夢を夢だと気付いたりするのは、誰しも一度は経験があるだろう。
明晰夢と呼ばれる現象である。
しかし、この明晰夢。夢だと分かっていても自分で好き勝手出来る便利な代物でもない。努力すれば自在に操れるとも聞くが、ならば自分は努力が足りないようだ。
これは夢だ、極上の悪夢だ。
無数の宙に浮く瞳だけの存在に見詰められるなんて、現実に有りはしない。
悪夢じゃないなんて揚げ足取りはよしてくれ。これが吉夢だって言うなら、ソイツはとんでもない露出癖の持ち主か、ひねくれ者に違いない。生憎自分は誰だか分からない、宙ぶらりんの瞳に熱烈な視線を送られたからって、悦ぶような特殊な人間じゃないのだ。
だから、いい加減目を覚ましてくれよ!
必死の念が届いたのか、徐々に意識が浮上するような感覚を覚える。そして意識とは真逆、体は深い海に沈むような錯覚は何とも心地良く、彼は誘われるがまま力を抜いた。次第、瞳だらけの風景は靄に包まれ、何の夢を見ていたのか、あんなにも印象的だった記憶すら朧に包まれる。目を開ける頃にはすっかりさっぱり忘れ去っていた。
心地良い微睡みも刹那のこと。
瞼を開く。
額を流れる脂汗は不快感を倍増させ、先の悪夢も相まって最悪の目覚めと呼ぶに相応しい。唯一、悪夢から逃れられた事実だけは幸運と言うべきか。
「……?」
その、肝心要の悪夢を思い出そうと試みるも、全く思い出せない。
どれほど記憶の糸を手繰ってみるも、あれほど印象的だった筈なのに、起きてしまえば過去の遺物という訳か。得てして夢なんてそんなものだろう。嫌なことは忘れるに限る。
思考を切り替え周囲を見回す。しかし状況は判明するどころか、一層不理解が深まった。
見覚えのない天井。見覚えのないベッド。今は、何時だろうか。時計や窓などの、時刻を確認できそうな物は見当たらなかった。
灯りは枕元の台座に備えられた燭台一つ。蝋燭一本程度の火では、部屋の全貌を照らすには事足りない。それぐらいには大きな部屋のようだ。
迂遠な言い回しをしたが、要するに全く見知らぬ部屋だった。
清潔感はあるが病院には見えない。
視界内のものだけでは現状の把握には役に立たず、何をするでも無ければ、当たり前だが事態は一向に進展しない。情報収集の基本は足である。少し、散策に出掛けようと、ベッドから這い出すも、身体が上手いこと脳の指示に従ってくれない。
気怠さに鞭打ち、ようやくして立ち上がる。どこかおかしい所がないか、自分の姿を見下ろして、まず服を探そうと決心した。
幸い、下の方は履いていたので、醜態を晒す羽目にはならなかったが、上に関しては生まれたままの姿格好に、丁寧に巻かれた包帯を身に着けるだけだった。
「おはようございます」
燭台を持って一歩踏み出した所で、声が響いた。若い、女の声だ。その声は明らかに自分へと向けられたものだった。
突然の不意打ちに慌てて、声のした方向へと燭台をかざす。柔らかな灯りが緩やかに一人の少女の形をした陰影を浮き上がらせた。驚きはしたが、相手が少女であることに冷静さを取り戻す。
気配も無く現れた少女には、若干気味悪さを感じるが、丁度いい。どちらかと言うと男はポジティブな性格だった。男は質問を投げ掛けようとしたが、少女の格好を視認した瞬間、その機会を逸した。
メイド。メイドさんである。
え、なんで? 予想外過ぎる服装に男の思考が再び硬直するが、メイド少女はおかまいなしに口を開く。
「お体の具合も、壮健そうで何よりです。着ていたお服は傷みが非道かったので、とりあえずこちらでご用意させて頂いたものにお着替え下さい。お着替えが済みましたら、主人と面会して頂きます。もし足りないものがあったら、お気軽にお申し付け下さい。私は部屋の外におりますので、では」
「ちょっ、待――」
メイド少女は言うべき事は言ったと一方的に話しを切り上げた。男が声をあげる暇もなく、現れた時と同様に音もなく闇へと姿を溶かした。
戻ってくる気配は、微塵もない。職務には忠実なのだろう、言った通り、扉の外で待機しているに違いない。。
現状を把握しきれない今、自分が求める情報を持っているだろう彼女に逆らうメリットもない。指示通り、置いていった服に袖を通す。
さもあつらえたかのようにぴったりな燕尾服。いや、彼女がメイドだったから、これは執事服だろうか? 適度な緩さを保っているが、そこは礼服。無理矢理背筋を引き伸ばされるような、独特の息苦しさを覚える。
贅沢を言えばもう少し、ラフな格好の方が好ましかった。メイドに言えば別のものと取り替えてくれそうだが、会ったばかりの相手に無茶を頼むのも気が引ける。結局その服で部屋を出る事にした。
「……どうも」
彼女の言葉を疑っていた訳ではないが、本当に部屋のすぐ外でメイドは待っていた。
何と声を掛けようか悩んだものの、取り敢えず無難な挨拶をしてみる。返答は無く、彼女は無言のまま、爪先から天辺まで着替えた俺を値踏みしてきた。
露出癖は無いっちゅーに、気持ちいいものではない。視線は厳しく、身動ぎすら許す雰囲気ではなかった。満足したのか、彼女の視線が外れた時には思いっきり安堵の息を吐いてしまった。
失礼な行為だったかと慌てて口を塞ぐも、メイドはとんと興味無い様でくるりと背を向けた。
「こちらへ。お嬢様がお待ちです」
事務的な内容を口調で、彼女は建物の中を先導し始めた。
お嬢様とは、はて、女か?
当初の目的を思い出す。現状の把握が第一。少しの情報からも、分かる事は収集しようと。ならば目の前を歩く少女に聞けば良いのかもしれないが、お嬢様とやらに会ってから聞くのも遅くはない。
決して目の前の小さな背中から、ひしひしと伝わる拒絶のオーラに、ビビってる訳じゃないぞ、うん。
そうしてメイドの先導に従っている間も、目は絶え間なく動いていた。
そう数の多くない窓から差し込む月明かりと、点々に備え付けられた蝋燭の火だけが廊下を照らしていた。蝋燭などと、随分と骨董趣味である。ガスが、通っていないのだろうか?
その小さな灯火が浮かばせるのは赤、赤、赤。一面の赤。病院の潔癖な白とは対極の配色だった。
結構な距離を歩いているのに未だ曲がり角一つ存在せず、ひたすら真っ直ぐの赤い廊下を進んでいると、不意に、巨大な生物の腹の中を連想してしまい身体を震わせる。
気持ちメイドとの距離を詰めると、鋭く勘付いたメイドが顔を向けてきた。
「何か?」
「え、いやっ。その、何でもない……」
「?」
てんやわんや弁明をするが、そもどうして自分がこんなにも慌てているのか。少し近づいただけだし、口を開いたのも彼女が先なのだ。
少女は不思議そうに小首を傾げ、再び歩を進め始めた。振り返りざま微かに動いた唇が、震わせた空気の振動を俺の耳は捉えてしまう。
――変な人間。
がーんだな。彼女に下心を抱いている訳では、決して無いが、出会って早々に変と思われるのは、心に浅くない傷を負わせてくれた。
男が落ち込もうがどうしようが足は進み、着々と目的地へと近づく。
「到着致しました」
案内された目の前には、重厚そうな両開きの扉があった。面には見事な彫り物が施されたソレは、廊下で度々目にした他の扉とは明らかに造りが違う。他の扉も、決して簡素な板きれだった訳ではない。どれも一目でそれなりに値の張る品だと分かる意匠は施されていたが、眼前の扉とは比べる事すら烏滸がましい差がそこにはあった。
「お嬢様、咲夜です」
「入れ」
金属製のノッカーで二度叩く。甲高い音が廊下に響き、少しの間も置かず、男の予想に反して幼い声が返ってきた。
「どうぞ」
深呼吸する暇も与えてくれずにメイドは戸を開けてくれやがりました。覚悟を決めて部屋に脚を踏み入れ、彼は驚愕した。その部屋の広大さに。
廊下の長さから大きな建物だと、察してはいた。いたのだが。連れられた部屋は彼の想像を遥かに超え、雄大、壮大という言葉が似合う大広間だった。
男は一瞬、御伽話の世界にでも迷い込んだのかと錯覚した。広いだけではない、視線を上に向ければ吹き抜けの天井は目眩を覚えるほどに高く、等間隔に備えられた巨大な石柱がソレを支えていた。床は一面に真っ赤な絨毯が敷き詰められ、一歩一歩踏み出す度にふわりと男の靴を優しく包み込み、余りの柔らかさに却って歩き難いとすら感じてしまう。
最初の部屋とも、廊下とも異なる雰囲気を持つこの広間は、些かに異質である。どこかの宮殿にでも紛れ込んでしまったような感覚が、彼の足を止めてしまった。
「ふふっ、どうした。そんな遠くで、話もままならないじゃないか」
広間の奥から、幼い声が響く。
視線を向けると玉座――敢えて玉座と呼ぼう――にちんまい娘がふんぞり返っていた。
背後で扉の閉まる音がする。
部屋には自分とメイドと、玉座の少女だけがあった。
状況から推察するに彼女がメイドの主人に違いないのだろう。なのだろうが、先のメイドの言動からある程度は若いだろうとは思っていたが。まさかここまで幼いとは。館の規模やメイドの質の高さに比べて、ちぐはぐな印象が拭えない。
話をするには幾分遠い距離であった。柔らか過ぎて気持ちの悪い絨毯に足跡をつけながら進むと、――まただ。回り込まれた事実もないのに背後にいた筈のメイドが、何時の間にやら主人の横で佇んでいるではないか。その立ち位置はまるで一枚の絵描のようで。つまりはソコこそが彼女のいるべき場所なのだろう。
幾つか腑に落ちない事実を前にして、情けない表情を晒していたに違いない。彼女はクスリと笑い、見た目に反してしっかりとした口調で高らかに宣言した。
「ようこそ客人、紅魔館へ。私が当主のレミリア=スカーレットだ」
こう、まかん……?
聞いた事のない名称に頭をフルに回転させるも、矢張り心当たりはない。
うんうんと一人唸っていると、レミリアはちょっと不機嫌そうに口を開いた。
「おい。レディが先に名乗ったんだ。そっちも答えるのが礼儀だろう」
至極正論である。正論であるのだが。
「失礼を承知で聞くけれど、一つ質問してもいいかな」
メイドの眉が僅かに跳ねる。
そんな従者の動きを、レミリアは腕を上げるだけで制した。
「構わんよ。何が聞きたいんだ?」
どうやら話の分かるお嬢さんようで助かる。
コホンと一つ咳払いをして、さぁ話すぞと言わんばかりに姿勢を正すと、主従の二人も心なしか真剣な面持ちに変わった。
片や好奇心から、片や警戒心から。何とも切り出しにくい空気になってしまったが、ままよ、意を決して質問を投げ掛けた。
「俺は誰だ?」
「は?」
時が、止まった。
――。
――――――。
真っ先に動いたのはメイドだった。
懐から懐中時計を取り出して、針が問題なく動いている事を確認すると主人と男の顔を交互に見やる。その動作に何の意味があったのか、男にはまるで分からない。ただ、その不安そうな、心配そうな表情を浮かべる少女を見ていると、言い様の無い罪悪観に苛まれてくる
俺が悪いのか? ……悪いんだろうなぁ。
次に動き出したのはレミリアだが。
「えっ、何よそれ!? どうして!? それじゃ助けた意味が、あーっもう!」
思いっきりキャラが壊れていた。
ばたばたと地団駄を踏んで、うーうー喚いているのは、壊れたと言うよりも戻ったという印象を受けた。成る程、最初に感じたちぐはぐな印象は、こちらが素なのだとすればある程度納得がいく。
隣に佇むメイドの狼狽ぶりも、また目を覆いたくなるものだった。励まそうにも何と言えば良いのか分からず声を掛けあぐね、両の手はオロオロと宙を彷徨っている。
暴れ飽きたレミリアは、椅子にどっぷりと体を預けて、どよんとした空気を纏った。先程の堂々たる雰囲気は欠片も無い。
彼女らの反応はつまり、自分らが既知の仲である、という淡い期待を華麗に打ち砕いた事に他ならない。いや、ここに来るまでの様々なやり取りで、薄々予想はついていたけども。
「あー。信じて貰えないかもしれないけど、その、だな。目が覚める以前の記憶が全く無いんですよ、ハイ」
場の重さを少しでも柔らげようと、努めて軽い言動を心掛けてみたが、レミリアの落胆ぶりと言ったら、それはそれは大層なものだった。
いやだってさ?
ココハドコ? ワタシハダレ? なんてまさか、自分が当事者に陥るなんて夢にも思わないだろう?
それに記憶喪失だなんてのは不可抗力、だと思う。仕方のない事、に違いない。自分で自分を絶対的に肯定出来ないのは、それこそ記憶がすっかり抜け落ちているから。記憶を失った原因が、外的要因に依るものなのか、案外自業自得なのか、それすらも分からないのだ。
はぁ~~…………。
広間全体に響き渡る、レミリアの盛大な溜め息。彼女は頭を抱え、ピクリとも動かなくなってしまった。
初対面に過ぎない自分でさえ、彼女の落ち込みようはひしひしと伝わってきた。
すわいかん。女性が困っている何とかせねばと、男は妙な義務感に駆られ唇を動かした。
「権兵衛……」
「?」
言ってしまったからには――どうかしてると心が囁くが――止める訳にはいかない。
「名前だよ。ほら、無いと不便だろ。だからさ、よく言うじゃないか。名無しの権兵衛って」
メイドの顔にありありと、何言ってんだコイツ、と呆れの色が浮かぶ。
いや、本当そうですねハイ。馬鹿にされるだろう百も承知。それでも玉砕覚悟の自己紹介(?)は、重苦しい雰囲気を消し飛ばす事には成功した。
「権兵衛、権兵衛ね……。うん、及第点かな」
返ってレミリアは、彼の名前を口の中で反芻して、幾分明るくなった顔を上げた。
「改めて権兵衛。ようこそ紅魔館へ。記憶が無いとは、ふむ。何から話したものかな」
足を組み顎に手を当てるさも考えてますよポーズを取るレミリア。まるで大人ぶりたい子供が背伸びをしているようで微笑ましいと権兵衛は思う。
パチンと指を鳴らして、何を思い立ったのか「よし、まずはこの世界のことを教えてやろうか」と勢い良く立ち上がる。実際にはぽふっと、鳴ったんだか鳴ってないんだか分からない音だった。
しかしはて。世界とはこれまた、奇なる事を言う。まさか今更地球平面説を唱えるわけでもあるまい。
「聞いて驚くなよ。この世界は幻想郷、妖怪と人間が共存する世界。お前の様な無力な人間は、あっと言う間に妖怪の餌になってしまう世界だ」
レミリアは朗々と世界の説明とやらを、こちらに歩み寄りながら語る。権兵衛と歩幅一つも無い程に差を詰め寄ると、彼の顔を覗きこんではその胸元に爪を突き立てる動作をしてきた。
驚愕の新事実を突き付けられた権兵衛の反応は如何に。
「はぁ……」
「リアクションが薄いっ!」
驚くなと言ったりリアクションを求めたりで、我儘なお嬢様だ。
いやだってね、異世界と来ましたよ奥さん。寝耳に水である。
とりあえず今の反応はお嬢様のお気に召さなかったようで、ぷぅと頬を膨らませてる姿は土饅頭である。
「信じていないな」
「そりゃ」
まぁ……。
ここはあなたの住んでいた世界じゃない、なんて突然言われてそうですかと納得出来る筈もない。と言うかだ、自分は記憶喪失である。この世界の生まれだろうが違かろうが、判断に困るのだ。
疑念と不信に駆られている権兵衛を前に、にやりと悪戯っ子の笑みを浮かべるレミリア。
「これでも信じられないか?」
彼女は己が背を誇示した。ばさりと、影がはためき、人であれば存在し得ない、真っ黒な翼が生えていた。
嫌らしい笑みを貼り付けたまま、レミリアは権兵衛を覗き込む。間近で見ると、彼女の頭は胸の高さほども無く小さかった。それに比べると一対の蝙蝠の翼の、自己主張が激しいこと。
「ふふん。本物の吸血鬼を前にした気分はどうだ。ククッ、言葉も出なうひゃぁっ!?」
「お嬢様!」
ゆさゆさと目の前で翼を揺らされると、何だか無性に触りたい衝動に駆られた。ついと腕が伸び、指先が翼に触れる。すべすべと柔らかく暖かい、作り物じゃないかとも疑ったが、その質感は紛れも無い本物だった。
「ばっ、馬鹿かお前は! なんで急に触ってくるのよ!」
「いや、作り物なんじゃないかなーって」
「本物だよっ、当たり前でしょ! レディに対してこんな無遠慮に、セクハラよセクハラ!」
「無礼者めっ!」
主人のうーうー声に重なりメイドの怒声が響いた瞬間、喉元にナイフが突き付けられていた。狐に摘まれたようだ。瞬きよりも早く、玉座の横にいたメイドが、自分の背後を陣取り首筋にナイフを添えているのだから。
異世界に吸血鬼。なんとファンタジーな世界なら瞬間移動もアリなのだろうか。命の危機に晒されながらも。呑気にもメルヘンチックな思考に思い馳せる権兵衛であった。
「よしなさい咲夜」
「しかし!」
「犬の癖に耳が遠いのか、この愚図が」
「っ! 申し訳、ありません……」
まただ。首元に触れていた冷たい感触が消えたかと思うと刹那、メイドは主人の少し後ろに静かに佇んでいた。心無しか、主人の辛辣な言葉に肩を落としている姿は哀愁を誘う。
犬と揶揄された様、彼女に耳と尻尾が存在したならばしゅんと項垂れていた事だろう。
危機を救われて何だが、ほんの少し同情してしまう。するだけだが。
「えーコホン。兎も角だ。今のような不用意な行動ははなるべく避けるんだな。寛大な私だったから良かったもの、他のヤツらだったら殺されていたぞ? それとレディの扱いも心がけておけ」
命が幾つあっても足りないぞ、と釘を刺される。
「それで。その妖怪様は俺を食べるって言うのかい?」
「忠告を聞かない男だな。ふん、……まぁいい。食べるつもりだったら端から助けたりなんかしないさ。だが、そうだな。もうすぐ食事の時間だったな。立ち話もなんだ、食事をしながらでも、色々話そうじゃぁないか。色々とな。何せお前が意識を失ってからまる二日だ、腹も減っているだろう?」
言われて気付いた、自分の空腹さ加減に。
しかし二日か。一体何が原因なのか、失った記憶との因果関係は。或いは当時の状況でも聞けば、切欠の糸口にでもなるのかもしれないな。
と考えた所で胃袋が我慢の限界を迎えて盛大に唸りをあげた。
「ククッ、食いしん坊め。何かあったら、とりあえずこれに聞けばいい。ウチ一番のメイドだからな」
「十六夜咲夜と申します」
レミリアに紹介されたメイド、咲夜はスカートの端を握って軽くお辞儀をした。上品でありながら、従者らしく主張の少ないお辞儀であった。今し方自分を手に掛けようとした人間にする挨拶ではないよな。
「そう時間は取らせないさ。その間にでも頭の中を整理でもして、聞きたい事も纏めておけばいい。咲夜っ」
「はい」
「まだ部屋の場所も覚えていないだろうしな。送ってやれ」
「畏まりました」
来た時同様、権兵衛はメイドに先導されて部屋を退出した。
二人が出て行ったのと行き違いに静寂が部屋を満たす。
しんと、己以外に誰もいなくなった部屋で、レミリアの口は綺麗な弧を描いた。先程に見せていた不遜なものでも、あどけなさの残るものでもない、人外らしい狂気の在る笑みだった。
記憶を失っているなんて、一時はどうなる事かと思ったが。
権兵衛と。名無しの権兵衛と、その意味を棚に上げる名前ならば、彼の運命を無駄に引っ掻き回す事もなかろう。そう、彼自身本能で察したのか、矢張り逸材である。見抜いた私を褒めてやりたいぐらいだ。
そして、あの男が何をもたらすのか。
くつくつと、唇の隙間から鋭い犬歯が覗く。
「楽しみだなぁ」
吸血鬼は一人、これからの運命に思い馳せた。