頼れそうにないほど弱く明滅する、街灯の仄かな光が夜を暴く
なんてことのない日常が息を潜め、暗がりにいた者が動き出す
星も月も照らさぬ街の夜で、貴方が縋るのは手に持つ灯り一つ
いつ消えるかも分からない光が照らした先は、希望か、絶望か
貴方は夜の怖さを、まだ、覚えていますか?
子供から大人になっていくにつれて、人はあまりに多くのものを失くしていく。
その中でも特に、子供ならではの感性からくる思い出とはとても大きなものだ。
小さな楽しさ、小さな嬉しさ、小さな悲しさ、小さな怒り、小さな寂しさなど。
そして同じように、小さな恐怖というものも、成長するにつれて消えていく。
あの頃は怖かったものが、大きくなってしまった今では歯牙にもかけなくなったり。
恐れていたものに対して、むしろ好奇心や興味をそそられるようになってしまったり。
どのような人物であっても、このような経験はあったことでしょう。
だからこそ今、そのように色々なものを忘れてしまった貴方にこそ、問いましょう。
貴方は夜の怖さを、まだ、覚えていますか?
とある小学校にて、こんな噂が流れた時期があった。
『誰かが町の守り神を怒らせたせいで、子供がどんどん攫われるようになった』と。
来年の春には五年生になるその少年は、どうせ誰かのでっちあげた噂だろうと鼻で笑った。
確かに自分たちの住んでいる町では、やけに児童ばかりが立て続けに行方不明になっていたが、
いくら何でも"守り神"などというオカルトめいたものに、そんな事できるわけがないだろうと。
少年は運動神経が悪いわけでもなく、頭の出来も悪いと言うほどではない。ただ、並であった。
故にこそ、単なる平々凡々な一般人であったからこそ、その噂を他愛無いものだと失笑した。
もうすぐ年度が移行しそうだとこの時期だ、まだ怪談シーズンの夏はほど遠いだろうなどと、
心の内では噂話に怯えたり脅かしたりしている連中を、あざける余裕すら今の彼にはあった。
そう、彼は忘れていたのだ。大きくなるにつれ、忘れてしまっていたのだ。
夜の、怖さを。
「ん?」
その日の夜、少年は何となく部屋の中から窓の外を、薄暗い家の前を覗いてみた。
特にこれと言った理由などは無いのだが、彼は珍しく、二階建ての窓辺から夜を見たのだ。
部屋の照明で浮かび上がる反転した室内と自分がいたが、彼はそれを無視して窓ガラスへと
近付いていき、さらに暗がりがよく見えるようにと頬を押し付けながら夜を覗き込んだ。
とはいえ、そこに何かがあるわけでもない。いつもと同じく、変わらない光景があった。
だが、変わらないのは景観のみで、雰囲気はまるで変わっていた。その変化に、少年は怯える。
「え?」
これ以上見ても意味も無いし、止めようと顔を少しだけ窓辺から話した少年の視界の端で、
何かが少し動いたように見えた。いや、気のせいかもしれないが、動いたように見えたのだ。
黒っぽい何かだったのは分かったが、それ以上はよく見えなかったせいで分からない。
分からないものが視界の端を動いたという事実に、少年は言い知れない感情を抱いた。
怖いわけがない。今の自分は、夜中に怖いからトイレまで母親に付き添ってもらっていた
頃の自分ではないのだから、怖いはずがない。けれど、分からないのと言うのは気味が悪い。
「……………」
今度は先程よりもさらに窓にへばり付き、端から端まで視界の届きうる全てを見回す。
ところが、予想通りと言うべきか。点灯具合が悪い街灯に群がる虫以外、視界内で動いている
ものなど確認できはしなかった。やはり気のせいだった。答えが得られて、少年は安心する。
どこか無理やり納得させるような理由をつけて、少年は窓から離れようとした。
「…………んん?」
しかし、またしても彼が窓から離れようとした直後に、何かが動いたように見えた。
最初こそ見間違いかとも思ったが、二度も続くと流石に間違いであるとは思いにくい。
となれば、やはり動いているものがいるのだ。彼の視線が届きうる範囲で、今まさに。
分からないという事が、彼の中に渦巻き始めた感情に、拍車をかけていく。
「何なんだよ…………」
不気味な何かに触発されたようにして、少年の肌が薄ら薄らと粟立っていく。
確かに季節は冬なのだが、暖房器具のある室内で肌寒くなる要素などあるはずがない。
いつの間にか小さく震えが生じていた両腕を、掻き抱くようにして押さえつけてから、
少年は今度こそ窓枠によって切り取られた、小さな夜の景色に動く謎を暴こうと息巻いた。
「…………………」
目を凝らす。左右、上下、さらに左右、そこから上下。何度も何度も往復させる。
けれど彼の努力に実りは無く、どこをどれだけ探しても、穴が開くほど見つめても無駄だった。
逆に、少年の全身に奔る怖気は取り除かれるどころか、深まる謎に対して過敏に反応する。
じわじわと、少しずつ、少年の中にかつての感情が戻りつつあった。
「うぅ、く、クソ!」
しかし、それでもやはり今の少年は、その感情を忘れてしまっていた。
いつまでもビクビクと震えているほど自分は弱くない。誰かに見せつけると言うよりも、
己を律して鼓舞するための衝動に身を任せ、二階の自室から飛び出し、玄関へ駆け降りる。
玄関で外履きのかかとをつぶしながら足を踏み出し、閉められていた鍵を開けて飛び出す。
横開きの扉を開けた先に広がっていたのは、いつもと同じようでどこか違う、夜の街並み。
この先の道を歩き、小学校へ行ってまた帰ってくる。普段となんら変わらない家の正面。
だが、底冷えする冬場の風と共に、夜独特の得体の知れない寒さが、少年の肌を撫で回す。
「なんでもねぇよ、こんくらい………」
何も変わっていない。だからこそ鮮明に分かる変化を前にしても、彼は退かなかった。
星も月も照らさない夜の闇の中に、古びた街灯の明かりがぽつりぽつりと寂しく灯る。
玄関からゆっくりと、己を震わせて止まない"何か"に悟られぬよう、足音を潜めて歩む。
「うぅ、くっ」
道路に面している門から玄関まで、たかだか数メートルの距離も無いはずなのだが、
今の少年にとってはそれがどこまでも続く、果てのない道のりに思えて仕方なかった。
それでも少年は、勇気を振り絞って慎重に歩を進め、ついに門を超えることに成功する。
いつのまにか荒くなっていた呼吸を抑えつつ、少年はすぐさま左右に伸びる道を確認した。
「………なんだ、やっぱり何も無いじゃん」
勢いよく左右へ回した視線の先には、やけに薄暗がりが多い夜道以外は何も無かった。
悪態を突いて笑みを浮かべている少年だが、自分自身気付かずに内心で安堵していた。
つい先ほどまで肌を震わせていた寒さが、何も無いと知れた途端に収まったのが証拠だ。
「ま、多分ネコかネズミだったんだろ」
またしても少年は、誰かに説明しているわけでもないのに、口を動かして語っていた。
しかし実際、ここまでして確認しても何も無かった以上、本当に何も無いのだろう。
よって彼は、家の前にあるゴミ袋にでも寄ってきた動物の仕業だったと考え、決めつける。
「へっ、驚かしやがって」
人間は安心感を得るために、分からないものに答えを求めたがる性質がある。今回のように。
夜の暗がりの中で何かが動いた。何かが何なのかが分からない、だからこそ怖いのだ。
その正体さえ判明してしまえば、怖さなど感じなくなる。例えそれが、仮定だったとしても。
満足のいく答えを得た少年は、溜息を一つ漏らしてから振り返り、玄関に戻ろうと歩き出す。
少年が帰還の一歩目を踏み出した瞬間、視界の右端で何かが動いた気がして、顔を向けた。
「ひっ___________________」
次に彼の視界が映し出したのは、大きな袋の口を開けて迫りくる、巨大な怪物の姿だった。
とある小学校にて、こんな噂が流れた時期があった。
『夜中に一人で家から出ると、子供をさらいに【よまわりさん】が来る』と。
いつ頃から流れ出した噂なのかは不明だが、ほとんどの子供たちがこの話を信じなかった。
その理由は単純にして明快。わざわざ夜になってから、町を出歩く理由など無いからだ。
仮にその話を確かめるために出歩いたとしても、一人でなければ噂通りにならないのだが、
証人として他の人も一緒についていけば、噂通りにならないから立証しようがなくなってしまう。
考えあぐねた子供たちだったが、その中の一人が唐突に、こんな妙案を打ち出した。
「一人ずつ順番に町を歩いて、帰ってこれたら次の日みんなに報告する」
子供ながらに打ち出したこの案について、深く考えるものなど誰もいなかった。
もしこの子供たちの中で一人でも、誰かの立てたこの案の穴に気が付いていたのなら、
大きな間違いなど起こることなど無かっただろう。けれど、そんな人はいなかった。
結局、その誰かの出した案でまとまった子供たちは、その日から順番を決めて夜に出歩いた。
そう、この案の穴とは_____________帰ってこられなかったどうなるか、決まっていないこと。
夜の町は、いつもと変わらぬ日常に姿を変えた、何もかもが違う恐怖が渦巻く魔窟である。
それを忘れ始める頃の子供たちと、それらを完全に忘れてしまった大人たちでは、気付くまい。
だからこそ、自分自身がその身で体験してみるまで、身の毛もよだつ恐怖が分からない。
貴方は夜の怖さを、まだ、覚えていますか?