嘘の日に嘘のような本当があったお話でもある。
終章を終え、エイプリルフールを終えての僕の気持ちです。
至らなさはありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
――――真っ暗な「無」の中に僕はいたはずだった。
温かさも、冷たさも、地面の感触も空の高さも、自分の姿形すら分からない、そんな場所の中に。ぼんやりと陽炎のようにゆらゆらと佇んでいた。
心に刻み込んだはずの彼と彼女と、その他の共に戦い抜いた仲間達との思い出すらも今は靄がかけられたように、ピースのかけたパズルのように不明瞭に、更に言うなら不足を感じていた。
一度問う。
―僕とは一体?
――名前は、ロマニ・アーキマン。
大丈夫。ココはまだ消えちゃいない。
欠けているパズルの始まりはほとんど忘れてしまったけれど、それでも多少の欠落はあっても、終わりまではまだ覚えている。
―自分が何と戦って。
―自分が誰とともに歩んで。
―自分がどんな結末を迎えて。
駆け抜けた幾年、数えることは叶わなくても、その終わりでどんなモノに助けられたのかを。
自分がいつかこの場所のように何も感じられない、何者でもない「無」になってしまったとしても。
ココだけは、ロマニ・アーキマンとして歩んだ道程だけは忘れたくないと、心の底から思っている。
けれど、それと同等に本当に忘れずに居ることが出来るだろうか、という心を苛む不安も在った。
だから。
この出来事は奇蹟としか思えないものだった。
一度奇蹟を身に受けた自分であっても、やはりこの光景は「奇蹟」以外の何物でもないと思う。
不意に仄かな暖かさを感じて、更には少しの風を感じて、やがて視界が眩しさに包まれる。
ただ、眩しさに包まれる寸前に耳元で、「忘れるな」と念を押すかのように囁かれて、背中を押された気がした。
そして。
―一面の緑と緑と陽の光が差す場所に立っていた。
天上から射し込む太陽の光が身に染みるように暖かい。
時折風に揺られて香る草っ原のにおいが優しい。
最後に自分のいた人の未来を巡る闘争の只中にあった冷たい世界とは、温度も、空気さえも違っていた。
ずっと立ち続けているのも何だかなと思い、地面に腰を下ろす。地面の優しい感触が下半身に伝わる。
それが何とも心地よかった。その心地のよさから思わず、何度か立って、座ってを繰り返す。その度に伝わる感触。
感触が嬉しくて何度も繰り返していると、今度は何処からか甘いにおいがした。
周囲を見渡せば、多彩な花々が緑色の草原を彩っていた。
においの元はあの花か。
花の元へと歩み寄り、そのにおいを深く深く吸い込み、堪能する。
花から香る甘いにおいが際限なく鼻腔を優しく擽っていく。
「いい香りだ……」
匂いを感じることが懐かしくて、つい何度も鼻を鳴らしながらそのにおいを確かめた。
何かを感じることにこんなにも感慨を抱くのは、きっと今までの僕の人生の中で初めてかもしれない。
傍から見れば、今の僕はおかしいと思われるのかもしれない。
でもそれくらい、「何か」が存在する場所にいることがひどく懐かしく、心地よく思えて仕方が無かったのだ。
今度は草原の上に寝転がった。
全身に容赦なくやってくる草の感触が楽しくて何度も寝返りをうつ。
その度にチクチクと刺激が、草の青いにおいがやってくる。
草の匂いも案外捨てたものじゃないなと、この刺激も良いものだと、一人ながらに感心していた。
自分に感触という物を与えてくれる草花が、暖かさを教えてくれる太陽が愛しくて仕方がない。
そうして楽しむことに、感覚に慣れて一段落つくと、天上の太陽が傾き始めていることに気付く。
不意に脳裏に「終わり」の三文字が過ぎる。
―傾き始めた太陽がやがて沈む頃が僕にとっての終わりなんだろうか。
そんな疑問すら浮かんでくる。
もしかしてこの場所は、これから何者でも無くなる自分への天からの最後の手向けなのだろうか、という妄想も浮かび上がる。
けれど、もしも手向けであるのなら、何かが足りないのだ。
一つだけだけれど、最も大事な何かが。
顔に靄のかかった一人の少年を思い浮かべる。そして、少女を、大勢の誰かを思い浮かべた。
―彼の。
―彼女の。
その顔を浮かべた時にこれまでの記憶が克明に眼窩に浮かび上がった。
迸る紅蓮の中を駆けてゆく姿を。
邪悪な龍と半英雄に立ち向かう姿を。
荒れ狂う荒波に、神話の英雄に怖気づかない姿を。
無窮の霧の中でも真っ直ぐに進む姿を。
無数の兵士を仲間と共に打ち倒す姿を。
純粋な心で神と真っ向から言い合う姿を。
人類の悪性である獣を前にして最後まで戦い抜いた姿を。
パートナーが斃れても、一歩も引くことなく諦めなかった姿を。
―――思い出す。
あの姿をもう一度見ておきたかったんだ。
幾度もの試練を乗り越え、やがて人を、世界を、救った仲間を。
より刻んでおきたかったのだ。自分が絶対に忘れないようにと。
この世に「絶対」なんて確かなモノが無いと知っていても、それでも彼等を絶対に忘れない為に。
―――陽が傾いていく。
空が、周囲の物が微かながらも影を落としていく。
胸がすくような清々しい青空から、寂寥を漂わせる茜色へ。草原さえも釣られて朱に染まる。
微かな影が、空の寂寥が、僕の心に「残された時間は僅かだぞ」と、警鐘を静かにで掻き鳴らしているようだ。
嫌な予感がして、最後に自分のやるべき事、彼等を探し始める。
確か、彼の名前は―――――――
「藤丸立香!!」
一人の少年を思い出す。
そして、彼女の名前は――――――
「マシュ・キリエライト!!」
ざっと、音を鳴らして草原を歩く。
歩を進める度に呼んだはずの名前が欠落しそうに、忘れそうになる。
その度に叫んだ。
何度も、何度も、何度も何度も何度も消えそうになる名前を呼び続けた。
記憶を消し飛ばそうとする突風に耐えながらオレンジの草原を歩いた。
けれど、一向に彼等は姿を見せない。
「駄目だったのかな……」
いつからか吐くことをやめた弱音すら口から漏れ出す。
そう、空の上で傾く夕日を見上げながら独りごちた時―――
二人分の草を踏む音が聞こえた。
その音に反応して、思わず涙が出そうになる。
彼等じゃない可能性もあっただろう。それでも僕には彼等が来たという確信があった。
だから、落ち着いて、深呼吸してゆっくりと音の鳴る方を向いた。
奇蹟だと思った。
――ボサボサの黒髪に、白の上衣と、黒のズボン、カルデアの制服を身にまとった一人の少年の背中と、その隣を歩く薄くピンクがかった女性にしてはやや短めの髪で、少年と同じく制服に身を包んだ一人の少女の背中を見つけた。
―――見間違うはずがない。
希い続けた者達の姿だった。
このままでは背中しか見ることが出来ない。
どうにかしてその顔を見ておきたくて、その場を駆け出そうとして、自分の不調に気付く。
――足が、動かない。
まるで杭で地面に打ち止められてしまったかのように一歩も動き出すことができない。
なら、名前を呼ぶ―――
「――――――――――――」
呼び止めようと、名前を呼ぼうにも声が出ない。
喉が潰れてしまったかのように、掠れた絞りカスのような残滓が漏れるだけ。
彼我の距離十数メートル。けれど今はその距離があまりにも遠い。走りさえすれば、数秒でたどり着ける。
なのに、届かない。メートル単位の距離がどこまでも遠いものに感じられる。
そして、自分という存在が彼等にコレ以上届かないことを悟った。
諦観が心を支配しても、悔しさは無かった。
と言うのは嘘になるかもしれない。
そんなの。
――諦められるはずないだろう!?
だから、せめてこの距離をゼロにするほどに、彼等が僕に気付いてくれるように。
彼等の記憶の中の僕自身のように、涙が溢れそうになる渋面を無理くりいつもの笑顔に変えて、手を振った。
―――大きく。強く。
届くように。諦観を振り払うように。
せめてものエールを。これから送るであろう人生への手向けになるように。
水の音が草原に鳴る。頬に伝う暖かい感触に気付いた。
拭っても、拭っても、拭いきれない、止まることのない涙を、遂には拭うことすら忘れ、ずっと、ずっと、届け、届け、と念じながら振り続ける。
たとえ彼等が振り向かないとしても。
わかってはいた。今更僕が彼等に合わせる顔なんて、都合の良いものは無い。僕は結局裏切ったのだ。
最後の最後まで嘘を吐き続け、そして足早にほとんど何も言わず消えてしまった僕は、憎まれ口の一つや二つ叩かれても仕方が無いし、もっとひどい仕打ちを受けても文句は言わない。
――だから、僕はソレを奇蹟だと思った。
歩み続ける最中、その背中は足を止めた。
そして、こちらへ振り向き目が合うと、ニッと朗らかに微笑んで、「ありがとう」と口を開くのをはっきりと見た。
その凛々しい背中は再び歩みを進めていった。
その背中に応えるように僕も精一杯の微笑みと、手を振り続けた。
やがて、背中が消える。
「―――――――――――――!」
呻きのような、嘶きのような、悶えのような声にならない叫びを僕は上げながら鳴いて、泣いて、泣き叫んだ。
もう一度あの顔を見ることが出来た。
その嬉しさで心が張り裂けそうになる。
どれほどの言葉を並べても、美辞麗句を尽くしても、届くことのないほどに嬉しかった。
頬を伝う涙を拭い、殆ど沈みかけた夕日を見詰める。
これでもう心残りはない。
自分の体が粒子となって消えていく中、僕はもう一度誓った。
二度と忘れない。
あの表情を。
あの背中を。
「こちらこそありがとうだよ、立香くん―――」
その名前を忘れないために一つの音を確かめるように発した。
―願わくば君も僕のことを忘れないでくれることを、そして、いつまでも真っ直ぐなままで――――
そして、世界が暗転した。
自分は再び無の世界へと還る。
最高の思い出と共にいつまでも。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺はその姿を見た時見間違いだと思ったんだ。
けど、あの笑顔は、記憶の中にあるロマニ・アーキマンと相違ない物だった。
飄々とした態度、強いとはいえないメンタル、時にいつもの頼りなさから一転して、頼りがいのある人に変わる姿を。
だから、安心させるためにも、応えるためにも、笑った。
そして、いまにも零れそうになる涙を見せないために足早にまた歩き始めた。
―これ以上ドクターに心配は掛けられない。
それに。
「あんな顔で笑うなんて反則だよドクター……」
歩んだ軌跡にぽたぽたと遅れて涙の落ちる音がした。
歩き続けていると、隣のマシュに呼び止められる。
「先輩……?!」
驚きに満ちた声がする。
「なんで泣いてるんですか?!何か目に異常でもあったのですか…?」
「ドクターがいた……」
「え……?それは本当ですか?!」
「うん……笑っていたんだ、手を振りながら」
「そうですか……でしたら、先輩」
俯いてた顔を上げ、マシュの方へ向く。
「きっとドクターはそんな悲しい顔をして欲しくて先輩の前に現れたのではないと思います。私は分かりませんでした。けれど、いまも何処かでドクターは私達のことを見守ってくれているはずです。たとえあの神殿で迎えた結末で彼が消えてしまっても、彼はいつまでも―――」
その先の言葉は何となく予想がつく。
だから、何だかそれを言うのが無粋に思えて―――
「そうだね―――」
茜色の空に闇色のカーテンが降り始めた。
微かな影は遂には濃密なものに変わって、次第に辺りを夜へと誘っていく。
隣のマシュが空を見上げる。その姿は涙を堪えているようにも見える。目元にはキラリと光る小さな粒が溜まっている。
悲しいけれど、それと同じくらい嬉しさもあった。もう一度会えたことは俺にとって幸運だった。
言葉を交わすことは出来なくても、最後に笑顔を交わすことが出来た。
だからそれで充分。
マシュに倣い、俺も空を見上げる。
そうだ。ドクターは、きっと。
自分の死を悼ませる為に来たんじゃない。
「絶対忘れないぞーーー!」
あの空の向こうへ、次元の違うどこかにいたとしても届くように有らん限りの力を込めて、精一杯の声で叫んだ。
そしてまた歩き出す。
俺の叫びは山間を何度も木霊した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
自我すら忘れそうになる無窮の闇の中。微かに、力のある声が聞こえた。
「絶対忘れないぞーー!」
声が形をなくしたはずの全身を貫き、脳天に響き渡る。
思い出が幾重にも折り重なって、記憶の幕が上がる。
――ああ、その通りだとも、立香くん。
僕も、君を、君達を。
共に戦い抜いた2016年という一年、その短くも尊く満たされた日々を決して忘れたりなんかしないよ―――
お読みいただきありがとうございました!
いやー、ホントに。
型月も粋なことをするもんだ……