痛い。痛い痛い痛い痛いイタイ痛い痛い痛い。
何が起こっていて、何をすればよいのか。必死に考えたが、動くことさえままならないほどの激痛が、スバルの思考を一瞬にして奪っていく。両足も潰れていて、右手も指の先でさえ動かすことができない。誰の目からみても今の状況は最悪だった。
この感覚は何年ぶりだろうか。今よりももうすこし若い時はどうしていただろう。いや、その時も同じだったかもしれない。ただ意識が遠のいていくのを待つだけだ。
うっすらとぼやける視界の中に、スバルは近くでで長髪の女性が倒れているのを目撃する。
「」
その女性が口を開いた、気がした。
「・・・」
聞き取れない。
何を話しているのだろう。
何を伝えたいのだろう。
スバルもそれに応えようとするがうまく舌がまわらない。口から出てくるのは嗚咽と、ぜぇぜぇとしゃがれた音だけだ。
「—————・・・」
最後の力とばかりに、彼女は右手だけをほふく前進のように、一回二回と地面を手繰り寄せるようにして、こちらに近づいて来る。彼女の衣服や肉がズズズとずれる音だけが聞こえてくる。
こんなに会いたいのに。
こんなに聞きたいのに。
何も出来ず、ただ待っていることしかできない自分が、恨めしい。
顔がようやく視認できる距離まで近づいてきた。彼女はあがった息を整えて、スバルを見据えた、ように見えた。表情を確かめようにも、長くおろした前髪が邪魔で分からなかったからだ。
そして、彼女はその小さな口をあけて―――――
「スバル君、レムは――――――――」
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「パパ、おさんぽいこー」
スバルは愛娘であるスピカのモーニングコールで起きた。レム、長男のリゲル、そして彼女を支える一家の大黒柱であるスバルは、平日の間は仕事で実に多忙な生活を余儀なくされている。夜遅くに帰ってくるため、家族サービスもままならないのだ。レムには毎日仕事場の事とかで話しはしている(そして慰めてもらっている)のだけれど・・・。もちろん夜遅くまで起きれない長男長女は、休日になるやいなやこうして散歩やいろいろな遊びをせがんでくる。
幸せすぎるよなぁ・・・。
「おう、今準備するからな。待ってろよ!」
「おさんぽーおさんぽー」
そうとくれば、父は愛する娘の要望に応えなくてはならない。一種の義務のようなものである。
「お前も一緒に来るか?」
スバルは食卓に座っている二人――――レムとスピカに目を向ける。
「レムはまだ朝食を食べきれていませんから遠慮しておきます。楽しんでいってらっしゃい、スピカ、あなた」
「おお親父ィ、あとちょいで食えるから待ってくれよな!」
やっぱりレムの声はきれいだよなぁ、と思う。朝だからなのか、いつもより冴えて聞こえるような気さえする。澄み渡り度20%増しだ。
「おっけ、じゃあ早速行くか!」
「うん!」
スピカは力強く頷いてくれる。なんと可愛らしい娘か。思わず抱きしめてやりたくなる。
「おいおいおい!ナチュラルに無視すんじゃねぇよ親父!」
平和な家庭の理想像のような中に、ちょっとだけ異物がいる気がしないでもないが、それは気にしない。不安因子を際限なく取り除き続けても、いつまでもキリがないからだ。人間諦めが肝心である。
「そしてスピカまで!」
さめざめと泣きだしたリゲル。おおリゲルよ、なんと情けない・・・と思わず言ってしまいそうな様子だ。
「まあまあリゲル、帰ってきたら好きなだけ構ってやっからよ。今は我慢しな、それでも長男だろ?」
「それでもって・・・いや別に、親父に構ってほしいわけじゃないし・・・っ」
「長男なのに、ツンデレ属性だと・・・?」
非常に忌々しき事態だ。リゲルが何かに毒され始めている・・・、最速で解決すべき案件だった。
しかし、なかなかどうしてリゲルも可愛い奴だ。この頃の自分は、もうちょっと親に対して反抗的だった気がするんだけど・・・。いやまあこの世で一番かわいいのはお前のお母さんなんだけどね。そこだけは譲れない。
などとわんやわんや息子と言い合っていたが、強引にスバルのシャツを引っ張り、何としてでも外に出させようとするスピカに停戦をやむなくされてしまった。
またちゃんと世話を焼いてやろう・・・そう一人ごちたスバルだった。
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果物屋、魚屋、家具屋、何かいかがわしいを売っていそうな店・・・。スバル達が住んでいるカララギの町は商売が繁盛しているだけあって、基本何でも揃っている。初めて散歩をしたスピカに、その怪しい店は何を売っているのかと聞かれたときはさすがに肝を冷やしたけれど・・・。多少の不安材料はあったが、レムと共に4,5年住んでいると、それはもう住み慣れた町になってしまった。これが住めば都ってやつかぁ・・・、とスバルも良く思ったものである。
まだ朝だからか、開いている店がまばらな商店街を横目に見ながら、できるだけスピカの歩幅に合わせながら進んでいると、その商店街から少し離れたところにある小さな丘に着いた。雑木林がその丘をかこうように点在しているため、基本的にあまり人は立ち入ってこない。そのため普段からナツキ一家はここを散歩の休憩所として利用していた。
ふー、と大きな息をついてからスピカは草原に寝転がった。スバルもそのノリで立ったままうつ伏せで倒れてみる。
・・・けっこう痛かった。
「ねー、パパー?」
年甲斐のないことはすることじゃないな、と呟きながら鼻の辺りをさすっていると、スピカは不思議そうな面持ちでスバルを呼んだ。
この時のスピカは決まって難題を出してくる。どうして水は濡れているのー、とか、どうして空は青いのー、とか、所謂当たり前だけど言われてみれば説明しづらいという類のものである。そうしていつもスバルが満足な答えを言えないまま、おざなりになってしまうのだ。
しかし、スバルもスバルとてただ地団太を踏んでいるわけではなかった。スピカが質問をして、そしてレムが上手く答えられなかったものはすでに本人から聞いてある。さらに、それに対するスバルなりの答えはすでに出していたのだ。
つまり、今のスバルに、死角はない・・・っ!
大人の威厳ってやつを教えてやるぜ・・・、とスバルは大人げなく静かにリベンジに燃えていた。
この気持ちを悟られないように(その可能性は限りなくゼロに近いが)、できる限り何気なく応えてみる。
「う、うーん?なんだー?」
「ひとをあいするって、どういうことなのー?」
「・・・・・・へっ?」
いかん、思考がフリーズしかけた。思わず呆けた声がでてしまう。レムはこんなこと言ってなかったぞ・・・、いやそれとも最近思いついた事なのか・・・?
「わたしがパパがすきなのと、パパがママをすきなのって、なんかちがうんでしょー?パパとママはあいしあってるんでしょー?」
「だ、だれがそんなことを・・・?」
「おともだちのミラちゃん」
ミラちゃん・・・スピカと同じ年代だとしたら、ませすぎてないか?最近の若者は凄すぎる。
「そ、それはだなぁ・・・、ほら、パパとママは結婚してからずっと暮らしているだろ?だから、ずっと一緒に過ごしていたら好きの意味が変わってくるというかさ・・・。ま、まあスピカが俺らみたいな年になったら分かるって!」
「ふーん・・・ずっとかー・・・」
ご満悦なさらなかった様子だ。うーん今回もダメっぽい。
「じゃあ、さいきんのリゲルおにいちゃんとミラちゃんはどういうかんけいなの?」
「な、何ィ!?」
まさかミラちゃんはリゲルの彼女なのか!?
そしてリゲルに彼女がいるだと!?
いや、いやいや、しかしただの友達という可能性もあるじゃないか。「ミラちゃん」だってまだ男かもしんないし。何を焦る必要があるんだ俺、とスバルは逸る気持ちを無理やり抑え込む。
「あ、でもこれ、パパにはないしょっておにいちゃんいってたっけ・・・」
はい確定。スバル一家の一大事である。帰ったらとっちめてやる。
「とっちめてやる・・・」
「パ、パパ、めがこわいよ・・・」
「なあスピカ、家にバールのようなものってなかったっけ?」
「な、なんでこのタイミングできくのかな?」
リゲルうんぬんの話は置いておくとして、目下の問題はスピカになんて説明すれば良いかだ。もちろんスピカは恋愛しかじかの話はまだ早い(ちゃんと話したとしても理解してくれないのがオチだろう)と思うし・・・、なんとかして話題を逸らさねば。
「ねーパパー」
とスバルがスピカが食いつくような話題を考えあぐねていたところ、スピカから思わぬ助け舟(?)が出た。これは乗らなければならない。
「おーおーなんだ?なんでも訊いてくれていいぜ?今なら俺やレムの普段言えない恥ずかしい体験とか語っちゃうぜ?なんならリゲルの話だっていい。オッケーみなまで言うな。あいつが『節分の王』と皆から言われるようになったゆえんなんだがな・・・」
「パパってさー」
スバルが勝手に暴露しだしたリゲルのカミングアウトを半ば遮るように、おずおずとスピカは質問を続ける。その様子は少し躊躇いを帯びていた。
その何か尻込みをしているような感じを不思議に思い、スバルはスピカの方を真っすぐに見る。
彼女もまた、訝しげな面持ちのスバルを真っ向から見た。
そして、次の質問こそ本当にスバルの思考をフリーズさせるような一言で・・・。
「————はじめてすきになった人って、おかあさんじゃないんでしょ?」