ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯132 時代の良心

 降下するなり飛び込んできたニュースに、桃は唖然としていた。

 

 ブルブラッドキャリアがゾル国の味方になる。寝耳に水にもほどがある情報に、バベルで裏づけをさせた。

 

 結果、シーザー議員を含める軍部の急進派によるでっち上げである事が判明したものの、世界はこの声明を信じ込んでいる。

 

 鉄菜からの通信が入り、次の行動の相談になっていた。

 

『このまま、モリビトをゾル国の物とするのは反対だ』

 

「その気持ちは分かる……クロ。でも下手に行動出来ないわ。モリビト対モリビトなんて構図、誰に旨みがあると思っているの? これで得をするのは地上勢力のみ。ともすればブルブラッドキャリア内の分散に捉えられる。分散、いえ、分裂を悟られれば、またしても資源衛星に強襲が仕掛けられかねない。今の守りはアヤ姉だけよ。《インペルベイン》もまともに出せないのに、もしやられれば……」

 

 最悪の事態を想定する桃に対し、鉄菜は判断を保留していた。

 

『……私の一存ではどうしようもない。桃・リップバーン。作戦立案はお前に一任する』

 

「珍しいじゃない。クロにしては殊勝ね」

 

『それくらい、事は重大だと言う意味だ。仕掛け間違えればブルブラッドキャリアは詰みになる』

 

 それも重々分かった上でのこのやり口なのだとすれば、地上の人々もなかなかに抜け目がない。《モリビトタナトス》の情報をあらゆる方面から弾き出そうとするが、どこかで阻害されるのが分かった。

 

「バベルでも閲覧出来ない?」

 

『情報源が少な過ぎるんだよ、桃。《モリビトタナトス》に関しての情報はないに等しい』

 

 しかしその戦闘の映像は残っている。戦っているのはまさかのトウジャタイプであった。ベージュ色のトウジャ五機への情報は即座にもたらされる。

 

「《スロウストウジャ》……C連合の新型人機ね。こんなものを用意したなんて」

 

『スペック上ではモリビトとほぼ同じだね。こんなのが五機……やり合えるかどうか』

 

 グランマの不安に桃は戦闘する《モリビトタナトス》と《スロウストウジャ》部隊を観察する。

 

《モリビトタナトス》の肩口に装備された羽根のような槍が射出され、自律稼動兵器として《スロウストウジャ》を追い詰める。

 

「見た事のない武器ね……。グランマ、該当データは」

 

『存在しない……。これは全くの新しい概念の武器だよ』

 

『自律稼動兵器を装備している。これだけでも充分な脅威だ。Aプラス相当に値する』

 

 鉄菜の脅威判断でそこまで高いとなると、実際に相手取ればもっと厄介だろう。しかもこれはR兵装でもある。今までの実体弾に対する行動では遅れを取る場合も考えられた。

 

「……嘗めてかかると痛い目に遭う、か。でもこちらが何もせずに手をこまねいていれば、相手の都合がいいように解釈される。難しい局面ね。モリビトが動かなければゾル国の支配に甘んじる事になる。かといって動けば、ゾル国、C連合からの集中攻撃の対象。それにこの《モリビトタナトス》と対峙すれば、ブルブラッドキャリア内部での軋轢を世界に示すようなもの。……一番に理想的なのは《モリビトタナトス》がC連合のトウジャに破壊されて、その後に介入する事だけれど……」

 

 まず無理であろう事は予想出来た。《モリビトタナトス》が姿形だけでもモリビトを模している分、余計に厄介だ。かといって《スロウストウジャ》五機を相手取って勝てるかと言えばそうでもない。

 

 どちらと敵対してもモリビト二機では対応が難しいところである。

 

『桃・リップバーン。私の意見でいいのならば、《モリビトタナトス》も《スロウストウジャ》も同等の脅威だ』

 

「だから何? 両方を同時破壊なんて言わないわよね?」

 

 それがどれほどに難しいのかは鉄菜でも分かるはず。鉄菜は首肯し、言葉を継いだ。

 

『どちらかを、徹底的に叩き潰す。それしかないだろう』

 

 自分が思い浮かべていたのと同じ想定だ。結局、物理的な優位に立つしか現状を打開する方法はない。

 

「……脳筋な考えだけれど、モモも同じ。モリビトはどちらの勢力にも与しないのだと、ハッキリ示すしかないわ。その途中で《モリビトタナトス》が出てくれば、これを破壊。……出来る?」

 

『弱気な発言だな。いつもの調子はどうした?』

 

「アヤ姉がいないんじゃ、この人機だけを落とせばいいって簡単なもんじゃないってのはよく分かるから……。クロ、モリビト二機で合流後、フルスペックモードへと換装。《シルヴァリンク》は全戦力をもってC連合前線基地を攻撃。徹底的な殲滅戦に打って出る。《モリビトタナトス》、あるいは《スロウストウジャ》と会敵した場合、これを撃破……。難しい事を言っているのは分かっているけれど、それしかない。ゾル国の高慢ちきな鼻っ柱を折ってあげましょう。モリビトは地上の誰の味方でもないのだと、今一度突きつけるしかない」

 

『モリビトの脅威を今一度……か。だが現状、モリビトはゾル国の味方として扱われている。宣言されればこれほどやり辛いとはな。相手は大手を振るって《モリビトタナトス》を運用出来る。比して、こちらはたったの二機か』

 

「たったの、じゃないわ。精鋭された二機よ。《ノエルカルテット》と《シルヴァリンク》がいれば勝てる……でしょう?」

 

 鉄菜にも負けるつもりはないはずだ。彼女は鼻を鳴らし、言葉を継ぐ。

 

『無論だとも。しかし、《モリビトタナトス》、出所が気になるな。どこからこんな機体を建造した? 惑星にはモリビトのデータベースは存在しないはずだが』

 

 そのはずだ。モリビトは複製不可能であるからこそ今まで優位を保ってこられた。

 

「……どこかでモリビトの情報が漏れている……? 裏切り者?」

 

 帰結した考えに早計だと諌めつつも、それでも裏切りの線が濃厚であった。誰かが裏切っている。その場合、一番に考え付くのは――。

 

『……言いたい事は分かる。また私が、作戦を無視して強行している可能性か』

 

「ゴメン、クロ……疑いたくはないの。でも、あんたは一回」

 

『分かっている。同じ立場ならば私でも疑うだろう。それはない、と伝えるのには《シルヴァリンク》のシステムログを差し出せばいいか?』

 

 桃は目を見開いていた。鉄菜は《シルヴァリンク》にこだわるあまり自分達には決して二号機の性能面を打ち明けようとはしなかったはずだ。その逡巡が伝わったのか、鉄菜は言いやる。

 

『……彩芽・サギサカの言うように、もういがみ合っている場合でも、ましてや牽制を投げ合う場合でもない。私達は再び、手を取り合うべきだ』

 

 それが計算ずくの結論であったとしても、桃には鉄菜の素直な成長に思われた。ここまで来れば一蓮托生。《シルヴァリンク》のシステムログを精査する中、桃はグランマに命じる。

 

「バベルを出来るだけ拡張させて。この作戦だけは絶対に失敗出来ない。――《モリビトタナトス》を完全に破壊する」

 

『それはいいが……桃、勝てる見込みはあるのかい?』

 

「愚問よ。モモ達はもう、勝つしかないんだから。宇宙で戦った時から……いいえ、ビートブレイクを使った時からそう。あるいはモリビトに乗った時からかも。モモ達はこの惑星からしてみれば反逆者。戦う事でしか己を示せないもの」

 

『……分かった。バベルの性能をフルにしてでも、《モリビトタナトス》に関して探ろう』

 

「ゴメンね、グランマ。モモ、無茶言っているのは分かっている」

 

『無茶でも何でもないよ。お前は正しく、ブルブラッドキャリアのあり方を示そうとしているんだ。だったら、その背中を応援出来ないでどうする』

 

 ああ、この人格システムの基になった人間は絶対に言わないであろう言葉だ。自分は自分のAIを欺いてまで優しい言葉を切望している。それが正しいのか正しくないのかの議論は放置したままで。

 

「……ありがとう。グランマ。お陰でモモ、もう少しだけ頑張れそう」

 

『《モリビトタナトス》を破壊するにしても、どこを攻撃する? どの基地に出るのかを把握していなければ無駄足だぞ』

 

 鉄菜の言う事も一理ある。闇雲に仕掛けたところで、それはゾル国の掌の上だ。

 

「やっぱり、狙うとすれば一極集中でしょうね。C連合前線基地……一番近い場所にある基地へと攻め込んで、敵戦力を一網打尽にする。それによってシーザー議員の言う通りではない事を示せば少しは抵抗になるかもしれない」

 

『だが、それさえも目論見通りであったとすれば……』

 

 慎重になるのは分かる。だが、ここで二の足を踏んでいる時間もないのだ。

 

「クロ、ここから先は及び腰になったほうが負ける。アヤ姉がいないのよ。《インペルベイン》の補助なしで、モモ達だけで戦い抜かなくてはならない」

 

 今まで幾度となく《インペルベイン》の助けと彩芽の的確な指示があったからこそ生き残れてきた。今は、それら二つが決定的に欠けていたとしても、自分達はブルブラッドキャリア。戦い抜くしかないのだ。

 

 その覚悟は鉄菜にも伝わったのか、彼女は首肯する。

 

『……分かった。作戦には従う』

 

 今は伝わった安堵は元より、これから先の行動次第で戦局が変化する事を心に刻むべきだ。

 

 ――一手間違えれば打ち負ける。

 

 その極度の緊張に、桃は唾を飲み下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話が違う、と切り出したこちらに比して相手は幾分か冷静であった。

 

「席に座ってください。タチバナ博士」

 

 シーザー議員の使いにタチバナは紛議する。

 

「貴様ら、何をしたのか分かっておるのか? モリビトを国家の象徴として祀り上げるだと? その危険性を理解した上での行動だと、本当に……!」

 

「落ち着いてください。議員はそれを分からぬ人ではない」

 

「ならば! まずは戦争を焚きつけるような真似をしない事だ! これではC連合にも喧嘩を売ったようなものだぞ!」

 

 既に耳には入っている。ユヤマを通して軟禁状態からでも世界を見通す事が出来ていた。

 

 C連合の新たなる戦力。《スロウストウジャ》。どこで誰が開発していてもおかしくはない人機であったが、それが導入されるのがあまりにも速い。一国レベルだけではない。何ものかの悪意が見え隠れする。

 

「お静かに願います。議論というのはいつだって冷静な状態で発するべきです」

 

「分かっておるのならば今すぐにあのモリビトを撤回しろ。あんなものを使ったところで平和はやって来ない!」

 

 ぴくりとシーザー議員の部下は眉を跳ねさせた。サングラス越しの視線がタチバナを射る。

 

「……失礼ながら、タチバナ博士、あなたは平和主義者だったのですか?」

 

「……人機開発者が平和を望んではいけないというのか」

 

「いえ、あまりにもその在り方が不均衡であったものですから。……そうですね、《モリビトタナトス》を我が国家の主軸とする、このやり方に疑念を覚えるのは、まだ分かります。ですが、何を及び腰になる必要があるので? 相手とて不要な武力を有している。これは抑止力ですよ」

 

「抑止力、だと……詭弁を!」

 

「詭弁は人類が発明したものの中でも優れた開発の一つです。詭弁がなくては、人々は正直な気持ちだけでぶつかり合う。それは闘争ですよ。生き地獄です」

 

「地獄でも、変わろうとすればともすれば、人には可能性があるかもしれん。《モリビトタナトス》はそうではない」

 

「おや? まるで《モリビトタナトス》のスペックを知っているかのような語り口だ」

 

 思わぬ攻め手にタチバナは言葉を詰まらせた。ユヤマとのコネクションは極秘でなければならない。

 

 加えて自分の個人所有端末にはモリビトに対抗するための兵器の概要がごまんとある。これをゾル国政府に奪取でもされればそれこそ余計な火種を招く。

 

「……観れば分かる。あれは、今までにない兵器だ」

 

「人機開発におけるオブザーバーの言葉と思えば無碍には出来ませんね。ですが、それも理解せずして、議員が強行したとでも?」

 

「あの男に、兵器のイロハは分からんよ。分かるのは政において、誰が優位に立ち、誰が敗者として辛酸を舐めるかの事実だけだ」

 

「それだけあれば充分ではないですか。敗者は地を這い蹲り、強者のみが生き残る。理屈としてはこれ以上のないほどにシンプルです」

 

「単純がゆえに、その在り方は考えも、ましてや熟考もないと言っているのだ! 思考停止の政治家がどこにいる!」

 

 声を荒らげたタチバナに比して議員の使いはどこまでも冷静であった。

 

「優れた政治家がどうであったかは歴史が証明します。それが如何にして形成され、如何にして後の世を作ったのか。結果論でしかないのです。発明家は、その歴史のうねりの前では思想というものは塵芥に過ぎません」

 

「ワシを使い捨てるか? だがこの老躯、ただでは死なんぞ」

 

 強気に出たタチバナに黒服は笑う。

 

「殺しませんよ。誰が殺すものですか。あなたには生きてもらわなければならない。生きて、《モリビトタナトス》が後の世を切り開く、生き証人であった事を証明してもらわなければ。依然としてあなたの発言力は高いのですよ、ドクトル」

 

「だというのならば今すぐに、あのモリビトを使用停止処分にしろ。そうでなければ戦争が――」

 

「残念です。戦争はもう起こりつつある」

 

 黒服が手にした端末からはC連合を見張る静止衛星映像が新たなるプラントの開発に乗り出しているのが窺えた。タチバナはうろたえ気味に後退する。

 

 祖国は、悪魔に魂を売り渡したのか。トウジャというパンドラの箱は魅力的であっただろう。自分がいなくとも、世界は動く。

 

「……どれほどヒトが過ちを繰り返す生き物であったとしても、火種を自分で処理するくらいは出来よう」

 

「その機会には永遠に恵まれない事でしょう。人間には過ぎたる玩具だった。百五十年前の人機も、この戦いの場も」

 

「今一度言うぞ。《モリビトタナトス》を退かせろ。そうでなければ後悔する事になる」

 

「誰がでしょうか? ドクトルタチバナ。考えてもみてください。この惑星で、モリビトへの対抗策を具体的に打ち出さずして、何ヶ月も、何年も消耗戦を繰り広げるとしましょう。なるほど、表面上は平和かもしれない。モリビトの脅威があるとは言っても、それは言うなれば、今はもう枯れ果てた密林で獣に行き遭うほどの確率。ほとんど無視してもいいほどの。ですが、密林に獣は依然としていたままなのです。それでは安心して誰も密林に分け入る事は出来ない。文明の叡智を、その領域に拡張する事は出来ないのです。それだけで人類は大きく衰退し、成長の機会を失う」

 

「密林に分け入り、獣の領分を侵した。その結果が百五十年前だ」

 

 強い語調にもシーザーの部下はうろたえる様子さえも見せない。

 

「それも、一面では正しいのでしょう。ですが、勇気ある人類は獣に打ち勝ち、かちどきを上げなければならない。いつまでも獣に怯え、震え上がっているようでは勇者は生まれないのです」

 

「勇者が《モリビトタナトス》だというのか。馬鹿げている」

 

「いいえ、何も馬鹿げた事など。モリビトと、敵と同じ姿を取る事は原始的にも非常に有効です」

 

「鏡を見ろと言いたいな。あの過剰なほどの武装は明らかにC連合への牽制の意味も入っている」

 

 タチバナの論調にも気圧される事なく、相手は切り返す。

 

「敵国への牽制が入っていては、ではどうしていけないのですか? 敵ですよ。撃つべき敵です。それをはかりかねて、いつまでも手をこまねく事こそ、愚かではないですか?」

 

「敵はブルブラッドキャリアだけで充分だろう! どうして、事ここに及んで人同士が醜く争わなければならないのだ!」

 

 声を荒らげたタチバナに黒服は顎に手を添える。

 

「難しい事を仰るのですね。人同士が、何故、争うのか? それはとてつもなく、いや途方もなく、最果てもない疑問です。何千年も前から繰り返された命題を、この世代で絶つ、と? いささか傲岸不遜が過ぎるのでは?」

 

 これ以上黒服との平行線の言葉繰りをしていても無駄であろう。タチバナは己の端末からシーザー議員へと呼びかけようとする。

 

「ワシが直訴する。《モリビトタナトス》は使うな、とな」

 

 しかしコール音が虚しく響くばかりで一向に相手は出る様子はない。

 

「議員はお忙しいんです。だから一介の護衛役である自分のような人間があなたについている」

 

「老人の話し相手をして時間を引き延ばせ、か? それともわがままで融通の利かない老人をここで退場させろ、とでも?」

 

 黒服は肩を竦め、タチバナへと言いやる。

 

「博士、攻撃的になるのは勝手です。しかし、何も誰一人として味方がいないわけではないのですよ」

 

「貴様らは敵だ。それだけは確かだよ」

 

 言い捨てたタチバナに黒服は熟考する。

 

「これは……難しいですね。信用もされない。ここであなたと向き合っているのは何も酔狂だけではないのというのに」

 

 再びコールするがシーザー議員は出る様子がない。タチバナは言い方を改めた。

 

「……ワシを軟禁して、結局のところ何をしたい? 自国の圧倒か? それとも、軍事的な支持者を祀り上げるために、ワシのデータベースを利用するか?」

 

「どちらも非常に魅力的な提案ですが我々はそうではありません。ゾル国の国益になるようにあなたを見張っているだけです」

 

「老人一人、いつでも殺せよう。死なせないのは貴様らのシナリオ通りか。それとも、ワシに死なれてはまだ迷惑か」

 

「ご理解いただいているのならば幸いですよ。まだ、死なれては困るのです。これから先、人機開発は躍進する。第二、第三の《モリビトタナトス》は生まれますよ。その時、あなたには判断をしていただきたい。兵器として、及第点を得ているかどうかを」

 

 畢竟、自分は兵器に採点するだけの存在なのだ。それが強力かどうか、使えるかどうかを判定するだけの目安。

 

 ただの、採点基準。

 

「……皮肉な事に、今すぐここで首を掻っ切りたいほど、貴様らは度し難い。だが自決しないためにお前さんはおるのだろうな」

 

「分かっているのならば休まれてはどうですか? ご老体にこれ以上負担をかけさせたくない」

 

 タチバナは額に浮いた汗を拭い、舌打ちする。

 

「悪党め。貴様らは悪だ」

 

「正義になったつもりはありません。しかし、ブルブラッドキャリアのように無差別に殺しをするつもりもない。正義も悪も、流動ですよ、ドクトル。この世に至っては」

 

 きっとそれが正答なのだろう。この男と話していても何も進展しないのは分かっている。タチバナは椅子に座り込んだ。端末を指し示し、口にする。

 

「さすがに通信くらいは」

 

「どうぞ。ご自由に」

 

 タチバナがコールしたのはしかしシーザー議員ではない。この状況を打開する人間にであった。

 

『はい。こちらユヤマです』

 

 相手が出たのを確認してからタチバナは声を吹き込む。

 

「タチバナだ。のっぴきならない事態に陥った。単刀直入に聞く。この状況を打開出来るか?」

 

『その場所から助け出すのはさすがに無理ですな。ゾル国の中枢です。何よりも、怖いモリビトが見張っているんじゃ何にも出来やしません』

 

 だがそこまで分かっているのならば話は決まっている。

 

「頼みがある。恐らく、君に頼むのはこれ一回きりだろう」

 

『天下のタチバナ博士の頼みとなれば無下には出来ませんね』

 

「老人の繰り言だと馬鹿にしてくれても構わん。ただ、――世界を止めてくれ。こんな風に転がっていくのは見たくはない」

 

 僅かな沈黙が流れる。その後に、ユヤマは静かに応じていた。

 

『……承りました。ですがアタシも一介のトップ屋。こんな身分で言える事はたかが知れています』

 

「それでもいい。何か手を打って欲しい」

 

「誰と話しているんです?」

 

 黒服が歩み寄ってくる。タチバナは端末を頭上に掲げた。

 

「さらばだ」

 

 直後、端末を床に叩きつける。砕けた端末の欠片が赤い絨毯の上を転がった。

 

 ――自分の打てる手は全て尽くした。あとはもう。

 

「時代に任せるだけだ。せめて、この時代の良心に」

 

 

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