ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯250 最悪の因果

 

 昨日まで見えなかった星が空に浮かんでいる。

 

 それはあまりにも突飛で、あまりにも現実味がない。

 

 ベルははめ殺しの窓から覗ける外の世界を眺めていた。外壁が薄くなり、夜の一定の時間は汚染された外気の向こう側の景色が明らかとなる。その景色だけでいくつ物語を紡げただろう。いくつ、夢想出来ただろうか。

 

「……そんなの、この世にはないんだわ」

 

 部屋の扉は固く鍵がかけられており、外は物々しい憲兵隊が囲んでいるのが張り上げられる怒声から窺えた。

 

 ――きっとクリーチャーは殺されてしまう。

 

 誰でもない自分のせいで。

 

 ベルは項垂れて涙を滴らせていた。この世にあってはならない出会いだったのかもしれない。あるいは禁じられた遊びとでも。

 

 それでも彼は自分の中の物語であった。物語の主役を彩る存在であったのだ。

 

 眩いばかりの黄金の瞳。美しい金色の毛並み。牙も爪も、何もかも均整を保った怪物の面持ち。

 

 彼は美しかった。

 

 少なくとも自分にはそう見えたのだ。美しい獣が、大人達の汚いエゴで誅殺される。その名の下は正義か。それとも怪物を許さぬ人間という種の傲慢か。

 

 いずれにせよ、扉を開いたのは自分だ。彼を殺す遠因を作ったのは自分自身なのだ。

 

「神様……」

 

 祈っても縋っても、自分にはもう何も出来ない。何も……、と思ったところで扉がノックされた。

 

 外側から三重の鍵が解除され、現れたのはどこか物悲しい面持ちの従者であった。

 

「セバスチャン……」

 

「お嬢様。非常に……残念です」

 

「あの方を殺したの」

 

 あまりにも自分の言葉振りが刺々しかったからだろう。セバスチャンは柔らかく微笑んで否定する。

 

「いえ、そのような事をするはずがありません。我々は人間。怪物とは違います」

 

「どう違うって言うの。あの方を、殺そうとして! 憲兵まで連れて来たくせに!」

 

「お嬢様、落ち着いてください。落ち着いて、今の自分の状況のご理解を。あなたは怪物にかどわかされそうになった。強欲で……言葉にするもおぞましい手口で。それを我々は、人間の代表者として救います。そのための憲兵隊」

 

「欺瞞だわ! あなた達は汚いものを汚いと……! 怖いものを怖いって言いたいだけでしょう! 臆病者っ!」

 

「――それの何がいけないのですか?」

 

 不意に静けさを取り戻したセバスチャンの声音にベルは背筋が凍ったのを感じる。

 

「何、ですって……」

 

「何がいけないのですか? 違うものを違うと。恐怖の対象を恐怖と。扱う事に何の不満が? お嬢様、あなたはまだ世界を知っていない。この世界には……罪深く青に沈んだこの世の中はもっと複雑で、もっと狂気が渦巻いていて……そしてもっとおぞましい。それを箱庭程度の価値観で語って欲しくはないのですよ。我々の願いなのです」

 

 ベルは憔悴したように論調を引っ込ませる。今のセバスチャンは平時の口うるさい従者ではない、別の何かに思われたのだ。

 

 人間の悪意というものが形を取ったとすればまさしくその権化のように――。

 

「願いなんて……おこがましいわ。だってあの方だって……生きているのよ」

 

「お嬢様。このようなお話を聞かせるのは大変心が痛むのですが……今はご了承を。かつて人は数多のケダモノと共に生きていました。共生の時代があったのです。ケダモノとの、ね」

 

「……動物園の話をしているの?」

 

 父母が帰った時にはよく連れて行ってもらったものだ。動物園――滅びた生物達が同居している施設。

 

 別の名称では「保護区」、とも呼ばれていたか。

 

「犬や猫……もっと恐ろしい、熊やライオンでさえも、あの檻の中では等価です。どれほどの猛り狂っていても、あるいはどれほどまでに高潔でも、彼らと我々は違います。それはお分かりですね?」

 

 動物と人間は違う。それは分かり切っている。そのような事、今さら聞かされるまでもない。

 

「そんなの……分かっているわ。いつまでも子供だと思って、馬鹿にしないで!」

 

「ではあの怪物は? 何がヒトと同じですかな?」

 

 その問いかけに反論しようとして、何もない事に気がついた。

 

 反論する余地などない。人間との共通項を探すよりも、人間と違う箇所を探すほうがよっぽど手早いという事実に、ベルは絶句してしまう。

 

「それは……」

 

「違いましょう。あれは違うのです、お嬢様。別種のものを形容するのに相応しい言葉を我々は持っております。動物、ケダモノ、化け物。……怪物」

 

「あの人は怪物じゃないわ! 心があるもの!」

 

「心? 地下室を調べさせていただきましたが、お嬢様。手塩にかけていたご様子ですね」

 

 セバスチャンはわざとらしい語り口で部屋の中を歩き回る。

 

「……そんな言い方しないで」

 

「餌をあげたり、あの恐怖しかない遠吠えを聞いたり……愚痴をこぼしたり。まさしく動物と人間の関係でした」

 

「違うわ! あの人とあたしは心で繋がっているもの!」

 

 だから、と言葉を継ごうとしてセバスチャンの厳しい声音に遮られる。

 

「心とは! 片腹痛いにもほどがある! お嬢様、心は人間にしかないのです。あれはただただ汚物を撒き散らし、貪欲に生き血を啜る事のみに長けた獣。あのような存在、本来は出会ってはいけなかった。あなたのような高貴な方が、一秒だって世話をしてはいけなかったのです」

 

 セバスチャンの言葉は一つずつ、クリーチャーとの思い出を否定するかのようであった。あれも嘘、これも嘘、どれもこれも自分勝手に作り上げた――独善的な一人遊びだと。

 

 ベルは頬を涙が伝うのを止められなかった。大人の言葉を否定出来ない。セバスチャンの言い分は百の大人の声のようであった。

 

 一でしかない子供は……一ですらないかもしれない子供である自分は、何も言い返せない。自分は外の世界などまるで知らない。コミューンの外になど一度として出た事などないからだ。外の世界で使われているという「ジンキ」という兵器もよく分かっていない。

 

 国の事も、まだ勉強中の身だ。何も言い返せるだけの知力がなかった。あるいは言い返せるだけの説得力が。セバスチャンの言葉は現実を知っている。自分は夢見がちな少女の戯れ言に過ぎない。どこまでも妄信的に物語を信用し切っている。その物語に裏切られた時の衝撃を知りもしないで。

 

 あるいは知っていてもなお、物語の持つ甘美な囁きを信じたいのだろう。

 

 裏切られても、物語の世界に浸っていたいという独善的なわがまま。

 

「世話なんて……、あたしとあの方は対等なのよ……」

 

「対等? お嬢様、どうか目を覚ましてください。対等という言葉は本当に意味を持つ間柄でのみ有効なのです。あれは何ですか? 怪物以外にどう形容しろとでも?」

 

「でも! 怪物でも! あの人はあたしをないがしろになんてしなかった! 一人の人間として扱ってくれたわ!」

 

 こちらが声を張り上げるのをセバスチャンは呆れた様子で肩を竦める。

 

「お嬢様……過ぎたる言葉かと思いますがご容赦を。いいですか? あれは怪物なのです。あなたはヒトの側、それに何よりも高貴な存在です。このコミューンを買い取ったのはあなたのご両親の誠意そのもの。外の世界では国家間の争いが飛び火しています。その中で、旧ゾル国に味方すると発言しながらもそれでも連邦よりの迫害を受けないで済んでいるのは、ご両親の人柄です。人徳がなければ今頃、このコミューンもあなたも蹂躙されていてもおかしくはない」

 

「それは、あなただって同じでしょう! セバスチャン!」

 

 しかしセバスチャンはフッと笑みを浮かべた。

 

「残念ながら。政治的な思想の偏りは我々使用人にはございません。もっと成長してからお教えすべきだと思っていましたが、ここで言っておきましょう。あなたの味方など誰もいない。我々はご両親に支えられて生きてはいますが、あなたを主人だと思った事など一度もない」

 

 その宣告にベルは絶句する。今まで自分の味方だと思っていたものが虚しく音を立てて崩れ落ちていく。どこまでも空虚で、どこまでも無意味。

 

 それが自分という存在の集約だったのだと思い知った時、ベルは涙を流していた。

 

「ひどいわ……ひどい……」

 

「酷い? そうですか? そうとは思いません。あんなものを地下室に飼っていた事のほうがよっぽどだと思いますが。いずれにせよ、憲兵隊があれを殺します。あなたはこの部屋で何も出来ずに待っていればいい」

 

 立ち去ろうとするセバスチャンへとベルは全身で体当たりしていた。よろめいたセバスチャンの一瞬の隙をつき、扉を開け放つ。

 

「行っても無駄ですよ! 残酷な真実を知るだけだ!」

 

 その言葉を背中に聞きながらベルは城の廊下を駆け抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 抵抗はしなかった。無意味だと悟っていたのだ。

 

 憲兵隊が到達した頃にはクリーチャーは爪も牙も仕舞い、拘束されていた。

 

 両手両脚を鎖で繋がれ、壁際に立たされている。憲兵が槍を取り出し、脇腹に穂を突き刺した。奥歯を噛み締めて耐え忍ぶクリーチャーに憲兵が訝しげにする。

 

「随分と大人しいな。この魔物」

 

「大方、諦めているんだろ。しかし、まさか貴族様の屋敷の地下にこんなものがいたなんてな」

 

 憲兵達がブルブラッドの煙草を吹かす中、数人がかりで壁と同化した神像を引き剥がそうとしていた。

 

「駄目だ! 全然動かない!」

 

「妙な代物だよな。貴族の屋敷の下に怪物と人機なんて」

 

「何かを隠そうとした、っていう見立てが大筋だが、使用人ばっかりでまともな証言も聞けやしない」

 

 憲兵は端末を手繰り、神像の情報を同期しようとしたがあまりにその情報は劣化していた。黒塗りばかりの情報網に全員が辟易する。

 

「これって……つまりは登録抹消って事か?」

 

「そうみたいだな。連邦のデータベースにもない。分かっているのは、こいつが人機である事と、この怪物が操主であった、という事実だ」

 

 こちらへと向けられた一瞥には鋭いものが混じっていた。憲兵が煙い息をこちらへと吐き出す。

 

「このザマでよくもまぁ、操主だと? 軍属とも思えない上に、こいつの出所も分からない以上、どうするか……」

 

「やるしかないだろ。大枚叩いてもらっているんだ。要求通りに拷問した後に殺せばいい」

 

 槍がクリーチャーの腹腔を貫く。激痛にクリーチャーは身悶えした。

 

「しかし健気なもんだ。呻き声一つ上げない」

 

「大方、ここの頭のイッちまったお嬢様への律儀な忠誠心か。そのお嬢様も今頃現実を見ているだろうぜ。怪物なんかに関わるんじゃなかったってな」

 

 せせら笑う憲兵にクリーチャーは吼え立てた。自分を嗤うのならばまだ分かる。だが、彼女を――ベルを嗤うのは許せない。

 

 その怒声に全員の顔が凍りついた。

 

「おい、こいつ……」

 

「意識があるって言うのか。人間みたいな人格が」

 

 槍を構えた憲兵が一斉にその穂を片腕に向けて突き刺した。鮮血が迸る。

 

「赤い血かよ。こんなのでも」

 

「人機と同じ青い血なら、もっとやりやすいっていうのに」

 

 吐き捨てた憲兵が鞭をしならせクリーチャーの顔を叩き据えた。獣を無条件に屈服させる鞭の音にクリーチャーが牙を軋らせる。

 

「ケダモノには鞭って昔から決まっている。それに、こいつ……どうにも気味が悪いよな。眼は動物のそれって言うよりも人間みたいな作りだし、骨格があまりにかけ離れてはいるが、動物と人間の混合みたいな有り様だ」

 

「何なのか分からないのは相変わらずだがな。どうする? 殺すのは簡単だが……」

 

 ブルブラッドの煙草を吸って、憲兵の隊長が言いやった。

 

「待て。依頼主の条件はあくまでも、調査してからの抹殺だ。人機にも触れられない今、殺すのは早い」

 

「でも隊長。こいつ、いつになったら死ぬって言うんですか。さっきからの折檻がまるで効いていないみたいに」

 

「……そうだな。生存率だけは高そうだ。しかし、拘束には従った。よって、意識と呼ばれるものはあると……推測される」

 

「こんな化け物に意識、ですか」

 

 おぞましい、とでも言うような声音に隊長は鼻を鳴らす。

 

「なに、獣なりの本能だろう。どうせすぐに壊れるさ。それよりも人機だ! これを連邦政府に献上すれば旧ゾル国の面子も立つかもしれないとのお達しだ」

 

「ですが……先ほどからどのOSの命令も受け付けないんですよ、これ。苔むしていて、結晶化も進んでいます。既存の人機じゃないみたいに」

 

 隊長は思案を浮かべた後、こちらへと目線を配った。

 

「……こいつを乗せてみるか」

 

「正気ですか? 隊長! こんなの乗せたって人機なんて動かせるわけないでしょう!」

 

「かもしれない。だが乗せるだけならば、大丈夫だろう」

 

 隊長が歩み寄りクリーチャーの眉間へと銃口を突きつけた。

 

「言葉が話せるのならば言うのは今だぞ? 人機の動かし方が分かるのか?」

 

 クリーチャーは血反吐を吐きつけた。隊長の純白の服飾に血がこびりつく。

 

「た、隊長……!」

 

「うろたえるな。今の狼藉くらいは許してやる。言え! 人機の動かし方を!」

 

 眉間に押し当てられた拳銃の冷たさにクリーチャーは覚悟を決める。ここで静観を貫き、あの人機を二度と誰の手にも渡らぬようにする。

 

 それこそが自分の役目なのだと。

 

 押し黙ったクリーチャーに隊長が舌打ちを漏らした。

 

「そうか……!」

 

 引き金が絞られると感じた、その刹那である。

 

「殺さないで!」

 

 弾けた声に憲兵隊が振り返る。クリーチャーが我が目を疑っていた。

 

 ベルが頬を濡らし、地下室へと再び赴いていた。現実なのか、と困惑したほどだ。

 

「お嬢様……? こんなところに来てはいけませんよ」

 

 紳士の声音で隊長は言いやる。

 

 ベルはキッと全員を睨んだ。

 

「あなた達……恥ずかしくないの! 全員でクリーチャーさんをいじめて! 人間だって言うのなら、こんな……優しさの欠片もない……!」

 

 絶句した様子のベルに隊長が歩み寄った。さめざめと泣くベルを見下ろし、隊長はその身体を蹴りつける。

 

 想定外の行動に憲兵隊がざわめいた。

 

「隊長? このお嬢様は依頼主の……」

 

「構うものか。我々がやったという証明もない。いざとなればいつでも、怪物のせいに出来るんだからな」

 

 ベルの肩口を踏みつけた隊長は声を振りかける。

 

「お嬢様。あなたは色々と勘違いをなさっている。まず一つ。あの怪物に、人間らしさなんてありません。ただの本能のケダモノです。そしてもう一つは……ここに一人で来るべきではありませんでしたね。ケダモノは、ヒトの中にもいる」

 

 ハッと振り仰いだベルの胸元を隊長が引き剥がす。ベルは必死に抵抗しようとしたが大人の力には敵うはずもない。

 

「いや……っ! いやぁ……ぅ……! クリーチャーさん!」

 

「あんなものの名を呼んだところで! 貴族を犯すのは最高に気分がいい!」

 

 スカートの下から潜り込んだ指先にベルが悲鳴を上げる。地下室に残響した声にクリーチャーが満身で吼え立てた。

 

 オォン、と何かが呼応する。

 

 憲兵がその雄叫びの先に気づき、顔を上げた。

 

 X字の眼窩が赤くぎらつき、今まで微動だにしなかった人機が稼動している。

 

「人機が……!」

 

 うろたえ気味の憲兵が下がる中、人機の照合結果が投射画面に導き出される。

 

「照合……《グラトニートウジャ》……。そんな……六年前にロストしたはずの機体が、何故……」

 

 憲兵が逃げ去る前に彼らを包み込んだのは虹色の皮膜であった。

 

 一人一人を泡のようなものが拘束する。ベルに手をかけようとしていた隊長でさえもその魔の手からは逃れられなかった。

 

「何だこれは! 何が起こっている……!」

 

 泡を叩き破ろうとした隊長へとクリーチャーは声を絞り出す。

 

「ハイアルファー……【バアル・ゼブル】……起動」

 

「まさか……喋って……」

 

 面を上げたクリーチャーが睨み据えた。

 

「叩き潰せ」

 

 瞬間、泡が収縮し、内側にあった身体を重力が押しつぶしていた。

 

 鮮血が泡の内側で一滴に至るまで消し去られ、憲兵の半数が削られる。

 

「クリーチャー……さん……?」

 

 クリーチャーはグラトニートウジャより流れてくるハイアルファーの力を鎖に凝縮させる。鎖が泡に包まれて破砕しクリーチャーはつんのめった。

 

 その身体を駆け寄ったベルが支える。

 

「よかった……よかった、クリーチャーさん……」

 

「……ここに来る事なんてなかった」

 

 人語を話す事はもうないと思っていた。この醜く爛れた声を誰かに聞かせる事など。しかし、ベルは頭を振る。

 

「ようやく……声を聞かせてくれたのね……あなたの声、とっても綺麗」

 

 この少女はどこまでも愚鈍であろう。怪物の側に足を踏み入れて幸福なはずもない。

 

 それでも今だけは。

 

 今だけはこの罪を許してくれる事を切に願うしかなかった。クリーチャーはベルを抱き留めようとして人機の稼動音に天井を仰ぐ。

 

 放たれたのは青い閃光だ。

 

 プレッシャーライフルの攻撃が地下室の天井を打ち砕く。その衝撃波を愛機である《グラトニートウジャ》に防がせる。

 

 ハイアルファー【バアル・ゼブル】の取り込んだモリビトの特殊兵装はまだ有効であった。

 

 完全に敵のエネルギーを減殺し切ったこちらに、無数の黒カラスが宙に浮かんで睥睨する。クリーチャーは決意を迫られていた。

 

 ここでたばかったところで、どうせ行く当てなんてない。死に場所がここになっただけの話だ。朽ちて死ぬか、戦って死ぬかだけの違い。

 

 だが、その宿命に彼女を巻き込む事はない。

 

「……逃げてくれ。僕一人で行く」

 

《グラトニートウジャ》が頭を垂れる。そのコックピットに入ろうとしてベルの声が遮っていた。

 

「置いていかないで!」

 

 クリーチャーは再びベルを見やる。その濡れた瞳が懇願していた。

 

「置いて……いかないで。あたしをもう……一人にしないで」

 

「……ヒトの側に留まったほうがいい」

 

「あたしは! 物語が始まったと思った! あなたと一緒にいれば、物語はどこまでも広がっていると思えたの! クリーチャーさん! あたしは……あなたの事が……」

 

 濁した声音にクリーチャーは面を伏せる。人間の側で生きていける彼女を連れ出すのは、最早大義も何もない。ただの悪辣な獣としての役割。

 

 ヒトの世界から自分のような爪弾き者の側へと入る事はないのだ。まだ戻れる。ベルは、自分の事を知らないと言えばいい。何もなかったと、しらを切ればいい。自分はバーゴイルの群れに猪突して死ねば、物語はそれで終幕。

 

 そう、何も始まっていなかった。物語も、自分の悲劇も。何もかも始まる前に終わればいいのだ。

 

「……ヒトの側でいてくれ」

 

 こちらの願いにもベルは首を横に振る。

 

「もう……人間の側じゃなくってもいい。あなたと一緒にいたい。それじゃ……駄目なの?」

 

 純粋なる願いそのもの。しかし無垢なる誓いはいずれ裏切られる。自分が何もかもから見離されたように。

 

 世界から敵視されるのは自分だけでいいはずだ。

 

 それなのに、自分は今、願ってしまった。祈ってしまった。誰かに、縋ってしまった。

 

 ――こんな自分でも今一度、誰かに必要とされたい、と。

 

 禁断なる願いが《グラトニートウジャ》の苗床になる。

 

「……ついて来ても、いい事なんて一つもない」

 

「それでもいいわ。あなたがいるのなら……」

 

 クリーチャーは手を伸ばしかけて、逆巻いた爪を重力の泡沫で叩き割った。姫の手を引くのに、穢れた爪ではいけないと思ったからだ。

 

 手を引いて《グラトニートウジャ》のコックピットに入る。

 

 結晶化が進んでいたが、自分が搭乗した途端、全てのブルブラッド結晶が粉砕された。代わりに投射画面に機体名称が映し出される。

 

「《グラトニートウジャ》……フリークス?」

 

 紡ぎ出したベルにクリーチャーは自嘲した。この六年間、静謐を守ってきた自分の機体は新たなる進化を遂げていたわけか。

 

「……行くぞ。《グラトニートウジャフリークス》。クリーチャー、出る」

 

《グラトニートウジャ》の四肢に点火し、機体が地下室を突き破って城を抜けていく。バーゴイルの群れがおっとり刀で対応した。

 

『あれは何だ!』

 

『識別コード……トウジャ? あんなものがトウジャだと言うのか!』

 

『撃っていいのか? 撃つぞ!』

 

 困惑する兵士達の声音にクリーチャーは項垂れる。自分の事など誰一人として覚えていない。ゾル国のために尽くし、ゾル国のために身を捧げた自分など誰も。

 

 その現実に押し潰されそうなクリーチャーの手を、ベルは優しく包んだ。

 

「クリーチャーさん。あたしは、ここにいるから」

 

 誰も覚えていなくとも。その武勲が記録されていなくても。ここに自分を知ってくれている人がいる。大切な人が手を握ってくれている。

 

 それだけで、ハイアルファーの毒が中和されていく。恨みと憎悪に染まった視界が開けていく気がした。

 

「敵を確認……。全機体を照準、粉砕する」

 

《グラトニートウジャフリークス》が両腕を掲げる。内側からせり出した巨大な砲門がバーゴイルを照準した。

 

 敵から放たれるプレッシャーライフルの猛攻を《グラトニートウジャフリークス》の装甲が弾いていく。ちょっとしたR兵装ではこの機体に穴さえも開けられない。

 

「火力充填。……撃つ」

 

 照射した黄色い光軸がバーゴイルを巻き添えにしていく。爆発の光輪が広がる中、クリーチャーは、ああと呻いていた。

 

 もう戻れない。もう何もない場所には……あの冷たい地下室には戻れない。

 

 物語を紡いでもよかった。何も起こらない事を幸福だと思ってもよかったのに。ここに、《グラトニートウジャ》は進化して再臨した。

 

 悪魔の人機が再び世界を混迷に陥れるだろう。

 

 悪鬼のはらわたでクリーチャーは集中の糸が切れたベルを抱き留めていた。人機同士の戦闘など見た事がないのだろう。一瞬で失神してしまった彼女をこのまま帰すべきか逡巡する。

 

 途端、拡大モニターに投影されたのはベルの従者であった。

 

 壮年の従者はこちらを睨むなり、どこかに通信を送っている。その通信先を機体が瞬時に拾い上げた。

 

 その通話先にクリーチャーは震撼する。

 

「まさか……ベルの父親というのは……この男だというのか。この男が……ベルの……」

 

 特定された名前にクリーチャーは爪を立てる。

 

 紳士然とした面持ちをしているが、この男の顔だけは六年間、忘れた事など一時もなかった。

 

 全天候周モニターに映ったその顔にクリーチャーは唸り声を上げる。

 

「ガエル・シーザー……。貴様が、ベルの父親だと言うのならば僕は……」

 

 

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