幻想狂縁起~紅~ 《完結》+α   作:触手の朔良

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初デェト?

 権兵衛の努力は少しの好転と暗転を繰り返して、遅々として進展を見せなかった。

 自身が意図的に前回と異なる行動をしているせいか、皆の行動が彼の記憶と一致しなくなり、折角の記憶も役に立たなくなってきているのだ。中でも特に、咲夜の行動は読めない。権兵衛は他人が思い通りに動かないからって、憤慨するような人種ではない。

 そうとも。誰が悪いとわけでもないのだ。皆が皆、当然の如く自分の意思で生きているのだ。記憶と違う未来に進んでいる、という事実は権兵衛に自信を与えた。一方で思うように進まない現実にやきもきもしているのだが。

「上手くいかないもんだなぁ……」

 権兵衛は溜息を吐く回数が増えた。

 広い廊下、彼は誰もいないだろうと云う気の緩み故に独りごちたのだが。

「何が上手くいかないのですか?」

「うわっ!」

 答えが返ってくるとは思ってもみず、唐突な女の出現に権兵衛は驚き飛び退いた。

 彼の反応に少し、傷付いた顔を見せる咲夜。

「あぁ吃驚した。その、能力で現れるなとは言わないけど、急に背後を取るのは止めてくれないか?」

「ですが、私はメイドです。やすやす主人の前に出るなんて畏れ多い事は出来ません」

「大袈裟な。咲夜の主人はレミィだろ? 仮に、今は俺に仕えている気構えだとしても、そんなの気にする事ないのに」

 咲夜は答えず、ただ微笑みを以って返した。

 ……目覚めた時からだったろうか。咲夜が、よく笑顔を向けてくれるようになったのは。

 彼女の変化は大変人間味を帯びていて、良い変化だと思う。それだけに原因を考えては来なかったのだが、一体何が原因なのだろう?

 咲夜の変化の起因はまるで分からないが、分かる事もあった。

 世界は決して権兵衛を中心には回ってはいないという事。己の命が失われると、また過去から繰り返す。不明瞭な自分の能力に恐怖を抱いて、胡蝶の夢のような思考に囚われて眠れぬ夜も過ごした事もある。

 それは間違いだし自惚れだった。自分の目覚める前から咲夜は変わっていた。それは決して、この世界は自分の見る幻では無いのだと、恐怖を振り払ってくれたのだ。

 前の世界の彼女であれば、何時も事務的で淡々と冷静さを崩さぬ鉄の女、という印象だった。だが今回の彼女は凛とした態度はあるものの、同時に少女らしい柔らかさを併せ持っていた。

 時折自分に向ける笑顔があんまり優しいので、権兵衛は平常心を保つのが一苦労であった。

 その咲夜が、ちょっと遠慮気味に切り出した。

「あの、権兵衛さん。よろしければ明日、私と里へ降りて頂けませんか?」

「え?」

 予想だにしていなかった提案に、権兵衛の頭は一瞬ショートした。

 少女の顔は耳まで真っ赤で、単なるお出掛けと違う意味を持つ事ぐらい権兵衛にも分かる。

 権兵衛は答えあぐねた。二人で出掛けよう、という提案自体は素直に嬉しく思う。

 だが、この優秀な少女がそれだけの理由で、男を誘うだろうか?

 彼がこの様な不審を抱いたのは、この世界が――もっと言えば咲夜が――自分の知るものと余りにも違い過ぎているからだった。その思考は目の前の少女に対しひどく失礼な考えだったが、彼の頼りにしている記憶にはこんな誘いは初めてで。何より、この呑気な男が疑心に囚われるくらい、咲夜の好意は腑に落ちない点が多々あった。

「その、食材を使い過ぎてしまって、荷物持ちを頼みたいのです。……ダメ、でしょうか?」

 恥ずかしそうに、咲夜は白状する。

 ――何だ、そんな事か。

 確かに、連日の豪勢な食事を思い返す。食材が尽きるのも当然か。

 そう辻褄が合った事にお人好しの権兵衛は納得し、ちょっと戸惑いを残しながらも承諾する。

「では明日の八時に――!」

 すると不安顔から一転して咲夜の顔は花綻んだ。その笑顔を見ると、矢張り引き受けてよかったと思う。

 出発時間と集合場所――と言っても紅魔館の玄関だが――を決めて二人は別れた。

 ふむ、外出か。

 何度となく世界を繰り返したか、外に出たのは数える程しか記憶にない。それ故に外出は彼にとって胸弾むイベントで、その上好いている女と二人きりとなれば嬉しさも一入(ひとしお)だ。

 早く約束の刻限にならないかと、期待に胸を躍らせながらその日、権兵衛は早めに就寝をした。

 そして明朝。

 期待のあまり眠りも浅く、男は日が昇ると同時に目を覚ました。まるで遠足を楽しみにした子供のようだが、しょうがあるまい。

 姿見で身だしなみを整えて、衣装棚を開ける。中には一様に同じ燕尾服がズラリと並び、オシャレの選択は無かった。唯一、自分が最初に着用していた、外界の何でもない服が却って一張羅の役目を担っていた。

 所々に修繕の跡があり、紅魔館に初めてやって来た時を思い出す。……まぁ連れて来られた時の意識は無かったが。

 外界の服は、当たり前だが、権兵衛の身体にピタリと馴染んだ。外の世界の記憶は無いのだが、何処か懐かしさを覚えつつ感触を確かめながら、ふと、時計を見ると約束の時間が近付いていた。

 女性を待たせるより自分が待つ方がマシだろうと、権兵衛は早めに部屋を後にした。

 そんな考えを以て集合場所の玄関へと向かったのだが、そこには咲夜が既に、落ち着きない様子で待っていた。

「ごめん。待たせちゃったかな」

「いいえそんな。私が勝手に待っていただけですので、どうかお気になさらず」

 出鼻から権兵衛の考えはくじかれ、彼は自らの失態に少しだけ落胆する。

 普段の咲夜であれば権兵衛の、どのような小さな変化も見逃す事はない。しかし此度の彼女はフォローを忘れた。

 一見では解らないが咲夜も、大分心が浮ついているのだ。実に珍しい。

 内心ウキウキが止まらない咲夜は、彼の内心も知らずに口を開いた。

「それに、待っている間、これから何をしようかと考えるのも楽しいですから」

「……」

 見たもの誰もが恋に落ちてしまう、美しい笑顔だった。しかし権兵衛には効かない。理由を語るのは、野暮であろう。

 気落ちした権兵衛をフォローしようと気遣おうとした訳ではない。しかし彼の心を慰めるには十分だった。

「あー。……行こうか?」

 目を逸らして先を促す。単にヘタれたとも言える。

 二人が歩き始めてからすぐ、権兵衛は咲夜が両手で持っているバスケットの存在に気付いた。ちょっといい所を見せてやろうと、最初の失敗を挽回しようと息巻いて尋ねる。

「それ、持とうか?」

「大丈夫ですよ」

「いや荷物持ちなんだし」

「お気持ちは嬉しいですけど、本当に大丈夫ですから」

 にべもないとはこの事か。最近の彼女は大分態度が軟化してきた筈だが、この件に関しては、やんわりと口調であったが頑なに譲ろうとしなかった。余程大切なモノなのかと気に掛かるが、余計な詮索は止めておこう。

 男の矜持を収めて彼女の意思を尊重する。

 美鈴が従事しているだろう門が近付いてくる。だろうなんて、曖昧な表現を使う理由は彼女の姿を確認すれば誰もが合点がいく。

 美鈴は土弄りをするでもなく、きちんと門柱の前に立ってはいた。察しの通り、休めの体勢を維持しつつ器用にも立ちながら睡眠を貪っていた。だらしなく開いた口元からは涎が垂れて、折角の美貌も台無しである。

 こくりこくりと、大きく船を漕いでいる様は倒れるんじゃないかと心配になるが侮る事なかれ。美鈴は歴戦のサボり魔である。普段から睡眠の鍛錬を怠る真似はしない。どれだけ大きく身体が傾こうとも、美鈴が倒れる事は絶対にない。

 当たり前だが、門番としては決して褒められた態度ではない。そんな美鈴を目にした咲夜は鬼の表情を――浮かべることなく、さして興味の無い様子で彼女をスルーしてゆく。

「行きましょう権兵衛さん」

「注意しなくても良いのか?」

「良いんですよ。起こすと面倒ですもの」

 自分にされる訳では無いが、朝からお小言が繰り広げられるのだとと覚悟していた権兵衛には、咲夜の行動はただただ驚くばかりだった。時間を無駄使うよりはよっぽどいい事なのだが、今一つ釈然としない。

「さ、ぐずぐずしていたら日が暮れてしまいます」

 咲夜は男の手に自らの手を絡めてきた。その積極性もさる事ながら、何時もは後ろか、せいぜい横までしか出張って来ない彼女が前に出てぐいと引っ張る、これまた珍しい光景だ。女性にリードされるのは男として情けないと思う権兵衛だったが、咲夜の後ろ姿を見るのは久しぶりな気がして、右に左に、嬉しそうに揺れる後ろ姿を堪能することにした。

 里に着くまでの間、どちらが手を振りほどくでもなく、二人の手はずっと握られていた。

 そして人里の、大通りまでやってきた。

 以前に来た時と違い人が疎らなのはバザーが開かれていないからだろう。少し楽しみにしていただけに肩透かしを食らった気分だ。そんな雰囲気が伝わってしまったのか、咲夜が心配そうに見詰めていた。「何でもないよ」と一言だけ返して、気を取り直し里を散策する。

 バザーの有無に関わらず里には多様な店がある。歩いていて思ったのだが、幻想郷の人里には呉服屋や食事処はそこそこに、雑貨屋の数が多い。

「どうしてだろうな」

「え?」

 理由を咲夜に訪ねてみたが、彼女も皆目見当が付かないと言う。そもそも、そんな風に思った事すら無いと、それもそうか。幻想郷の住人は外の世界との差異なんて比較しようも無いんだから。

 そんな他愛無い話を交えて里を練り歩けば、お天道さまも真上に登ろうとしている。

 丁度いい頃合いかと近くの食事処に入ろうとして、遠慮がちに袖を引っ張られる。何事だろうと振り向くと、そこには顔を赤らめた咲夜がいた。

「あの権兵衛さん。行きたい所があるのですが、よろしいでしょうか?」

 咲夜の願いなら是非もない。その行きたい場所へ向かうことにしよう。

 彼女の先導に従いついてゆくと、段々と店どころか家屋の数自体が少なくなってゆく。一体何処に行くつもりなのだろうか?

「へぇ、ここが咲夜の行きたかった場所?」

「はい」

 そこは里から少し離れ、辺りを一望出来る小高い丘だった。緑の生い茂る木々と草花、その合間を抜ける風だけが存在していた。息をする度に爽やかな空気が肺に広がる。こんないい場所、もっと人がいても不思議では無さそうななのだが、自分達以外は誰もいなかった。

「里から近いと言っても外ですから。妖怪に襲われる可能性は無きにしも有らずですし、何よりルールの外でもありますから」

「ルール?」

「はい。人里の中では人妖問わず諍いは禁じられています。しかし一歩でも外に出てしまえば、それは適用されません」

 初めて聞く約束事に関心して、気付くのが遅れてしまったが、その外に今の自分達はいるのだ。

「……大丈夫なのか?」

「ふふっ、平気ですよ。並大抵の妖怪には、私は負けませんから」

 女の子に、それも自分より年下の、守ってあげる宣言に権兵衛は渋い顔をした。

「そういうのって男の役割だと思うな。いざって時になれば俺が命に変えても――」

「いけません」

 ちゃっちなプライドでいっちょ前に生意気吐こうとして、強く、咲夜は遮った。

 声量はさして大きい訳でもないのに、言い知れぬ圧力が在った。その雰囲気に飲まれ押し黙っていると、咲夜は肩の力を抜いて微笑んだ。

「権兵衛さんが命を粗末にするなんて、いけません。貴方が大事に思ってくれているのなんて、私はちゃんと知っていますから。……そんな、自分の命を簡単に扱うような真似はくれぐれもしないで下さい」

「ぐぅ」

 正論と言うのは往々にして言葉のナイフである。何かしら思う所があっても、軽々に反論を封じてくるのだから。

 故に権兵衛はぐぅの音を零した。

 この話はおしまいと咲夜は周囲を整えシートを敷き、大事そうに抱えていたバスケットを置いた。

 二人並んで腰を下ろすと、咲夜はバスケットから具がはみ出んばかりに挟まれたサンドイッチを取り出した。

「はい、権兵衛さん」

 差し出されたサンドイッチに、つい生唾を飲み込んでしまう。

 一連の流れから期待はしていたが、実物を前にするとその喜びは予想を遥かに越えるものだった。

「いただきます」

 手を合わせ、まるで宝物のように大事に大事に受け取り一口齧り付く。シャキりと鳴る音がレタスの瑞々しさを物語っている。肉厚なハムは噛む度も肉汁が溢れ、舌の上で蕩けるチーズと混じりそれぞれの素材が持つ美味さを存分に引き立て合っていた。

 具材自体はオーソドックスなものだが、一つ一つの食材の良さと、丁寧な咲夜の腕前が合わさり極上の一品と化している。

「うまいっ!」

 この美味さを現す事の出来ぬ、己の貧弱な語彙が恨めしい。だから精一杯の感謝と感情を込めて言葉を紡いだ。

 その真意が咲夜に伝わったかは定かではないが、彼女は「大袈裟なんですから」と嬉しそうに微笑んでいた。

「まだまだありますから、どんどん食べて下さいね」

 勧められるがままにサンドイッチをほうばって、つい咲夜の食事がちっとも進んでいない事に気付くのが遅れた。

 彼女は自分の顔ばかり見詰めてちっとも食事を摂ろうとしない。その事を指摘してやるも――。

「いいえ、これは権兵衛さんの為に作ってきたものです。貴方に食べて貰える、それだけで咲夜は満足ですから」

 頬を抑え恍惚の表情を浮かべている。その言葉に偽りはないのだろうが……。

 食事の様子をじぃと見られているだけでも食べ難いと言うのに、その上彼女は食べないなんて、気が引けて折角の料理も味も三割減である。

 ふと、権兵衛に天啓が舞い降りた。

 咲夜から手渡されたサンドイッチを千切り、咲夜の口元へ運ぶ。

「ほら、あーんして」

 男の行動を理解した瞬間、咲夜は瞬間湯沸かし器となった。

 ぼふんっ、という擬音が聞こえそうな程に顔を赤らめ、石像の様に動かなくなってしまった。

 ついに差し出したサンドイッチは食べられる事なく、権兵衛は仕方なく己の口内に放る。

 未だ真っ赤な咲夜は、何事か口を開こうとするものの、その喉が紡ぐのはあうあうと意味のない音でしかなかった。

 ……そんな少女の姿に、権兵衛の悪戯心がむくりと隆起する。

 今度は千切ったサンドイッチではなく、はむりと、己の歯型がついたサンドイッチを差し出す。

「はい、あーん」

 その噛み口に僅かに残った男の唾液が光を反射し、咲夜は目を回した。

 そんな少女の様子がおかしくて、男は喉を鳴らした。

 ちょっと意地が悪かったかな?

 再び千切った方のサンドイッチを差し出してやろうとするも、今度は権兵衛がドギマギする番だった。

「あ、あーん……はむ」

 何と彼女は歯型の付いたサンドイッチを食べてしまったのだ。

 どころか男の指まで口に含み、ちゅうちゅうと吸ってくるのだから、これには男が参った。

「……本当、美味しいですわ」

「あ、あぁ。そりゃ良かったよ、うん」

 しばらくして満足したのか、咲夜はようやく離れた。

 唾液が線を引いたその光景に、危うく劣情の火が灯りそうになったのだから、本当に危なかった。

「権兵衛さん?」

 その、反応悪くなった男の様子に今度は咲夜が首を傾げる。

 彼は返事もせず誤魔化す様に、目の前のサンドイッチへ齧り付いた。

 おかしな空気もただ一度きり。

 それからは二人だけのゆったりとした時間を楽しみながら、咲夜特製のサンドイッチに舌鼓を打った。

「うぅん、美味い」

「もうっ。そう何度も言わなくて結構ですっ」

「本当の事だからね」

 咲夜も自分で作ったサンドイッチをほうばる。

 味見も散々にした。飽きたとも言えるぐらい、食べ慣れた味なのに、彼の隣で食べる。ただそれだけで普段の何倍も味わい豊かに感じた。。

「……美味しい」

「そりゃ君の料理だからね」

 本当に。

 本当に権兵衛は不思議な人だ。私はつい最近まで自分を優秀な人間だと思っていた。周囲には完璧だと揶揄され瀟洒だと評され、その言葉にも何一つ疑っていなかった。或いはその通りに振舞おうと、努力していた。

 だけど気付いた。気付かされた。彼に、どんなに能力が優れていても、人間としては甚だ未熟である事を。

 その未熟さ故、不当に彼を憎み、妬んでいた時期もある。彼からすれば迷惑千万だろう、逆恨みもいいところだ。そして未熟さ故に、認められなかった。悪意を向ける一方で、どうしようもない程に羨望していた事を。

 そんな自分も今は過去。

 彼は知らない。完璧からは程遠い、嫉妬に狂った醜い私を。

 彼は知らない。彼の何気ない一言が、どれだけ私の胸を打っているかを。

 束の間の食事、二人は無言でサンドイッチをほうばる。言葉は交わさずとも間に流れる空気は、とても暖かなものだった。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 食事も終わり、さてどうするかと考えた所で、腹が膨れれば眠くなるのが人の性。ぽかぽかとした陽気と心地良い風、時折聞こえる鳥の囀りなんか聞こえたらそりゃもう。

「権兵衛さんったら。そんな、牛になってしまいますよ」

 シートの上を遠慮なく寝転ぶ。横合いから驚いた声が上がる。そんな心配そうな彼女の声も既に遠くに感じるくらいに、睡魔の大群が権兵衛を襲っていた。

「全く、仕方のない人ですね」

 呆れの言葉。嬉しそうな口調。そう感じるのも、既に脳の半分が眠りに付いているからだろうか。

 権兵衛は睡魔に何ら有効な手も打てず、あっさりと意識を手放した。

 

「全く、本当に……」

 咲夜の口から吐いて出る言葉は批難めいたものだが、矢張りどこか嬉しそうで。

 その証拠に表情を見れば、彼女がどのような心を抱いているか解る。

 あっと言う間に寝息を立ててしまった権兵衛の顔を見て、右を見て、左を見て。咲夜は座る位置を変えた。静かにそっと、起こさぬように、彼の頭を己の太ももへと導く。

「ふふっ」

 普段よりも幼く見える愛しい男の寝顔が、手を伸ばせば届く近さにある。故に咲夜は手を伸ばした。伸ばさぬ理由があろうか。

 指の合間からすり抜ける彼の髪は堅い。そんな所にも一々男を感じてしまうなんて、人間とは不思議な生き物だ。

 自分も、その人間という生き物だと知ったのは最近の事だが。

 何度も、何度も。権兵衛の髪を梳く。どれだけ撫でたって、ちっとも飽きる気はしなかった。

 ふと、彼の髪を梳きながら流れる雲に時間を委ねていると、一つの疑問がむくりと鎌首をもたげた。

「……どうして膝枕って言うのかしら」

 素朴な疑問。

 まさか自分が、しかも男にするなんて微塵も思わなかったからこそ考えもしなかった疑問。彼の頭が乗っている位置を考えれば、太もも枕とでも呼ぶべきではないのか?

 館の知識人が聞いたらさぞ面倒臭そうに、しかし懇切丁寧に教えてくれただろう。日本では昔、膝という言葉は、その上にも区別なく使っていたのだと。

 ……どれ程の時間が経ったのか、ちらりと咲夜が時計を見れば長針は権兵衛が眠りこけてから半周しようとしていた。

 飽きはしない、しないのだが困った。

 人里に降りてきたのは、権兵衛と外出したかったのもあるが、咲夜にはある目的があった。内一つは急ぎの用事であり、このままだと流石にちょっと不味いかも?

 どうする、権兵衛を起こすか?

 冗談ではない! 心地良く寝ている彼を起こすなんて、とても許される行為ではない。

 では眠らせたまま、能力を駆使してちゃっちゃと用事を済ませるのはどうか。

 ……それしか無いか。全く以て気が乗らないが、デートの最中に水を差すのも気が引ける。

 早速咲夜は時を止めようとして、己の腿の上の彼を思い出す。

 危ない危ない。このまま能力を発動させたら、解除した瞬間頭が落ちてしまう。

 そっと、権兵衛を起こさぬよう細心の注意を払いながら頭をシートの上に移動させ、今度こそ時を止める。

 十分、いや五分で全てをこなしてみせよう。こんな危険な場所に彼を一人残すなんて、気でも違いそうになるが、この場所を選んだのは誰あろう自分なのだ。その尻拭いは、甘んじてせねばなるまい。

 色と音の失った世界で、愛しの男を見下ろす。相も変わらず、その寝顔は可愛らしい。

「ごめんなさい権兵衛さん。……少しだけ離れますね」

 声を掛け、閉じた瞼にそっと口をつける。

 そして十六夜咲夜は目的の為、輝かしい未来の為、行動を開始した。

 

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