屋敷を訪問したのはあまりに意外な人物で燐華は困惑してしまう。
あの日以来、学園は閉鎖されコミューンそのものに復旧措置が取られていた。だから出歩くのも許可証が要るはずだ。
ヒイラギは応接室で許可証を見せてはにかんだ。
「出歩くのに大層な事だったよ」
燐華はどう返せばいいのかも分からない。笑えばいいのか、それとも。
紅茶が運ばれてきて芳しい香りが漂う中、ヒイラギは出し抜けに口にしていた。
「外はブルブラッド大気汚染濃度も基準値レベルにまで下がっている。学園はまだ閉校措置を取っているもののもう問題ないと判断している。……だけれど僕には納得がいかなくってね」
「納得、ですか……」
「鉄菜・ノヴァリス。集合墓地に名前が刻まれるそうだ」
聞きたくなかった。しかしそうであろうとは予測していた。
「鉄菜は……あたしなんかを助けようとして」
「誰も責めちゃいない。ただ……一度お別れをしてみないか、と言いに来た」
「残酷な事を言うんですね、先生は」
「残酷じゃない。死者との別れはきっちり果たすべきだ。そうでなければ人は前に進めない」
「それも、残酷ですよ。少なくともあたしには……」
誰かの死を受け入れられる気がしなかった。ヒイラギは構わず続ける。
「断っておくと遺体は発見されていない。手違い、の可能性もあるが、君のために行くべきだと思っている」
「あたしのためって何です?」
「……人が大勢死んだ。その中には見知っている人間もいるはずだ。クサカベさん、僕は、君に前に進んで欲しいんだ」
前などぼやけて見えなくなってしまっている。それを分かっていて言っているのだろうか。
「あたし、前も後ろも、よく分かんなくなりました」
「だろうね。僕だって、あの事件で数人の知り合いを亡くした」
あっ、と覚えず声が漏れる。そうか。自分だけが地獄の片隅にいるような気がしていたが、このコミューンに住む人間はみんななのだ。
みんな、自分にとっての大切な人を失っている。
「でも、行ったら本当に鉄菜とお別れしなくっちゃいけない」
それが耐えられない、というわがままにヒイラギは首を横に振る。
「僕も、鉄菜・ノヴァリス。彼女との別れは耐えられない。でも、耐えられなくても人間が必要なのは別れと痛みを胸に刻む事だ。これは教職とか関係なく、年長者だからこそ、言っている」
「先生も……お友達と別れた事が」
自分のほうが残酷なことを聞いているかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。
ヒイラギは首肯する。
「ああ、何度も、ね。その度に挫けそうになった」
だが立ち上がってきたのだろう。そうでなければヒイラギが自分を諭す事などないはずだ。
「それでも立ち上がって、明日には何の問題もなく仕事に行く事が、偉い事ですか? それでも毎日を過ごすのが、そんなに当たり前ですか?」
ずるい質問だ。それでも問うていた。自分の気持ちに決着はつけたくない。ただ他人はどうなのか知りたい。
何て卑しく、何て醜い。
誰かの気持ちにはずけずけと分け入るくせに、自分には入って欲しくないなんて。
「いや、当たり前じゃないよ。一つの別れで人間は壊れてしまう事もある。僕も何回か壊れた」
意外な返答に燐華は閉口していた。ヒイラギはどこか自嘲気味に口にする。
「ただ、壊れた自分を修理するのもまた、自分しかいないんだって事を長い年月をかけて理解した。その人を失った時、自分にはもう背負うべき理想も、成すべき義務も消えたのだと思ってしまったほどに……大きな断絶だった」
「大切な人だったんですね」
ヒイラギは目を瞑り、その時の事を回顧しているようであった。
「ああ、大切な……友人であった。だが、彼は、言っていたよ。成すべき事を成した時、人は時間さえも超えられるのだと。有限の命のようで、それらは繋がっているんだ。誰かの影響を及ぼさない人間なんていないんだよ。彼の命は僕の命となって、繋がり続けている。それが、別れというものの、意義なんだ」
別れるのもまた人間の必然性のような言い草であった。実際、ヒイラギの言っている事は合っているのだろう。
だが自分のような子供にはそれを実行出来そうになかった。
「鉄菜と、お別れしたくない……」
「その気持ちに決着をつけるために、もう一度彼女と会うんだ。そう思えばいい」
ヒイラギの言葉に燐華は頷いていた。
お別れするために再会する。妙な話であったが、それしか進む道はない。
屋敷の者達に言付けて燐華は自家用車を配置させた。後部座席に収まったヒイラギは言葉少なであったが、そこいらで催されている追悼式を目にしていた。
「あれも、同じような事だろうね」
誰も彼も、大切な人との別れを済ませようとしている。燐華は拳をぎゅっと握り締めた。
どうして、自分は大切なものを失い続けるのだろう。
誉れであった兄の名前を失い、無二の友人も失い、もう生きる意義さえも失いかけていた。
ヒイラギがいなければ自殺していてもおかしくはなかった。
それほどまでに、苦痛に塗れていたのだ。
この現実で生きていく事に。こんな世界で生き続ける事に。
「ここだ」
集合墓地と言っても素っ気ない。墓標に名前が書かれているだけだ。花が手向けられており、燐華は墓標に刻まれた鉄菜の名前をそっとさすった。
――この名前を見るまではまだ生きているかもしれないとどこかで思っていた。
そんな甘えた気持ちに決着がつけられてしまった。もう鉄菜はいないのだ。その現実を受け容れようとして、涙が頬を伝った。咽び泣き、燐華は墓標の前で項垂れる。
「鉄菜ぁっ……あたし、鉄菜がいないと駄目だよ。だって、もう会えないなんて」
その時、胸元の辺りで熱を感じた。ずっと抱き締めていた鉄菜から受け取った鉄片が淡い光を宿しているのだ。
蛍火のような輝きは鉄菜の魂の言葉のように思われた。
自分がいなくなっても、いつでも見守っている、と。
燐華は鉄片を抱き寄せる。この小さな熱にすがっていくしか、もう自分にはないのだ。
ぱたた、と小雨が降り出していた。コミューンの天候は雨を示していた。
傘を差し出したヒイラギに燐華は拒んでいた。
今は雨に濡れてもいい。この涙を洗い流してくれるのならば。こんな醜い感情を、綺麗にしてくれるのならば。
墓標と向かい合う。燐華ははっきりとした口調で言いやっていた。
「鉄菜……バイバイ」
もう、会えない。二度とここに来る事もないだろう。自分は一つ前に進むために別れを呑まなければならなかった。
まるで誰かが知ったかぶったかのようなこんな別れ文句しか言えないのが我ながら悔しい。
それでも、親友のために言葉を捧げられるだけマシなのだろう。
ヒイラギの傘に入って燐華は痛みを抱いた。
この世界のどこかに間違いでもいい、もし鉄菜がまだ生きていてくれれば。そんな考えに浸ってしまう事を、少しだけ許して欲しかった。