かつて英雄が切り拓いたとされるラフエル地方。
 その片隅で生きる少女が向き合う、たったひとしずくの物語。

 あなたと出会う前日譚。

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ここはモタナタウン。
あなたと出会う前日譚。


マリン・ブルー

 水の音がする、感触がある。

 

 手を包み込んでいる。自分の温度が移ったかと思えば、波のゆらめきに流されてまた新しい水が触れる。温度はどこかへ行ってしまったのだと思った。この海のどこかに混じって、澄んだ青の一部になる。

 

 彼女が目を開くと、海水に浸したままの右手が見えた。やっぱり水は綺麗だ。綺麗な水が好きだ。

 

 

 熱砂についたままの膝を払って、リエンは立ち上がる。目の前にはモタナタウンが誇る青い海が、どこまでも広がっていた。徐々に感覚が海から帰ってくるのを感じる。風は日差しに熱せられてぬるかったし、背後からはたくさんの人の話し声や笑い声が聞こえる。

 リエンがいるのは砂浜だった。ここモタナは海にぴったりと寄り添うような形をしていて、町の東側には海水浴にぴったりな砂浜があった。ここでは色んな人が白い砂に足跡を残し、青い海で自由に泳ぐのだ。

 

「こら、リエン。またぼうっとしているな」

「……パパ」

「さっきから見ていたんだぞ、今日は天気がいいから砂浜の人も多いだろう。忙しいか?」

「大丈夫だよ。これでも結構、この仕事には慣れてるんだからね」

 

 今はちょっと休憩してただけだよと口を尖らせる。いつの間にか隣に立っていた彼女の父親は、そんな娘の言葉に大きな身体を震わせて笑った。

「すっかり一丁前な口をきくようになったんだなあ、それくらいがいいさ。ただまあ、慢心は良くないが。人より何倍も目を開いて、何倍も気を付けなきゃいけないんだぞ。誰かの安全を守るってのは、その人が慢心した分も請け負うってことなんだ」

「分かってるよパパ、もう何度も聞いたもん」

「何度だって言うさ。そして、お前も誰かに何度だって注意しなさい。マリンレスキューってのはそういう仕事だ」

 

 分かったよ、ともう一度頷くと、彼女はぴょんと跳ねて父親から距離を取った。

 

 

「でもね、パパ。レスキューもそうだけど、歴史上の英雄も同じように慢心なんてしないんだよ。他の人より何倍も注意して、隙を生まないんだ。だから英雄は英雄なんだよ」

 

 

 娘が無類の歴史好きだと知っている父親は、そうらしいなと曖昧に返す。リエンは小さい頃からそういった実在したのであろう正義の人物を敬愛していたし、それが少なからず影響して、彼女が父親の手伝いをするようになったのだろうということも知っていた。

 

「私はそういう正しい人がね、たまらなくかっこいいなって思うのよ。だから少し真似をして、そういう人の助けになりたいの」

 

 

 そう言ってふわりと笑うと、父親の言葉を待たずに走り出した。足の速いリエンはみるみる遠ざかっていく。砂に足を取られることも無く、あっという間に浜から姿を消してしまった。

 残された父親は呆気に取られて、やがて肩を竦めて歩き出した。たくさんの仕事が彼を待っているのだ。

 

 憧れることは良い動機になる。恐らくそれが彼女をマリンレスキューの手伝いに結びつけた。しかし父親は、明るくて掴み所のない娘がちょっとだけ気がかりなのだった。

 

「どうしてもあの子は、英雄とやらに成ろうとしないんだなあ……」

 なんて苦笑する。そう、彼女は自分を憧れの対象に近づけようとしても、決して同じ存在になろうとはしないのだ。

 意識が高いんだか低いんだか、と呟いて、父親はなんだかおかしくなった。そんな不思議なところが、堪らなくリエンらしいのだ。

 

 

 

 

 〇 〇 〇 〇 〇

 

 

 

 

 人とポケモンが入り混じって、砂浜で遊んでいる。小さな男の子がふらふらと海へ入って、少し深いところへ向かっていた。

 

 見回りをしていたリエンはふと足を止めて、男の子の視線の先に目を凝らす。波の間に、ちらりと赤いものが見えた気がした。

 

「そこの子! ちょっと待って!」

 

 

 よく通る声で叫ぶと、素早く駆け寄って海に入った。男の子に手を伸ばして、陸の方へと誘導する。

「はい、お姉ちゃんの腕を掴んでね。ダメダメ、あれは触っちゃダメなやつ」

 ゆらゆらと水面で赤いものが浮いたり沈んだりを繰り返している。どこからどう見てもメノクラゲだ。

 

「でもお姉ちゃん、あれ綺麗だよ」

「うーんそうかな? 私はあんまり綺麗だと思わないかなー、赤より海の青の方がずっと綺麗だよ。あと、あれはポケモンだから近づいちゃダメ。怪我しちゃうんだからね?」

 

 海じゃよく目立つ赤い目玉のような部位は大人にとっては危険信号の代わりになるが、幼い子供は寧ろ引き寄せられてしまう。まんまと彼らの誘蛾灯に引っかかる、というわけだ。

 

「いい? あのポケモンに刺されたらお注射よりめちゃくちゃ痛いんだからね」

「……そ、そうなの?」

「うん。だからお姉ちゃん達もあのポケモンが来ないように気を付けてるんだけど、もし居たら絶対触ったり近付いたりしないでね。たまに砂浜に打ち上げられたりしてるから、そういうのも触っちゃダメよ」

 カクカクと頷いた男の子が、海を漂う赤い目を恐ろしいものでも見るかのように睨む。多分これは、注射器を見る目だ。

 

「お姉ちゃん、レスキューの人?」

「うん、レスキューの人のお手伝いさんかな。どうして?」

 

 男の子を安全な砂浜に戻すと、リエンは周囲を見回した。この子の親は近くにいるだろうか?

 

「それならさっきね、具合悪そうな人が居たよ。向こうの木の下に居たんだけど、なんだかお腹が痛そうだったんだ」

 男の子が少し離れたところの木陰を指さす。木が密集して生えているところには、きつい日差しを避けて休む人が多い。立っている場所からはそれらしき人は見えないが……木陰のエリアは奥行きがあるから、見つかりにくいところで苦しんでいれば誰かに助けてもらえることも少なかろう。

 

「偉いね……! お姉ちゃん助かったよ、ありがとう。早速行ってみるけど、君はお父さんやお母さんのところに一人で戻れる? どこにいるかな?」

「海の家にいるよ。僕、つまんなくて勝手に出てきちゃったから」

「それじゃ心配してるね、真っ直ぐ戻ってあげるんだよ」

 男の子の背を軽く押して送り出す。かけた言葉通り真っ直ぐに海の家へ走っていくのを見届けると、リエンはちらりと海に視線を戻した。

 

 メノクラゲの姿は無い。本当なら本部に連絡を入れて、ポケモンで威嚇をして沖へ遠ざけるべきなのだろうが、彼女はそうしなかった。

 木の密集したエリアへ足を向ける。男の子に頼まれた人助けをしなければならないのだから。

 のんびり休む人やポケモンから距離を取って、丁寧に木陰を確認していく。なんと言ってもモタナタウンの楽しみは海なのだから、休むにしたって綺麗な海が見えるところを選ぶだろうが、結局それらしき人を見つけたのは景色なんて全く見えない、木と茂みに囲まれた場所だった。

 

 男性が倒れている。片手で腹や胸のあたりを擦りながら、もう片手で目を隠してぐったりとしているのだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

 返事はない。

 

「あの……具合が悪いんでしょう? 手当てさせてください。起きれますか?」

 

 うう、と小さな呻き声を漏らすだけで応えない男性に、迷いなく手を伸ばした。喋れるならどこがどう悪いのか聞き出して処置をする、答えられないなら引き摺ってでも本部に連れて行こうというのだ。

 ここは人の目の届かない茂み。病人に対してなんて遠慮のない! なんて、彼女を叱る人はいないわけで。

 

「大丈夫ですか? 起きれます? 手を貸しますね」

 と、半ば強引に肩に触れようとしたその時だった。

 

 

 がし、と音が鳴るくらいの速さで、強さで男の手がリエンの手首を掴んだ。

 

 

「……食い物は?」

「あ、あの、痛いんですけど。大丈夫なんですか?」

「食い物は?」

「持ってるはずないです」

「じゃあ、金は?」

 

 手首に跡が付きそうだなあとズレたことを考えながら、リエンは首を振る。

 

「ならもういい。もういい、邪魔だ」

「具合は? 見るからに悪そうですけど」

「いや悪くないね。金がないなら用もない」

「ふぅん。そうですか。あんまり助けとか要らなそうですね」

 

 なら良かったです、と笑う。

 

「じゃ、元気そうにしてください。さっき男の子があなたを心配していたので、その子のために」

「失せろ」

「はあい」

 

 低く唸るような声に気圧される。

 

 ひょいひょいと跳ねるようにして距離を取ると、リエンは足早に立ち去る。そもそも大した使命感も感じていなかったらしい内容で、断られてまで食い下がることは少ない。もっとも、彼女にとって大事なのは男の子の頼みの方で、金と食い物の為に自分の手首を掴むような男には関心がないらしかった。

 弱い人間、ということには代わりなかろうが。

 しかしこの少女は、弱い人間を重要視しない。彼女が求めるのは強い人間だ。正義の人だ。

 

 

 男のことなどすっかり思考から外してしまった彼女は、その興味を専ら、紅く手形のついた手首に注いだ。

 

「ねえ、これすぐ消えると思う? パパに見つかったら問い質される気がするんだけど」

 リエンが放った独り言に応える人は、もちろん居ない。

「んんー、そうだよね。ちょっと消えるまで休んでようかなあ」

 居ない……はずなのだが。

 

「すぐ消えると思うんだけどね。なんか場所によっては鬱血してるんだけど、困っちゃうなあ」

「……あんた、誰と話してんの」

 

 

 ぶつぶつ独りで話す少女は、突然声をかけられて飛び上がった。

「うわっ……わわ、びっくりしたぁ。何か御用ですか?」

「いや、用はあるんだけど、それより独り言が気になって」

 

 不審そうに眉を顰めながら、ひょろっと背の高い男が立っていた。背中に大きなリュックを背負って、いかにも旅のトレーナーという出で立ちである。

 何か甲羅のようなものを抱えているのだが、一体なんだろう。

 

「独り言じゃないですよ、気にしないで。それより何か用があるんでしょう?」

「気になるんだけど……まあいいか。それよりさ、あんたレスキューの人だろ? その服装見て一発で分かったよ。茂みにどんどん入っていくから追いかけるの苦労したんだ、うちのポケモンを看てやってくんない?」

「ポケモン?」

 

 旅人が抱えている甲羅に視線を落とす。

「これ、俺の相棒。ゼニガメなんだけどさぁ、具合が悪いのかずっとこの調子なんだ。ポケモンセンターにも寄ったんだけど、あそこ酷くごった返すなあ。何であんなに混んでるんだ?」

「丁度コイキングの群れが回遊してくる季節だからですよ。お天気続きの季節でもあるし、観光客で賑わうんです。ゼニガメ、怪我とかしてます?」

「してないと思うんだけど、ご覧の通り甲羅の中だから……ていうかコイキングって、回遊すんの……?」

 

 こんこん、と軽く甲羅を叩いてみると、中からくぐもった鳴き声が聞こえる。随分と弱々しいが、意識はあるようだ。

 

「ちょっと休ませましょうか。付いてきてください」

「ああ、悪いねぇ。レスキューの本部とやらに行くのかい」

 

 ちら、とリエンが背後の茂みに目を走らせる。目の前の旅人に視線を戻して、曖昧に微笑んだ。

「……いえ、ここからじゃ本部は遠いですし、すぐそこにある小屋に行きましょ。私が持ち込んだ救急用品はたんまりありますから、一通りの治療は出来ますよ」

 とにかく休ませてあげるのが先です、と元気よく言うと、リエンは旅人を引っ張るようにして歩き出した。

 

 

 

 

 〇 〇 〇 〇 〇

 

 

 

 

「生活感のある小屋だな」

「実を言うと、生活してるんですよねーこれが!」

「あ、やっぱそうなのね……」

 

 居心地悪そうに呟いた旅人は、改めて周囲を見回した。木の生い茂るエリアからそう離れていないところ建っていたぼろい小屋は、僅かに土が盛られた、丘と呼ぶにはあまりに粗末な盛り上がりの上にあった。元はマリンレスキューの物置として使っていたらしいが、本部から遠いため放置されていた。

 と言っても多少は見晴らしが良いため、窓からは砂浜を見渡すことが出来た。その向こうにはレスキュー本部の立派な建物が見える。目の良いリエンからは、本部前に誰が立っているのかも判別できるらしい。

 

 小さなベッドに、丸い一人用のテーブルがひとつ、椅子がひとつ。壁際には粗末な文机が置いてあって、そこにも小さな椅子が置かれている。部屋の隅には乱雑に本が積まれていたり、レスキューに使うのだろうか、専門的な道具から釣具までごちゃごちゃに立て掛けてあったりと、散らかってはいないが片付いてもいない環境だ。

 

 文机の隅に置かれていた簡易コンロに火をつけて、リエンは水を沸かしている。ゼニガメはベッドの上に転がったまま微動だにしない。

 

「取り敢えず元気が出るお茶を淹れます。待ってて下さいね」

「ああ……すまないね。っていうかここに住んでるんなら、尚更お邪魔しちゃいけない気がするんだけど。やっぱり本部に案内してくれない?」

「そういうの気にしないので私は大丈夫です。しばらく休んで回復しなかったら、もちろん本部に案内しますね。昼過ぎのこの時間が一番どこも混んでいるんで、行くにしても待った方がよいのです!」

 それに、と視線を窓の外へ向ける。

「ここからゼニガメを抱えて本部まで歩くの、結構疲れると思いますよ。暑いし、ポケモン共々疲れちゃいます」

「気遣いすまないね」

「いーえ」

 にこにこと笑っているリエンを見て、毒気を抜かれたように旅人も笑った。

 

 空調なんてある訳が無い掘っ建て小屋だが、不思議と空気はひんやりと冷たい。

 

「あんた、本当にここに住んでるのかい」

 

 どうやら話好きな旅人らしく、ゼニガメの甲羅を撫でながら世間話を始めた。

「生活はしてるけど住んではいないんです。街の方に家があって、夜はちゃんと帰ってますよ」

 昼間はレスキューの仕事があるのでここに駐在です、と笑う。

「へぇ……レスキューねぇ」

「正式なメンバーじゃないんですけどね。勝手に手伝いをしてるだけ」

「じゃあボランティアってわけかい。お給料はないんだね」

 

 火にかけたヤカンから湯気が立ち上り始めた。

 おや、詳しいんですねとリエンが呟く。

 

「レスキュー言えども慈善団体じゃなかろうが。モタナタウンのれっきとした組織だろ。公務員だ、公務員」

「旅人さん詳しい! お陰で本部の建物は立派ですよ」

「でも、お嬢ちゃんはお手伝いなわけだ」

 

 カチ、と火を止めた。リエンはふわふわと消えていく湯気を眺めながら、そういう事なのですと頷いた。

 

「正式に働いちゃったら、きっと辞められない。私はいつか旅に出たいんですよ。旅人さんみたいに、街から街へ冒険して歩きたいんです。色んなものを見たいし色んな人に出会いたい。その為には働けない」

「しっかりしてそうだけどね、案外旅ってのは危険だよ。俺だってゼニガメがいるから何とかなってるもんで」

「あら、それなら私だって何とかなるかも。ミズ、お茶の葉取って」

 

 ミズ? と首を傾げる旅人のすぐ後ろに、ぬうっと黒い影がさした。

 思わず身体を震わせて驚いた旅人の横を音もなくすり抜けて、青色のプルリルが棚へと向かう。いくつかの瓶を手(らしきもの)で掴むと、リエンの元へふわりと移動する。

 ありがと、とにこにこ笑って瓶を受け取る少女とは対照的に、プルリルは何も言わない。鳴かず、表情も変えず、ただぼうっとリエンを見ている。

 

「は? こわ……なに、どこにいた?」

「帰ってきた時にはもう部屋に居ましたよ。隅の方にいたんだよねー、ミズ」

 

 ミズ、と呼ばれたプルリルは、その問いかけにも微動だにしない。

 

「旅人さんに出会った時から近くに居たんですよ? ただミズはちょっぴりシャイだから、感情表現が苦手なんです。それで子供とかに怖がられたりするから、私と少し離れたところを付いてきてくれるの」

 

 二人が小屋に付いたとき、プルリルは開けっ放しの窓から先に部屋に入って、お気に入りの隅っこに落ち着いていたということらしい。

「ミズと話していたのを独り言だなんて勘違いしたでしょう?」

「あの時はこいつと意思疎通を……いや分かるわけないっていうか、ちょっと怖いというか」

「いい子なのにねー」

 

 透明なポットにお茶の葉とハーブのようなものを放り込む。もうひとつ瓶を開けると、中に入っている青色の干からびた何かを取り出して、それも一緒にポットへ入れた。すぐさまお湯を注ぎ込む。

 見たことのない何かを放り込んだ、その瞬間を目撃してしまった旅人はほんの少しだけ青ざめた。

 

 少し時間を置いて、リエンは透明な耐熱グラスにお茶を注ぐ。海の底の水を写し取ったような、透き通るブルーの液体がグラスを満たした。

 

「はいどうぞ。まだ熱いので、ゼニガメには少し冷ましてから飲ませてあげた方がいいです」

「ありがとう……綺麗な色だな」

「特製マリンティーです。さっき入れた青いものは、オレンの実の皮を乾燥させたものですよ。栄養も凝縮されてて元気が出ます。その時々で配合は適当なので、全く同じ味になるのは数年後かも」

「そりゃ貴重だ」

 

 適当なくらいがいいですよねと笑って、リエンは小さな椅子に腰掛けた。自分のお茶を文机に置くと、それに顔を近づけるようにしてプルリルが浮遊する。

 ゼニガメの分のお茶に息を吹きかけながら、旅人は僅かに顔を顰めた。

「それにしても、この海にはプルリルが生息してるのか。知らなかった」

「砂浜の辺りには全然いないので安心してください。モタナを出て少し東に進んだところに洞窟があるんですけど、その辺りの海で捕まえたんです。小さい頃に出会ってからずっと相棒なんですよ」

「ははあ……言っちゃ悪いが、なんか変なプルリルだな」

「シャイなんですよ」

 そうなんかねえとお茶を濁す。シャイとかいう感情を表す言葉がそもそも似合わないのだが、この少女にとっては大した問題でもないらしい。

 

 少し冷めたお茶を差し出すと、甲羅からゼニガメが顔を覗かせた。ゆっくり手足を伸ばしてグラスを受け取る。

 ちびちびとお茶を舐めるのを見て、旅人はほっと息をついた。

 

「なんだ、案外元気じゃないか。心配させるなよ」

「暑さにやられたのかも知れないですね。長い間砂浜をうろうろしてると、ゼニガメみたいな水タイプのポケモンは参っちゃいますよ? たまに海に入れて熱を逃がしてあげないと」

「ご忠告、痛み入るよ」

 

 へらへらと笑った旅人に笑い返して、リエンはちらりと視線を外へやる。代わり映えのない砂浜の風景だった。代わり映えのない日常だった。

 このままここで死んでいくのかな、とも思う。無感情なプルリルが、海の色をしたお茶に口をつけている。

 

 海を離れる理由が無い。こうして人を助けるのは英雄に近づいた気がして楽しい。旅には出たいけれど、恐らく父親は留まることを望んでいるだろう。リエンがモタナを出ていくことを望んでいるのは、リエン一人だけなのだ。

 目の前にいる旅人は自由なのだろう。そんな人を、彼女は助けた。

 

 

 

 

 

 〇 〇 〇 〇 〇

 

 

 

 

 

 ゼニガメはすっかり元気になったけれど、旅人は本部へ行くという。折角だし色々見て回りたいらしい。

「じゃあ案内しましょうか?」

「いや、いいよ。あんたはもう少しここで休むといい」

「ゼニガメならまだしも、どうして私が?」

 旅人の視線がリエンの手首へ落とされる。

 

「その手、父親に見られたらまずいんだろう。だいぶ薄くなったけどまだ紅い」

 

 そうでした、と笑った。案外心配性な父親に、人の手形のついた手首を見せるわけにはいかない。夜までには治るだろうか。

 

「もう夕方だ。砂浜の人もそろそろ帰って、レスキューの仕事も無くなるだろ。休んでたって罰は当たらんよ。本部の方もかなり空くだろうし俺にとっても丁度いい」

「いつもの騒がしい本部を見学したいなら明日にした方がいいですよ。日暮れ過ぎると一気に人が減るので」

「俺は騒がしいところが苦手でね」

 

 見送りを断って、旅人は足早に小屋を出ていった。休ませる為とはいえ、かなり足止めをしてしまったかもしれないと反省する。つい、旅の話をねだってしまったのだ。

 

 静かになった小屋の中、リエンは微睡みはじめる。眠りに落ちかける彼女の隣で、ふわり、ふわりとプルリルが揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 すっかり日の沈んだ頃。

 

 

 リエンは悲鳴で目を覚ました。

 

 耳をつんざくような声に驚いたリエンは、開けっ放しの窓に駆け寄って暗くなった砂浜に目を凝らす。

 

 本部にほど近いところに人影があった。男の声も聞こえる。

 

「ミズ、見える?」

 傍らにプルリルを呼んだリエンは、窓枠に腹を押し付けるようにして身を乗り出した。

 

 不審に思って本部から出てきたのは、夜間駐在を担当する女性隊員だろう。彼女に向かって砂浜に立つ男が喚き散らすと、傍らにいた鳥のようなポケモンが隊員に襲いかかった。堪らず倒れた彼女に覆いかぶさると、強引に砂浜に引きずり下ろす。

 

「あれは……エアームド?」

 刃物のような翼に捕縛され、身動きが取れない女性を人質にしながら、男が本部へ近づいていく。

 

 別の方向から、本部の窓に向かって凄まじい勢いで水が放たれた。ハイドロポンプだ。

 窓をぶち抜いて襲ったのはゼニガメである。

 

「ゼニガメ……」

 間違いない。

 

 そしてエアームドを従えた男にも見覚えがある。茂みに倒れていた、リエンの手首に跡をつけた男だ。

 

 

 マリンレスキューはモタナタウンから多くの金銭的な援助を受けて成り立っている。資金は潤沢であるし、本部になら、多少は金に替えられるようなものも保管されていよう。何より、マニアにはマリンレスキューの備品が高く売れると聞く。

 元から襲撃するつもりだったのだ。

 やはり、あの男と旅人は知り合いだったのだ。

 

 そうであろうかと考えを及ばせていながら、リエンは目先の救助を選んだ。助けを求めてきた旅人に応えて、ゼニガメを休ませることを選んだのだ。

 メノクラゲの存在を本部に報告するより、男の子の頼みを優先して茂みへ向かった、あの時と同じように。

 

 

 結果がこれだ。襲われた女性の悲鳴が聞こえる。エアームドは彼女を逃がさないよう捉えながら、本部へ向かう男の傍らを離れない。この声は街まで届いていないだろう。

 

 

 

 気付いているのは、きっと自分しかいない。

 

 

「ミズ、今から言うことをよく聞いて。私では音もなく本部に近寄れないから、あなたに頼むよ」

 

 男の耳は誤魔化せても、エアームドは必ず足音に気付くだろう。しかしプルリルなら問題ない。

 

 

「後ろからそっと彼らに近づいて、絶対に気付かれないように。そうして……」

 

 窓の外の暗闇に目を向ける。そこまでは必ず成功する。

 

 

「そうして、エアームドにハイドロポンプ。躊躇わずに吹き飛ばして。女性に当たるかも知れないけど、仕方ない」

 

 背後から打ち込むのだから、運が良ければ女性も助かる可能性がある。

 今やるべき事は、彼らの侵攻を止めること。それならまずはエアームドにダメージを与えて、トレーナーである男から引き剥がさなくてはならない。

 少々の犠牲くらい、目を瞑らなければ。

 命は奪ってしまったその時にまた考えよう。英雄は常に偉大で、注意深く、大胆なのだから。

 

「思い切り、粉々にする勢いで吹き飛ばして。次に間を置かずトレーナーの男に、しぼりとるこうげき」

 

 ゆらり、とプルリルが揺れる。

「大丈夫。相手は悪人だから、意識を失わない程度でいいと思う。そうしたら不用意に動けないでしょ」

 

 

 頼んだよ、と言った。プルリルは何も言わず、するりと窓から出ていく。迷うこともなく、本部へ。

 リエンもそっと小屋を出て、気づかれないところまで近づいた。プルリルがハイドロポンプを放ったら駆け出して、状況に合わせて指示をするつもりだ。

 

 

 

 彼女は落ち着いている。英雄と似て、迷わない。躊躇わない。

 

 

 暗い海の傍ら。ここでリエンは、何かと決するのだ。



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