に咲夜の眼中に無い。
彼女の頭脳はひたすら権兵衛の行動、その意味を探っていた。
一つ。彼は嘘を吐いている。
咲夜は今日一日、権兵衛が起きてから今までをずっと見守っていたのだから。何も今日だけでなく昨日だって、彼のおはようからおやすみまでの間ずっとずぅっと、見守っていたのだから。……その後ちょっと私用を満たして遅くなってしまったものの、一時として権兵衛から目を離してはいない。
咲夜の能力を以ってすれば如何な達人だろうと、まして凡人に過ぎぬ権兵衛に気取られないようするなんて造作も無い。
兎も角だ。彼が妖精と接触した事実はまるっと無いのだ。
「あ、あの咲夜さん?」
では何故、彼が妹様の存在を知っている?
少し、探りを入れてみる必要があるか。
本当はあの人を疑うなんて真似、したくはないが、これも彼と私が幸せな未来を掴む為にも必要な行為なのだ。
美鈴はすっかり黙りこくってしまったメイド長に、恐る恐る声を掛けるも無視されてしまった。
……矢張り気になる。先は恐怖に気圧されヘタレてしまったが、それで良いわけがない。
余り気が乗らないが、貧乏くじを引くのは慣れている。美鈴は勇気を以って切り込んだ。
「それにしても。さっきは咲夜さんが別人に見えましたよ」
「……何言ってるのよ美鈴ったら。私は私よ?」
「んー、そうですかぁ?」
確かに、今は受け答えも普通だ。数刻前のドロリとした殺気は綺麗さっぱり消え失せている。しかし未だ違和感は拭えない。
「ん、んん~?」
美鈴は爪先から天辺までじぃっと咲夜を眺め、「あっ」と声を上げた。
咲夜にとって美鈴の不躾な視線はハッキリ言って不愉快だった。しかしその不愉快さも、美鈴の思ってもみない一言で吹き飛ぶ事になる。
「……イメチェンしたんですね」
「えっ」
そう美鈴が指摘したのは咲夜の髪型だった。いつもの咲夜ならば二房、耳からおさげを垂らしているのが、今日は片っぽだけだった。深紅色のリボンで一本の三つ編みを束ねているのみだ。そのアンシンメトリーの髪型故、別人の印象を受けたのだろうか? いや、流石に美鈴がほとほとに能天気だとも、先の咲夜の変容をそれだけで説明付けるつもりはない。それでも、話の切り口としては上々であろう。
だが、美鈴の指摘に咲夜は花笑み、想像以上のテンションの昂ぶりを見せた。
「あぁ――コレっ? コレのことっ!?」
「え、えぇ。そうですけど……」
「うふっ、うふふふふっ! ねぇ、どうかしらっ。よく似合っているでしょう!?」
これまた別人の様に喜ぶ咲夜に、美鈴はちょっと引いてしまった。
しかし不機嫌になられるよりかはマシである。美鈴は彼女らしからぬ慎重さで、言葉を選びつつ褒めそやした。
「えぇ、咲夜さんによくお似合いですよ」
「ふふっ、ありがとう」
「けど一体全体どういう心境の変化です? もしかして贈り物だったりします?」
「ええそうね! 大切な――とても大切な
きゅっと、咲夜は三つ編みを弄び、本当に大切そうにリボンへと触れた。
はて? 一体何時、誰に、そのリボンを送られたのだろう? 彼女が紅魔館から外出したのは、つい先日、食材を買い出しに行ったのが最後だ。その帰りに件の男を拾ってきた訳だが。
権兵衛からのプレゼント? いや、時系列的にそれは違うだろう。
だが、美鈴の勘が囁くのだ。この小さな違和感こそが、咲夜の変質に関わっているのだと。
「へぇ、……どんな方なんです?」
美鈴は生唾を飲み込んで、尋ねる。尋ねてしまった。
刹那、咲夜の双眸はしぃっと細められ、美鈴の背筋に冷たいものが奔った。
「……それを知ってどうするつもり?」
美鈴は確信した。咲夜の異常は、このリボンを送った人物と密接に関係があるのだと。
しかしそれ以上踏み込む事は出来なかった。本能がビンビンに危険を訴えてくるのだ。深入りするな、と。
故に美鈴はおどけた。ヘタレたとも云う。
「い、いやぁ。私なんて一度も贈り物を頂いた事が無いので、参考にでもしたいな~って」
「そう……」
「……あれ? おーい、咲夜さーん?」
それっきり、膨れた殺気はまた萎んでゆく。咲夜は興味を失くした様に背を向け、館内へ消えてしまった。
「何だったんだろう……」
色々理不尽を覚える美鈴だったが、ただならぬ咲夜の様子を思い出して身震いした。
彼女は、本当に私の知っている十六夜咲夜だったのだろうか。なんて、馬鹿な。彼女が十六夜咲夜で無ければなんなのだ。だが、その疑念はどうしても拭えず、ともすれば彼女の殺気に満ちた瞳を思い出してしまう。
今日ぐらいは、サボらず真面目に働こうと思う美鈴であった。
――全く。美鈴と無駄な話をしたせいで彼を見失ってしまったではないか。
苛立ち紛れにリボンを弄ると、荒んだ心が徐々に凪いでゆく。
さて、あの人は次に何処に行くだろうか。考えて咲夜は即座に思考を打ち切る。
……まぁいいか。私にとっては湯水の如くある時間をふんだんに使えば、彼を見つけるなぞ造作も無い事なのだから。
それに、だ。当て所なくとも彼を探す時間というのは、存外楽しいものだ。とは言え早くに見つけるに越した事は無い。
咲夜は権兵衛が向かいそうな場所にアタリを付け、能力を発言させた所で優雅に館内を進むのだった。
権兵衛は次なる目的地に、図書館へと脚を伸ばしている最中だった。
「うーん……」
美鈴から快い言葉を引き出せなかった事を思い浮かべる。記憶があると言っても、更にはそれを下地に行動しても、先の様な不測の事態を招くのかと反省していた。
パチュリーを説得する事は、おそらく無理だと、権兵衛は考えていた。しかし彼女の知恵は頼りになる。それに、何だかんだでパチュリーは優しい。フランを助けたいという目的も、案外と不承不承ながら相談に乗ってくれるかもしれない、そんな淡い期待もあった。
権兵衛にとっても今や紅魔館は我が家同然。迷いなく最短の道を選び、図書館の前へとやって来た。
下手な考えと言うし、例え失敗してもやり直す事の出来る権兵衛は思慮が足らないまま行動に移す事にした。
扉を開け、通いなれた書架の谷を進み、紫の服を着た姿を確認して声を掛ける。
「あー、初めまして? 俺は名無しの権兵衛って言うんだけども」
先程の様なヘマはしないと、今度は自己紹介から初める。
「ちょっと相談したい事が――え?」
予想もしない相手が存在して、権兵衛は続ける言葉を失った。
「……ん、咲夜の淹れる紅茶は流石に一味違うわね」
「恐縮です」
紅茶で唇を潤わせるパチュリーと、彼女に紅茶を注ぐ咲夜の二人の姿があった。
そうして咲夜は「貴方が来るのは解っていましたわ」そんな風に、彼へと微笑んだ。
「こんにちは権兵衛さん」
「……あぁ、貴男ね。話には聞いているわ」
咲夜の挨拶でようやく権兵衛に気付いたパチュリーはカップを置き、本を置いて話を聞く態勢を取った。
「相談したい事って、何?」
果たしてその言葉は、相談を受けようとする立場の言葉だろうか。
むしろ先を制したその態度は、魔女の纏う寡黙さと相まり尋問のようだった。話を切り出す手間が無くなった、などと呑気な権兵衛ですら思えなかった。
何故このようなイレギュラーが起きた? なんて、原因は極めて明白である。本当ならばこの場にいる筈の無い、咲夜だ。どうして彼女が、まるで自分を先回りするかのように居て、更には話を進めているのだ。考えても答えは出ない。
更に厄介なのが、この聡い魔女を前にしては迂闊な事も言えやしないという事だ。彼の内心は激しく動揺していた。だが、それをおくびに出したら怪しまれると、彼は必死に平静を装う。
そんな男の気苦労を知ってか知らずか、いつの間にやら咲夜は権兵衛の背後に付き添従っていた。
「早くしてくれないかしら? そこのメイドと違って私の時間は貴重なの。咲夜の頼みでもなければ、聞きもしなかったでしょうね」
パチュリーの言葉が己の推測の正しさを裏付ける。だが、それだけである。事態が好転する訳ではない。
背後のメイドにちょっと恨みがましい視線を送るも、彼女は目が合うとにこりと、無邪気な笑顔を向けてきた。
魔女の指先が、机を小突く頻度が徐々に増えてゆく。
男は中々言葉を紡げなかった。相談しようとしてい内容は、とうに決まっている。だが、咲夜の――この何を考えているか解らない少女の――存在のおかげで、権兵衛は真正直に話す事を封じられていた。フランを助けたい、という相談を。
故に彼は今一度、言葉を選び直さなければならない。猶予は時間制限付きで、その上短いときた。
苦しみ、悩み抜いた挙句、権兵衛は言った。
「紅魔館の皆を幸せにする方法を探してるんだ」
「はぁ……?」
訳が分からないと云う風な顔のパチュリー。そうして直ぐに鼻で笑い飛ばした。
その行為に、一瞬咲夜の眉が歪んだ。
「呆れた相談ね。冗談にしても質が悪いわ」
パチュリーはソファーに座り直してぼそりと喋り始めた。
「パイというものがあるわね」
語りながらは魔女は虚空に腕を伸ばす。釣られて権兵衛の瞳は少女の指先の先を視る。
テーブルの上には湯気立っているポットとティーカップ。それと茶請けのクラッカーとジャム。パイなんてありやしない。
しかしパチュリーの指先は、絵に描いたパイを切り分けた。
「そのパイを皆々は我先にと奪い合うわ。だって限りがあるんですもの」
「そのパイが、幸せだって言うのか?」
「それこそ、パイだったらハッピーよね。きっときちんと皆に配られるわ。でも現実はもっと残酷よ? 幸福に溢れる者ばかりか辿りつけない者もいる。その上、幸福を願うばかりか他人の不幸を願うものもいる。その逆も然りだとしても、この世の全てにあまねく幸福は行き渡らすなんて、土台無理でしょうね」
要訳すれば、彼女は「皆を幸せにするなんて不可能だ」と言っているのだ。そんなの、十も百も承知である。はいそうですかと易々と諦められる性格でも、能力でもないのだ。
「それでも、俺はしたいんだよ」
その答えに誰かが、息を呑んだ。
男の真っ直ぐな瞳を見て、パチュリーは深い溜息を吐いた。
「ロマンチストなのね。貴男をそうまで駆り立てるものって、何? 知り合ったのだって、昨日でしょ? 私に至ってはついさっきよ。頭がおかしい人間なのかしら?」
「いや、……頭が悪いだけだろうさ。きっと」
言って男は、くたびれた笑顔を浮かべた。
その、彼の年不相応な笑顔の向こうに、パチュリーは有り得ない妄想を重ね、誤魔化す様に呟いた。「……自分で言うかしらね」と。
そして暫く沈黙の天使が舞い降り、一向にお帰りになる気配が無いので権兵衛は席を立った。
「まぁ、兎も角だ。相談に乗ってくれてありがとうなパチュリー。……邪魔したな」
「……待ちなさい」
呼び止めてから、パチュリーは自分の行動が理解出来なかった。
厄介事は嫌いな筈なのに。話すべきことは話し終わった筈なのに。何故、わざわざ男を呼び止めてしまったのか。逡巡して、更に躊躇して、言葉を紡いだ。
「あんな忠告にも見たない解答なんて、動かない大図書館の名折れだわ。また来なさい。困るような事があったら、ね」
言い終わってやっぱり彼女は後悔した。なんて面倒に首を突っ込んでいるんだ私は。
ちょっと驚きを浮かべて喜ぶ男とは対照的に、パチュリーの心は暗鬱たるものだった。男が去り静寂が戻っても、読書に手が付かないのだから彼女の重症っぷりが伺える。
「……で、貴女は何時までいるのかしら」
図書館は静けさを取り戻した。しかし一人の貴重な時間は未だ訪れていなかった。
視線の先、十六夜咲夜が佇んでいる。
「パチュリー様にお聞きしたいことがあります」
「何かしらね。優しい質問だと助かるんだけど」
「……パチュリー様は誰のお味方でしょうか?」
先手を打っておいたのに、またもある種難解な問いかけであった。しかし男のものよりも具体的な問いなのが救いだろう。その答えが、例え己の価値観に依るものだとしても存在するからだ。故に即答する事だって出来る。
しかしパチュリーはしなかった。出来なかったと言い換えてもよい。
咲夜の、ただならぬ様子がパチュリーの唇を縫い付けたのだ。全身からはおどろおどろしい気が、視覚出来るはずもないのに立ち昇っているように見えた。
そんなメイドの表情は、普段と変わらず涼やかで。それが一層、パチュリーには不気味に映った。
まるで眼前の女が、咲夜の皮を被った別人に見えて――。
そんな馬鹿な。有り得ぬ妄想に囚われた思考を打ち切る。仮にだ、その懸念が事実であろうと、面倒を嫌う魔女にとっては栓のない事。さっさと答えて退散願おうと、口を開こうとして喉がカラッカラな事実に気付く。
魔法使いとは、知的欲求と探究心の塊。どこまでも利己的な目的の為に己の生涯を費やす種族だ。例外は、ない。
故に既知である少女が発する未知に対し、好奇心ではなく恐怖心を抱いた事に、パチュリーが抱いた恐怖の程が解ろう。
しかし、だ。如何に特殊な能力を持とうとも、優秀だろうとも、所詮は人間でしかない。そんな人間相手に、臆するのは魔女のプライドが許さない。紅茶を一口含み乾きを癒し、平素と変わらぬ様子で淡々と告げた。
「私は私の味方よ。それ以上でも、それ以外でもないわ」
「……」
パチュリーの頭脳は咲夜の望むだろう答え、つまりは打算も選択肢に含めたが、肝心な咲夜の望みが解らなかった。ある程度の推測は付くものの、矢張り正答を導くには情報が足りない。故にパチュリーは、おそらく次善であろう答えを口にする。自分自身の味方だと、或いは誰の味方もしないと。
果たしてその答えは、咲夜の欲求に応えるものだったのか、メイドは黙したまま語らない。
「その言葉、信じます」
一分か、はたまた十秒にも満たない間だったのかもしれない。場を支配する緊迫感はパチュリーから時間の感覚を奪った。実際にどれくらい経過したのかは解らぬが、パチュリーにとっては長い沈黙の後、咲夜はそれだけ告げて音も無く姿を消した。
「ふぅ……。なんだったのかしらね」
改めてソファーに座り直して、無意識に額を拭う。手の甲にはべっとりと汗が付いており、パチュリーは嫌な顔しながらゴシゴシと、甲をソファーに擦り付けた。
ようやく貴重な時間を取り戻した彼女は、当然の様に本を手に取る。
しかし紙面にびっしりと書かれた文字がちっとも頭に入らない。
考えるのは、平々凡々を絵に描いたような男と、余りにも完璧過ぎて人間味に欠けた女。
権兵衛という男、終始凡人との評価を拭えなかった。ただ最後に見せた枯れた笑みだけは、読み取る事の出来ない感情が垣間見え、どうにもそこに引っ掛かりを覚える。
咲夜という女に関しては、改めて考える余地もない。と、つい先程までは思っていたのだが、あんな気色の悪い感情を秘めていたなんて、評価を改めねばなるまい。
動かない大図書館と称されていても、自分は全知なんかには遥かに及ばないのだ。仮に全知であるならば、本を読む意味も魔法を修める意味もない。まして親友のメイドなんて、多少の付き合いしか無い相手を、どうして心内まで読めようか。それを念頭に置いたとしても、パチュリーは咲夜にあの様な一面があるなんて思ってもみなかった。
静かに本を閉じる。内容が頭に入らない読書なんて、ただ文字をなぞる行為でしかないからだ。
温くなった紅茶を一口。
厄介事は避けられそうにないと、大きな溜息を吐いた。
――全く。あの魔女は一々話が迂遠なのだ。そのせいで、また彼と距離が出来てしまった。
色と音を失った世界を咲夜は走る。急ぐ必要性なんて無いが、要は気持ちの問題である。一刻も早く権兵衛に会いたい。声を、体温を、匂いを、一刻も早く全身で感じたいのだ。
そうして求めている者の姿を視界に捉えると、咲夜は体温が上がるのを感じた。歩を緩め、彼の背後に近付こうとし――その横にいる存在に気付き物陰に隠れる。
能力を解除する。色と音が世界に戻る。
咲夜の耳に愛しい男と、一匹の
歯の奥から鈍い音が鳴る。
暫くすると、メイド妖精は権兵衛に頭を下げ、仕事へ戻っていった。
刹那に見せた表情。頬を桜色に染めたソレは正しく、発情した雌の顔をしていた。
故に男を愛するメイド長は嫉妬に怒り狂う、との予想に反し盛大な溜め息を吐いた。
……思えば紅魔館には、羽虫が多すぎる。
「はぁ、また仕事が増えるわね……」
以前の彼女であれば、メイド業に喜んでいたろうが、今となっては彼との時間が減るだけのソレはひたすらに面倒なものでしかない。
「ま、仕方ないわね。権兵衛さんの為だもの」
彼を思えばこそ、このような手間も掛けられると云うものだ。
もう一度咲夜は吐息を零し、害虫駆除へ乗り出した。
「最近妖精メイドの数が減っているみたいだが。咲夜、何か心当たりは無いか?」
「まぁ、存じ上げませんでしたわ」
食事の終わり、権兵衛を部屋を退出したのを見計らい、彼に
白々しい。レミリアはメイドに聞こえないぐらいの微かな舌打ちをした。
咲夜が、メイド長が知らぬ訳ないのだ。レミリアは館の在り方に口を挟む事はあっても、館の運営に関しては咲夜に一任している。その咲夜が、妖精メイドの異変を察していないわけがない。
仮に彼女が気付いていないのなら、それは正に神隠しであろう。
館の運営に関して言えば、レミリアは問題として捉えていなかった。所詮館の体裁を保つためだけの妖精メイド。一匹二匹いなくなった所で、精々猫の手から毛を毟りとったぐらいでしかない。紅魔館は実質、咲夜一人いれば事足りるのだから。
ならば何が問題なのだろうか。咲夜がレミリアに報告を怠っている、という事実である。
館を管理している当の咲夜が、完璧を旨にしている鉄壁メイドが、妖精の数を把握していない訳がない。
報告するまでもない、自分一人で対処出来る。そう考えている可能性はある。現に今までも小さな問題は咲夜の機転で報告されるまでもなく解決している。ならばレミリアが懸念するべき問題らしい問題では、無いのかもしれない。
だが、たった今、レミリアは咲夜に聞いたのだ。メイドの数が減っていると。
そして咲夜は答えたのだ。自分は知らなかったと。
これが「お嬢様のお耳を穢すほどのことでも無かったので」とでも答えていれば、この問題は小事と見なされ、レミリアは問題と捉えなかったろう。だが十六夜咲夜は今、主人に対して虚偽の返答をしたのだ。これこそが一番の問題なのだ。
レミリアは吸血鬼だ。しかし幻想郷の鬼と違って、一回程度の嘘で怒るような鬼ではない。だからと言って三度許すような仏でもない。
遅れてきた反抗期ならば可愛いものだが、レミリアの脳裏に一つの単語が掠めた。
謀反。
……有り得ない。メイドの小娘如き、私が名付けてやった『十六夜咲夜』である限り、この女は自分を裏切る事は不可能の不文律となっている。
十六夜の由縁はいざない。戸惑い、躊躇の意味を持つ。十五夜の満月と違い、ほんの少しの偏りを持つ。
咲夜とは読んで字の如く、夜に咲く花。つまりは月下美人である。そして月下美人とは満月にのみ咲く花。満月つまり私だ。
人の身でありながら夜に与し、私にだけ従属する者。それが十六夜咲夜という女の全てだ。
自画自賛となるが、レミリアは自分でつけたこの女の名前を気に入っていた。意味も、字面も、音も、運命さえも。何より夜にだけ咲く女なんて、吸血鬼に仕えるには相応しいではないか。
「お話はそれで終わりでしょうか」
「ん、あぁ……。行っていいよ」
元の思考より大分ズレ始めた所で、痺れを切らしたように咲夜が口を開いた。
確かめたい事は既に確認を終えた。咲夜はメイドらしく頭を下げて、音も無く姿を消した。
「……」
咲夜が逆らう事なんて、絶対に無いのだ。その名を持つ限りは。
だがレミリアは、先程の咲夜の台詞を反芻する。最近の彼女の言葉には、気のせいだと思いたいが、節々に主人へ対する敬意が欠けている様が垣間見える。その様子が見え始めたのは何時の頃からだったろうか。
あれは、そう。権兵衛がやってきたぐらいか。偶然で片付けるほど、レミリアはお馬鹿さんではない。何せ権兵衛自体に、その様な変化をもたらす事を期待していたからだ。
予想が現実となろうとして、玉座に座る吸血鬼は余裕たっぷりに組んでいた脚を逆組みにした。
何にせよ、面白くなりそうだと、吸血鬼はくつくつと笑った。
レミリアは知っていたのだろうか、月下美人の花言葉を。
彼の花の花言葉は強い意志、秘めた情熱。そして儚い恋。