今回はライさん視点(三人称)。
読む前の注意事項
・ライさんがとてもから回っている。かっこいい彼はいません(え)
・長い(三万文字近いんだぜ……)
・ライさんが珍しく右往左往している(比較的)。三年前だから、今より若いだろうし、失敗を味わう前なので思考も割と若いのかなと思った結果。
・長いので読むのしんどくなったら次の更新を待って頂ければと思います。今回を一言でまとめると「ライさんが空回りしながらジェネヴァ君と任務していく話」です。……ギャグかな?
・あとで多分修正します。
以上
オッケー?ではどうぞ。
There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.
(物事によいも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる)
己の恋人を一言で表すとするならば、“善良なる一般人”だと思っていた。ライにとっての“善良”は守るべき対象であり、平和の象徴であった。良く言えばお人好しの彼女は組織のような悪を触れさせるべきではないだろうし、出来れば何も知らないままで居て欲しかった。
何も知らないまま、ライに騙されていてほしかった。
あの温かな笑みは、無垢なまま美しいままであって欲しかった。ライにとって、本来ならば到底関わりあわないような、ソレがとても好ましく、愛しかったから。
それが如何に傲慢で愚かであったのか。
人知れず流す涙。隠れて涙を流す、そのか細い背中を見た時の衝撃は忘れられそうにない。彼女は何も知らない訳ではなかった。勿論、ライの本職がピタリと当てられる訳ではないだろう。けれど、それでも感じ取れるものがあったのだ。
己の恋人が、恋人の仮面を被った裏切者である事を。愛しい者が己を利用している、だなんて全く何処の三流シナリオなんだか。それはもしかしたら女の勘って奴なのかもしれない。
彼女は、明美は
それを悟った時の心境はとても言葉に出来たものじゃない。これほど己の愚かしさを恨めしく思ったことはない上に、決定的な間違いをまざまざと突き付けられた。
けれど、それでもなお彼女を掴むこの手を離せないのだから救えない。今更だ。今更手を離し、恋人の座から降りたとて、ライが組織に正体をばらすような失態を犯せば彼女は無事ではすまないだろう。あの組織はそこまで甘くない。皮肉なことに徹底した制裁があるからこそ、あの組織は成り立っている。そのせいで裏切り者に事欠かないのはとんだお笑い種だ。
毒を食らわば皿まで、とこの日本の諺にある。そうだ、それを承知でここに居る。綻びが命取りならば、そうならないように繕うのみだ。ライは腹を括った。
愛しい女の優しい嘘に騙され、騙し通す事を。恋人と繋がる手を相手から突き放されることがなければ繋いだままでいよう。
全てが物語の通りの綺麗事だけじゃなくてもいいじゃないか。多少の
※※
女心と秋の空。
そんな慣用句がライの脳裏にふと思い浮かんだ。
季節は秋の始まりを告げ、煩わしいだけだった夏の風物詩の蝉の鳴き声が種類を変えてヒグラシの物悲しい声に変わる頃。
その日のライは珍しく予定に穴を開けていた。今の顔であるライとしての仕事は夜に一つ、隠し持つ捜査官としての仕事は他の捜査官の報告待ちで今日はなし。つまりは午前中は完全なる休みとなった訳だ。
休み、となったのは日付の変わる頃だった。ここはライの恋人である明美との時間にあてがうべきか。最近仕事の忙しさで疎かになっていた恋人へ挽回を考えなくてはならないだろう。いくら彼女が優しくても、疎かにする理由にはなり得ない。それをライは承知していた。
恋人、という立場を言い訳に使うような愚かな男にはなりたくはない。
だが、間が悪かった。ライが恋人へと携帯で連絡をしようとしても中々捕まらなかった。留守電を告げるアナウンスを流す画面を思わず睨んでしまったほどだ。
日頃の行いは悪い方ではない筈だが……、とライは内心ぼやく。否、潜入の為とはいえ、こんな犯罪組織に身を置いている。その時点で充分“悪い方”になるだろう。成程、お天道様とやらも案外節穴ではないらしい。ライの口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
とりあえず、手持無沙汰も過ぎることだ。たまには健康的に目的もなく歩くのもいいだろう。そんな軽い気持ちでライは街中の人込みへと足を踏み出した。
そこから少しして、冒頭の呟きへと戻る。
こじんまりとした古い趣の喫茶店。古いカントリー風の内装から恋人が好きそうな店だな、と何気なく視線を店内へと巡らせると問題の光景を見つけたのだ。
窓際の四人掛けの席に向かい合わせに座る二人組。一人はライの恋人である宮野 明美だ。温和で柔らかな雰囲気の彼女のその顔に楽し気な笑みが浮かんでいる。ライにはここ数か月で一番の笑みに見えた。もう一人、彼女の向かい合わせに座る人物。それがライにとっては問題だった。銀色の髪に深緑の瞳。今は少女めいた美貌だが、それも時間の問題だろう。少年というのはあっという間に成長していくのだ。
ジェネヴァ。それが、ライの恋人と何故か一緒にお茶なんぞ楽しんでいる少年のコードネームだ。
接点なんてなかった、はずだ。ライは混乱する頭が一瞬で回転を始める。だが、脳裏に刹那の光景が思い浮かぶ。ラーメン屋での一幕。確かその時ジェネヴァは明美と会った、と言っていた。その時は一度だけの偶然なのだろう、と聞き流したが、もしかしたらライの知らない繋がりがこの二人にあるのかもしれない。
そこまで脳が弾き出した計算結果を飲み込む前にライは喫茶店の扉へと手を掛けた。そして躊躇いなく開ける。案内をする店員へ、待ち人が待っているはずだ、と言葉少なに足を迷いなく進め、件の二人の席の前で足を止める。くすくす、と軽やかな恋人の笑い声にライの眉間に知らず皺がよる。ああ、訳もなく苛立たしい。腹が煮えつくように熱くなる。
「――随分、楽しそうだな?」
腹に溜まった苛立ちをそのままに二人に――特にジェネヴァに向けて――言い放つ。我ながら大人げない、とは思うがそれでも言わずにはいられなかった。
「げ」
「あら、大くん」
あからさまに嫌そうな反応のジェネヴァにライの睨みも鋭くなる。そんなに疚しい事情でもあったのか、と。ライの心情がそのまま威圧となり、辺りの空気が重くなる。だが、そんな空気を気にせずにライの最愛の恋人は嬉しそうにこちらを見上げた。
「げ、とはご挨拶だな。ジェネヴァ。――それで?人の女と逢瀬を楽しんでいる理由をお聞かせ願いたいもんだが?」
一応、釘を刺しておこう。労せず纏える威圧をそのままにジェネヴァを見下ろし、問いかける。恋人の浮気を疑っているわけではない。だが、ジェネヴァの方はどうだろうか。恋人の欲目もあるだろうが、明美は気立て良し、器量よし、更には恋人を一途に想う健気さもあるいい女だ。惚れない道理があるだろうか?……年の差なんて数年もしない内に気にならなくなるに違いない。
「大くんったら、もう……。とりあえずこっちに座ったら?」
そんなライの悋気を察したかしないか、明美は微笑みを浮かべてライを己の隣に手招く。断る理由はない、ライは大人しく明美の隣に座る。相対したジェネヴァは若干居心地が悪そうだ。……相も変わらずの無表情だが。
「…………大人げないでやんの」
ぼそり、と呆れたような呟きがジェネヴァの口から零れる。それにライの片眉がピクリ、と跳ねる。安い挑発だ、と分かっているが苛立たしいのは変わらない。
「聞こえているが?」
「聞こえるように言ったんだよ、お兄さん。――少しはお姉さんを見習えば?余裕のない男は嫌われるぜ?」
「――ホォー?」
だから敢えて挑発か否か、を暗に問いかける。ライのそれをジェネヴァは挑発的に返してくる。その言葉にはライの悋気が分かっている上に煽りも含めて余裕を持て、ときたものだ。思わずライの口元に戦意が煮詰まった笑みも浮かぶ。はは、コイツめ。
とその時。
「――大くん、ジェネヴァ君。喧嘩しないの。ね?」
柔らかな、耳触りのいい声が穏やかに窘める。明美のそれはまるで日だまりのような棘のなさで、ライは思わず肩の力を抜く。いつの間にか腹にあったあの苛立ちは消えていた。
「喧嘩はしていないさ。そうだろ、ジェネヴァ」
「そうだね。アンタがそう言うんならそうなんじゃない?」
ため息を吐きたくなるのを堪えてライがジェネヴァに確認するように言葉を投げる。勿論、そこには同意するだろの意を添えて、だ。ジェネヴァはそんなライに投げやりに頷いた。なんだ、その惚気は結構ですみたいなしょっぱい反応は。
「というか、俺がお姉さんに何かする訳ないでしょ。――アンタが懸念するような事なんてそれこそ、この瞬間に地球が滅びるぐらいあり得ないよ」
ジェネヴァは呆れたようにこちらに念を押す。それは先程刺した釘への呆れ、に違いなかった。こころなしか、お兄さん俺の年齢知ってるでしょ?という副音声まで聞こえてきそうだ。
確かに、らしくない自覚はある。大人げないのも百も承知だ。けれどライにはそこで頷けない理由がある。
「……接点がまるでない組み合わせだからな。邪推するのは仕方ないじゃないか。――これでも心配しているんだ」
「大くん……」
本音八割、建前二割ほど。肩を竦めて、軽口で誤魔化ながら。それを思わず吐露すれば、ジェネヴァは呆れを深くし、明美は感激に瞳を潤ませた。明美には恋人までの経緯もあり、年上のプライドもあり、今までこんな心情を明かしたことはない。だからだろう。こんな言葉一つで喜ぶのならば、己の小さなプライドなんて早めに捨てるべきだった。ライの胸が小さな悔恨と恋人の愛への実感で疼いた。
「はいはい、ご馳走様。――俺はもう行くよ。じゃあね」
「ふふ、また話を聞かせてね?」
すっかり蚊帳の外になったジェネヴァがやれやれと言わんばかりに立ち上がる。それに明美が笑みのまま声をかけた。その声に滲むのは家族へ向けるような、温かさだ。まるで弟にむけるような邪気のなさだ。
ジェネヴァもそれを分かったのだろうか。肩を軽くすくめて、
「さてね。それは幸運の女神様にでも聞かないと、だね。……それとお姉さんの嫉妬深い恋人の許可が下りてから、かな」
「なっ」
「まぁ!」
とさらっと爆弾を投下した。軽い冗談、に似たソレを鼻で嗤って受け流せなかったのはまさか己に心当たりがあったというのか。しっとぶかい、だと……?
ライの滅多にない動揺に明美の瞳はキラキラと輝く。恋人のそんな期待に満ちた瞳を無下に出来る筈はなく。ライが無様にも狼狽えている間にジェネヴァはするりと店の出口へと身を滑り込ませた。あっという間の身のこなしにライは唖然と後ろ姿を見送ってしまった。
くいっとライの腕を軽く引っ張る感覚。腕を掴むことはせずに服の布地を少しだけ引っ張る、そんな可愛らしい事をするのはこの場で一人。ライの愛しい恋人だけだ。
「大くん……」
しょぼん、と明美は怒られる前の子犬のような顔をした。そんな顔をするな、と優しい言葉をかけて、甘い対応でも出来れば百点満点の恋人なのだろう。
しかし、ライにそんな器用な真似は出来ない。照れとプライドと、その他もろもろで思い通りにいかない事が常だ。ああ、全く恋とは度し難く、愚かになる毒なのか。それが全く嫌ではない所が更にどうしようもないと思う。これまでの色恋とは勝手が違い過ぎる、なんて我ながらどうしようもないボヤキも内心出てしまう。
彷徨っていた己の手をテーブルの上の明美の手にするりと絡ませる。
「!」
「……これから時間はあるか。前に観たがっていた映画があっただろう?」
争いをしらぬ、細い指先だ。手荒れもない、その白い手はライにとっては平穏の象徴のように思えてならない。すり、と指の腹で懐けば、びくりと怯えたように震える。つれないな、なんてライはくつりと笑う。
ちらり、と横目で恋人の顔を盗み見れば可哀想なくらい顔を真っ赤にして固まっていた。いつまで経っても初心だ。それが可愛い、なんて口が裂けても言えやしない。
「……明美?」
どうした、なんて意地悪だろうか。ライはにやけそうになる口元を堪えて首を傾げる。映画、一緒に観に行くだろう?
「…………うん」
小さな小さな返事は思いのほか甘く聞こえる。機嫌が回復したライはこの喫茶店に来た時の苛立ちなんてすっかりと消えていた。
それはそれとして、後で手を回さないといけないだろう。あの子どもの思惑とその脅威度の把握も両方できれば言う事はないんだが。
※※
組織には殺戮人形、と呼ばれる子どもがいるらしい。組織が一から育て上げた忠実なる
これがライがジェネヴァ当人に出会う前に聞いたおおよその噂だ。随分悪趣味な事だ、と眉を顰めたものだった。
実はジェネヴァに故意に会うのは難しい。神出鬼没であり、その活動場所も謎に包まれているからだ。故にライはジェネヴァに毎度偶然に会うことに多少の驚きを感じていたし、噂よりも人間味があってむしろ安堵していた。
だが、それはライ個人で彼と関わるのが前提だ。そこに明美が加わるとなると正直頷けない。目に見える幼さで誤魔化されてはいけない。見た目の線の細さはまやかしであり、その本質は恐らく別にある。
組織の闇は確実にあの子どもの根幹を、精神を蝕んでいる。それは倫理観の少しのズレだったり、価値観の決定的な違いだったりするのだろう。それがライの愛しい彼女にとって致命的ではない、なんてどうして言い切れる?それにジェネヴァの背後にジンの影がちらつくのも不穏だ。
悲劇の起こった後からでは遅い。一般人の明美では逆立ちしたって、ジェネヴァに勝てやしないだろう。抗うことすら出来ないかもしれない。それを考えるだけでライの背は冷たい予感で冷えて仕方ない。
暗くなる思考をそこで一旦打ち切る。何はともあれ、行動あるのみだ。思考を重ねるだけで何かが変わるほど、この世界は易しくはない。
現時刻は午前十時を少し過ぎた頃だ。
ジェネヴァと初めて出会ったあの施設の廊下を歩いていた。更に施設の奥、人影一つ見当たらない区画まで足を進めていた。ジェネヴァと会うために心当たりを当たってみようという考えからだ。会えれば僥倖、会えずともこの謎多き組織の更に謎めいた場所に何があるのかが分かればそれでいい。元来、状況をポジティブに捉えるのは得手だとライは思っている。
さて、この扉の先に何が出るのやら。ここ、日本では藪をつついて蛇を出すという。多少の荒事なんぞ、ここでは当たり前の日常だ。だから、蛇が出ようと鬼が出ようとライにはどうでもいい。
目の前にある無機質な金属製の扉に手を掛ける。指をかける取っ手の横にあるスイッチを押せば、微かな駆動音の後に扉が開かれた。随分、不用心な事だと呆れてしまう。
まさか、一番最初に当たりを引くとは思わなかった。
扉の先には、汗を拭うジェネヴァの姿があった。どうやら訓練は終わってしまったらしい。――出来ればその訓練を見ておきたかったんだが、とライは室内に足を踏み入れ、壁に寄り掛かる。
ジェネヴァがいつ気づくか、なんて愚問だ。部屋を入ってすぐに、その淀んだ緑の瞳がライを胡乱げに見やる。ライの想定通りだった。
「先日は世話になったな」
先日の明美とジェネヴァの喫茶店での光景が不意に脳裏に蘇る。それでつい、声に棘があったのかもしれない。ジェネヴァの淀んだ瞳がこちらをじとり、と捉える。
「……嫌味かな?」
汗を拭い、静かな様子で返すジェネヴァは至って通常運転だ。今の今まで身体を動かしていただろうに、息一つ乱さない。その静かな声にはこころなしか、うんざりしたような響きが潜んでいる気がした。
「……フッ。これでも不安の芽は早めに摘んでおく性質でね」
「ああ、アンタの可愛い恋人か」
こちらの軽口に応じるようにジェネヴァの口調も軽い。が、可愛いとは聞き捨てならない。ライの視線も自然と鋭くなる。
「後はそうだな、あのジンが珍しく面倒を見ている懐刀候補の実力を見ておきたい」
何はともあれ、この子どもを知るにはこれが丁度いいだろう。実力も、思惑さえも上手くすれば把握できる。正に一石二鳥だ。ライは挑戦的な笑みを浮かべ、截拳道の構えをとる。
しかし、当のジェネヴァといえば、だ。
「は?懐刀候補?何それ」
鳩に豆鉄砲。それが似合うような、ジェネヴァにしては珍しい驚きようだった。なんだ?ライは些か興をそがれながらも首を傾げる。
「違うのか?」
「違うけど」
気持ちのいいくらいの即答。若干、ジェネヴァの淀んだ深緑が更に沈む。おや、そこは自信ありげに実力を誇示しないのか。少しばかり意外ではある。
ふむ?だが、まあ……。
「些細な行き違い、はどうでもいいな。最年少幹部の実力としても興味がある。それに、言っただろう?」
ああ、この子どもは何も分かってはいない。ライは自分の戦意を煮詰めていく。アドレナリンが、心臓から全身に巡るこの血潮がドクドクと熱くなるのを感じる。
「何?」
不愉快気な短い声にライが言うことは一つだけだ。
「不安の芽は摘んでおく、と」
「羊を守る
余裕の軽口を叩くジェネヴァの台詞を遮り、殴りかかる。身体をそらし躱すジェネヴァの声が上ずる。まあ元よりこの一撃が当たるとは思っていない。
畳みかけるように攻撃を続けていく。鳩尾を狙った拳は掌で受け流された。ほぉ、これも防ぐか。ライは少しばかりこの戦闘に違和感を抱き始めた。おかしい。噂を全て信じる愚か者ではないが、それでも無視できない矛盾だ。
「アンタ、脳筋も大概なんじゃない?」
ジェネヴァの口は相も変わらず余裕だ。ライの感じた矛盾、は気のせいという事なのか。
「ふ、余裕だな。ならば、これはどうだッ」
それを見極める為に拳から蹴りへとシフトチェンジをする。リーチの長さはライにとっては大きなアドバンテージだ。手加減なんて端からしていない、そんな重い一撃はジェネヴァの腹を綺麗に抉る。咄嗟に受け身、後ろに飛んでダメージ軽減をジェネヴァは図るがその口から苦し気な吐息が零れた。
見た目の子どもらしい細身に若干の罪悪感が湧く。
「……らしくないな。どうした、お前の実力はそんなものじゃないだろう?」
「…………」
思わず投げた心配と煽りにジェネヴァの俯いていた頭がピクリと揺れる。
「……アンタ程の実力者相手だと、生憎と手加減が出来なくてね」
「する必要が?」
ないだろ、とライは挑発を続ける。ジェネヴァの声は思ったよりもしっかりとしていて、上げた顔に先程のダメージはもう露ほども窺わせない。
「あるとも。じゃないと、死んじゃうだろ?」
「ほぉ?それはどちらが、だ?」
ジェネヴァの減らない生意気さに自然とライの視線も冷たくなる。この子どもは、こうでもしないと立っていられない。大人を頼らず、庇護を期待せず、むしろ逆に見えていることだろう。この子どもにとって恐らく大人は庇護してくれるモノではなく略奪者だ。
「そんなの当然――」
それはライの推測を裏付けるような表情だった。ジェネヴァの整った顔が醜悪に歪む。他者を心底軽蔑するような、虫ほどにも思っていない冷たさを凝縮したような嘲笑。容姿が整っているからこそ、その悪辣さが浮き彫りになるのだとライは初めて知った。
「アンタに決まっているでしょ?」
止めと言わんばかりに鼻で嗤われる。
ピシリ、と空気が凍ったような錯覚。じわりと勝手に滲む殺気はライとしても抑えきれるものではなく、また抑える気もない。
正直に言おう。イラっとした。ジェネヴァは底の見えない実力者なのは、コードネームを持っていることから明らかだ。だが、客観的に彼を見てほしい。少女めいた美貌の顔、白い肌は生気が無さそうな透明感で、すらりと伸びた手足は細い。当然それらを支える胴体も細い訳だ。つまりはライからしてみればひょろっこい坊主。冗談にしても、もう少し笑えるものにしてもらいたい。
「…………ホォー?」
思わず低くなる疑問符。お前、ふざけているのか。
ジェネヴァはこちらの不機嫌なんぞ気にせず、ズボンのポケットから震える携帯を取り出し、こちらに片手を挙げて見せてくる。一時休戦の意だろう。随分自由なことだ、ライは呆れたため息を吐いて頷いてやる。
「もしもし?」
「――内容は?」
合間合間に聞こえるジェネヴァの声は淡々としている。相手は誰か、なんてライが推理していると胸ポケットに入れていた携帯が震える。暇なことだ、と内容を確認するとそれはジェネヴァとの任務を命じるものだった。俺の苦労は一体……、とライは徒労感に襲われる。というか、先程のジェネヴァに対する挑発行為はほぼ無意味となった。何故ならこれからの任務の方が探るのにはうってつけだ。
ライが胸に滲む苦みと格闘しているとジェネヴァの電話は終わるらしい。……気のせい、かもしれないが了解と頷くその声は何処か硬い。……滲むのは苦さ、か?
「ライ」
ジェネヴァからの声にライは視線を携帯画面から彼の方へ向ける。
「――とりあえず一時休戦、でいい?」
「ああ。その方がありがたい」
大人な対応をしてくれる、というジェネヴァにライは携帯画面を見せる。そこには任務を任命する簡易文章が並んでいる。穴を掘って埋まってしまいたい、という気持ちは初めて味わう。
「成程。……次はよろしく?」
「ああ。はぁー……俺が一人で馬鹿みたいじゃないか……」
ジェネヴァがよろしく、と握手の手を差し出す。それを見てライは頷いた後に盛大にため息を吐いた。その後の小さなボヤキはジェネヴァの耳に届いていないと信じたい。
そもそも一番大切な事が聞き出せていない。
ジェネヴァと明美の接点に、その関係性。家族にむけるような温かな笑み、なんてそう滅多にお目にかかれるようなものじゃない。
分かっている。これはあまりに醜い嫉妬だ。あまりに大人げない上にジェネヴァにぶつけるべき感情ではない。割り切れない理由なんて百も承知だ。
※※
己の愛車のハンドルを握り、目的の空港を目指して高速道路を走らせる。隣に座るのは無表情のジェネヴァだ。あの締まらない終わりの一幕の後、気まずい思いもしながらも各々任務の準備を終え、急ぎ足でこの車に乗って今に至る。飛行機のチケットが運よく取れた事をここは喜ぶべきか。しかし、この強行軍に等しい準備期間のなさはこれからの任務の難易度を意図的に上げているようだった。それを指示したジンの意図が気になる。アイツはジェネヴァを腹心に育てたい訳ではないのか?まさか暇つぶしのように軽く使い潰されるというのか。この薄暗い業界ではあり得ない話ではないから困る。
「アンタさ」
「なんだ?」
思惑に推測。足りない情報に悔しく思うもいつもの事だ。
突発的なジェネヴァの声に内心驚きながらも視線だけを一瞬向ける。本当に珍しい事だが、あのジェネヴァが少し躊躇うように言葉を選んでいるようだ。余白のような数拍の沈黙が彼の葛藤でもあるんだろう。
「ジンに嫌われているって本当?」
ライは驚きで目を瞬く。
逡巡していた割に言葉選びが随分幼い。恐らくは本当に聞きたいことは別にある。ふむ、ならばこの問いにそう身構えずともいいか。ライは数秒で思考を巡らせ、口を開く。
「藪から棒だな。――ふむ。言われてみればそうかもしれん」
俺にはどうでもいい事だ。ライにとってジンは厄介な宿敵に近いものだが、宿敵にどう思われようとも何処にも響かない。あの冷たい敵意に多少は思うところはあるが。
本音を素直に口にすれば、隣から感じる視線に微妙な尊敬が混じる。今視線を向ければ、あのどんよりした緑も少しはマシになっているかもしれない。
何を馬鹿げたことを、ライは己の脇道に逸れた思考に緩く横に頭を振る。
「だが、それはあくまで私情に過ぎない。アイツだって馬鹿じゃないさ。流石に私情を仕事に持ち込む程、愚かではないだろう」
ライから見たジンという男は分かりやすい悪役のような男だった。冷酷にして、無慈悲。トリガーハッピー並みに銃の引金を引くことに躊躇いはない。制裁する際のジンの手際の良さは
だが、仕事に対する妥協は一切ない男でもある。信頼、とは違う感情だがライはその点だけは認めているのだ。否、犯罪組織の幹部だからもう少しヘマをしてくれないか、と思ってもいる。
「でもさぁ、ライ」
ジェネヴァの声は世間話をするような軽さだ。ライはまあそんな事はないと知っているから、一瞥のみ投げかけ次を促す。さて何を聞かされることやら。
「――それ、
は?
流石のライも度肝を抜かれた。なんだって、と驚愕の感情のままジェネヴァに視線を戻した。
右手でノックの仕草をするジェネヴァはいつもの無表情だ。そこにライを貶めようと計略を巡らす暗さも何も浮かんでいない。何を考えているのか。
一瞬で車中の空気に緊張感がピンと張る。場合によっては強硬手段をとるしかあるまい。
だが、落ち着け。ライは己にそう言い聞かせる。ジェネヴァの人となりを然程知らないライは推測しか出来ないのがとても歯痒い。けれど、確実に言える事が一つ。
これはライの耳を傾ける為の一種のブラフだ。そも、確実な証拠があれば、裏切者への制裁は前述の通りジンの耳にいれればいい。それだけであの男は大手を振ってライを始末にかかるだろう。
「…………ほぉ?」
だから、ライが返すのはたっぷりの含みの疑問符のみだ。それで? と。
何か言えるんなら言ってみろ。ライの疑問符の裏の言葉を言語化するならきっとこうだ。ジェネヴァにもそれが届いたのだろう。
「ああ、答えは聞かないよ。俺にとってはそんな事どうでもいいからね。――ただ、アンタは気をつけた方がいいよってだけの話」
ジェネヴァの口から出るのはそんなお節介な言葉だ。若干口調が早いのは、焦りか。まあ好き好んで敵を作るほど馬鹿ではないか。
「そうか。――大方、証拠も根拠もないただの勘だろう?でなければ、俺はここにいる訳がないからな」
あの男の行動力には恐れ入るよ、とライは皮肉で言葉を締めくくった。隣から感じる気配は微かな困惑、か。少なくとも、ライへの敵意はなしか。
「しかし、尚更不思議な話だな」
「…………何が?」
ジェネヴァの敵意がないのがライの口を軽くしたかもしれない。素直な疑問の言葉はジェネヴァに短く返される。どうやらこのまま話をしてくれるらしい。
「君だよ。――君はこう言ったな、“そんな事どうでもいい”と。それが真実であれば、捨て置くのが正解だ。面倒事にしかならない上に旨味もないそんな与太話を態々本人に忠告する等と――」
少しだけジェネヴァに視線を向ける。逃げられる、なんて思わないことだ。ライはこの少年から投げかけられる謎を余す事なく暴いてやろう、とさえ思っている。ジェネヴァが踏み込んだ場所が悪かった。
宿敵に向けるような鋭い視線をジェネヴァにくれてやる。そこでようやく俯いていたその顔がこちらに向けられる。
「随分とお人好しだな?」
ニヤッと口元だけが笑う。さて、どう出てくる?鋭い視線をそのままにライはジェネヴァを捉える。容赦?そんなもの犬にでも食わせておけ。ライの地雷を進んで踏んだ、ジェネヴァ自身を恨むがいい。
ジェネヴァは首を傾げる。無表情からは何も読み取れやしない。
「……深読みしても何もないよ?」
「…………」
運転の為に前を見据えるが、ライは無言を貫く。それで納得すると思っているのか。
そんなライの無言の威圧にジェネヴァがどうとったのか。
「ただ、アンタの恋人さん。あの人を悲しませるのは避けたいな、と。ありふれた親切心だと思ってくれていいよ」
そこで明美の名を出すのか。ジェネヴァの声に悪意はない上に、嘘の気配もない。ライは生来の推理好きが高じて嘘の気配を読むのが得意だ。しかし、だ。
「親切心、ね」
思わず口元に好戦的な笑みも浮かぶ。先程の言葉が本当なら、この少年にとって似合わない親切の行き先はライの恋人である明美だ。しかもご丁寧にライの地雷をぶち抜いて、忠告を忘れないようにさせている。随分、献身的なことじゃないか。
「悪党の親切とか、レアでしょ。だから頭の片隅にでも置いておいてよ」
「――なるほど。そう言う事にしてあげようか」
ジェネヴァの的外れなフォローの言葉にライは一気に毒気が抜かれる。そこじゃない。いや、正確に言えばその善意も信じられなかったりするから正解は正解なんだが。ジェネヴァの言葉に頷く言葉にため息も混ざる。
「はいはい」
ジェネヴァのおざなりな相槌はこの話題が終了したことを告げる。
これ以上の追及は無理、か。
「…………というか、君が明美とどういう関係なのか、が知りたいんだがな」
ぼそり、とライの口から本音が零れ落ちる。ハッと我に返った時は既に遅い。覆水盆に返らず。音に乗せた言葉はしまえる訳がない。
だが、ジェネヴァから特に反応はなく、聞こえていなかったらしい。ほっと安堵する気持ちが芽生える。
ハンドルを握り直し、運転に集中することにする。
ライはどうも愛しい恋人である明美のこととなるとカッとなりやすい。彼女からは大人の紳士的な男と見られているが、その実態はみっともないこの様だ。
そんなに明美の事が大切なのか。ライの逆鱗に触れるかもしれない、その危険性を冒してまで守りたいほどに。
隣のジェネヴァの横顔を横目で見る。銀色の髪に縁取られた少女めいた美貌は無表情であっても人目を惹くだろう。それこそ、あと数年経って青年まで成長すればどうだろう。どんな色男に成長するやら。
それにジェネヴァは組織の中でも普通の感性に理解がある方だ。あのジンと比べてみたら一目瞭然だろう。己は普通となれなくとも、それに寄り添えるだけの情はある少年だ。かと言ってこの組織でコードネームを持っている事から善人とは言えない。だから、だろうか。ライの胸に巣食う焦燥がいつまでも晴れないのは。
※※
アメリカのネバダ州、カジノ等の娯楽施設で有名なラスベガス。観光で有名なこの都市は騒がしくも賑やかな活気ある所だ。だが、その分観光客のトラブルは尽きないどころか、下手をすると洒落にならない犯罪にも巻き込まれやすい。やはりいくら飾り立てようともここは欲望渦巻く場所だ。金が絡むと人間は大抵ロクな事になりはしない。
空港からここまで時間はかかったものの、大した事件も事故もなく辿り着く事が出来たのは僥倖か。こういう職業だと幸先が良い等と素直に喜べないのが難点だ。この任務中の拠点となるホテルにはこの人混みの中を進まないといけないのか、とライは目の前の往来を眺め内心うんざりした。何分地味に上背がある分見通しが良くなり、人混みの果てのなさが実感できて嫌になる。タクシーを拾う程でもない、十分程度の道のりだ。
通り過ぎる人種の豊かさならば、普段活動している日本よりも優っている。まあアメリカのお国柄、と言い換えてもいいかもしれない。ただ、その中であっても隣にいる少年は人の目を惹きつけていた。見下ろす少年は帽子を被っているのにも関わらず、にだ。まあ、お世辞にも今の自分は堅気には見えない、とライは自覚している。……こうして立っていたら現地警察に職質されてしまいそうだ。ライは己の強ち外れそうにない予測に頭が痛くなりそうだ。少し急ごうか。
「――はぐれるなよ」
「言われなくても」
足早に足を進める。とは言えライも大人と子どもの足のコンパスの違いは十分に分かっている。それ故の言葉に返ってきたのは生意気な声だ。元気そうで何よりだ。
「今夜の任務の打ち合わせはホテルに着いてからだな」
「了解。……というか、今回の任務の費用考えると結構怖いね」
これからの予定を告げると、ジェネヴァが不思議な事を言ってきた。何を言っているのやら……。思わず呆れ顔をしてしまう。
「君は面白い事を言うな。別に組織の経費で落ちるんだから気にしなくてもいいだろ」
「けいひ」
ライはそのままぞんざいな言い方で言い捨てる。ジェネヴァの小さな口から出たのは意外にも幼さが残る言い方だ。そんなに衝撃的な事を言ったつもりはないんだが、とライの眉が自然と寄せられる。
「?」
「いやなんでもない。うん、そうだね。組織もそういう運営があってこそだものね」
突然正気に戻ったかのようにジェネヴァは早口で取り繕う。……追及してもいいが、ここは拠点であるホテルに行くことを優先した方がいいだろう。本当の職を思えば、ここで職質されたなんて笑い話にもならない。精々が酒の席でのジョーク止まりだ。
※
拠点となる部屋はツインだ。こうも準備に時間が足りないとこういう弊害があるのだ、とまざまざと教えられた。いい教訓になったと思わなければやっていられない。まあ本来の仲間への交信手段なんて電話以外にも色々ある。潜入なんぞ危険の高い任務だ。気軽、という訳にはいかないがそれでも見つからない抜け道は用意しておくのが定石だ。
ライは隣で荷物を広げるジェネヴァを後目にこちらも明日への本番への準備をしておく。……というか、君そんな物騒な物を隠し通して空港を通過出来たな?一応手荷物検査やらX線検査やら一通りやるんだが。そんなライの微妙な思いに気づいたのか、ジェネヴァの深緑の瞳が手元からこちらへと向けられる。
「先ずは任務の概要を確認するか」
「ライ、もしかしなくても俺の事子ども扱いしてる?」
こちらの提案に返ってくるのはまるで子ども扱いしてくれるなとむくれる反抗期のガキみたいな主張だ。声は淡々としているが、一度そう見えると若干不機嫌に聞こえるのだから人間は不思議だ。
「君の年齢だと充分子どもだと思うんだがね。まあ、それは関係ない。俺と君とで齟齬があったら大変だろう?何せ、急に決まった事だ。予想できる不備は出来るだけなくしておいた方がいい」
確認作業、というのは案外馬鹿に出来ない。こういう基本を疎かにして死ぬような人間はこの裏社会じゃ道端の石ぐらいに珍しくない。ジェネヴァはそこまで言わなくても分かったようだ。軽く頷かれる。
話をする為か、ジェネヴァは一旦荷物を広げる手を休め、ベッドに腰掛ける。ライもそれに見習い、椅子を引っ張り出して座った。声や表情は分かるがそこまで近くない距離で話を続けることにする。
「確かに。――まずは概要、だっけ。違法カジノ、その地下にて開催されているという裏ファイト。その優勝賞品が少しばかりまずいものだったんだよね」
ジェネヴァの言葉にライは頷く。裏ファイト、なんてぼかされているがその実態は死傷者が出ようとお構いなしの血に濡れた催しだ。その勝敗に金を賭け、稼ぐ。実にシンプルなシステムだがリング上で戦う者らが問題だ。どいつも脛に傷を持つような奴らばかりだ。中には凶悪殺人犯も居るという噂だ。無論、FBIでもどうにか取り締まろうとしているが如何せん奴らのバックが厄介極まりない。どうにかならないものか、と頭を抱えているところに今回の件だ。ジェネヴァには悪いが、ライにとっては渡りに船。ジェネヴァと共に奴らの賭場を引っ掻き回し、警察が乱入出来る口実が出来れば上等だ。奴らは何処を叩いても埃が出る。決定的な物的証拠を掴めば、逮捕も容易いだろう。要は庇う隙なんぞ与えなければ良い。
「優勝賞品は純金で出来た像だ。その価値は時価十億はくだらないという。だが、問題はそこではない。なんでも、その像にはとある仕掛けがあるらしい。情報の入っているマイクロチップ。一センチにも満たないソイツの中には、組織の創立メンバーリストが入っているという話だ」
「……それ、本当なの?」
ライの口から出る説明にジェネヴァの反応は懐疑的だ。真っ当な反応だ、と思いつつライは己の荷物からノートパソコンを取り出し起動させる。作戦を実行する上でジェネヴァに覚えてもらいたいものがあったのを思い出したからだ。
ジェネヴァは胡散臭そうにしながら、荷物の整理を再開させた。その細い手首に似合わない拳銃二丁をどうする気なのか、とライは真面目に考えてしまう。まさか、会場に持っていくとか、か?
「さぁ?ただ、その像の前の所有者は組織の古いパトロンだ」
「――うわぁ」
ノートパソコンに視線を戻し、文字の羅列を眺めながらライは端的に情報を述べる。組織発足時に近い時代からのパトロンでもう代替わりさえしている名家だ。パトロンは続けているものの、代替わりで知識と認識が欠けたのだろう。組織はよりによってそれを手放すとは、と今頃歯噛みしているに違いない。今回の任務がそのパトロンの抹殺ではなく、手放した財宝の回収となったのが吉となるか凶となるか。
そんなライの端的な言葉にジェネヴァは何処まで悟ったのか。とても嫌そうな呻き声を出された。いや、表情が無表情なのが結構シュールに見える。ライはため息を一つ吐いた。
「しかし……まあ。そのマイクロチップの中は九割八分、偽物だろうな」
「へぇ。なんでまた」
ライの素直な所感を言えば、首を傾げられた。なんでって言われてもな、ライは肩を竦める。
「何故、か。組織のボスは既に様々な憶測が囁かれている。――君も組織に居るんだ。一つくらいは噂で聞いたことがあるんじゃないか?既にこの世に居ないような死人の名まで挙がるような話だ。そこに一つ候補が増える、と言われてもな」
そうだ。だから、ライはここに居る。組織の謎に関わった人間がどれ程犠牲になったのか、目の前の子どもに懇切丁寧に説明してやりたかった。無駄だからやらないが。ここまで来るまでにライはそこそこの犠牲を出して、組織の地位を獲得した。血塗られたこの手も、愛しい女を裏切る罪悪も、ライの覚悟の上の結果だが、それでもと思ってしまう。こんな簡単に真相が掴めたなら、と今更詮無き事を考えてしまう。
ライのそんなどうしようもない心が声に、それか表情に滲んでしまったのだろうか。ジェネヴァが言葉を躊躇うように口を何回か開く。
「こうして聞いていると組織って……なんか」
「?」
まだ躊躇うジェネヴァにライは怪訝な気持ちで視線で先を促す。いいぞ、言ってもと。
「噂好きの集まりみたい、だなって」
「ブハッ、クックック。成程、確かにその通りだな」
ジェネヴァのボヤキがライの腹筋に直撃した。ライの脳裏に浮かぶのは宿敵ジンだ。そんなソフトなジンなんぞ目にした日には正直爆笑するしかない。あのジンが、だぞ?笑わずにいられるか。思わず涙が出てしまいそうだ。
「笑うなよ……」
「ククッ、悪い悪い」
いつまでも喉で笑うライに痺れを切らしたのか、ジェネヴァがライの肩を小突く。笑えるものは仕方ないだろう、と思いつつもライは軽く謝罪する。
とは言え、脱線してばかりでもいられないか。ライは気持ちを切り替える為に空咳を一つ。
「話を戻そう。任務の決行は明日。何せ今回は準備期間がほぼないに等しいときたもんだ。組織は余程我々に死んでほしいと見える」
言葉に皮肉を込めてライは酷薄な笑みを浮かべる。
「こんな作戦と言えないモノをよく実行しようと思えるな、君も。まあ、俺も人の事なぞ言えないが」
「仕事だから仕方ないさ」
ライの皮肉もジェネヴァには少しも響かないようだ。軽く肩を竦められた。必ず達成出来る、という過信でそうなのか。それとも、仕事ならば命なんて惜しくないからこうなのか。まあどちらにせよ、ライがやる事には変わりはない。
「仕事だから、ね。まあいい。それよりも、この作戦の要は――」
「当然、俺が適任でしょ」
「分かっているのか?」
俺がやろう、というライの言葉が出てくる前に遮り、ジェネヴァの当然といった態度で名乗り出る。思わずライが鋭い睨みで問えば、返ってくるのは分かっていると頷きのみだ。こいつ、分かっていないだろう、というライの盛大なため息は存外この静かな部屋に響く。
自然とこの静かな一室に重い空気が漂う。それをジェネヴァはどう捉えたのか、軽い調子で頷かれた。
「大丈夫。アンタはしくじるような奴じゃない。こう見えても、俺は時間稼ぎは得意な方なんだ」
「しかし……」
ジェネヴァの軽口を聞いてもなお、こちらの不安は一掃されない。むしろ、そこではいそうですかと頷けるのならばライの本職は別にあっただろう。つまり、ライの倫理観はこれでも人並みにあると自負している。ジェネヴァの実力を測ろうとした先の一件がどうにもライに引っ掛かりを感じさせる。これでいいのか? と。
なにしろ。今回の任務の“荒事”を担当する、と言っているようなもので。
「言ったでしょ。――俺は意外と腕っぷしが強い方なんだ。“手加減”しなくていいって言うなら尚更ね」
ライの目の前の子どもが“強がり”を言う。
まざまざと見せつけられるような気がした。
まだ、十三歳くらいの子だ。ライの妹――否、赤井秀一の家に置いてきた幼い妹がもうこれくらいになるだろう。同い年か、一つ年下の子だ。そういえば、妹も同じようによく勝気な事を言っていたような気がする。今となっては可愛らしい意地の張り方をしていて、近所のやんちゃ坊主と喧嘩をしていたのだったか。そんな事を考えていたからか、ほんの一瞬だけジェネヴァに妹の面影を重ねてしまった。ああ、本当に子どもなのかという実感と言葉に言い表せない類の感情がライの喉を詰まらせる。
「……存外、君は生意気なんだな」
「!?」
わしゃわしゃ、と雑に目の前の銀色の頭を撫でまわす。力加減なんてものはあまり利かせていない乱雑さに、撫でられるジェネヴァは混乱しているようだ。
このすました顔の子どもの年相応の反応にライは撫でる手を離す。
この子どもに地獄を見せているのは汚い裏社会の大人達だ。否、救う手を持たない時点でライもその汚い大人に分類されているのだろうと思う。これからもきっとライはこの子どもに手を差し伸べることはない。何故なら他に優先しなくてはならない命が他にあるからだ。全てを救える、と豪語出来る程ライはもう理想に酔えない。ああ、まったくもってやりきれない。
ライは喉にせり上がる感情をグッと飲み込み、感情を平面に整える。これでも一瞬で取り繕うのは得意な方だ。
「分かった、そこまで言うなら任せよう。君の言う、“手加減”とやらがない本来の実力にも興味がある事だしな」
「…………そう期待される程ではないと思うんだけど」
ライの倫理観を抜きにすれば、ジェネヴァの申し出はまさに渡りに船で都合がいい。だからライは軽く煽るような事を言えば乗ってくるだろう、そう思った。だが、予想に反して、ジェネヴァはぼそっと何事か呟く。
「なんだ?」
「いや、なんでもないよ」
まさか不安なのか?ライの声のない問いをジェネヴァがあっさりと否定する。……まあここで心配をしても意味がない。ライはジェネヴァにノートパソコンの画面を向ける。
「ジェネヴァ。これが問題の会場の見取り図だ。警備の交代体制も見せておく」
事前のハッキングで収集出来た情報をジェネヴァに共有する。これ以上の情報収集は相手側に気づかれてしまうリスクが高く、断念した。こういう事前情報があるのとないのでは成功率と生存率が断然違う。
ジェネヴァは数回頷き、その深緑の瞳で一通り辿る。深く読み込むでもなく、ただ一回目を通す確認作業のみで納得したようだ。……まさかこの十秒足らずで覚えたというのか。ライは内心の戦慄を表に出さないように抑えた。
「成程。ま、アンタがしくじらなければ俺には必要のない情報なんだけど」
「言ってろ」
ジェネヴァの生意気な言動にライはため息を吐きたくなった。良くこの生意気さで生き残れたものだと感心さえ覚える。
明日の仕事は
「――ライ」
「?」
いつの間にか荷物整理を終えたジェネヴァが室内にあった冊子を手にライに歩み寄る。
「ルームサービス、どれがいい?」
……そういえば、夕飯時といってもいい時間になっている。壁掛け時計は夜の八時を示していた。ジェネヴァの手の冊子には、西洋の肉料理やら中華、果てはアレンジ寿司などバリエーションが無駄に豊富だった。こころなしか、わくわくとした様子のジェネヴァにライは毒気を抜かれる。呑気な上にマイペースだ。
「好きにすればいいだろ。何故俺に聞く?」
「?アンタは食べないの?――まさか携帯栄養食だけ、とか言わないよな?」
「は?」
ライの投げやりな言葉にジェネヴァが信じられない、と言わんばかりの圧になる。なんなんだ……。
そもそも。
「食事なんて腹にたまればそれでいいだろう?適当に選んでおけ」
「うわぁ……」
ライの言葉にジェネヴァが言葉を失う。本当になんなんだ。
「――まさかそれ、お姉さんにも言ってないよね?手料理とかさ」
「当たり前だろ。惚れた女の手料理をまずいなんて言う男は男じゃないな」
「うへぇ……。惚気か」
まあ明美の料理は家庭的で大変美味なんだが。ライの隠れた本音を言う前にジェネヴァがうんざりしたような声を上げた。ほぉ、そんな声も出せるのか。
ちなみに頼んだルームサービスを食べたジェネヴァが日本にしきりに帰りたがったのが笑えた。曰く、ホームシックだそうだ。早すぎる上にそもそも君の故郷は日本じゃないだろうとか追及すべきところが多すぎて言うに迷う始末だ。まあ言わなかったが。
※※
この任務においてライの役割は二つに分かれている。一つは言わずもがな、この組織としての顔としてのものだ。ジェネヴァと組んで、組織が握りつぶしたい情報の回収とその媒体である純金の像の奪取だ。そしてもう一つ、ライの隠された職であるFBIとしてのものがある。それがこの違法カジノの捜査だ。動かぬ証拠を掴み、強制捜査の後押しをすること。つまりは狸の尻尾を掴むことだ。
相手は経済界の重鎮など、政治界にも太いパイプを持つ権力の持ち主だ。下手な証拠で手を出してもトカゲの尻尾切りをされるか、最悪こちらが権力に握りつぶされかねない。そういう意味では今回の件はFBIにとって、渡りに船で都合の良い話だった。その為ならば、多少の悪は目をつぶると上司にさえ言われてしまう始末。それだけ、今回の相手は害悪だということだ。人の命を賭け事に、金に換えてしまう。一体いつの時代の趣向なのか、とライは内心吐き捨てた。
今回ジェネヴァが荒事を引き受けたので、ライはFBIとしての仕事としての比重を重くできる。――本部にいるハッキングが得意な仲間のバックアップを受けながらの情報戦は門外漢であるライでも勝利出来る難易度で容易いものだ。というか、ほぼその本部の仲間の力によるものだ。そいつからの指示に従いながら、ジェネヴァの動向も見守る。
ライの左耳に付けたイヤーカフは優れた通信機だ。見た目だけならばただの装飾品にしか見えない程で、こういう秘された任務ではうってつけとも言える。ただ、ライから言わせてもらえれば何故通信機に洒落た要素が必要なのか理解に苦しむところだが。
カジノの内部を大まかに言ってしまうと、地上から見えるカジノホテルは五階建てであり、見た目は近未来を意識したビルだ。近代建築で著名な建築家によるもので、ラスベガスでも五指に入るであろう場所である。そのカジノホテルには一般には知られていない地下の部分があり、その階数は地上と同じく五階。その最下層が今回のジェネヴァの戦舞台、裏ファイトが開催されるフロアとなっている。階数が下になればなるほど、フロアは広く、複雑に設計されている。まるでネズミ捕りだな、と他人事みたいな感想がライの胸中に浮かんだ。
小型のノートパソコンはFBIとの仲間との連絡とこのカジノの監視カメラの映像が映し出されている。チャット形式で一方的にFBIの仲間から情報が流れていく。それを目で追いながら、ライはこのカジノの中を慎重に攻略していった。監視カメラの映像を一瞬だけ偽の映像に切り替え、その間にライは移動する寸法だ。その為にこの建物の警備体制の詳細を手に入れた。そしてその内容は既にライの頭に叩き込まれている。
FBIの仲間からの情報によると、ここの心臓部とも言うべきメインコンピューターは、その回線を外とは一切繋いでいない上、操作は直接行う必要があるようだ。そしてその位置も当たりを付けている、と。
今の時刻は夜の九時を指そうとしている頃。――といっても蛍光灯を切らさない、この建物の中にいては夜の実感もあったものじゃない。体内時計と腕時計が指す時刻が、ライに現実の時間を教えてくる。まだ、目的地まで遠い。ライは近くの誰も居ない客室に身を滑り込ませ、ジェネヴァの動向を見ることにする。左耳から、初戦のアナウンスが聞こえる。リングネームをあのまんまの“ジェネヴァ”のままにしていたのが頭が痛かったのが思い出された。彼の動向を見守るのは、今回の任務はあの線の細い身体にはきつかろう、と心配しての事もあった。何せ対戦相手は歴戦の格闘家や札付きの悪ばかりだ。命なんて一瞬の油断だけで、あっさりと消えるだろう。
そんなライの心配は刹那の間だけだった。監視カメラの粗い画像に映るのは黒のローブを纏うジェネヴァとその対戦相手だった。牢獄のような悪趣味なリングは見ていて胸糞悪くなる。倍近くある体格差にライの心配が顔を出したが、それも一瞬の事。
『…………お喋りはもういい?』
左耳から聞こえるジェネヴァの抑揚の欠けた声の一拍後、あの細い身体の何処にそんな力があるのかと疑う一撃が繰り出された。相手の巨体がジェネヴァの一撃に耐え切れず、軽々と浮き上がる。血反吐を吐き、リングを沈む巨体を見下ろすジェネヴァは強者の風格だ。
まさに瞬殺。ライの脳裏にジェネヴァの“手加減”という言葉が思い出された。なるほど、確かにライは“手加減”されていたのだろうと思う。ジェネヴァの戦闘スタイルは恐らく“一撃必殺”を地で行くスタイル。攻撃特化の諸刃の剣に他ならない。それを防戦に変更したのだ、だからあの時の違和感という名のジェネヴァの弱さがあったのだろう。
ライがそんな思考に沈んでいる間にイヤーカフの向こう側では話が進んでいく。ジェネヴァが淡々と対戦相手に余命宣告をし、相手が慈悲を乞うのを無慈悲に切り捨て、止めを刺さずにさっさとリングから降りていく様を。
――えぐい。それは相手に止めを刺さないのをジェネヴァの見えない慈悲によるものなのか、ライが判断に迷うくらいの温度の無さだった。ライは一応、ジェネヴァの意外と人らしいところを不本意ながら知っている。それを加味しても、あまりに声に、行動に温度が感じられなかった。
かつて聞き及んだ噂が、まざまざと突き付けられる。組織の忠実なる
ジェネヴァは選手控室に戻ったようだ。画面の奥の彼は呑気にも部屋の中を物色している。その様はまるで探検する子どもだ。とても先程と同一人物に思えない。ライの口から自然とため息が零れる。
「君な」
『何?』
ライの小声に合わせるジェネヴァの短い声は至って普通だ。
「…………少しばかり」
手段がえぐくないか? と窘める言葉が寸でで止められる。組織としては、ジェネヴァの行動は少しも責められるものではない。あの場所において、アレは普通なのだ。だからライは話を逸らす事にした。くそったれが。
「――いやなんでもない。それよりも君の方は大丈夫か?」
『うん?――アンタも通信越しとはいえ分かっただろ?余裕さ。まあ、それで慢心なんてしないけれど』
ライの確認にジェネヴァが少し得意げに告げる。淡々としていても、その口調がジェネヴァの機敏を語る。謙遜さえないソレはまるで褒められたい子どものようだ。その年相応さにライは小さく笑う。
「それは頼もしい話だな」
『まあね。――それよりもアンタの方はどう?』
「こちらも順調だ。とはいえ、この施設の膨大な情報から目的のものを一から探るのは少々骨が折れるがね」
嘘は言っていない。ただ、情報を浚うのはライの本来の仲間であり、大変なのは目的地まで地道に行動するという点だという事だ。画面に流れる文字列が次を促すので、ライはこの客室から出ることにする。目的地は地下五階。奇しくも、派手に注目を集めるジェネヴァと同じフロアだった。
『怪しいところは全部覗いていくんだっけ?』
「そうだな」
――正確にはライの仲間が、だが。ライはジェネヴァの声に適当に相槌を打つ。ジェネヴァから見れば、随分泥臭い仕事に見えるかもしれない。あの子どもは組織の教育を受けているからか、案外器用だ。
『ものの見事に脳筋だね、俺らって』
左耳から聞こえるジェネヴァの声は呆れている。それが随分しみじみと実感のこもったもので妙にライの笑いを誘った。
「確かに」
違いない、とライは喉で笑った。
※※
左耳から聞こえるジェネヴァの様子は控えめに言っても物騒の一言に尽きる。あの子どもの実力は否応なくライの目に入った。それはあの子どもの言う“手加減”がまだ効いているのかもしれない。相手は死んでいないのだから。だが、相手をほぼ一撃で沈め、その命の価値を計るかのように静かに宣告していく様子は異様だ。暇つぶしのような軽さで余命宣告なんて、残酷の一言で済む話ではない。相手がどんな卑怯な隠し玉を使っても、素手で刈り取っていく姿はまるで死神だ。……素手でこれだけ戦えるのならば、相応の武器を持てば更に危険だという事にもなる。ライにはもう、ジェネヴァが子どもには見えなかった。黒の組織幹部。それもライが出会った組織の人間の中でも五指に入るぐらいの手強さだ。
ライの目的地である、メインコンピューターのある場所。それは警備網が厳しい所であり、それでいて見逃してしまいそうな場所であらねばならない。ライの仲間が目を皿にして見つけた場所は表向きはVIPルームだった。要人の為の一室である筈のその部屋は使用履歴が明らかに作為的だという。要は
監視カメラの画像を改竄している、十分で警備員を伸してそのVIPルームの入り口の適当なところに縛って転がしておく。意識はしばらく戻らないだろう。警備員、といってもそこは組織の幹部のような殺しのプロな訳でもない。ライにとっては赤子の手をひねるくらい簡単な作業だった。
室内はVIPルームに相応しい豪奢な装いだった。足音すら吸い込む仕立ての良い絨毯も、照明器具一つとっても芸術品のような粋を集めたような品の良さが分かる。偽の部屋にここまで金をかけるとは金持ちの考えは分からないな、とライの心に呆れが浮かぶ。
そこの金庫に仕掛けがあり、指示に従い手際良くギミックを解除して目的のメインコンピューターを取り出す。USBメモリに情報を抜き出す作業の待ち時間、手持無沙汰もあってライの視線が手持ちのノートパソコンの画面に映る。小窓に小さくなった監視カメラに映るジェネヴァの動きが固まっている。左耳から聞こえる情報は対戦相手が元空手の世界チャンプである事くらいだ。そういえば、暴力事件絡みでチャンプになった直後に消えた幻の空手家がいるんだったか。ライのおぼろげな記憶はそれぐらいだ。
――なんだ?
ライがその不可解さに眉をしかめる前にその対戦相手が動いた。
固く握られた正拳突きがジェネヴァに迫る。そのまま顔面にその拳がめり込めば、いくらジェネヴァとてただでは済まないだろう。――だと言うのに、当のジェネヴァはただ茫然と棒立ちしたままだ。まさか、そのまま喰らうつもりか?
「ジェネヴァ!!」
『ッ!?』
思わず上げてしまったライの焦りの声にジェネヴァが正気を戻したように動いた。相手の拳を紙一重で避けたジェネヴァは距離をとるようだった。
……何がジェネヴァの動きを鈍らせているかは知らないが、このまま放置しておくのは得策ではないだろう。ライ個人の感情を抜きにしても、あの子どもを死なせるのはあまりに下策だ。何しろ、あの子どものバックにはジンの影がちらつく。まあ今更、常に死を纏うあの男が子ども一人の命にどうこう言うとは思えないが。そんな人並みの情があるようには到底思えない。
こういうジェネヴァの不安定さが子どもらしい年相応さで、ライの心を複雑な苦みが過った。どうせなら躊躇しないくらいの強さと悪辣さがあればまた話が違っただろうに、と。 舌打ちする時間も惜しい。仕方ない、とライは今だけ腹を括ることにした。手元を見ればUSBメモリへのコピーが終わったところだ。ノートパソコンのキーボードに指を滑らせ、仲間に
ならばすぐにこの部屋を出て、行動しなければならない。ジェネヴァならば心配要らないだろう、と冷静に思う自分に心の何処かが別の警鐘を鳴らしていた。ライは、そういう己の警鐘を信じる事にしていた。
※※
最短距離を心掛け、急いで試合会場に足を踏み入れた。ライが辿り着いた時には決勝戦の決着がついていた。左耳から聞こえるジェネヴァの決勝の様子は大分手こずっていたようだがなんとか辛勝出来たようだ。このまま優勝賞品を授与できれば任務の目的の八割が終われる。檻に囲われたリングで正に優勝賞品の授与を審判の男が執り行おうとしていた。……己の杞憂か、とライが肩の力を抜こうとした時――。
きらり、とジェネヴァを狙う凶弾が光を弾いた。あの弾丸の角度、監視カメラか……!
『ッ』
「チッ!! オイ、大丈夫かッ」
弾丸はジェネヴァの肩を掠ったらしい。短く息を呑む音がライの左耳のイヤーカフから聞こえる。警戒を怠った自分に舌打ちをした後ジェネヴァに安否を確認する。
ライの左耳に返ってきたのは掠れきった吐息だ。ほんの微かに笑みを含んだソレにライが目を見開いた。
『――計画の内だろ?』
続いて聞こえた勝気にも聞こえる言葉の意味をライが飲み込む前に、ジェネヴァが懐から煙幕弾を発動させる。途端に会場がパニックを起こし、我先にと客たちが出口に押し寄せる。それと同時に黒幕も慌てたのか、ジェネヴァがいる檻の中のリングに向けて銃弾が乱射される。が、すぐにジェネヴァの反撃が飛んできた。すなわち、拳銃による狙撃。ジェネヴァの狙撃は正確に監視カメラを撃ち抜いていく。どうやら相手の目を先に潰していく作戦らしい。――ここでライに求められるのは……。
ライの頭はすぐに答えを弾き出す。ジェネヴァがいるのは鍵の掛かった檻の中だ。しかも広さは狭く、あれではジェネヴァでもすぐに命がなくなる。しかも南京錠は内側からの破壊は難しい。檻が邪魔をしているからだ。だからここで求められるのはその解錠。
ライはすぐに懐から拳銃を取り出し、五発撃ち抜く。その全てが檻を施錠する南京錠へぶち当たり、破壊することが出来た。事前にこの会場の設計図を知っていたから撃ち抜けたがこの煙渦巻く不透明さでは事前知識なしでは一発たりとも当たらなかったに違いない。
カシャン、と金属が地面に落ちる音が小さく響く。
『流石、ライ』
ジェネヴァはすぐさま檻から身体を滑り込ませるようにして出てきた。
ライのすぐ横を風のように通り過ぎる間際。
「……これからどうするつもりだ?」
「俺に任せて」
ライの問いに言葉少なに答え、あっという間にジェネヴァの背が消えていった。……正直に言おう、凄く不安だ。主に相手の命的な意味で。
とそこでライの手元のノートパソコンの小さな通知音が聞こえた。この煙い状況でノートパソコンの画面はとても読みづらいが、仕方ない。次への改善点が決まったな、とライは内心ため息を吐いた。ノートパソコンから見えるFBIの仲間からの言葉は、ここに現地警察が踏み入る事が書かれていた。すなわち速やかに退散しないと逮捕されるぞ、と。ライの事はギリギリ庇えるが、恐らくジェネヴァは捕まればそのまま檻の中だろう。……ふむ。
更にジェネヴァが監視カメラを破壊しながら進んでいる事も情報として伝えられる。その為、姿は確認できていないとも。――どちらが脳筋なんだか。
仲間から送られてきた今のジェネヴァの位置予測へとライは急ぐことにした。
と言っても、同じ地下五階。同じフロアだ。すぐに追いつくだろう。そんなライの思いも裏腹に足止めと言う名の警備員共がライの行く手を邪魔をする。それを苛立たしく排除しながら急ぐ。一人一人の実力は大したことがないが、如何せん数が多い。
結局ジェネヴァに追いつくまでに十分も掛かってしまった。現地警察はもう建物内に入った頃だろう。後十五分もしない内にここにも足を踏み入れる。
ジェネヴァがいるだろう、室内にライが足を踏み入れる。
「あれ?――早かったね、ライ」
ライにそう言って歩み寄るジェネヴァの手には優勝賞品の純金の像が握られていた。そしてよく見れば、その足元に無造作に転がるのは黒幕の男だった。無様に床に転がっていなければ品の良い老紳士、といった容姿の男だ。……今は見る影もないが。
「……ああ。ジェネヴァ、そいつはどうした?」
ライが“そいつ”と指したのは黒幕の老人だ。――死んではいないよな?と言外に含ませてのライの確認にジェネヴァが小首を傾げた。
「うん?ああ、コイツ?――ちょっとお仕置きしたけど、生きているよ」
「そうか」
果たしてジェネヴァの言う“お仕置き”とライの思うその定義と同じかは疑問が残るがここで掘り返しても意味がない。まあこの老人に散々苦しめられた人々がいることを思えば、これくらいは当然だろう。むしろ命があるだけ幸運だ。
「ん。それで、アンタがここに来たって事は外が騒がしいのと関係あるの?」
「…………これだけの騒ぎを起こしたんだ。警察が踏み入ってもおかしくないだろ。さっさとずらかるぞ」
「ん」
マイペースなジェネヴァにライは君な、と少し小言を言いたくなったが寸前で飲み込む。さっさとこの任務を終わりにしたかったからだ。
部屋の外はバタバタと騒がしい足音に満たされている。途切れ途切れに警察がどうの、と伝え聞く事が出来た。どこまで警察がこの施設を攻略できたかは知らないが、この騒乱に紛れてさっさとおさらばするに限る。ライのそんな提案はジェネヴァの頷きによって、決定された。
※
いくら騒動で混乱していても警察の目を掻い潜るのは容易ではなかった。ジェネヴァの機転とライの仲間の援護がなければ、今でもあの違法カジノの建物の中で立ち往生していたに違いない。
違法カジノの上階、ホテルの五階から他の建物へとワイヤーを使って渡り、離れて今ようやっと仕事が終わった実感が湧く。ジェネヴァのあのローブの中はどうなっているのか。拳銃二丁にこのワイヤー、それに煙幕弾。あの様子ではまだ隠し持っているだろう。
六つの建物をワイヤーで渡り歩くというアクティブさに流石のライも疲れを感じざるをえない。懐から煙草を取り出して火をつける。
腕時計の時刻は午前四時。空はまだ夜空の様相だが、後少しで朝日がこのラスベガスを照らすだろう。この騒がしい一夜も終わる。
ふぅ、と一息を吐くライを横目にジェネヴァは建物の屋上、コンクリートに座り込む。つかれた、と小さくこぼす姿は傍から見てもぐったりとしてしまっている。まあ、ジェネヴァはライよりも今回動いたのだから、その疲れも当然だ。
「それって美味しいの?」
ぽつり、と呟くように零れたジェネヴァの疑問をライは頭の中で反芻する。おいしい?何が、とまで考えて己が手の中の煙草に辿り着く。ああ、煙草が美味いかどうかか。
吸った事がない子どもからすればさぞ疑問だろうな、とライは少し愉快な気持ちになった。
「君にはまだ早いだろう。これでも食っていろ」
確かこの辺にあったか、とライは微かな笑いと共に胸ポケットに入れておいた飴玉を取り出し、ジェネヴァに投げてよこす。
「なにこれ」
ジェネヴァはキャッチしたものを怪訝そうに見入る。ちなみに味はリンゴ味だ。ジェネヴァくらいの年頃はこれくらいがちょうどいい。
「見ればわかるだろう?甘くて美味しいかもしれないじゃないか」
「…………もしかしなくてもコレ、アンタの恋人から貰ったものじゃないの?」
ライの言葉にジェネヴァは沈黙の後、呆れたようにぼやいた。……存外鋭いな、とジェネヴァの観察眼に感心する。
「まあな」
「しかも、煙草ばかりで身体に悪いからとか言われて」
「……」
「――図星か」
まるでライと恋人とのやり取りを見ていたかのように的確なジェネヴァの言葉にライは沈黙を選ぶ。じとり、としたジェネヴァの視線が痛い。恐らく、明美の厚意による飴を譲るなんて、という軽蔑だ。意外とジェネヴァはライの恋人である明美の肩を持つ。それが親愛か、それとも慕情によるものか、ライには判断がつかないが。
ここでもう少し踏み込むべきではないか。ライの脳裏にそんな案が浮かぶ。ここで燻ってもいい事はないし、はっきりさせた方がこちらとしても対策が立てやすい。例え誤魔化されてもそれはそれでジェネヴァの真意が少しは分かるだろう。
「……君はやけに明美の肩を持つんだな」
「?」
「君と明美に接点はないはずだが……」
ライの言葉にきょとん、と首を傾げたジェネヴァだが、ここまで言えば流石に悟ったらしい。なるほど、と呟き少し思案する。
「アンタ、意外とお姉さんの事本気なんだな。――と、そこで怒るなよ?分かるだろ、こんな組織に身を置いていれば本気の惚れた腫れたの話は珍しいって」
そこで言葉を切ったジェネヴァは、その軽口を潜め、真剣味を帯びさせた。声は更に淡々と、冷たい響きへと変わった。
「アンタには前に言ったか。――表側と裏側。その領域の話。あのお姉さんは表側の人間でしょう?なら、超えないようにしないと」
線引きされた領域を、そうジェネヴァは抽象的な答えを出した。ライは黙って視線で続きを促す。それだけじゃないだろう?と。
ジェネヴァはため息一つして、渋々口を開いた。
「仕方ないな。じゃあ、もう一つヒント。……俺さ、出来れば
あの人“達”?複数形のソレにライは怪訝さに眉を少しひそめる。ジェネヴァは少し迷ってから、言葉を連ねる。
「手を汚さず、罪に怯えず、命の危機に焦燥を抱くこともない。出来れば、そんな日常が望ましいでしょ。あの人達は優しすぎるから」
どこか遠くを見るような目で達観したように静かに言葉を重ねるジェネヴァは大人びている。それは人生の辛酸を舐めて生きている者の顔だった。
「ま。今の俺じゃ残念ながらそこまでは難しいんだけどさ」
パッと声の調子を戻したジェネヴァが切り替えるように話を終わらせた。ジェネヴァの言うあの人達、とは誰を指すのか。一人は明美で間違いない。だがもう一人は?……二人を繋ぎそうな人物。という事は明美の身近な誰かだ。そういえば、明美の妹がジェネヴァと同じような年ごろじゃなかったか。そこまで考えたライはまさか、とジェネヴァに目を向ける。
「お前……」
言葉を失うライにジェネヴァが人差し指を自身の口に当て、シィと黙るようにジェスチャーをする。
「――そうやって暴こうとするの、アンタの悪い癖だぜ?秘密は秘密のままの方が綺麗だって決まっているんだ」
「……生意気な餓鬼だな、君は」
こみ上げる苦いものを噛み潰す気分でライがぼやけばジェネヴァがふふん、と鼻を鳴らした。
「上等な部類でしょ?」
「フッ、よく言う」
淡々としながらも得意げなジェネヴァにライは乱暴に頭を撫でた。この子どもにはまだ子どもで居てもらいたいものだ。
「そういえば、誤解は解けた?お兄さん」
そう悪戯染みた問いをするジェネヴァにライは頭を抱えた。それはライの嫉妬染みた誤解を正しく理解しているという事であり、軽く死にたくなってくる。
「……忘れろ」
「ん。ま、お菓子一つで手をうってあげるよ」
もうライがジェネヴァに嫉妬することはないだろう。ジェネヴァが明美に抱く情は正しく親愛である事を十二分に理解したからだ。
とりあえず、日本に帰る前に本場アメリカのカラフルで蛍光色なお菓子をジェネヴァに奢ってやる事をライは決意した。嫌がらせ?大人げない?ライはジェネヴァの要求に手早く応えているに過ぎない。
ひとまずはこの厄介な組織の幹部は様子見だ。ライはそう結論を先送りにすることに決めた。
ここまでお疲れさまでした。
ライさんも人間なんだから、迷いもするし、葛藤もしてほしい。という作者の願望の末の話でした。原作ではあっさりと手を離さざる負えないライさんでしたが、まだ未練があるところを見るとこれくらいはきちんと恋していたんじゃないかな、と。
ちなみにライさんはジェネヴァ君の事を「状況次第では強大な敵になる人間」だという認識です。ただ、そこに子どもらしさを知ってしまったので大変複雑な気分です。年の近い妹を持っているので尚更。けれど、自分を過信しないので、己では救えないだろうなとも思っています。
この認識が次回でどうなってくるんだろうな、と作者今からドキドキです。バーボンさんとスコッチさんもどうなるか、予想していただければと思います。
……今月中にあと一、二話更新出来たら、いいな。
ではでは。