幻想狂縁起~紅~ 《完結》+α   作:触手の朔良

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Never Happy End

「本ッ当にすまん!」

 権兵衛は今にも土下座をせんばかりの勢いで謝罪している。

 そんな男を見る咲夜は、困った表情を作っていた。何度許すと言ってもこうして聞かないのだ。彼が負い目を感じる必要なんて無いのに、咲夜は悲しくなってきた。

 だって私は、心からの事では無いにせよ、貴方を放ってしまったのだ。その間、彼は目を覚ます事はなく、そんな事実があった事を知る由もない。故に罰せられるべきは自分なのだ。

 その理由を、話す訳にはいかず咲夜は一層罪悪感に苛まれた。

 権兵衛もまた、そうなのだ。デートの最中に寝て相手をすっぽかすなんて、考えうる限りは最悪の部類である。

 どうすればよいのだろう? 咲夜はちょっと考える。信賞必罰、罪の意識を手っ取り早く軽くするには、罰を与えるのが一番だ。自分にも、その覚えがあった。

 だので咲夜は、心の中で彼に謝り、一つの提案を持ち掛けた。

 そうして所変わり呉服屋。

 日が暮れるにつれ、店仕舞いする店もちらほら見かけたが、幸いにも、まだやっている店もあった。

 その内一つへ二人は連れ立って入店する。

「この中から一つ、プレゼントを頂けますか?」

 咲夜の中に在る罪悪感を除けば、見事な解答と言えよう。咲夜とて乙女である。好いた男から贈り物をされて嬉しくない訳がない。更に彼の趣味の理解するにも役立つともなれば、一石二鳥どころか三鳥である。ちょっとばかし咲夜に得が過ぎるのが、少女の心に陰を落とす。

 それこそを自らの罰とし、咲夜は気持ちを切り替えた。

 そして権兵衛の服選びが始まる。

 どんな服をくれるのかしら、とニコニコ顔の咲夜とは対照的に、男の顔は浮かない。額に脂汗を流すぐらいには苦悩する。咲夜があれを欲しいこれを欲しいと、高価な物を吹っ掛けてくれた方がまだマシだと思った。

 女心に鈍い男が、女の趣味を解している筈もなく、服選びは難航に難航を重ね、店主の視線が早よ帰れと訴え始める。端から端へ、商品へくまなく視線を這わしていると、権兵衛の目は一箇所に留まった。

「お決まりになりましたか? ……あら?」

 ――この様な偶然があるのだろうか。

 男が視線を注いでいるのは、リボンだった。深紅の色をした、見覚えるのあるリボン。

 それは以前、アリスから購入したものよく似ていた。

 権兵衛は知らぬのも無理は無いが、実はこの店、アリスが人形制作の為に材料を買うのに贔屓している店だった。そして目の前にあるリボンは、巡り巡って彼が購入したものと同一の品だった。

 これにするか? 一度あげたプレゼントを再び買おうとするのは、芸がないどころか非難される事請け合いである。しかしこの世界の咲夜には渡していないモノでもあった。

 以前はこれを渡そうとして、どうだったろうか? 渡した時の彼女の反応を思い出そうとして、彼は無意識に喉に手を這わせた。何故、そんな真似をしたのかは解らない。そんな事よりも咲夜の反応、その良し悪しを思い出そうとするが、残念な事にその時の記憶は思い出せなかった。

 リボンを手に取り値札を見て、あまりに安いので権兵衛は棚へ戻そうとしたのだが。

「これ……、これでいいです。これがいいですっ!」

 咲夜が大層気に入り、珍しく興奮して推してくるのでプレゼントはこのリボンにと決まった。

 購入する際には店主の、これっぽっちしか買わねぇのか貧乏人め、という視線が権兵衛の心に深く突き刺さったが閑話。

 そうして里の入り口は今や出口となった。

 門の柱に立つ自警団の二人組の間を通り抜け、喧騒から離れた所でぽつと呟く。

「……楽しかったな」

「そうですね」

 とっぷり日が暮れてしまった帰路。早朝の鳥の囀りは今や虫の鳴き声と変わった。

 今宵の満月は十分に辺りを照らし、特に暗闇に困ることもなく二人な並んで歩いていた。

 話題に挙がるのは、やはり今日の出来事。あんな事こんな事、談笑に花を咲かせていれば館への道のりもあっと言う間である。

 徐々に周囲に霧が立ち込める。それにつれて月明かりが遮られ、暗がりが増してゆく。

 そろそろ霧の湖に差し掛かる頃だ。

 ふと、話のネタが切れ、権兵衛は隣をゆく少女の横顔を眺める。

 何が楽しいのかは解らぬが、彼女はニコニコと上機嫌で、まぁ好いている女がそうなのだ。男とて、嫌な気分な筈がない。

 そして咲夜の動きに合わせ、おさげが揺れる。その房を纏めるリボンは先程にプレゼントしたばかりの、真紅のリボンだった。

「それ、着けてくれたんだな」

 何時の間に着けたのだろうか、なんてのは間抜けな質問だ。彼女の能力を考えれば。

「よく似合って――え?」

 呼吸が、止まる。

「権兵衛さん?」

 男の反応に、咲夜が小首を傾げる。何とも可愛らしい所作だ。だが、男の目には映らない。

 彼の視線はただ一つの箇所に吸い寄せられ、ピタリと離れはしなかった。

 美しい銀糸を思わせる髪から垂れるおさげ。深紅のリボン。

 右と左。両方、お揃いの。

「な、なんで……。それ……」

 ようやく絞り出した声は情けない程に震えていた。そう、指し示した指先もまた震えが止まらなかった。

 男が何故そこまでに動揺しているのか、咲夜もようやく理解した。

 咲夜は髪を掻き上げ、そっとリボンを触れる。今の権兵衛にこちらのリボンを渡した記憶が無い事に寂しさを覚えた。その彼から見れば、今日渡したばかりのリボンが二つにあるのだ。私が彼の立場なら、他の人から同じプレゼントを貰っていたのか、と勘違いしてしまうかもしれない。

 そんな訳ないのに。私が他の男のプレゼントなんか、受け取るはずないじゃない。第一、こちらのリボンも、貴方がくれたものなのよ? そう口にしたい衝動に駆られるも、今の彼に言っても仕方の無い事なので、咲夜ちょっと悲しげに微笑んだ。

 ――本当にそうだろうか?

 彼の挙動不審さ。視線は定まらず唇は震え、薄暗い明かりを頼りに顔色を伺えば青を通り越して白く見える。

 まるで幽霊にでも、出会ったかのような……。

 いや、真逆、そんな――。

 そこまで考えて、有り得ないと、咲夜は己の妄想を断ち切る。だのにソレは、脳裏にこびり付いて離れなかった。

 己の疑念を払拭する為に――或いは一角(ひとかど)の希望に縋る為――、心の中で愛しい男に謝罪して、一つ、カマをかけてみた。

「ふふっ、……覚えていますか権兵衛さん」

 出来る限りの自然さを装いつつ、咲夜はまず笑って切り出した。

「あの夜、権兵衛さんがお腹が空いて眠れないーって。仕方なく私がお夜食を奮ってあげた夜。今日みたいに美味い美味いって、実は凄く嬉しかったんです。今日だって、家庭的な味が好きだって言ってたから、頑張って挑戦してみたんですよ?」

 知る由もない思い出話。

 そう、咲夜だけが覚えている、輝かしい日々。

 彼は、何の事か分からずに不思議そうな表情をする。する筈だった。

「あ、あぁ。余り物であっと言う間に作って、まるで魔法みたいな――」

 平常心を欠いた権兵衛は、応えてしまう。

 知る筈のない記憶。この世界では、覚えていない筈の記憶で、相槌を打つ。

「あぁっ―――――――――!!」

 咲夜が感極まった声を上げた。

 瞳からはポロポロと涙が零れ落ち、どうしようもなく嗚咽の漏れる口元を覆っている。

 その愛しの少女の姿を前にしてようやく、事の重大さに気付いた権兵衛はハッとした。そして愕然とした。

 今、眼の前にいる彼女は真逆――彼の記憶に在る咲夜なのだと。

「やっぱり! 権兵衛さんっ! 権兵衛さんも前の記憶があるんですねっ!」

「さく、や、ちゃん……?」

 その呼び方はそんなに昔では無い筈なのに、聞いた瞬間咲夜の感情は決壊した。

 男へ抱きつく、いや飛び付く。もう二度と彼を失うまいと、腕にあらん限りの力を込める。

「権兵衛さん! ごんべえさんっ!!」

 少女は男の存在を確かめる様に、ひたすらに名前を呼ぶ。

 だって、こんな奇跡!

 十六夜咲夜は、最早権兵衛のメイドである。それはどんな世界であろうとも、変わりはしない。だけど、今目の前にいる権兵衛は私を助けた、私の為に死んだ、権兵衛では無いのだ。そのような事実は、彼の為に身を捧げるのを、阻む理由にはならない。ならないが、矢張りちょっぴり、我儘を云うなら寂しかった。

 それがどうだ!? 目の前の彼が、彼こそが! 私と一緒の時間を過ごした記憶を、同一の記憶を持っているだなんて!

 未だ咲夜は状況の整理は付いていなかった。だが、ひたすらの歓喜がそれを呑み込み、因果関係など、些細な事に過ぎなかった。

「こんなっ……! こんな、夢のようだわっ!」

 対して男の混乱は彼女の比ではなかった。

 自分は、能力故に記憶を引き継いでいる。だが彼女は、何故――?

 喜ぶべきなのかどうかすら、判断が付かなかった。

 今、胸の中で歓喜に涙する彼女を、触れた瞬間に夢が覚めてしまうんではないか。そんな恐怖があった。

 恐る恐る、震える手で彼女を掻き抱く。触れた瞬間に弾けて消える、という事は無かった。

 指先から伝わる感触。胸元で泣き叫ぶ、一層熱の篭った少女の吐息。この生々しさは、紛うこと無く現実(リアル)だった。

「夢じゃ、ない……?」

 その唇の動きは、まるで油の切れた機械の様だった。

 彼女の言動に対しての否定なのか。それとも己に言い聞かせているのか。それすら、自分の気持ちすら解らない。

 ……どれ程抱き合っていたのだろう。

 ようやく離れてくれた咲夜の目は真っ赤に染まり、目元の涙を拭った。

 自分に比べて彼の薄い反応を見て、咲夜は一気に不安が押し寄せた。

「め、迷惑でしたか?」

 そう伺い立てる言葉を吐くのも怖かった。

 万一にでも拒絶でもされてしまったら、と少しでも考えるだけで底知れぬ恐怖が少女の心を覆った。

 気の毒な程に唇を青ざめさせ、震える少女の姿を前にして、権兵衛は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

 咲夜にこんな顔をさせたのは誰だ? そんな思いをさせたのは誰だ? ……自分だ。

 そう思った瞬間、「どうして彼女が」だなんて延々考えていた過去の自分を殴り飛ばしたくなった。

 そして身体は金縛りが解けた様に自然と少女を抱いていた。居ても立ってもいられなくなって、少女の細い腰を折れんばかりに強く抱きしめた。

 咲夜の口から、悦びの吐息が漏れる。そうして彼女も抱き返す。私の方が、想っているんだと言わんばかりに。

 二人の間に確かな言葉は無かったが、確かに心は通じ合った。

 女の方は間違いなくそう思っていたし、彼だって、その時はそう思っていた……。

 

 紅魔館に怒声が響き渡る。

「どういうつもりだ咲夜ッ!」

「どういうつもりとは、どういうつもりでしょう?」

「しらばっくれるんじゃないわよ! 権兵衛を勝手に連れ出して!」

 ダンッ! レミリアが机に叩きつけたのは一枚の紙切れ。

 当主たる礼を欠いた振る舞いに咲夜は不快げに眉を歪めた。仕方なく叩きつけれた紙面に視線を落とし「まぁ」と声を上げる。

「天狗も中々良い仕事をするのですね」

 一面にデカデカと張り出された己と彼の、ラブラブツーショット。熱愛発覚の文字。

 どうせなら、結婚秒読みぐらい書けばいいものを。あの捏造天狗ったら、気の利かない。

 レミリアは一瞬耳を疑い、激昂した。

「ふざけるんじゃないわよっ!!」

「巫山戯てなんかいませんわ」

 怒り。嫉妬。

 荒ぶる感情と共に吸血鬼の魔力が堰を切って暴れ、館を、大気を震わせた。姉の方は妹と違い――感情の抑制に関してはどんぐりの背比べだが――力のコントロールは完璧にこなしていた。

 それだけに、どれだけレミリアが激情に駆られているのかが解ろう。

 この場にいないメイド妖精も主人の怒り、その煽りを受けて皆部屋へと閉じこもってしまった。

 しかし吸血鬼の怒りを真正面から受けている筈の咲夜は何処吹く風。実に堂々たるものだった。

 従者の余裕は一層レミリアの神経を逆撫でた。

 怒りを叩きつけられた机は真っ二つに折れ、そんな主人に向ける視線にしては、咲夜の目は冷ややかなものだった。

「レミリア様。貴方様には私と権兵衛さんの仲を認めて頂きます」

「はぁ!?」

 二人の会話は噛み合わない。そもそもの話。咲夜は端からレミリアの話なぞ聞く気は毛頭無かった。どんな主張を喚こうが、所詮子供の戯に過ぎないのだから。

 怒りが一周通り過ぎて、却って冷静さを取り戻すレミリア。

「……どういうつもりだ」

「どうも何も、お言葉の通りですわ。私達は既に、貴方が幾ら渇望してもなれなかった仲でございます」

 咲夜の物言いは明確な挑発であり、主人に対するソレではない。沸騰しそうになる思考をどうにか吸血鬼の誇りで抑え、鼻で笑い返すレミリア。

「ふん。ようやく馬脚を現したって訳か。いいだろう。躾のなってない犬には、言葉だけじゃ足りんのだろ……!」

 レミリアは抑圧されていた魔力を感情任せに開放する。バサリと、真っ黒な蝙蝠の翼がはためき、これから振るわれる暴虐の嵐を想像して悦びに打ち震えているようだった。

 圧倒的な暴力の存在感を前にしても咲夜は眉一つ動かさない。ただ口角だけが不気味に吊り上がり、笑顔と呼ぶにはあまりにも歪な表情を形作った。

「ふふっ。その言葉を口にする為に、どれだけ遠回りをしているのですか? ――御託はもう結構ですから、掛かってきたらいかが?」

 咲夜ほどの人間が、これぐらいの圧力で無様を晒すとは思っていなかった。だが、一片すらも余裕を崩さないどころか、実力行使に出たレミリアを見下し煽り返すとは。レミリアの堪忍袋も遂に限界を迎えた。

「オマエ―――ッ!」

 怒りが爆発する寸前。その虚を突くタイミングを見計らい、咲夜は言葉を先んじる。

「知っていたわよ? 今夜が満月だなんて、吸血鬼の力が尤も発揮出来る日だという事を」

 レミリアはドキリとした。その通り、今日は満月の日。メイドに手を下す万全を期す、という意味でも今日という日は、この上なく絶好の日だった。

 咲夜の喉は止まらない。

「憎くて妬ましくて羨ましかったんでしょう、自分より親しい私は。排除したかったんでしょう、自分より近しい私を」

「知った風な口を……!」

 図星だった。女の心底嘲笑う口調に、腹の底から怒りが込み上げるが、それ以上に悔しかった。自分の十分の一も生きていない小娘にぴたりと心を言い当てられた事が、五百歳の吸血鬼には途方も無く悔しかった。

 歯噛みするレミリアを見て女の溜飲が下がったのだろうか? 咲夜の言葉が止んだ。

 いいや、咲夜は震えた。打ち震えていた。怒りで。吸血鬼の怒りなんか霞むぐらいの激情を、途轍もない精神力で堪え、静かに言い放つ。だが、到底圧し切れる感情ではなく、その声音にはおどろおどろしい怒りを孕んでいた。

「いいえ、知っているわ。……解っているわ。同じ男を愛したんだもの。知っているのよレミリア。貴方なんかよりもずっとずっと――彼に恋焦がれた日々を、私は忘れないわ。忘れられるわけ、ないでしょ……!」

「何を言っている?」

 権兵衛が意識を取り戻してから、彼と共に過ごした時間が長いのは間違いなく咲夜だ。私ではない。

 だのに咲夜の言葉はその逆で、瞳に燻る嫉妬は自分のよりもずっとずっと暗く深い炎を灯していた。

「……それを貴方に説明する気なんか、さらさらないけれど」

 咲夜の言葉にはつい一欠片の敬意も消え去った。いや、元よりこの世界でレミリアに抱く敬意の念なぞ、一ミリたりとも無かったが、偽りの形ですら払うことも無くなっていた。

 その必要性が無くなった。

「意外と臆病なのね、吸血鬼って。一人の男性に嫌われるのを怖がるなんて。たかが人間一人を殺すのに満月まで待つなんて」

「クッ……! これでオマエの紅茶も飲めなくなると思うと残念だよなぁ……!」

 レミリアの魔力が一層膨れ上がった。彼女が力を開放するまで、数秒も無いだろう。

「だけど、待っていたのはこちらも同じ――」

「何……? ッぅ!?」

 刹那、レミリアの四肢が鋭い痛みと共に力無く垂れ下がった。誰の、どのような仕業か解っているのに、反射的に腕を見ればピンク色した肉が剥き出し、ものの見事に腱まで断ち切られている。

「くぅッ!」

 支えを失ったレミリアの身体が、地に倒れ伏そうとする。

 寸前、痛みを無視し咄嗟に翼が空気を(はた)いた。起こした衝撃波が部屋中に亀裂を入れ、レミリアの小さな身体は瞬く間に天井近くまで舞い上がった。咲夜の能力の射程距離外まで距離を取ろうと試みる。だが、余計な思考、動作を挟んだおかげで、飛行までの初動が遅れる。

 その一瞬を見逃す咲夜ではない。続けざまに能力を発動し、色の失った世界を翔び、奇妙にも空中で固定されている吸血鬼に迫りつつ一枚のカードを取り出した。

 ――傷魂(しょうこん)「ソウルスカルプチュア」。

 規則性などない、縦横無尽に斬撃を繰り出す単純明快なスペルカード。単純な動作故にその手数は多い。

 レミリアの身体が無数の斬撃に晒される。特に翼は入念に斬りつけた。飛翔を不可能にする以上に執拗に、斬りつけ続ける。

 世界に色と音が戻ると、全くの同時に付けられた傷からは噴水の様に血が吹き出した。そうしてどしゃりと、誇り高き吸血鬼は無様に墜落する。

 肉の潰れる、耳にしたくない類いの音が咲夜の耳朶を震わした。

「ぐぅ、キサマぁ……!」

 残骸の中央、腕も脚もあらぬ方向へひん曲がり、瓦礫と見紛うばかりにボロボロになったレミリアの姿があった。咲夜が元主人に送る視線は害虫に対するソレで、従者を見上げる、という普段とは真逆の構図にレミリアのプライドは偉く傷つけられた。

「呆れた頑丈さだこと。不死の怪物とは言ったものね」

 やれやれと言った様子で、咲夜はトドメを指すべくゆっくりとした足取りで近付く。

 そして元従者を見上げるレミリアの顔は大層不快そうに顔を歪めていたが、内心は小さくほくそ笑んでいた。

 吸血鬼の最大の武器とは何か。人間離れした怪力か。仲間を無限に増やす鋭い牙か。どれ一つとっても恐ろしくない物など無い。しかし吸血鬼で最も恐るべきはその不死性であろう。

 日光だとか十字架だとか、挙句ニンニクにまで弱い種族が不死とは、笑ってしまう。一方で彼女らは、日の光に晒されようが十字架を掲げられようが死にはしない。ただ灰になるだけ。その灰もまた、月が昇ればたちまち元の姿へと元に戻る。

 吸血鬼の不死とは、即ち再生力にある。

 例えば、こんな風に。千切れかけた四肢ですら一分も経たずに元通り。

 何の警戒心をも抱く素振りなく、咲夜はレミリアの殺傷圏内にまで踏み込んでしまった。

 瞬間、レミリアは勢い良く上体を跳ね上げ咲夜の胴体を貫く。この馬鹿で哀れな小娘の血で、真っ赤な絨毯を更に紅く彩る――筈だった。

 レミリアは一歩を踏み出した所でぐしゃりと、また重力に負けて頭から転げた。

 想像と乖離した現実に、レミリアの脳はすぐに理解が追いつかなかった。視界に入った腕は、まだじゅくじゅくと赤い泡を吹き出し、今も再生途中ではあるものの完全な治癒には至っていなかった。

 そして間近で見た傷口からは微かな煙が上がっており、僅かに肉の焦げた臭いがレミリアの鼻先に届いた。

 真逆――!?

「ッ! 銀かっ!?」

「ご明察」

 忌々しそうに吐き捨てた言葉を、忌々しい女が拾う。

 その声の近さに慌てて顔を上げると、銀のナイフを大きく振りかぶるメイドの姿が映った。そうして振りかぶったナイフをどうするか、愚問も愚問。勿論振り下ろすのだ。力一杯目一杯、今までの怨み辛みの全てを込めて、吸血鬼の心臓目掛けて振り下ろすのだ。手も足も羽すらも封じられた吸血鬼は、ただ己の心臓に銀のナイフが吸い込まれるのを眺める事しか出来なかった。

「があっ、ぐっ……!」

 激痛――などと一言では片付けられぬ痛みがレミリアを襲った。

 悲鳴を挙げなかったのは、紅魔館の当主としての誇りに依るもの。そんなレミリアの姿も、今の咲夜には何の感慨も与えない。虫を見る目で淡々と、ナイフを取り出し突き立てる。

 次なる脅威が迫っているというのに、レミリアには為す術がない。砕けんばかりに奥歯を噛み締め、ただひたすらに痛みに耐えるしかなかった。

 銀もまた、吸血鬼にとって弱点の一つだった。

 故に紅魔館では銀製品の携行は固く禁じられている。

 ならば何故、何時、何処で、咲夜はこれだけの銀のナイフを手に入れたのか。

「あぐッ! ギ……!」

「本当、無駄に頑丈ね」

 十本目のナイフが右肩へと深々刺さる。幼子の身体を突き抜けては、吸血鬼を床へ張り付けてゆく。

 吸血鬼にとっての銀は、溶けた鉄にも等しい。ならば銀で出来たナイフは、さしずめ灼熱の鉄剣。今も突き立てる数を増し、レミリアの脳へ絶え間なく痛みを送り続けていた。

 尚も絶命に至らないのも矢張り、ひとえに吸血鬼の生命力の強さ故だろう。

 既にレミリアの頭では脳内麻薬でも分泌されているのか、痛みも最早思考を妨げる雑音(ノイズ)程度にしか感じない。

 雑然とした脳裏に、一つの考えが浮かぶ。

 確か、この女は今日――。

 館に存在しない筈の銀。唐突な外出。二つの事象、その符号の意味にレミリアは口を開かずにはいられなかった。

「がふっ……! ……ククッ、そうか。……オマエ、権兵衛をダシに使ったのか」

 咲夜の返事はない。だが、一本一本、丁寧に思えるほど喰い込ませていたナイフの数が急に増した。そしてレミリアの身体へ無造作に突き刺さる。それこそが何よりの返答だった。

 レミリアの口から血が溢れた。だが喋りは止めない。

「クッ! 何のかんのと言っても、オマエも私と、そう変わらないじゃないか!」

 咲夜は無言を貫く。しかしその柳眉は見たこともない角度を描き、激痛の只中にあってもレミリアは遂に笑いを堪える事が出来なかった。

「クハハッ――! 図星を指されて怒るか馬鹿め!」

 一体、追い詰めているのは、追い詰められているのはどちらなのだろう?

 ただ咲夜は、ナイフを放る。手持ちの全てを使い切る勢いで。

 減らず口を叩いた舌を。不愉快な音を鳴らす喉を。未だ睨みをきかせる生意気な眼球を。レミリアの全てを串刺してやると。そんな意思が籠められた、物言わぬ無数のナイフが吸血鬼を貫いた。

 

 

 自室のベットに身を沈め、権兵衛は先程の出来事を振り返る。

 咲夜の告白は衝撃の一言に尽きた。

 余りの内容に彼がその場で落ち着きを取り戻す事は無かったが、住み慣れた紅魔館へ戻った後は、時間の経過と共に冷静さを取り戻していった。

 矢張り考えるのは、咲夜のこと。

 あの咲夜が、記憶の中に在る彼女と同一人物であるのなら、今までにあった様々な謎が腑に落ちる。

 彼女の、出会ったばかりの人間に向けるには有り得ない好意。

 己の行動を先読みしているかのような動き。

 ……『時間を操る程度の能力』とは、過去に遡れるほどに強力なものなのだろうか?

 いや、強力なのだろう。でなければ、折角合った辻褄がパァになる。

 では、彼女はどの世界の咲夜だ? 今のところ手掛かりらしい物と言えば、彼女の身に着けた真紅のリボン。その事から推測出来るのは、咲夜は自身と肌に纏う物を連れて過去に遡れるのだろうという事。もっと、特定出来る何かがあれば或いは……。

「……なんだ?」

 地震だろうか? 気のせいか、館が揺れた様な気した。

 何事か起きてもすぐに対処に移れるよう上体を起こしじっとしていると、微かに、ベッドに沈んだ掌が揺れを感知した。

 そうして部屋の外、館全体が騒々しくなる。

 何かが、あったのだろう。権兵衛はそれを確認すべく扉に近づくと、自分が開けるよりも早く、勢い良く開け放たれた。

「権兵衛さんっ!」

 すっかり馴染んだ名前を呼ぶ声は、彼が聞き間違える筈もない、愛しの咲夜だった。その切羽詰まった響きに、常に優雅たる彼女にしては珍しいな、なんて呑気はすぐに吹き飛んだ。

「だ、大丈夫か咲夜っ!?」

 何故なら、現れた彼女の姿は真っ赤に染まっていたからだ。血に塗れていない箇所を探すほうが難しい。

 心配が先立ち怪我の具合を確かめようと腕を伸ばすと、べたり、未だ生温かい血が男の掌を染め上げる。その夥しいほどの血に、最悪の自体が頭を掠め、権兵衛の顔から血の気が引いてゆく。

 しかし息を整えた咲夜はごく自然に、胸元に伸ばされた腕を握り返す。

 手に篭められた力は重症を負っている人間のソレではない。余りの強さに、不覚にも呻き声をあげてしまう。

「行きましょう権兵衛さん」

「行くって……、そんな怪我をしてどこに行くって言うんだよ!? 安静にしてなきゃ駄目だろう!?」

「レミリアが貴方を殺しに来ます」

 ハ――。

 呼吸が止まった。

 人間、あんまり予想外な出来事に遭遇すると思考が停止して、却って落ち着くことがままあるらしい。俄に信じ難い話だが、権兵衛も自分の身に起きて与太話が真実である事を知った。

 咲夜のメイド服を穢している血は、彼女のものではなかった。単なる返り血だと理解出来るほどには己を取り戻す。

 ならば誰の血か? そんなの、レミリアに決まってるじゃないか……。

「なんで――」

 ――レミリアが自分を殺す?

 ――レミリアを手に掛けた?

 呆然と吐き出した言葉。それに続く台詞は何だったのだろう。そして一体咲夜はどのように受け取ったのか、彼女は非情な宣言を続けた。

「あの女が。貴方を殺そうとするなんて、心当たりがお有りでしょう?」

 同意を求める問いかけ。ぎりぎりに疑問の体を成していたが、確信めいた口調だ。

 心当たりだなんて――。

 今回の世界は、レミリアとの接触は比較的少ない。コミュニケーション不足、それこそが原因かとも考えたが咲夜の言う心当たりとはもっと別の、直接的な物を示している。権兵衛はそう思った。

 ――だとすれば、だ。

 己の思考を即座に否定する。そんな事があるのか、と。

 そんな事があるのだ。咲夜だけは、同じ記憶を共有するのだから。

「現に……貴方は、殺されているじゃないですか。自分のものにならないから、なんて幼稚な理由で」

 男が縋り付きたかった想像を、咲夜は容赦なく切り捨てた。

 ……何も言い返せない。咲夜の言葉には何一つ嘘も無く、一切の誇張も無いからだ。

 権兵衛は無意識に首をさすった。その動作に、咲夜は満足気な笑みを浮かべた後、手を差し伸べてきた。

 返り血に、塗れた手を。

 その掌、醜い火傷に爛れた掌。

 嗚呼――全てが、繋がった。男の、記憶だけではなく感情も呼び起こされる。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう?

 権兵衛はようやく己の能力に気付いたのだ。もしかしたら、皆を幸せに出来るかもしれない能力に。

 咲夜の正体だって、今、ハッキリと解った。告白をし、告白を断った、自分の愛した、あの女なのだと。

 それがどうして、あれほどまでに主人に心酔していた咲夜が手を掛けるまでに至るのだ。

 自分が死んだ後に、一体何があったのだ? 権兵衛には解らない。解りっこない。だって自分の能力は、死んで戻るだけなのだから。

「どうなさったんですか……?」

 彼が中々自分の手を握り返さない。

 その事に咲夜はちょっぴり首を傾げた。男が自分を選ぶと信じて疑わない瞳が、男に向けられる。

 ――仮に、仮の話。この差し出された手を振り払ってレミリアを、紅魔館の皆を選んだらこんな悲劇は回避出来たのだろうか?

 ……意味のない仮定だった。だってこんな、こんな自分を信じ切っている咲夜を裏切るなんて選択を取れる訳ないだろう。

 詰まる所、権兵衛がどんな綺麗事を夢想しても、それを為し得るだけの自力が無いのだから、彼は何かを切り捨て、何かを得ることしか出来ないのだ。

 故に権兵衛は幸せを天秤に掛け、この、今にも壊れてしまいそうな少女の手を取った。

 

 

「づっ! ぐ、ぐギギッ……!」

 歯を食いしばりながら、身体の奥底にまで食い込んだ銀を抜く。いや、それは抜くなどと上品な行いなどでは無かった。

 何せ全身が縫い付けられているのだ。

 故にレミリアは少しずつ少しずつ身を捩り、肉に癒着したナイフを無理矢理剥がしてゆく。そうしてどうにか腕一本の自由を取り戻した。

 あぁ、クソッ! 頭がガンガンと痛い! 吐き気もする!

 そんな悪態を吐いて無駄な体力を消費する余裕すら彼女には無かった。

 既に大分時間が経った銀の刃は肉に絡みつき一体と化しており、無理に引き抜こうとすれば肉毎抉り取れることだろう。しかし、時間を掛ければ掛けるほどに、状態は悪化の一途を辿るのだ。文字通りに身を裂くほどの痛みに耐えながら、一本、また一本とナイフを抜いていく。

 だが、抜く度に銀の取っ手を掴むレミリアの掌はじゅうと灼かれ、力を込める度ぽっかりと開いた傷口からは、なけなしの血と体力が根こそぎこぼれ落ちていくようだった。

「ぐぅッ!! ガッ、ハァッ――!!」

 五本、抜いた所で限界が迎えた。

 肺に刺さったナイフのお陰で呼吸の度に激痛が奔る。損傷が激しすぎて、体力の回復を図ろうとしても、それ異常に肉体の維持に体力が使われ浪費される一方だった。

 少しでも痛みを紛らわそうと、レミリアは目を瞑り思考に耽る。考えるのは、裏切りのメイド。

 何時から、一体何時から自分の目は曇っていたのだ。銀のナイフが己に降り掛かろうという間際、最後に視線を交わした従者の瞳から覗いた運命。二つの輪が重なり合う、男とよく似た運命の形。

 男、そう男だ。男と出会い私の運命はようやく狂い、動き始めたのだ。目を曇らせる程に。

 ――五百年。五百年を経てようやく出会えた、私の物になる筈だった愛しの(うんめい)を、あの女は奪おうというのだ。

 今やレミリアの腹の中では、痛みを忘れる程の灼熱の怒りがマグマの如く暴れ猛っていた。その激情に身を委ね、力任せにナイフを引き抜いてゆく。

 ようやくして百本近くにも及ぶ全てのナイフから開放された時には、美しかったドレスは最早服の体を成さないボロと化していた。

「お、お嬢様……、どうなさったのですか……!?」

 やっと騒ぎを嗅ぎ付けた妖精メイドの一人が姿を現した。いや、とっくに気付いていた癖に事の成り行きを見守っていたのかもしれない。どちらでも、構うものか。

 駆け寄ってくる妖精に、ものを尋ねる。

「咲夜は」

「い、今すぐお召し物をお持ち致します! 少々お待ちになって――」

「あの、クソ女はどうしている!? 権兵衛は、どうしている!?」

「ヒっ――!」

 忘れっぽい妖精なれど、この娘はそれなりの忠義は持ち合わせているのかもしれない。レミリアの大切な部分すら隠せていない布切れの代わりに、洋服を取ってこようとするぐらいには。早速取りに戻ろうと身を翻すも、その腕をレミリアが掴んできた。

 あまりの威圧感に妖精は、主人の心配をするどころではなくなった。幼女のような姿を強ばらせて、ガタガタと震える事しか出来なかった。何時まで経っても応えない妖精にレミリアは苛立ち、舌打ちをする。

 カチカチと歯の根が噛み合わないのだ。妖精は懸命に、恐怖に震える喉で必死に言葉を搾り出そうとしていたのだが、出てくるのは意味をなさない呼気ばかり。

「どうした、早く答えろ。さもなければ――」

「あ、あのっ! お二人は外へ向かう姿が確認されています! 皆廊下で目撃していますから、間違いありませんかと!」

「そうか」

 レミリアから発せられていた殺気が霧散した。妖精メイドはホッと息を吐いたのも束の間。

「何故止めなかった」

「えっ?」

 レミリアの掌に力が集まる。

 気付いた時には遅く、掌から発せられたエネルギーは妖精を呑み込み、塵一つ残さなかった。

「……ふんっ」

 何故止めないって、誰が止められよう。時を操るメイドが、それこそ悪鬼の形相で廊下を駆け抜けてゆくのなんて。

 そもそも、その様な命令は下されていないのだ。妖精達に落ち度はない。

 だからこれは、単なる八つ当たりである。どうせ一回休みになる程度だ。減るものでもない。

 レミリアの身体は完治とは程遠い状態だったが、既に八割方の傷は塞がっている。飛翔するのにも、何の問題もない。レミリアは飛んだ。恐るべきスピードで、破壊を撒き散らしながら、己の館を壊しながら進む。

 勿論、目指すは憎き女と、愛しい男の元だ。

 そして館の外に躍り出ようとして、全身を貫く痛みを感じ、咄嗟に翼をはためかせ即座に館内へと戻る。

「――クソッ!」

 痛みの正体は雨だった。

 空を見上げれば満月が見えると云うのに、星空からは無数の雨粒が零れ落ちていた。

 試しに雨のカーテンへと腕を伸ばす。一滴が指先を掠める、ただそれだけで銀のナイフに撃ち抜かれた時と同等の痛みを覚えて、レミリアは反射的に腕を引っ込めた。水滴の触れた指先を見れば、肉が溶け白い骨が剥き出しになっている。

 吸血鬼とは、永遠の物の怪である。

 その不死性とは停滞であり、動き続ける流水とは水と油、どころか劇毒であった。

 陽の光と同じく、天敵であった。陽の光と違い、致命的であった。

 何せ灰さえあれば復活出来る吸血鬼だが、その灰を洗い流してしまうのだから。万一に、灰になったこの身が流水に攫われでもしたら、二度と蘇る事は叶わない。

 雨は次第に激しさを増し、この身を守るのに傘一つではとてもとても心許なかった。

「クソ女!!」

 負け犬の遠吠えもかくや、レミリアは叫び、身を翻した。

 

 

 ビリビリと、微かに大気が震えた。その魔力に、パチュリーはよく覚えがあった。

 次いで遠くから破裂音。

 これは何事かあったな、とパチュリーは小悪魔を呼んだ。しかし返事はない。

「……逃げたわね」

 まぁ、正式な契約を結んだ使い魔ではないのだ。いつかはこうなる事は解っていた。

 しかし逃げ足の早い。

 パチュリーは、まず間違いなく来るだろう厄介事を考えて溜め息をついた。

 そうして紅茶を淹れるのが上手い使い魔を呼び出す召喚方法が無いかと、魔導書をめくっていると。

 そうら。巨大な魔力が近付いてきた。

 ――爆音が響く。

 気怠げに本から視線を上げ、音の発生源へと向ければ煙があがっているではないか。

 そうして十秒も経たずに、もうもうと立ち込める煙の中から小さな親友が姿を表した。

「パチェ!」

「……図書館では静かにしなさいって、教わらなかったかしら?」

 想像以上に騒がしい登場に、パチュリーは頭痛を覚えながら静かに本を置いた。そして彼女の身なりを目にしてギョッとした。

「ちょっとどうしたのよ。ほとんど裸じゃないっ」

「そんなのどうだって良いのよ! この雨をなんとかなさい」

「雨? あぁ……」

 言われてパチュリーは天井を見上げた。そこには先の見えぬ暗闇だけが広がっていた。

「降ってないわよ」

「今はアナタのつまらない冗談に付き合ってる暇はないの!」

 親友の歯に衣着せぬ評価に、パチュリーは内心傷付いた。それはもう、親友の如何なる頼みも断ってやろうと決心させるぐらいには傷付いたのだ。勿論、それも冗談だが。

「咲夜が権兵衛を連れ出して逃げ出したの! アナタも既に聞いてるでしょ!?」

「聞いてないわよ知らないわよ。こんな地下深くで……、って何? 咲夜が逃げた? 男と?」

「男とっ!」

 地団駄を踏むレミリアの様子に冗談ではない事を理解した。

 真逆、あの忠誠心の塊みたいなメイドが――。

 ……いや、そうでもないのか。最近の咲夜の様子は、どこかおかしかった。レミリアよりも男に、その執着を向けていた。

 それが変わったようにも見えたが、矢張り見えただけだろう。彼女の本質は変わっちゃいない。

 変わったのは依存の対象。畏敬から恋情。

 厄介な事だと、パチュリーは溜息を吐いた。

「で、逃げた二人を追いたいから雨をどうにかして欲しい、と」

「その通りよ! 流石パチェ、話が早いわ」

「お断りよ、面倒臭い」

 喜びに溢れていたレミリアの表情が凍りつく。

 動かない、されど優しい大図書館が断ったのは、親友という名に胡座をかいていた結果だった。

 これがもっと仲の知らない相手なら、面倒を遠のけようとちゃちゃっと片付けてしまったかもしれないが、レミリアだからこそ遠慮もしないでパチュリーは本音を吐いたのだ。

 平時なら兎も角、それは良くない。今のレミリアには、大層良くない。

 レミリアの纏う雰囲気が変わった。親友に向けてはいけない、殺意が篭っていた。

 その躊躇すら見せない変化にパチュリーは戸惑いを隠せない。だってこんな会話。友人のじゃれあいじゃないか。ここまで怒る程の事かと、引き篭もり魔女にはレミリアの感情の程が解らなかった。

「言ったわよねパチェ? 今の私は暇じゃないって、二度言うのは嫌いよ」

「レミィ……」

 レミリアがここまで怒りを露わにするのだ。という事は、余程大事なのだ。逃げ出した咲夜が、或いは連れだされた権兵衛が。

 前者に恨みを晴らす気持ちもあろうが、この場合は特に後者の気持ちが大きいのだろう。パチュリーは男に嫉妬した。

 一向に首を縦に振らない友人に、業を煮やしたレミリアは遂にジョーカーを切った。

「紅魔の主、レミリア=スカーレットが命ずる。パチュリー=ノーレッジ、この雨を晴らせ」

「……分かったわよ」

 厳かに告げる友人の、否、当主の言葉を受けるパチュリー。女の友情とは、何とも儚いなぁと思う。

 そして魔女は、一枚のカードを取り出した。

 

 

 時は少し遡る。

 館を出るまでにはさしたる苦労も無かった。何事かと妖精メイドらが騒ぎ立てるも、邪魔をする者は一人としていなかった。

 土砂降りが降る夜に、傘も差さずに二人の影が館から飛び出す。

 権兵衛と、彼を引く咲夜。

 咲夜は知っていたのだ。今日という日が雨の降る絶好の好機だと。今でも思い出す。吸血鬼の姉妹の殺し合いを、成す術無く館が火の海に崩れていく光景を。煌々と赤く、満月の夜だった。

「咲夜? 咲夜!?」

「え……、どうしたの権兵衛さん?」

「どうしたのじゃないだろ! 急に止まるなんて!」

「……」

 私は立ち止まっていたらしい。そんなつもりはなかったのだが、少し考え事が過ぎたようだ。そんな暇は無いというのに。咲夜は頭を振った。濡れた髪が水滴を弾いた。

「ごめんなさい権兵衛さん。……行きましょう」

「いいえ、行かせませんよ」

 声が響いた。よく、聞き覚えのある声が。

 誰、なんて野暮は聞かない。重い重い雨の幕の向こう、門の方角から一つの人影が近づいてくる。

「美鈴……」

 紅魔館の門番こと、紅美鈴である。

 その表情に、いつもの柔らかさは無い。

「退きなさい美鈴」

「いいえ退きません」

 まずは言葉が交わされた。

 激しい雨音すら、強い思いを秘めた二人の言葉を遮る事は出来なかった。

「……貴方は門番でしょ。侵入者の撃退がお仕事。私達は侵入者ではないわ」

「知らないんですか咲夜さん? 門の番と書いて門番というんですよ。そして門とは何も、入り口を指して云うだけではありません」

「禅問答をする程ほど暇じゃないの。もう一度言うわ美鈴。そこを、退きなさい」

「退きませんっ! 今退いてしまったら、本当に私の存在意義が亡くなってしまいますから……!」

 美鈴は拳を握った。腰を落とし、大地を踏みしめ、咲夜相手に構えを取った。

「……何が貴方をそうまでさせるのかしら? そんな忠誠心を持っていたのなら、もっと早くに見せて欲しかったわね」

「あはは。違いますよ咲夜さん。いえ、全く違うって訳でもないんですが。私はこのお館が好きです。そこにはお嬢様がいて妹様がいてパチュリー様がいて、勿論咲夜さんがいて、そして権兵衛さんという新しい住人がいるんです。そんな私の大好きな人達が時々喧嘩をしても、最期には笑い合う。そんな紅魔館が好きなんです。それに――」

 美鈴は目を瞑り思いの丈を吐き出した。本当に、本当に懐かしむように、愛おしむように。一人一人の名前を口にしてはふっと微笑んだ。微笑んでから一区切り付けて、かつてない程に真剣な表情を見せた。

「それに、こんな方法。咲夜さんも権兵衛さんも、誰も幸せにならないですから。私は退きません」

「あら。少なくとも、世界中の誰もが不幸になっても、私達だけは幸せになれるわ」

「そうでしょうか。ね、権兵衛さん?」

 言われて権兵衛はビクリと、大きく肩を震わせた。

 ……そして答えなかった。唐突に話を振られて対応出来なかった訳ではない。美鈴の問いに答えることが、出来なかったのだ。沈黙は果たして正解だったのだろうか。

「ほら、権兵衛さんもああ言ってますよ」

 美鈴は我が意を得たり、と言わんばかりのしたり顔を作る。咲夜が不快そうに顔を歪めた。

「……戯言はよして。はぁ……。貴方と話すのもこれで最期かと思うと、案外寂しいものね」

「いいえ。最後になんか、絶対にさせません」

 二人はしばし無言で見詰め合った。見詰め合いたくて、そうしているのではない。互いに機を待っているのだ。

 雨はその勢いを増し、激しく地面を叩いた。強風まで吹き荒れては、嵐の様相と化してゆく。

 ――雷鳴が轟く。

 これ以上無い戦鐘だった。

 ただの一瞬、世界が真白に染め上げられる。そして轟音が届くまでの刹那に美鈴が動いた。

「疾ッ――!!」

 一息の間、五間もあろうかという間合いを一足で詰めて、裂帛の呼気と共に美鈴は鋭い突きを繰り出した。

 幻想郷での美鈴の評価は、概ね低い。それは幻想郷の決闘方法が弾幕戦という、人妖の差を平らにするべく特殊なルールが敷かれている為だった。ではそのルールの外ではどうか。

 妖怪はおおよそ長寿で、身体も頑丈だし力も強い。身体能力という点に於いては人間と妖怪は雲泥の差がある。だが妖怪の多くは、その種族としての強さに胡座をかいて鍛錬を重ねる者は非常に少ない。

 まして人間の武術を修める美鈴は、とても異質な存在であった。

 故に弾幕を用いない、こと純粋な肉弾戦に於いて美鈴に勝てる者は、幻想郷にも片手で数える程しかいない。

 そんな彼女が一切の容赦なく放つ突きを、人間たる咲夜が躱せる道理は無かった。

 美鈴が一足で間合いを詰め一撃で相手を屠る実力者なら、対する咲夜は一拍も置かずに相手を串刺しに出来る能力者であった。

 美鈴の不幸は、これが純粋な命のやり取りだった事だろう。例え反射を上回る攻撃であろうと、来ると分かっていれば躱せるのが咲夜の能力なのだから。

 そもそも勝敗条件が違うのだ。手加減をしなければならない側としなくても良い側では、実力以上に差は明白である。

 突きが、咲夜の腹部にめり込む寸での所で、瞬きの間に美鈴に無数のナイフが突き立てられていた。

「かはっ!」

 人間ならば即死の、例え妖怪でも致命傷は避けられない。それ程の攻撃であったが美鈴は耐えた。負けるわけにはいかないという精神力だけで耐えた上で、もう一方の拳を振り抜いた。驚嘆すべき胆力であろう。

 しかし、美鈴の全霊を懸けた一撃も虚しく空を切るに終わった。

「頑張ったわね、美鈴」

 すぐ耳元から咲夜の声。

 ――背後! 直ぐ様に気付き、振り向きざま一瞬の攻防。

 美鈴の喉は真横に一閃、切り裂かれた。

 

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 権兵衛は走った。

 二つの脚は悲鳴をあげ、心臓は今にも破裂しそうであった。

 それでも権兵衛は走った。疲労の余り、自分が何の為に走っているのかも忘れそうになる。

 彼はスーパーマンではない。死に戻るだけの人間である。限界はすぐに訪れた。

 初夏の兆しが見え始めたとは言え、夜は未だに肌寒い。夜雨は身を切り裂く程に冷たく、無情にも体温を奪ってゆく。月明かりはあるものの、立ち込める濃霧が月光を遮り、森を十分に照らす光量には満たなかった。

 狭い視界。ぬかるんだ足場。そして極度の緊張。

 悪条件に悪条件が重なり、彼の体力は急速に底をついた。男を不注意と責めるのは酷だろう。

 散漫になった注意力は足元の木の根を見落とし、権兵衛は足を引っ掛けて頭から泥を被る羽目になった。

「権兵衛さんっ!?」

 咲夜の、悲痛な声が響く。

 体勢を立て直そうとするも、手が滑り再び泥中へと身を落とす。皮肉にも、男を転かしたぬかるみがクッションとなって大事には至らなかった。

「大丈夫ですか!?」

「ぜぇ……、あっ……」

 大丈夫だと、強がりすら言えなかった。ただただ呼吸を整えるので精一杯で、言葉の代わりに腕を上げたが、それも力の篭ったものではなかった。

 対して咲夜の疲労と言えば、能力を連続で使った精神的なもの。ずっと低空を飛行していた為、体力的には然程減ってはいない。

 咲夜が目指しているのは、博麗神社だ。

 正確には、博麗神社から外の世界へと逃れようという算段である。

 巫女の協力は、既に仰いである。問題は準備が整っているかどうかだが、あのグータラ巫女の姿を思い浮かべると不安しか覚えない。もし寝ていたら、ナイフを添えて丁寧に起こしてやろうと思う咲夜だった。

 しかし――と、咲夜は愛しい男の様子を伺う。必死で息を整えているが、目もどこか虚ろで、強行軍をするには些か危険が過ぎよう。

 今は一刻も早く、紅魔館から遠ざかるのが重要なのに。

 自分一人であれば、目的地までも一瞬で辿り着くのだが、それでは意味がない。

 ならば、彼を抱えて飛ぶか? 権兵衛を紅魔館を連れてきた時にだってそうしたのだ。出来ない事ではない。

 だが、彼を抱えた状態で能力を用いる事は無理だ。体力、精神力の消費が激しすぎる。そんな状態で博麗神社まで連れてゆく自信は無かった。

 それに、有事の際には私が対応しなければならないのだ。体力を使い切る訳にはいかない。

 故に咲夜は権兵衛の回復を待った。

 せめてもと、寒さだけでも和らげようと男の身体に身を寄せて。

 

 

「……あぁ、情けないなぁ」

 美鈴とて妖怪の端くれである。切り裂かれた喉の傷も既に塞がり掛けて、今はただただ己の不甲斐なさを嘆いていた。

 時間稼ぎにも、なりやしない。

 始めから分かっていたのだ。自分と彼女の相性は、抜群に悪い事を。

 だからって、そんな言い訳、自分でもしたくない。何が何でも咲夜の凶行を、美鈴は止めたかったのだから。自分の為にも、彼の為にも、何より彼女の為にも。

 指先に力を込めればピクリと、僅かに反応を返した。肉が繋がり始めたのだろう。

 後数分もすれば、歩ける程度には回復するだろう。そうしたらまた彼女を追って、説得しなくては。

 美鈴の決意とほとんど同時。

 空が、爆ぜた。

 

 

 ゴオォゥゥゥゥン……―――。

 耳を覆う程の轟音が響いた。音だけではない、眩いばかりの光も。夜の闇を完全に消し去る程の光だった。

 眩しさに目を細めて夜空を見上げるとそこには、特大の光球が存在していた。

 ――日符「ロイヤルフレア」。

 魔女の持つスペルカードの中でも、一番に威力を持った魔法である。その超魔法が紅魔館を中心とした一帯の雨を悉く焼き払ったのだ。

 おかげさまで体温を奪う冷たい雨は止んだ。しかしこれでは、レミリアに追い着かれるのも時間の問題だと、権兵衛は吸血鬼の迫る恐怖に怯えた。

 そんな彼をあやす、咲夜の声はどこまでも優しかった。

「大丈夫です、大丈夫ですよ。手は、打ってありますから」

 

 

「あハっ! アはははハあはアアはハハハははッ!」

「ちぃっ! 止めなさいフラン!」

「どうして? どうして止めなきゃいけないのお姉様!? もっと、もっと遊びましょう! こんなにも月が紅いんですもの、あはッ!」

「狂人め……!」

 実の妹に吐く台詞ではない。

 パチュリーのスペルカードが空を焼いた後、追跡を開始しようとしたレミリアをフランドールが襲い掛かった。

 今日という満月の日であるにも関わらず、フランの存在を失念していた。

 盛大に打ち上げられた花火をフランが興味を持たぬ筈がない。

 果たしてそうだろうか? あまりにもタイミングが良すぎるのではないか?

 そんな考えに裂く余裕なんかは、無い。何せフランの弾幕は手加減も遠慮も無く、徹底してレミリアを打ちのめそうというものなのだから。

 頼りになる親友の姿はもう見えない。役目は終わったと言わんばかりに魔法を発動した後、すぐに図書館へと帰ってしまったのだ。なんとも薄情な親友である。

「ッ!」

「あーん、惜っしいー!」

 薄情者に意識を割いている場合ではない。フランの弾幕がレミリアの頬を掠める。後数センチ横にズレていたら、首から上は存在していなかったろう。そんな程度で怖気づくレミリアではない。

「そうね。こんなにも月が紅いから、本気でいくわよ」

「来てきてキテキテキテキテ来てよお姉様! 折角咲夜がお膳立てしてくれたんだもの! 楽しまないと損だわ!」

 矢張りか。道理でフランのタイミングが絶妙であった訳だ。

 あのメイドから、何某か吹き込まれたのだ。例えば、今日は優しい姉が遊んでくれるだとか、大方そんな事を吹聴したのだろう。

 なんと憎たらしい小娘だ。この場にいないながらも邪魔をしてくれる。この怒り、誰にぶつければいい?

 鼻先を、焔を纏った弾丸が過ぎ去る。

「よそ見は駄目よお姉様。私だけを見て、私だけを見て、ワタシだけを見て?」

 ……そうか、こいつか。私の邪魔をするのだから、八つ当たりにもなるまい。

 レミリアが掲げた手に魔力が収束してゆく。そうして形作られたのは真紅の槍。吸血鬼でありながら、神槍の名を冠した暴力の塊。

 やっと殺る気になった姉を、フランはこの上ない笑顔で迎える。

 この度の、姉妹喧嘩の火蓋が切って落とされた。

 

「っ……、あれはっ!」

 遠く、夜空を裂く紅い弾幕。二種類の交叉する弾幕。見間違える筈がない。レミリアと、フランのものだ。

「始まったようですね」

「咲夜っ!? なんで――」

「何故、と。お聞きになるのですか。貴方様の為ならばお答えしましょう」

 あれが手か! 咲夜の言っていた、手段だと言うのか!?

「権兵衛さんも、おそらく承知でしょうが、妹様は幽閉されております。そして満月の夜にだけ出歩くことを黙認されています」

 あぁ、知っている! 知っているとも! 前回か前々回か前々々回か、記憶の混濁が激しくて、何時の世界かはハッキリと解りはしない。だが、ハッキリと覚えているさ。

 彼女が――。

「そして妹様は情に、何より家族愛に飢えています」

 ――愛情に飢えているなんて。

 知らない筈が無いだろう……。

 権兵衛にとってフランは特別だった。咲夜のそれとは違う意味で、特別だったのだ。

 その何も知らぬフランを、咲夜は目的の為に利用する。如何に権兵衛とて我慢出来る限度を超えていた。

「私は素直になれないお二人の為に一手打ったに過ぎません」

 にこりと、咲夜は瀟洒な笑みを浮かべた。

 詭弁である。

 主人と、その妹の為だと嘯くメイド。

 瞼を閉じれば、フランの笑顔を思い出す。耳を澄ませば兄と呼ぶ、フランの声を思い出す。疲労による幻覚である、幻聴である。本来ならそう、切って捨てられるものなのだろう。

 だけど! 記憶の中の少女と寸分違わぬソレは権兵衛に一つの決意をさせるには十分だった。

「さぁ。妹様が起きたともなれば、いよいよグズグズしている暇はありません。お辛いでしょうが、もう少しの辛抱です」

 咲夜は立ち上がり権兵衛を励ますが、男は一向に立ち上がらない。

 まだ疲れているのかしら、と心配になった咲夜は手を差し伸べるが男は一向に手を取らない。

 権兵衛は目を瞑り確かめる。手の中の冷たく無機質な感触を。

 いざという時、自衛の為に渡された一本のナイフ。見た目以上の重さを伴ってずしりと、男の掌で存在を主張していた。ただの一振りで容易く死に至らしめる、命の重さだった。

 命の、なんと軽い事か。権兵衛は自分自身を嘲笑った。

 いよいよもって不審に思った咲夜が「権兵衛さん?」と一歩近づく。

 何の警戒も、疑いも無く。

 そして権兵衛は手に持ったナイフを振り上げて、躊躇なく振り下ろした。

 目の前の出来事に、咲夜は驚愕に目を見開く。

 想定外の出来事に、時を止める暇もない。

「あ、え……? な、んで―――――――――?」

 ナイフは真っ直ぐに、見事肋骨をさけ権兵衛の心臓に突き立てられた。

 ガフッ――。男は一度だけ血混じりの咳をして、息を引き取った。……即死だった。

 咲夜の身体から糸が切れた。かくんと足から崩れ落ち、魂の抜け出てしまった瞳には最早何も映してはいない。しかし無意識に身体は動いた。長い時間を掛け、泥の上を這いずり男の元へと辿り着く。

 そして彼の頭を己の膝に横たえた。今日の昼と同じように。今日の昼と違って、彼の顔は後悔に塗れていた。

 男の亡骸を、咲夜は放心した様子で見詰める。

 事情の知らぬ者が見つけたら、屍が二つ、仲良く寄り添っているようにしか見えまい。

 この結末は、皆を幸せにしたい。そう願った男からすれば甚だ不本意だったのかもしれない。

 しかし咲夜にはもっと前向きな、それこそ愛の逃避行に他ならなかったのだ。

 幸せな未来は、目前にまで近付いていたというのに。その為に、完璧な計画を立てていたのに。

 その最中に最愛の男は、あろうことか自死を選択したのだ。

 その、完璧で瀟洒な少女には絶対に絶対にぜったいに、認められない現実を前に、十六夜咲夜を十六夜咲夜たらしめていた何かが壊れた。

 十六夜咲夜という女は、今度という今度こそ、完璧に壊れた。

 少女の肩が揺れる。

「うふ……、うふふひあはあははははっ! なーんだ! なーんだ、そう、そうそういうことなのねごんべえさん! わたし分かっちゃったわ!」

 悲しみではなく喜びで。

「くふっ、ごんべえさんってかしこい賢いんだから。さいしょっからそうすればヨかったのよねふふっ! ひっひぁははっああはははハははははははははははははぁははははははハははははははははははははは――――――――――――――――――――!」

 その哄笑を耳にして者は皆一様に口を揃えてこう言うだろう。

 狂っている、と。

 笑い声は森中に響き渡った。まるで永遠に続くかと思えたソレは唐突に止み、辺りに静寂と平穏が戻る。

 

 

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