今にも降り出してきそうな曇天だ。汗ばんだ顔を横切る風は少しだけ生暖かく、上空を過ぎていく、ずっしりとした雲の流れは比較的速い。スバルはその雲行きを内心嫌がりながら、なんとか頭を回そうと必死に考える。その思考の矛先はもちろん、今目の前に如何にも怪しげに立っている人物(?)のことだ。
「晴れやかな程に重そうな雲々累々・・・ああ、今日はなんと素晴らしい日和なのデショウか!間違いなく、ワタシが寵愛を受けていることの証左と言えマス!その甘美な愛に!ワタシは報いねばならない!勤勉にならないといけないのデス!目には目を、歯には歯を、愛には愛を持って返すべきなのデス!」
相変わらずの偏愛ぶりだなぁ・・・、と滔々と魔女への愛について語る変人を前に、思わずスバルは苦笑する。それは恐怖ゆえのそれなのか、数十年前にありありと植え付けられたトラウマを隠すためのものなのか判別はスバル自身もつけられなかったけれど(もちろん両者である可能性もある)。
「さて、さてさてさて、アナタは一体何なのデスか?」
何の前置きもなしに、ペテルギウスが問いかけた。
「な、何なのって、どういう意味だよ。俺はただの通行人Aだよ?」
そんな出し抜けの問いかけにどもってしまう。
「いえいえ、そんな事はあるはずないのデス。それでは、アナタは今しがたこちらに走ってきた意味が分かりませんのデス」
ペテルギウスは自身の腰をあり得ないほどほぼ直角に(しかも横向きにだ)傾け、律儀にもデスデスと特徴的な語尾を付けながらさらにスバルを詰問する。
レムを探しに行くはずが、とんだトラップに引っかかってしまったらしかった。今は、この場所を一刻も早く去ることが最優先事項だ。
くそう、なんでそういうことは目ざといんだよ――と突っ込みたくなるのを自制しながら、スバルは焦りながらもなんとか話の接ぎ穂を探す。忘れ物を取りに。ちょっと道に迷っちゃって。元々人の流れには思わず逆らってみたくなる気質で。俺の妻が鬼になってアンタらの手先を迎え撃ってるんだが?
「それにアナタの、濃密なまでに漂ってくる心地よい寵愛の香り・・・。もしかして、アナタは――」
突然、不自然にどす黒い影が現れたと思うやいなや、そこから黒装束を羽織った人物達が現れる。
当意即妙な返しを考えあぐねていたスバルにとって、その登場は幸運だった。
ペテルギウスの反応を見ると、どうやら彼の手先らしい。跪いたその影たちの一人の口に、ペテルギウスは耳を殆ど接するようにあてがいながら、
「あぁ、アナタたちデスか。どうデスか、首尾の程は」
「————」
「ほう、右手の方はうまく立ち回れていると!なんと勤勉なことではないデスか!」
「————」
「なんと、左手の包囲網が・・・?単独のものに破られていると!?」
「————」
「なんと嘆かわしい程天晴なことなのデス!このワタシの指先たちを!たった単騎で破ってしまう者がこの町にいたとは!」
ペテルギウスは寧ろ嬉々とした表情で影の報告を聞き、その喜びが抑えきれないといった風にその細い体をよじらせる。
「これは間違いなくワタシたちに課せられた試練なのデス!愛を、この身を持って返せる時が!今まさに迫っているのデス!あぁあぁあぁ、脳が、脳が震える!」
その奇怪な形にくねらせた体をそのままに、頭を血が出るほどに強く掻きむしる。
「————」
「ほうほう、その方が此方に近づいていると!いいデス、デスデスデスねぇ!ワタシから赴くつもりデシたが、手間が省けマシた」
「————」
「そしてその彼――いや、」
不自然に口角を吊り上げ、いつものその不気味な顔がさらに気味が悪いそれへと変貌した。
「彼女は一つの角を宿していることから『鬼』の末裔だということが分かった、と」
「!!!」
リゲルの、この町には鬼が殆どいないという情報を鵜呑みにすれば、その鬼は間違いなく彼女――レムに違いなかった。
奴のいう包囲網や戦線を、レムが軒並み崩しているのだとしたら、ここに来るのも時間の問題だ。もしそうなれば、考えうる限り最悪の状況でレムとスバルは再会することになってしまう。
と、戦慄したスバルは思わず顔をしかめた。
しかめてしまった。
「どうしてアナタが、険しい顔をしているのデスか?」
その様子を運悪く、ペテルギウスに見られてしまっていた。
「アナタならもちろん、その救援に手を叩いて喜ぶべきではないのデスか?その英雄の登場に目を輝かすものなのではないのデスか?」
「・・・いや、この――」
表情は元々なんだぜ。と言おうとした正にその瞬間、大きな手がまたしてもスバルの体を叩く。
「ぐっ・・・!」
先ほどと同じように、数メートル先まで吹っ飛ばされる。
「アァ・・・今、わかりました。アナタはスパイだったのデスか。だからアナタは、一般人のような格好でのこのこと引き返して来たのデスか。・・・鬼に今の状況を伝える為ニ!!」
すべての合点がいった、とでも言いたげにニタァと表情をゆがませて、ガラガラとした声をもう一度張り上げる。
「憎い憎い憎い醜い憎い醜い、デスねぇ!その策略で!指先たちを何人も失ったというのデスか!その智謀知略で!ワタシ達の怠惰を一閃したと!ああああああああ、なんと痛快な事なのデスか!アナタ達の勤勉さで!我々の勤勉さを下したと!ああぁああぁぁ、脳がぁ、脳が震えるるるりゅうりゅるるるるの、デス!」
二度も転倒で全身を強く打ち付けられたスバルはペテルギウスの発狂に何も言い出せない。
「して、アナタは・・・」
不意に、地面に突っ伏したままのスバルの右腕が持ち上がる。
「そのまま野放しというわけにはいかないようデス、ね」
果たして、持ち上げた正体はペテルギウスの背中から生えた大きな手だった。そして、もう一つのどす黒い手がスバルの右手、いや、右腕全体を握りつぶした。
「———————ッ!?」
突然の激痛に、スバルは声にならない悲鳴を上げる。スピカを抱き上げ、リゲルを叩き励まし、そしてレムを撫でた右腕が、ミシミシとあり得ない音をたてて崩れてゆく。
その腕だったものをそのまま握るようにして、ペテルギウスを中心にスバルは円方向に振り回される。腕とスバルが引きちぎられ――る前に、遠心力によってそれが手からスルリと抜け出した。
しかし、右手が潰れたスバルは碌な受け身もできないまま二回三回と肩や後頭部、背中が地面に強く打ち付けられる。
「ぎ・・・、くそ、がっ・・・」
視界がぐるぐると回る。やっと止まったと思ったころには、スバルは痛覚さえ麻痺していた。
意識がはっきりしない。前や後ろがどっちかさえわからない。必死で目をあけようとするが、視界にはぼんやりとしたものしか映し出されない。
「———・・・、・・・のデ・!」
ペテルギウスの気配が近づいて来る。聞こえてくるのは誰かに手で耳をふさがれたようなこもった声ばかりで、時折聞こえてくる草むらを踏むような音が、スバルの恐怖心を更にかき立てる。
「ゆ―――の、敵—ちは、させてい―だく―デス!」
気配がもうすぐそこまで来ている。本能がその恐怖から逃れようとして、スバルの体に力がはいったが、右腕はもちろん、もう片方や両足がビクともしない。
足音が止まった。
ペテルギウスの手が、スバルの首にかかろうとした、まさにその時、
「———、エル、ヒューマ!!」
どこからか、声が聞こえた。血眼になって目を凝らしたスバルは、すぐ前にいたペテルギウスの頭部に一メートルサイズの氷の柱が掠めたのを見た。
「スバル君を――その方から手を放して下さい、今すぐに」
彼女は冷めきったような声で、ペテルギウスに要求する。
長く伸ばした青色の髪は焦げや土色で染まり、足や手から切り傷や擦り傷がいくつも見られ、自身の血が足に線を引くように滴り落ちている。出ていく時に着替えたらしいエプロンドレスのような戦闘服には焼けた跡が何か所もあり、ここまで来た道のりの壮絶さを物語っていた。
その鬼神のようないでたちに、ペテルギウスは怯むどころかむしろ喜ぶように手を叩いて、
「ああ――なんと見事なことデスか!」
彼の言う指先達を木っ端みじんにしてきたのであろう黒い鉄球を携えた女性を前にして、その場で歓喜を示すように、大げさな身振り手振りで彼女を歓迎する。
「女性が!危機に瀕した男性を助けるべく、こんなボロボロになってまでなお前に進み続けるのデス!これを愛と呼ばずして、何と呼ぶのデスか!」
「あなたとお喋りしている暇はありません、魔女教徒。もう一度言います。彼から、今すぐ離れてください。さもないと――」
「ワタシの魔女に対する愛に比べるべくもないデスが、愛に貴賤はないのデス!アナタ達もまた、ワタシと同じように、愛を受け取り、愛に従って生きているのデス!」
「——るな」
「はい?なんデス?」
「その人に触るなと、言っている!!」
その一言が戦闘の皮切りとばかりに、彼女――レムはペテルギウスに向けて走り出す。全身傷だらけというのもあり、決して軽い身のこなしではなかったが、ただの人間では無いということを知らしめるような、装備品である黒い鉛をものともしない、重い跳躍。
今まで鳴りを潜めていた影たちが、主人の身を守ろうとレムの前に立ちふさがる。それを、
「・・・るぅあああああ!!」
持ち手と鎖で繋がれた鉄球を右から左に、一振りで彼らを一蹴する。体力を温存する意思など毛頭も感じられないような、豪快な一発だった。
そしてその流れのまま、持ち手とは反対の手で振りかぶり、
「エル・・・くっ!」
詠唱を唱え、ペテルギウスに迫ろうとするが、彼がスバルに近い位置にいるため氷柱を打ち出すことができない。万が一それらの一つがスバルに当たってしまうと元も子もなくなってしまうからだ。
そう躊躇している間に、指先たちの一人がレムの右足を捉えた。影から上半身だけ姿をあらわしたそれは、彼女の足に追いすがり行動を拘束する。
他の影たちに追随される前に、一瞬の判断で左の足だけで上に大きく跳ね上がった。そして影から強引に引きずりだされる形で上空に舞い上がったそれにめがけて、
「ヒューマ!!」
超至近距離で、詠唱途中だった魔力を放出する。地上にも拡散したそれは、待ち構えていた指先たちに目がけてヒットする。何人もの悲鳴が聞こえた後に、レムはその屍たちの上に着地した。
他の指先たちに合流される前に、今いる者たちを処理してしまえばまだレムに勝機はある。スバル以外に見えない手を擁するペテルギウスでも、接近遠隔両方の武器を持つレムに一対一で負かすことなど不可能に近い。
しかし、
「ふふ、ふへ、ふへは・・・」
ペテルギウスの口から漏れるのは熱い吐息と、ダラダラと流れ続ける唾液のみだ。頬も幾分か朱に染まっている気さえするほどに、今の彼は、快楽と高揚感に満ちていた。
また、スバルは謎の落ち着かない違和感に苛まれていた。指先たちが倒されるたびにその違和感はある種の、強い既視感へと変貌する。
この光景を、この状況を、スバルは見たことがある。しかし、その結末をスバルは思い出せない。心から湧き上がるのは、鋭い悲しみと、燃えるような誰に対してなのかも分からない憎悪のみだ。
「は、はは、はははハは!!素晴らしい!愛というものは、これ程までに深く傷ついた体を酷使できるというのデスか!それをワタシは!!!ああ――」
やめろ、やめろやめろ怖いやめろ。これ以上静観していれば、取り返しのつかないことになる。そんな根拠もない、しかし確信めいた予感に、たまらずスバルは掠れた声で、
「———ム」
わずかに彼女の名前を漏らした。それを奇跡的に感じ取ったのかは定かではないが、辺りを一掃し終えたレムがこちらを振り向き、いつもの天使のような笑顔を見せ、そして―――
「脳が、震える」
幾つもの十字架が、彼女の全身に突き刺さった。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ。
意識が朦朧としていた。ここはどこだ。俺は、誰だ。スバルだ。今はどこで、何をして―――。
立っていたらしい俺は、
「スバル君?大丈夫ですか!?」
そばにいたらしい、俺の名を知っている人が俺の心配をしていた。小柄な体躯や手で、そのまま倒れこみそうな俺を支えてくれている。レムよりか少しだけ体は小さく、声も高いようだ。
俺は今まで何をしていたんだ?素朴な疑問が出てきた。確か、スピカ・・・と散歩に行って、リゲルに謝って、出て行って、ペテルギウスに遭って、それで・・・死んだ。
なのに今俺はこうして、生きている。声が聞こえる。痛みを感じられる。物を考えられる。もしかして、ここはあの世なのだろうか。本当に死んでしまって、今は走馬灯の中にいるのだろうか。・・・あ。
「シ、シニモドリをしたのか・・・俺は」
何十年も平和に過ごしていたから、そのことをすっかり忘れていた。危ねぇ危ねぇ。
セーブポイントがどこにあるのかは正直全然分からないけれど、今回はペテルギウスをただ避けるだけで良い、と思う。雑木林を避けながら、レムが現れた方向に沿って行けば、そのうち見つかるはずだ。簡単なお仕事だ。
そうと決まれば、今の状況を把握しなければならない。まずはこの少女に、今どこにいるのか聞こうじゃないか。
あれ・・・そういえば、
「レ、レムは!?」
この時、俺はレムのどうこうを訊く必要はなかったのだけれど、あの・・・無残な彼女がフラッシュバックして、思わず尋ねてしまった。
「・・・え、レムの事ですか?」
彼女にとってその質問は意外だったらしく、聞き返してきた。何か、俺の質問の意図を計りかねている様子だ。無理もない、レムのあの姿を観測したのは、今のこの世界で俺だけのはずなのだから。
悪い悪い、と謝るために後ろを振り返ると、俺はその場で固まってしまった。
決して受け入れたくない現実が、俺を手招きしていたのだ。
何故なら。
「レムはちゃんと、ここにいますよ?」
青色の髪を