「志希~~! おーい! どこだー!!」
あたしは今日も失踪する。あたしのプロデューサーがあたしを探す声が聞こえるところで、あたしはいつもキミの捜索を待っている。今、キミはあたしの為だけに走っている。あたしのことだけを思っている。あたしのことだけを捜している。あたしはあたしの欲望だけで、キミを東奔西走させている。現場のスタッフさん達には申し訳ないことをしたなぁと思う。噓だ。世間的には申し訳ないことだと言われていることをしたなぁと思っている。申し訳ないとは微塵も思っていないのだった。あたしは身勝手だ。なぜなら、あたしは自由だから。
ふぅ、と少し溜息をついて空を見上げる。青い空に白い雲。レイリー散乱とミー散乱だと思う。即座にあたしの視覚野が映像を再生する。太陽が光を発する(核融合で生じたエネルギーの残滓だ)それが大気圏で微粒子又は水滴に当たって相互作用。波長毎に進行方向を曲げられて見事あたしの目に届く映像だった。もし水滴が微粒子程度の大きさだったら(逆も又然り)雲は見えなかったのだろう。そうすると、人類史上に雲という概念は存在しないことになる。いや、雨雲は存在するのかな? 雨雲が雲になって雲は無いものになるんだ。雲は雨を降らすものとしてしか認識されないわけだ。考えてみれば雲は曖昧な概念だ。雲と、雲未満の水蒸気濃度の高い空の境界は一体どこなのだろう。雲はいつ空から概念的に分離されるのだろう。あ、この話飽きたー。
無い映像を見たあたしは…………無い映像を見た? 無い映像を見た。あたしは映像を見たわけではない。厳密に言えば、可視光を網膜で捉えた訳ではない。しかし、それは明確に映像の形であたしに認識された。だから、あたしはそれを映像という括りで語った。映像は、可視光が断続的に網膜上で電気信号に変換されたものを指すのだろうか、それとも視覚野で処理される情報は、たとえ架空のイメージであっても映像情報なのだろうか。あたしが視ていたものは何? あたしが見ているのは青い空と白い雲。でもあたしにそれらは視えていなくて、代わりに視ていたのは見えない原子と波動と粒子だ。それは、いまもあたしを捜しているキミと同じだ。キミは色んな部屋をまわって、色んな道を辿って、色んな茂みをかき分ける。でも視ているのはあたしだけだ。あたしがいないと仕事にならないもんねー。かわいそー。
もし、いまここであたしが死んだら、キミは生きてるあたしを視続けて、あたしを見つけた瞬間にキミの中のあたしの情報はアップデートされて、ようやく死んだあたしを視る。あたしが死んでからあたしが死ぬまで、キミの主観上にタイムラグが生じる。それはなんてロマンティックなのだろうか。一瞬以上の区切られた時間の中で、あたしは生きていられるのだ。やっぱりこうしてキミにあたしの自由を押しつけてよかったって思う。キミの脳にあたしの生が刻まれている。あたしの生命の状態に依存せずに、キミの脳内にあたしの居場所がある。ん、あたしも今キミのこと考えてるし、もしいまキミが死んでいたとしてもあたしは生きたキミを視続けているから安心だね。あたしは死んだキミを見ることはないから(なぜなら、あたしはキミに見つけて貰うまでここを動くつもりはないのだ! そして死体はあたしを捜さない。いまのところはねー)
脳は統御を司る。ならば生は全身の統合だ。即ち死は混沌。エントロピーの増大だ。死は不可逆的だ。それはつまり熱力学第二法則への従属。生きてるあたしは凄くエネルギーが高くて(つまり活性化状態だ)今のあたしはとても反応性が高い。特にステージでライブやってる時なんか、もう反芳香性があるのかと錯覚しそうだった。それくらい、あたしはアクティブ。きっと死ぬときはすんなり死んでしまうのだ。熱力学的支配の反応だから、ゆっくりと、でも着実に、あたしは死に向かっている。人はみな、産まれた瞬間から死が決まっている。セックスは創造的な営みだ。つまりセックスは力学的な意味での仕事だ。セックスをすることで局所的にエントロピーが減少し、生命が誕生する。やがて生命に蓄えられたエネルギーが変換され、消費されていき、死という形で安定化する。結局、それだけの事象。高く掲げたボールが重力に従って落ちるのと、なんらの差も観測されない。
そう、誰も産んでくれなんて言っていないのに。だれも、あたしを高く掲げてくれなんて言っていないのに。それはあたしの両親の自由だ。人間は自分勝手だ。だからあたしは今日も失踪する。自分の勝手で。両親の勝手であたしとして蓄えられたエネルギーは、あたしの都合で散逸させる。まぁどうせなにをしようと同じだし。どのような経路を取ろうと最終的に宇宙は熱的平衡を迎えることに変わりはないのだから、自分の事しか考えないことが、きっと人生をよりよくしていく秘訣の筈だ。あたしたちは自由。自由でいると決めたあたしと、自由で居続けたい周子ちゃんと、自由でなければならないフレちゃんと、自由になりたい奏ちゃんと、自由に憧れる美嘉ちゃんとで、あたし達は、自由。あたしは自由意志でLiPPSの子たちと一緒にいる。この活性化エネルギーを、あたしはここに与えて燃え尽きたいのかもしれない。
キミは自由とは無縁だね。プロダクションに、取引先のお客さんに、あたし達に雁字搦めだ。あたしたちのことしか考えていない。それはキミの意志によるものなのかにゃ? あたしは知りたい。化学者に知ることができるのは、構成と変化と方式だけ。キミの電気信号と化学信号の回路が主観的に何をどう処理しているのか、あたしには推し量れない。それはあたしの分野ではない。でも、どうすればそれに介入できるかは知っている。匂いは、もっとも原始の感覚だ。記憶と密接に結びついて、脳を最も強く揺さぶる外部刺激なのだ。危険な匂いや、雨の匂い。人は思っている以上に匂いによって思考の自由度を制限されている。例えば……そう、こうやってキミの匂いがしちゃうとキミのことしか考えられなくなっちゃったりとか。
「志希……ここにいたのか」あたしの後ろからキミがようやく声を掛ける。待ちくたびれたよー。
「見つかっちゃったー。失踪しっぱ~~い」
「最近、志希を見つけるのが上手くなった気がする。志希の考えがすこしは分かってきたって事かな」そういってキミは笑みを浮かべる。
だからあたしも笑ってあげる。それは違うよ、って。
「にゃははは、どーだろねー」
あれま、ちょっと間違えた。まぁでもどちらにせよ同じ事なのだ。あたしはキミの組成を知っている。あたしはキミの機構を知っている。あたしはキミが外部刺激を処理する過程を知っている。あたしは化学者で、キミは物質だから――生命は統合された物質による連続的な現象だから――あたしはキミを、知っている。知り尽くしている。マクロでも、ミクロでも。具体的にはあたしの香りに混ぜ込ませた×××がキミの肺胞から血中に透過して、脳下垂体へ作用、キミの内分泌系が交感神経系を昂進させる。キミは散瞳して我を忘れて……そっから先は自主規制? まーそういう訳で、あたしのオーデトワレが、少しずつキミの記憶と認識を浸食して、キミは、じきにあたし無しでは渇望も癒えなくなる。キミはあたしに縛されて不自由に。本当はこんな手段取りたくなかったけれど、もう仕方ないよね。どんな経路を取ったって、キミがあたしのものになることには変わりないし。人工であれ天然であれ、意図的であれ偶然であれ、清浄であれ汚穢であれ、結果が経路に依存しないのであれば、それは単に価値観の問題なのだから。あたしは自由で、キミも自由。あたしの、キミの自由を奪う自由。
この30分間の失踪で、あたしはもっとキミの虜になって、キミはもっとあたしの虜になった。