幻想狂縁起~紅~ 《完結》+α   作:触手の朔良

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悪魔と魔女

「図書館ってどこだ……」

 長大な廊下の真ん中で、権兵衛は一人ごちた。

 気付けば権兵衛は迷子になっていた。

 一つだけみっともなく言い訳をさせて貰うならば、紅魔館が広すぎるのが悪いのだ。うむ、素晴らしきは責任転換と現実逃避かな。

 美鈴には図書館の場所を教えて貰う前に追い出されたからなぁ……。いや、口は災いの元だと言ったものだが、その門戸には鍵も番もつけられぬのだから仕方あるまい。

「おーい、誰かいませんかー」

 試しに大声を出してみるもその返答は静寂であった。

 あれ程やかましかった妖精メイドらは何処へ消えてしまったのか。いつの間にやら一人として見なくなっていた。「迷ったら素直に道を尋ねなさい」とは記憶にない母の教えであるのだが、尋ねる相手がいなければ実践も出来ぬではないか。

 されど世の中良く出来ているもので。捨てる神あれば拾う神あり。や、ちょっと意味合いは違うけれども。

「なんです、アナタ」

 兎も角、偶然にも廊下を通りかかる人影、いや救いの女神が降臨なされたのだ。

「悪魔ですけど」

 悪魔でした。

 いやはや。魔女を訪ねて三千里の最中、魔女と出会う前に悪魔と遭遇するとは幸先良いのか悪いのか。悪魔なんだから悪いに決まっているか。

「早々に失礼な方ですね。魔女とは、パチュリー様に御用でも?」

 藪から棒に、魔女の名前を知ってしまった。そうか、パチュリーと言うのか。迷った挙句に目的へと近づいていくとは、矢張り仏のお導きであったか。

「さっきから神だの仏だのと、悪魔に喧嘩売ってるんですか。いいですよ悪魔の喧嘩は安いですよ」

 安いんかい! 思わずツッコんでしまいそうになった。見れば悪魔と名乗った女はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。成る程これが悪魔か、と妙に得心したものだが、相手の意地悪さを納得するのは悪魔にとって褒める事に当たるのだろうか? 妖怪といい悪魔といい、人外心は難しいものだ。

 自分はそのパチュリーとか言う魔女に会いたいのだ。どうか連れて行ってくれ、と悪魔に頼み込む。

「え、ヤですよそんな。なんでワタシが」

 すげなく断られた瞬間にしまった、という思いが権兵衛の脳裏を掠めた。相手は底意地の悪い悪魔なのだ。素直に頼み込んで、どうして首を縦に振ろうものか。いやしかし、このまま放置でもされたら、最悪屋内で遭難という嘘のような出来事が真になってしまうではないか。

「いいじゃないですか。遭難なんて、滅多にできる経験じゃないですし。やってみれば面白いかもしれませんよ、ワタシが」

 生死の境に立たされる身としては全く面白くありませんがね。

 冗談ではないと女を睨みつけてやるも、悪魔は美鈴の笑顔とは全く別物のソレを張り付けてケタケタと笑った。

 ええい。こうなれば金魚の糞よろしく貴様に憑いて回ってやろう。図書館へと辿りつけなくとも、何処かへは着けるはずだ。

「やだ。ストーカー発言ですか最低ですね。コワいのでワタシ行きますね」

「えっ。いやホントっ、待って、待って下さい!」

「さようなら名も知らぬお方。あ、いえおバカ。アナタのことは明日にでも忘れます」

 静止の声も意味を持たず、突発的に現れた悪魔はその時と同様に飛び去ろうとする。しかし権兵衛とて逃すまいと必死なのだ。寸での所でスカート裾を掴んで、ぎりぎりの所悪魔の逃亡を阻止した。

「ヤ、離して下さいよ! 出るトコ出ますよっ、シャバに出られないようにしますよ! 大体っ、アナタみたいに冴えない人間、パチュリー様に会って何するつもりですか! ナニするつもりですかこの変態!」

 謂れの無い誹謗中傷は、この際目を瞑ろう。おそらく、これが説得のラストチャンスだろう。しかし、この偏屈な悪魔を一体どう説き伏せるのか。考えるよりも早く権兵衛の口は動いた、動いてしまった。

「俺は記憶を戻したいんだっ」

 後悔先に立たずとはこの事である。瞬間悪魔の瞳が光った。面白いオモチャを見つけたと言わんばかりに。

「ほう……? ほうほう。ほうほうほうほう?」

 悪魔はピタリと抵抗を止めると身を翻し、無遠慮な視線で全身を舐め回してきた。

 俺は、一時の身の安全欲しさに、最悪の選択をしてしまったのかもしれない。

「いいでしょう。ついてきて下さい」

 再度女は身を翻し、今度は人の足でも無理なく追える速度で飛び始めた。

 しかし、権兵衛の耳は聞いてしまった。権兵衛を観察している折、悪魔の唇の小さな小さな震えを。

 面白そうですね、と。

「ナニちんたら歩いてるんです? やっぱり置いてかれたいんですか?」

 少し先を行く悪魔がまだかまだかと急かしてくる。聞きたくもない言葉を耳にすれば、足取りも重くなるというものだ。

 ならば前向きに考えようではないか。とりあえずの難は逃れたし、魔女にも会えるのだ。魔女との出会いが良きものであるかは、未だ不明だが。

 今は悪魔の案内が、地獄へ向かうものではない事祈るばかりである。

「ところで、おまえさんの名前は何て言うんだ。俺は、権兵衛と名乗っているが」

 道行く途中。会話らしい会話も無かったので特別深い意味もなくいっちょコミュニケーションの一つでも取ってやるかと話し掛けた時のことだ。

「え、それってプロポーズですか。出会ってすぐにケダモノですね」

 いや、それはおかしい。どうしてそうなるのか。

「悪魔に名前を教えろって、それセクハラって言うんですよ」

「分かった分かった。じゃぁ何て呼べばいいんだよ……」

「館の方々はワタシを小さい悪魔、小悪魔と呼んでますよ」

 小悪魔て、アンタ。果たしてそれは名前と呼べるのだろうか。

 しかし彼女の人をからかい笑う、けれどどこか魅力を感じずにはいられないその魔性、は小悪魔と呼ぶにふさわしい。

「そういうアナタこそ、それは名前なんですかね」

 言われてみればその通りである。権兵衛は肩を竦めた。

 そんな男の反応に、小悪魔はケタケタとやたら響く笑い声を上げた。

 そうして暫くして、権兵衛の不安はめでたく杞憂のままに終わった。

「着きましたよ」

 彼女は一枚の、図書館へ至ると思われる扉の前で翼を止めた。

 館の中に在るのなら図書館ではなく図書室では、としょうもない疑問に首を捻っていると、先んじて小悪魔が扉の中へ姿を消した。見失わぬよう次いで権兵衛は図書館へ身を滑らせ、部屋の中に広がる光景を目の当たりにし思わず納得した。これは紛れもなく図書館だ、と。

 名は体を現すと言うように、この幻想郷では名前は非常に重要な意味を持つ。

 ここが図書館と呼ばれる意味が、そこには在った。

 立体的に組まれたは書架は無限の広がりを見せ、収められた膨大な蔵書の数々に権兵衛は圧倒された。

 吹き抜けの天井には永久(とこしえ)の闇が続いており、奥へと続く本棚の道もまた果てが見えない。一体どれだけ広いのだ。

 冷静になって考える。これは明らかにおかしい!? この図書館とやらは、外から見た紅魔館よりもずっと広大だった。箱は外身以上の中身を入れる事なんて、出来やしないのにである。しかし現実として眼の前には、如何なるカラクリか、物理法則を超越した空間が広がっているのだ。

 権兵衛は初めて、幻想郷という世界に恐怖を覚えた。 

「もう。何度も立ち止まらないで下さい」

「あ、あぁ。すまない」

 苛立ちを含んだ小悪魔の声で正気に戻る。

 そうして二人はまた、魔女に会う為移動を開始した。

 しかし改めて見回すと広いどころではない。お上りさんの如くキョロキョロと視線を這わし、確かに図書室なんて括りでは収まり切らないな、と権兵衛はえらく納得した。

 彼は知らない。ここがただの図書館ではなく、ヴワル魔法図書館と呼ばれている、世界でも有数の希少本、魔導書を数多蔵書する場所だということを。

「パチュリー様~」

 意識が外へと向いている間に、どうやら目的の場所へと到着したらしい。

 小悪魔が声を放った方へ顔を向けると淡く、頼りのない光に包まれた紫色の少女がいた。呼びかけには全く無反応で、黙々と本を読み進めている。一見深窓の令嬢という言葉がよく似合いそうな彼女こそ動かない大図書館、パチュリー=ノーレッジその人、いや魔法使いであった。

「パチュリー様、ストーカーを連れて来ましたっ」

「誰がストーカーか」

 結構に騒々しい掛け合いにもパチュリーは動じず、一向に本から視線を外さない。ただ聞いてはいるようで、片手を上げたかと思えばゆっくりとした動作で来た道を指差した。

 言葉は無いが、それが何を意味しているか理解出来ぬ程馬鹿ではない。小悪魔はケタケタと笑っているが、理解したからといって易々従う訳にもいかない。

「話ぐらい聞いてあげて下さいよパチュリー様~。面倒でしょうけど」

 助け舟は思ってもみない所から渡された。

 小悪魔のことだ、このまま返しても面白く無いとでも考えているのだろう。彼女の思惑がどうあれ、有難いことに変わりない。二人の関係が如何なるものか権兵衛は知らないが、見ず知らずの男の頼みよりか既知の者からの頼みの方が、色よい反応が得られる事だろう。

 パチュリーは本を捲る手を止めて、雑多に本が置かれたテーブルから一つ空っぽのカップを手探りそのまま持ち上げた。なんとも寡黙な魔女様である。小悪魔は嫌な顔もせず、手慣れた様子で掲げられたカップにティーポットを傾けた。

 ポットの口から朱い色した液体が零れ落ち、空っぽのカップを満たしてゆく。立ち昇る湯気と紅茶の香りがふわりと周囲に広がった。魔女の唇がカップの縁に僅かに触れ、静寂が支配する空間に小さな、液体を啜る音が響いた。

「貴男、名前は」

 はふぅと魔女は一息、カップをソーサーに置いて始めて喋った。

 ようやく聞いた魔女の声は纏う雰囲気の通り気怠げで、ともすれば聞き逃してしまうほど微かな声量であった。

 ズズリ。もう一口、パリュリーは紅茶を含む。

「権兵衛。名無しの権兵衛だ」

 ブブ――――――ッ!

「うわっ! ばっちぃ!」

 名乗り上げた瞬間、彼女の口から唾液の混ざった紅茶が空中に薄い霧を作った。丁度正面にいた小悪魔はあわや霧の餌食となろうとした寸でに回避に成功した。恐るべき反射神経である。

「げほっ! げほげほっ! あ、貴方っ! な、名無しの権兵衛って、ぷくく……!」

 どうやら自分のつけた名前がえらくツボに入ったようで、パチュリーは今も咽ながらも肩を震わせている。

 しかし名無しの権兵衛がそこまで笑う名前でもなかろうと思う、小悪魔と当の権兵衛は不思議そうに顔を見合わせた。

「くく……っ、あーおかしい。貴男、名無しの権兵衛がどういう意味を持つかご存知?」

 話の流れが繋がっているのか微妙な質問に、無言を肯定と捉えたパチュリーが語りはじめた。

「ごんべえごんべえ。えぇそうね、立派な名前ね。権兵衛は確かに男の名前だけど、名無しの権兵衛っていうのは、江戸の時代に新米遊女が公僕の目を欺く為わざと、男性の名前を付けたという歴史を持つのよ。貴方が売るのは色かしら、芸かしら?」

 雑学であったが思わずへぇと関心してしまう。

 矢鱈と本に囲まれているだけはある。道理で美鈴が寄越させる訳だ。

 魔女と聞いて最初に浮かんだのは妖しい薬でも飲まされるのかと憂慮していたが、もしかしてと純粋に期待が高まる。

「権兵衛さん権兵衛さん」

 一縷の希望を抱いたところでちょんちょんと、小悪魔が肩を小突いてくる。

「どうした?」

「お幾らですか?」

「いや売らないからな!?」

 見た目は愛らしい少女だが、男を買おうとするなんて本質はやはり悪魔に他ならない。もしに自分がうんと言っていたらどのような未来が待っていたのか。チラリと小悪魔を伺うと「ケチー」とぶーたれている。冗談めかしてはいるものの、発言と行動のギャップに背筋に一条冷や汗が流れた。

「あら、女を拐かすなんてさすが権兵衛ちゃんね」

「ちゃんは勘弁してくれ……」

 パチュリーが茶化す。咲夜が嫌がるのも無理ないなと、ほんの少し女心への理解が深まった権兵衛であった。

「で、その名無しの権兵衛さんがこんなカビ臭い場所に何の用かしら」

「記憶を、記憶を取り戻したいんだ」

 横で小悪魔がうんうんと頷いている。何故お前が頷くのだ。

「その年でもう痴呆? 難儀なことね」

「いや、記憶喪失みたいなんだよ。記憶が無いから分からないけど、記憶が無いからそうなんだろうな」

「冗談よ」ひらひらと魔女は手を振る。「名無しの権兵衛なんて名乗る時点で、大方察しは付いてるわよ」とパチュリは続けた。

 分かり難いボケは是非止めて欲しい。彼女にボケの才能はないな、と思う権兵衛。

「で、私に何を期待しているの。医者にでも掛かった方が良くなくて?」

「美鈴に相談したらここに来ればいい方法があるかも、って?」

「はぁー……、あの子ったら。厄介事を持ち込まないで欲しいわね……」

 その声音は心底嫌そうな心持ちで、何故だかこちらが悪いことをしている気がしてしまう。「そう、悪いのよ」さいですか。

 しかしここは悪と判っていてもどうか、どうかお頼み申す。この権兵衛、この通り!

 手を合わせ頭を下げても魔女の返事は芳しくない。

「はぁー……。大体貴男、どうして紅魔館にいるのよ」

「え―っと、それはだな」

 事の経緯を説明した。言うても気付けば幻想郷に居て、咲夜に救われ、レミリアに逗留を許されたと、掻い摘む必要もなく短い。

「レミィが許可を?」

「そ。レミィが」

 吸血鬼と聞いてどうなる事かと思ったが、幼い見た目とは裏腹、どうして出来た人格ではないか。人ではないが。

 紅魔館の小さな名君に思い馳せていると、パチュリーの眉が不快そうに僅かに吊り上がった。

「……ちょっと、レミィて気安いわね。貴男が呼んでいい呼び方じゃぁ、ないわ。本人を前にしてたら八つ裂きにされてもおかしくないわよ」

 パチュリーにしては珍しい、強い怒気の篭った言葉だった。

 そんな突然、敵意を向けられても権兵衛は困惑の色を隠せない。それほど何が彼女の気に触る事だったのだろうか、権兵衛が分からぬのも無理からぬこと。

「い、いやさ。本人がそう呼んでいいって言ってたからさ、その……」

「レミィが!?」

 されど弁明をせねば立場は悪くなるだけだろうと正直に答えたのだが。パチュリーの驚きようは如何なものか。大仰過ぎる反応に権兵衛も流石に普通のことではないのだと気付く。そういえば、あの時に随伴していた咲夜も大層驚いていたな。

 この呼び方は特別の証なのだと。

 ならば尚の事、何故自分なんぞに気を許すのか、疑問は尽きない。出会ってすぐの見知らぬ男に、レミィは気に入ったと言った。仮にレミリアの言動が偽りであれば、ここまでの待遇はしてはいないだろう。言葉より彼女の態度こそが何よりの裏付けであった。

 ならば問題の本質は、どうして自分を気に入ったのか、という点だ。

 信頼に対しては信頼を返したいものだが今一歩、理由が解らなければ哀しいかな、心底の信用は於けない。理屈を抜きに信頼出来るほど、時間を共にしていない事実が疑念に拍車を掛ける。

 パチュリーも余程衝撃的な事実だったのか、難しい顔をして考え込んでしまった。

 きょとんと呑気してるのは小悪魔だけ。羨ましい限りである。

 幾ら余人が考えた所で直接、本人に聞かなければ解らぬ問題である。今度あったら、それとなく聞いてみようと決心を固めたのと同時に、パチュリーが深く深く溜息した。

「はぁー……。私がとやかく言うことじゃないわね。不本意だけど。不本意だけど」

 二度も言って不満を強調する姿は、不謹慎ながら少女の見た目相応可愛らしかった。

 顔を覆うパチュリーは、指の隙間から権兵衛と名乗る男を見て、思わずにいられなかった。

 こんな冴えない男をどうして……。

「っ、はぁ~~~……」

 当の本人の前で、盛大な失望の溜息。それで気を悪くしない者は余程の人格者である。勿論、権兵は悪人ではないが大層な善心も備えてはいない。つまり、ちょっと気を悪くしたのだった。

「……気落ちしているところ悪いが、そろそろ本題に入りたい」

「え、あぁ。本題、記憶、記憶喪失ね」

 こちらとしては知識を拝領させて貰う側、なのであまり強く申し出られる立場ではない。しかし、この調子では何時になっても話しが進みそうもない。権兵衛は自ら話しを進め、ようやく、ようやく糸口へと辿り着いた。

 言葉を吟味する為か、彼女は少しばかり逡巡し尋ねてきた。

「聞くけど貴男、どこまで、何を覚えているのかしら。自分の名前も覚えていないのでしょう?」

「自分が何者かなんてのは何一つ、さっぱりだよ。ただ、そうだな。外の世界ってのは覚えてるかな、コンビニとかスマホやらパソコンだとか―――」

「ふぅん……」

 記憶についてきちんと言及されたのは、実はこれが始めてではなかろうか。そう思うと、他の住人のいい加減さが浮き彫りになった。

 そして改めて記憶を探ると、なんだ案外覚えている物もあるじゃないか。だが覚えているものは、外界の知識ばかりで、どんな人生を歩んできたのか? 親は、友人は、どんな人間関係だったのか? 自分という人間を探る手掛かりになりそうなものは、不思議と覚えていなかった。

 横では小悪魔が「コンビニ? スマホ?」と首を傾げている。パチュリーはパチュリーで、また別の事を考えているようだった。

「記憶っていうのは―――」

 魔女が口を開く。

「記憶っていうのは、主に三つに分けられるわ。方法、経験、知識の三つね」

 ほうほう、と下らぬ親父ギャグをかましていると白けた視線が二つ飛んできたので咳き込んで誤魔化す。

「……まず方法記憶。歩き方だとか箸の持ち方だとか、要するに一般的に『身体で覚える』類は方法記憶と呼ばれまず忘れることはないわ」

「やんっ、『身体で覚える』なんてハレンチですね」

 我が身を抱いて身体をくねらせる小悪魔に冷たい視線が二つ。ケホケホ。

「……次に知識記憶。これは言葉の意味とか世界の歴史とか、文字通り知識に関する記憶ね」

 そして最後に、と彼女は一拍置いた。

「経験記憶。昨日の晩御飯に何を食べたとか、何月何日何をしたとか、いわゆるエピソード記憶というもの。この記憶の特徴はただの一度の体験で記憶するけれど、すぐに忘れてしまうの。一週間前に何をしたか、なんて、事細かに覚えてる人間はいないでしょ」

「つまり……、どういう事だ?」

 パチュリーの頭ががっくりと下がった。

「えー、権兵衛さん分からないんですかバカですね」

「なんだ小悪魔。お前は分かったのか」

「私は当事者じゃないから分からなくてもいいんですよおバカですね」

「なんだそれ」

 バカと言われ損ではないか。

「ごほんごほん。つまりよ。貴男が失ってるのは、おそらく経験記憶。一番失いやすいものね」

 成る程、魔女というのは識者なのだなぁ。

 で、いやいやちょい待って。何で本読もうとしてるんですかパチュリーさん。続き、続きを、それを治す方法プリーズ!

「え、治す方法なんて、そんなの知らないわ。経験記憶なら、一時的な脳の混乱でしょ。数日か、或いは数週間数ヶ月数年かもしれないけど、日々健康に過ごしてれば自然と回復するでしょ。多分、おそらく、きっと、どうでもいいわ」

 すぐに治したいなら、それこそきちんと医者にでも掛かりなさい、という至極真っ当な台詞を最後にパチュリーの意識は完全に本へと没頭していき、再三応答を求めても無言を返す置物となってしまった。

 このまま留まっていても、最早これ以上の収穫は望めまい。十分、とは言えずとも穣り自体は余程、然程、それ程? ……あったに違いない。直接的な解決の糸口ではないが、一縷の蜘蛛糸ほどには前向きになれるぐらいに。

 

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