東の剣聖   作:トクサン

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東の剣聖

 魔の国――侵攻六ヶ月と二週間目

 

 

 カレアと兼善の足取りは重かった。

 目的地である魔の国の城が大きくなる度に、来るな来るなと、内心で終わりの到来を否定した。その精神が足取りに出たのか、カレアが予想した一週間と言う日数を大幅に上回り、実に倍の時間を掛けて辿り着いた。

 ――辿り着いてしまった。

 

 それは城と言うよりも屋敷だった、西の上級騎士が住む様な洋館だ。確かに大きいがそれは前面だけ、後ろに回れば半分は一階建てで平べったい形状だという事が分かる。何よりその屋敷は酷く老朽化していて、その表面は罅割れ蔦が張り巡らされていた。

 中の気配を探っても人の気配はない、最早廃墟と口にしても相違ないだろう。二階に見える窓は硝子が破られ、地面に破片すら落ちている始末。

 

「――此処が」

 

 兼善は屋敷を見上げながら呟く。

 王が住むには少々、いや、かなり問題がある建物だ。周囲に下町がある訳でも無い、巨大な門がある訳でも無い、ただ民家の様にポツンと高台にあるだけ。何なら守衛すら居ないのだ、兼善は内心で疑問を持った。

 

「………」

 

 カレアは兼善の腕を掴んだまま沈黙し、俯いていた。ただ何を口にする訳でもなく、悲しそうに眉を下げて。

 

「カレア……行けるか?」

 

 兼善はカレアの手に自身の手を添え、問いかける。どちらにせよ辿り着いてしまった以上、進む他ない。自分達は自身の国から魔の国の王を討てと命じられた身、それは絶対である。

 すると彼女は俯いていた顔を上げ、それから無理に笑って「はい」と小さく答えた。その笑顔は酷く悲し気で、兼善の胸を穿つ。

 

 もう何日も碌に眠れていないのだろう、カレアの目元には隈が出来ている。

 あの平原に敵と言える敵は一人も居なかった、獣も、何もかも。

 故に二人は十分な休息が取れる筈なのだ、しかし兼善は知っている、彼女が毎晩声を押し殺して泣いていた事を。大した睡眠も取れず、ただ後悔し続けていた事を。

 

「…………もし」

 

 だからそれは必然だったのかもしれない。

 カレアが兼善を想う様に、兼善がカレアを想い、その逃げ道を、『もし』を作ったのは。

 そのまま何も知らず、真実も何もかも投げ捨てて生きていく可能性を示唆したのは。

 

「もしカレアが望むなら、此処で待っていてくれても良い、王は―――魔の国の王は、俺が討とう」

 

 打刀の柄を握って、兼善は優し気にそう語り掛けた。

 カレアの手に触れ、ただ真摯にそう口にする兼善は、成程、此処でカレアが頷けば確実に魔の国の王を討ち取り、戻って来るだろう。

 そして言うのだ。

 

 ――魔の国の王を討ち取って来た、と。

 

 カレアの瞳が揺れる。

 その視線の先には兼善が居る、ただ真っ直ぐカレアを見る兼善が。

 カレアはぐっと唇を噛んだ、血が出てしまう程噛み締めた。

 ここで頷いてしまいたい、心からそう思った。そして兼善の瞳からは、彼もそれを望んでいる事が分かった。正しく相思相愛、互いが互いを想っている。頷くべきだ、それが二人の幸せなのだ、そう確信していた。

 

「――大丈夫、です……ありがとうございます、兼善様」

 

 しかしカレアは断った。

 心から屈服してしまいそうになる甘い言葉を、兼善の最期の逃げ道を。他ならぬ自分自身で閉ざした。今にも泣き出しそうで、肩も震え、兼善の腕を痛い位に握り締めているのに。

 

「……そうか」

 

 兼善は小さく笑う、悲しそうに笑う。

 これから歩む道が茨のソレであると理解していて、尚も歩むと言う彼女。

 その強さに憧れた、素直に称賛を送った――故に受け入れる他無かった。

 

「なら行こう、俺達の旅を終わらせに」

「……はい、兼善様」

 

 カレアはぎゅっと腕を掴み、震えを押し殺す。本当ならば抱き着いて見っとも無く泣き叫び、その歩みを止めたかった。その時間はあったのだ、引き返す時間は、十四日間も。しかし彼女は止まる事をしなかった。

 何故か?

 それが彼女の抱いた、最初の願いだったからだ。

 

 

 

 

 屋敷の中へと足を踏み込めば、埃の立ち込める巨大なフロアが目に飛び込んで来た。三階を吹き抜けにして、天窓から日差しが差し込んでいる。崩れた手摺、埃を被ったマットレス、左右に伸びる半円型の階段は成程王族らしい。

 吹き抜けた三階には巨大な両開きの扉、下にも幾つか扉があるがどれも半ば壊れている。しかし三階のそれだけは妙に真新しく、その中央には金に光るエンブレムが刻まれていた。

 恐らくアレが王の間――東で言う天座に続く扉だろう。

 入ってすぐに王座へと続く扉とは、兼善は思わず苦笑してしまった。

 

「余程の自信家か、機能美か、或は信条か」

 

 兼善は微塵も警戒を緩めない。

 腰の打刀に手を掛け、その柄を常に握っている。カレアは既に兼善の腕から離れ、周囲を見渡しながらグレートソードに手を添えていた。

 兼善は階段に足を掛け、何度か踏み締める。流石に突然崩れる事は無いだろうと思う、しかし慎重に一段一段登って行った。じっくりと時間を掛けて三階に上がった兼善は背後にカレアが続いている事を確認して両開きの扉に手を掛ける。

 刻まれたエンブレムは左右異なり、右は四角の中に丸が一つ、左は四角の中に横線と星が幾つか。妙なエンブレムだと兼善は思った。

 

「カレア、準備は良いか?」

「……はい、兼善様」

 

 兼善はカレアに最後の問いかけを行い、カレアは酷く優しい顔で頷いた。

 それが何を意味するのか、兼善は薄々感じている。

 なら良い、行こう。

 そう言ってドアノブを回し、兼善は王座への扉を開いた。

 

 扉の向こう側は長い廊下だ。赤い絨毯に左右等間隔で並んだ燭台、しかしその先端にあるのは蝋燭では無く丸い球体。見た事の無いデザインだと思いながらも注意深く周囲を観察する、すると向こう側に広場が見えた。

 恐らく王座か、或はそれに類する空間。

 兼善が扉を潜り、次いでカレアも背に続く。

 廊下の長さは三十メートル程だろうか、それ程長くはないが短くも無い。途中脇に縁の錆びた絵や布が垂れ下がっていたが、それの意味するところを兼善は知らなかった。兼善とカレアは無言で歩き、廊下を進む。

 そうしていると、不意に今までの旅の記憶が蘇った。苦しかったし辛かった、苦難に次ぐ苦難の連続だ、これ程苦労した事など人生に一度としてなかったと断言できる。この旅を完遂出来たのは単にカレアのお蔭だ。彼女が居なければ兼善は此処まで来ようと思わなかった、或は今以上に時間を掛けていた筈だ。それこそ、一年以上の時を旅に費やしていたかもしれない。

 

「なぁ、カレア」

「………?」

 

 兼善は振り返る事無くカレアに声を掛ける、足音だけが木霊する空間に、兼善の声は良く響いた。

 

「ありがとうな――今まで」

 

 淡々とした口調だった、どこか突き放した言い方だった。

 しかしその言葉の裏に兼善は激情を秘めていた、唯それを外に出さんと抑え込んだために淡々とした口調になってしまっていただけ。カレアはその言葉に秘められた激情を感じ取り、肩を震わせたまま兼善の背をじっと見つめ――それから手で目元を拭った。

 

「……はい」

 

 そして王座の間へと続く廊下の終わり、兼善とカレアは其処に辿り着く。

 廊下の終わりには絨毯、カーペットを挟む様にして二つの旗が掲げられていた。しかしその表面は黒ずんでいて、何が描かれていたのかも分からない。兼善はそれを一瞥し、広い空間へと一歩踏み込む、そして其処から見えた光景に思わず息を呑んだ。

 

 天井は高く、部屋は広い。東にある道場よりも更に広いだろう、天座など比べ物にならない。外見からは予想も出来ない、まるで一つの建物を空っぽにした様な有様。所々蔦や瓦礫に埋もれているが、寧ろそれが幻想的な風景を作っている。廊下からカーペットが伸び、その先には数段の階段と椅子が一つ。豪華絢爛という訳では無く、しかし質素と言うには仰々しい。

 恐らくアレが王座だ。

 兼善は確信した。

 

 

 そして、その王座に座る人物が一人。

 

 

「………」

 

 兼善は打刀を握ったまま王座に座る人物――王に近付いた。転がった瓦礫を蹴飛ばし、蔦を踏み締め進む。誰も止める者は居ない、必ず居るだろうと確信していた守護者さえも。その人物は王座に寄り掛かったまま微動だにしない、そして兼善が近付き、その目前に立っても何の反応も返さなかった。

 それはそうだろう。

 

 

 

 

 

 ――王は既に死んでいた。

 

 

 

 

 

 ゆったりとした服、法衣とでも呼べば良いのか、天皇の纏う衣とはまた違った種の衣服。その端から覗く余りにも細い四肢、削ぎ落ちた肉はかなりの時間が経過した事を現わしている。伸びた金髪に顔は隠れている為、兼善は目の前の人物が男であった事しか分からない。

 王の手には一本の剣が抱えられていた、それは一目で宝剣だと分かるもの。魔の国の王族に伝わる剣か何かだろうか、しかし息絶えた王に抱えられたソレは既に輝きを失っている。

 兼善は王の亡骸、その首元に触れ脈を確かめた。

 ――いや、脈を確かめる必要もない。

 触れた瞬間に感じる冷たさ、それは生きている者の暖かさを微塵も感じさせなかった。

 

「………」

 

 驚きはしなかった。

 無論、予想していた訳でもない。

 ただ納得しただけだ。

 

「――此処に来るのは、何ヶ月ぶりだ?」

 

 兼善は振り向いてカレアに問いかけた。

 その声色はいつもと変わらず、ただ優しく、語り掛ける様に、カレアの耳に届いた。

 

 王座を下から見上げるカレアは兼善を見つめて、不意に表情を崩した。

 悪戯が見つかった様な子どもの、バツが悪そうな、誤魔化そうとしている様な、そんな笑いを浮かべて。

 

「えへへ、へへ…へへ…えっ、と……その…な…七ヶ月ぶり、くらい、です……かね」

 

 泣き笑い、カレアは笑いながら泣いていた。

 握ったグレートソードの柄が震え、固定したベルトにぶつかってカチカチと音を立てる。

 

「そうか」

 

 そう言って兼善は王座から降り、そのままカレア正面の階段に腰かける。

 この広い空間で二人きり、誰も邪魔はしないし、させるつもりもない。高い天井を見上げれば頭上には穴が空いていて、そこから日光が差し込んだ。本当に廃墟だ、誰も居ない、誰も住んでいない。

 これが魔の国の城だと言うのであれば肩透かしと言う他ない、だが事実此処は魔の国の王城であり。

 

 

 

 此処が他ならぬ、二人の旅の終着点であった。

 

 

 

「――色々な事があったなカレア、この旅、この任務、この土地で……色んな事があった」

「………はい」

 

 天井に空いた穴、そこから蒼穹を見上げる。

 憎たらしい程に青く澄んだ色は、兼善のぽっかり空いた穴を埋める事も無く、寧ろ虚無感を増長させるだけだ。しかしこの六ヶ月余りの旅、見上げればそこに空はあった。故に見上げると思い出すのだ、これまでの旅の道程を、その辛く苦しく、しかし幸せと楽しさに満ち溢れた時間を。

 カレアと過ごした時間を。

 

「此処で、御終いなのか、カレア」

「………………は、い」

 

 兼善が問いかければ、俯き、大粒の涙を零したカレアは頷く。

 そして震える手でグレートソードを抜き放ち、その切っ先を思い切り地面に突き立てた。大理石の床を穿ち、音は王の間に響き渡る。

 

「――儘ならぬモノだな、浮世と言うのは」

 

 武器を抜き放ったカレアを見て、兼善は寂し気にそう口にした。その瞳に闘志が宿る事はなく、ただ愛しい人を見る目でカレアを射抜く。それ以外は無用と言わんばかりに。

 それが酷くカレアの心を傷つけ、「くっ……ぅ、ッぁ」と口から嗚咽が漏れた。

 

「わたっ、私とてッ――私だってッ」

 

 腹の底から絞り出した様な声、突き立てたグレートソードを痛い程に握りしめながら、キッとカレアは兼善に瞳を向ける。

 

「ッ――も、元よりっ、許されぬ…ゆる、されぬッ夢でありましたッ!……幸せでっ、安らかで、甘美で、どうしようもなく弱い私を、私を……っ、兼善様は救ってくれたッ、だから私も、こんな、こんな事ッ、望んでなど……っ――!」 

 

 突き立てたグレートソードの柄を掴み、ズルズルと崩れ落ちるカレア。その頬には涙が伝い、ポタポタと地面に雫が落ちる。その表情は酷く歪んでいて、叫ぶ声は引き攣っていた。

 そうだ、こんな事は誰も望んでなど居ない。魔の国の王も、事情を知らぬ西の王も、そして東の天皇さえ。兼善も全てを知っている訳ではない、その悟りには限度がある。しかし確実な事もあった、それがカレアの身分について。

 

「――仇討ちか」

 

 兼善が小さく呟く。

 しかしカレアは勢い良く首を振って、「いいえ、いいえ!」と否定した。

 

「ちッ、父が死に、途方に暮れた彼ら(四魔将)は名誉ある死を選びました! 仇討ちなど、そんな……そんな彼らの誇りを汚す事は決して出来ませんッ! 私も、西の国にて多くの戦士の最期を見届けました……ッ、けれど最後まで、最後まで私は、私はッ、死ぬ事を許されなかったッ……!」

 

 泣きながら剣に縋りつき、叫ぶカレアは痛々しい。死ぬ事を許されなかった、つまり彼女を守った誰かが居たと言う事だろう。落ち延び、生き恥を晒し、それでも剣聖と共に歩んだ彼女は何を思ったのだろうか、何を願ったのだろうか。

 兼善には分からない。

 

「次代の王としての責務を、せめて、友を屠った英傑を――一目で良かった、これだけの剣で屠られた友を、あぁ、この人ならばと納得したかったッ! 剣聖と呼ばれた英雄の剣を見て、憧れ、尊敬し、この刃に掛かって死ぬのならばと思いたかったッ! 道中で命を落としても構わなかった、寧ろそれが正しかったのに、なのに……ッ、なのに私はっ」

 

 生きてしまった。

 そう囁く様に、力なく呟いたカレア。

 彼女は死に場所を求めていたのだろうか、或は四魔将を手に賭けた剣聖の手に懸かれば、自分もまた同じ場所に逝けると思ったのか。

 兼善は座ったまま打刀を鞘ごと腰から引き抜いた、そして目線に合わせたまま柄を引き、刀身を露にする。

 

「―――」

 

 啜り泣き、俯くカレア。

 兼善はその姿を視界に収めたまま、静かに立ち上がる。抜刀する音は周囲に鳴り響いた、兼善がその得物を抜いた事は分かっているのだろう。

 だと言うのにカレアは抵抗する様子もなく、武器を構える訳でも無く、ただ項垂れた様に首を晒し出す。

 

 命令は魔の国の王を討つ事、つまりその首である。

 カレアが知らぬ存ぜぬを貫き、あの扉の前で待っていたのならば。兼善は王座にて沈黙する前王の首を断ち、それを天皇に捧げただろう。

 魔の国の王を討伐しました、討ち果たして御座います、と。

 

 しかし、その王が現王でなく、次代を継ぐに足る王が、その素質を持つ子が居るのであれば殺さねばならぬ。その首を刎ね、禍根を断たねば嘘だ。此処でそれを見逃せば、それ即ち天皇に対する裏切り他ならない。東の国という祖国に対しても、これまで戦場を共にした莫逆の友に対しても、これまでに死んで行った武士に対しても。

 つまりこの事実を突き付けられた時点で、兼善は選択を迫られた事になる。

 

 

 国か、想い人か。

 

 

「死を望むか――カレア」

 

 一歩、一歩、カレアへと歩みながら問いかける。カレアは項垂れ、首を差し出したまま小さく、コクンと頷いた。

 

「その果てに何も得られぬと、そう知って尚、死を望むのか」

 

 もう一度、頷く。

 

「この俺を一人にするつもりか」

「……すみません、兼善様」

 

 兼善の悲しみを含んだ声、それに応えてやっと顔を上げたカレア、その顔は涙に塗れて酷いものだった。

 そんな表情で彼女は笑う。

 

「私は、死ぬなら兼善様の手で死にたい、大好きな人に殺されたい、半年前の私ならきっと、死ねるなら何でも良かった、けれど今は――兼善様じゃなきゃ、嫌です」

「――残酷な事を言う」

 

 最愛を手に掛ける辛さも知らずに。

 そう言うとカレアはへらっと表情を崩して、笑った。

 

「えへへ……すみません、私、凄く我儘で」

「知っているさ」

 

 良く知っているとも。

 我儘で、嫉妬深くて、愛が重くて、天然で、人懐っこくて、鈍感で、優しくて、愛らしい。

 兼善は世界で一番カレアを知っている、その自負がある。

 

 兼善が遂にカレアの直ぐ横まで足を進めた、その手には抜き身の打刀が確りと握られている。両手で柄を握り、兼善は静かに、ゆっくりと刀を上段に構えた。それを見上げたカレアは、そのまま俯いて首を晒す。

 所詮この身は剣聖、刀を振るう事しか知らぬ、能の無い男だ。生き残るために戦い続けた男だ、死にたくないから足掻いただけの男だ。盲目的に国を愛する訳でもない、絶対の忠誠を誓っている訳でもない、ただの小心者故、それを脱する勇気の無い、悲しい男だ。

 

 だからコレは、天秤に掛ける必要もない。

 いや、掛ける事さえ出来ない。

 己は想い人一人さえ幸せに出来ない、惨めな男。

 

「――最期に言っておきたい事はあるか」

 

 振り上げた刀身が差し込んだ光を反射し、兼善はカレアの後頭部を見つめる。その白い肌の首を刎ねなければならない、その吐き気を催す様な残酷な結末に耐えながら。

 

「あ……えっと、その、えへへ……痛いのは苦手なので、こう、一思いに、すぱっと、お願いします」

「……最後に言うのがそれか」

 

 どこまでも変わらないカレアの物言い、明るく溌剌としていて、兼善は思わず苦笑した。カレアも照れた様に肩を震わせ、ポタポタと手の甲に雫を垂らし、笑っていた――誰がなんと言おうと、彼女は笑っていた。

 

「兼善様――」

「何だ」

「大好きですよ、ずっと」

「――あぁ、俺もだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「なに、直ぐに逢える――少しだけ、待っていてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 この日、確かに二人の旅は終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 剣聖――――帰還。

 

 その知らせは東の国全土に瞬く間に広がった。

 魔の国の王を討つ為遠征に出ていた当代の剣聖、藤堂兼善が無事遠征より帰還し、更に魔の国の王を見事討伐せしめたと言う。過酷な旅をし、更には世界規模の偉業を成し遂げた剣聖を人々は歓声と共に迎え入れた。

 

 遠征期間、実に一年。

 

 片道に半年以上の時間を要し、彼の剣聖はたった一人で魔の国を堕としてみせた。何でも西の国の下級騎士百名、そしてパトリオットをも屠った準魔将を始め、守護者と呼ばれる猛者も軒並み斬り伏せたと言う。

 剣聖に敵なし――東の剣聖は無敵也。

 その偉業は西の国にも広まり、騎士の間でも剣聖の名は轟いていた。

 

「良く、良くぞ――良くぞ戻って来た、兼善……!」

 

 場所は天座、兼善帰還の報を聞いた天皇は居ても立ってもおられず、帰還したばかりの兼善を呼び寄せた。一度湯浴みをし、身支度を整えてからと考えていた兼善だが、天皇からの熱い要望に応え旅装束のまま天座へと赴き、天皇の正面に座している。

 戦の甲冑に腰に差した打刀、頬当ては首に掛かっているが恰好は合戦時のそれ。表面には幾つもの傷が見え、兼善自身どこか薄汚れていた。しかしソレを汚い等とは決して思わない、この一年王を討つ事だけを考え、邁進したのだろう。

 周囲が兼善に向ける視線は尊敬と羨望のそれ、誰も成し得ない無理難題を果たした兼善を無下に扱う者など誰も居なかった。

 天皇に至っては涙さえ浮かべ、その身を乗り出して兼善の無事を両手を挙げて喜んでいる。更に手傷を負わせるだけでも構わない、それだけでも偉業だと言っていたと言うのに、本人は討伐を成し得たと言うではないか。

 天皇は凄まじく感動していた。

 

「良かった、本当に良かったぞ兼善っ、西の増援が全て殺され、主も帰還せずの報を聞いた時は、心の臓が止まるかと思った、しかし主はそれすらも斬り伏せ、見事魔の国の王を討ち取ったのだな!」

「――ハッ、例え四魔将に匹敵しようとも、この剣聖負ける道理はありませぬ、魔の国の王も生粋の戦士ではなく、王で在り、剣であれば必勝、無事御役目を果たす事が出来ました」

「朕は、朕は主に掛ける言葉が見つからぬ――この偉業、どう讃えれば良いか!?」

「その御言葉だけで、この兼善、天にも昇る気持ちで御座います」

 

 どこまでも真摯に、淡々と言葉を述べる兼善。周囲が浮足立っていると言うのに当の本人は冷静と言うより、淡泊ですらあった。しかし天皇は咎める様な真似はしない、それは周囲の衛士も同じだ。

 一年間も常に戦場に居た様な状態、常人ならば精神が狂ってもおかしくない。故にその疲れが出ているのだろうと、そう考えたのだ。天皇は目元を袖で拭った後、「済まぬ、朕とした事が主の疲労を見抜けなんだ、帰還早々呼び立ててはな――ここ一月は暇を出す、ゆっくり休んで欲しい」と笑った。

 

「――いいえ、申し訳ございません、天皇様、暇を頂く前に、一つ見て頂きたいモノと、お願いが一つ御座います」

「……?」

 

 天皇が退室を促そうとして、しかし兼善は遮る様に頭を下げた。本来ならば不敬に当たるだろうが、そこは剣聖、恐らく火急の用があるのだろうと浮きかけた腰を落とす。

 その様子を見ていた兼善は、懐から折り畳まれた紙をそっと取り出した。

 そしてそれを持ち、天皇へと差し出す。

 

「ふむ……兼善よ、これは一体」

「はっ、魔の国の王、その遺髪に御座います」

「おぉ……!」

 

 天皇と、そして衛士から感嘆の声が上がる。それは正しく魔の国の王を討った証、天皇が恐る恐るといった風に紙を受け取り、中を覗けば。

 そこには金髪の髪がひと房、束になって収まっていた。

 

「これが、魔の国の――」

「はい、髪の先を少々、それと王が使用していた宝剣を回収して参りました、天座へ赴く前に黒田殿に手渡して御座います、後程確認して頂ければ」

「そうか、そうか! 良くやった、討伐の証、確と受け取ったぞ兼善」

「はっ――」

 

 深く頭を下げ、両手を着く兼善。魔の国の王を討った証、それが無くとも剣聖を疑う者など一人として居ないが、あれば確実なものとして讃えられよう。天皇は上機嫌に遺髪を畳み、傍仕えの一人へと手渡した。

 

「して、見て欲しい物がコレだと申すならば、願いとやらは何だ、此度遠征は実に見事だった、元より褒美を取らすつもりであったが、主の望みなら何でも叶えよう、さぁ申してみよ」

 

 上機嫌に体を揺らし、先を促す天皇。兼善は深く頭を下げながら、「有り難き幸せ――どうかこの願い、聞き届けて頂きとう御座います」と口にした。

 面を上げた兼善は、真っ直ぐ透明な瞳で天皇を見る。それは一秒にも満たない時間であったが、天皇は何か言い知れぬ、不安の様な感情を抱いた。その瞳が余りにも透明で、欲も願いも、何もかもが一切見えなかったからだ。

 

 兼善は腰に差していた打刀を鞘ごと抜き出し、畳に切っ先を向け立てた。そして柄を持ち、少しばかり刃を露出させる。その行為を衛士はじっと見つめていたが、決して動く事はない。剣聖が天皇を害するなど微塵も考えていないのだ、それに仮に剣聖が殺す気であれば、たった六人程度の衛士など障害にすらなり得ないと理解している。

 彼等は天皇を含め、兼善に全幅の信頼を置いていた。

 

 兼善は露出させた刀身を天皇に見せつけ、再度納刀する。

 カチン、と小さな音が鳴り響き、鞘と鍔がぶつかった。

 

 ――金打(キンチョウ)

 

 即ち、武士の誓いである。

 刀とは武士の魂、祖国への忠誠、天皇への敬愛であるとされる。

 兼善は金打を行った刀を畳みの上に置き、それを天皇の前に押し出した。

 四魔将を斬り伏せ、守護者を斬り伏せ――魔の国の王すら断ったこの刀、それ差し出し、手放す事で誓いとする。

 兼善はその場から一歩分下がり、額を地面に擦り付け、告げた。

 

 

 

 

 

 

「藤堂兼善、本日を以て剣聖の地位を退き――東の国を出奔致します」

 

 

 

 

 

 

 絶句、その一言に尽きる。

 兼善はそう告げるや否や素早く立ち上がり、天座より凄まじい勢いで退室した。思わず衛士も止め損ね、全員が石像の様に固まってしまう。相手の隙を突き逃亡した兼善を見て、天皇はハッと意識を取り戻した。

 

「出奔、出奔、シュッポン――出奔ッ!?」

 

 天皇の叫びに衛士も自我を取り戻し、ワタワタと慌てふためく。よもや剣聖がその地位を返上し国を出る等と言い出すとは、誰に予想が出来よう。

 天皇は余りの事態に混乱し、冷汗を掻き、それからカラカラになった口で命令を飛ばした。

 

「か、兼善を追えッ! ならぬ、兼善を国から出してはならぬぞッ! 何でも叶えてやるとは言うたが、そればかりはならぬッ!」

 

 涙目で、必死に叫ぶ天皇を見て衛士は互いに頷く。事天皇の命令には死ぬ程忠実な狗、それが衛士である。六人の内四人が外に駆け出し、「剣聖殿ご乱心! 剣聖殿ご乱心ッ! 兼善様を国から出すなッ!」と叫んだ。本殿は一瞬にして混乱に呑まれ、当の兼善は自室に戻り予備の打刀を掴むや否や外へと駆け出す。

 途中、一年前に傍仕えであった女性と鉢合わせ、「剣聖様ッ?!」と驚愕されたが、「すまんな」と一言口にし、振り返る事無く駆けた。道中廊下で二人の在中護衛が立ち塞がり、刀に手を掛けながらも困惑顔で兼善を迎え討つ。

 

「け、剣聖様、一体何が――!」

「御免」

 

 ぬるりと兼善の体が加速する。

 擦れ違いざまに二撃、抜刀時の勢いそのまま腹に柄で一撃、そして逆手に持った刀の峰でもう一人の首を叩く。如何に刃は無くとも鈍器に近い、ゴッ! という鈍い音と共に衝撃が走り、一人は腹を抱えて悶絶し、もう一人は首を抑えて這い蹲った。

 

「剣聖様!」 

 

 背後からもう一人、在中護衛が二人やられたと見るや否や、躊躇い無く腰の刀を抜刀しようとする。

 それを見た兼善は一息の内に肉薄し、その柄に手を押し当てた。カチン、と音が鳴り抜刀する筈の刃は鞘に収まる。男は一瞬にして抑え込まれた事に愕然とし、その顎を柄で打ち据えられもんどり打った。

 

「許せ」 

 

 それだけ言って兼善は本殿を抜け出す、下町に逃れれば後は容易い事。人に紛れながら時折裏路地を使い、家の合間を縫って波止場に向かう。途中剣聖だとばれない様にローブを纏い、バレた時は全速力で逃げ出した、剣聖は逃げ足も剣聖なのだ。

 船主には既に話をつけており、自分が来たら直ぐに船を出す様に言い含めてあった。相手が魔の国の王を討った剣聖なだけに、船主は何の疑いも無く頷いた。一年前に兼善が世話になった男だ、ある程度融通も利く。

 

「すまん、遅れた」

「あぁ、剣聖様、お帰りなさいませ」

 

 波止場に辿り着いた兼善を船主は出迎える。

 下町から防衛柵を抜けた先にある波止場、其処に駆け足でやって来た兼善は旅装束のまま木船に乗り込む。大した休息も無く戻って来た剣聖に、船主は若干の疑問を覚えながらも、「極秘の任務やもしれぬ、余計な口出しは無用だろう」と船を漕ぎだした。

 そして徐々に船は東の国を離れ、やがて下町から慌てて何人かの武士が出て来るのが見えた。その慌てぶりは悲惨の一言。

 

「ふふ……鈍間め」

 

 兼善は小さく笑い、腰の打刀を抜いて腰かける。

 ともあれ、こうして藤堂兼善は剣聖の地位を捨て、東の国を発った。

 その背に彼の名を叫ぶ同胞を残して。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「それでは剣聖様、どうかご無事で」

「あぁ、なに、ちょっとしたお使い程度だ、何ら問題は無い」

「はぁ……えっと、こちら頼まれていた物です、食料と水と塩、その他諸々入っております」

「あぁ、すまないな」

 

 三時間後、兼善は東の国から最も近い海岸に降ろして貰い、それから予め頼んでいた物資を受け取る。事前に船主には出立する事を伝え、物資の調達を頼んでいたのだ。剣聖の名を使えば大抵の物は揃う。

 尤も二度とその名を使う事は無いだろうが。

 

「では、私はこれで」

「あぁ、朗報を期待しておけ」

 

 渡された風呂敷を背負い、兼善は背を向け、男は東の国へと船を漕ぎだす。恐らく帰ったら衛士辺りに問い詰められるだろうが、その辺は勘弁して欲しい。運が悪かったと思って諦めてくれ、恐らく処罰はされないだろう。

 兼善は男の背に一礼し、風呂敷を背負い直した。

 

「さて、これで自由か」

 

 大きく息を吸った兼善は海岸を歩き、空を見上げる。その突き抜けた青を見上げると、あの旅の事が脳裏に過った。行きに半年、帰りに半年、随分長かったものだ。

 ザックザックと海岸を歩いていると、不意に聞きなれた足音が耳に届いた。その方に顔を向ければ、見慣れた姿が目に飛び込んで来る。思わず兼善の顔から笑みが零れた。

 

「――済まない、待たせたな」

 

 兼善が小さく笑ってそう告げると、影は兼善目掛けて突っ込んで来た。

 結構な勢いで突っ込んで来た影に兼善は苦笑する、甘える様に喉を鳴らし、何度も頬を擦り付けて来る。兼善は溜息を吐きながら頭を撫で、名を告げた。

 

「銑鉄、待っていてくれて有難う、これから先もお前の足が必要だ」

 

 頬に鼻先を押し付ける銑鉄を撫で、兼善は笑う。一通りじゃれて満足したのか、数歩離れた銑鉄はそのまま背を差し出した。兼善は相変わらず察しの良い馬だと思いながら飛び乗り、その鬣を撫でる。

 

「さて、行こうか銑鉄――場所は分かるだろう?」

 

 兼善がそう言えば、銑鉄は嘶いて風の様に駆け出す。

 最早姿を偽る必要のない銑鉄は、その本当の姿――魔馬と呼ばれる力を十全に発揮し駆けた。肥大化した四本の脚に赤く光る眼光、逆立った鬣。もしコイツが旅の初日から本気を出していれば、その日程は大きく短縮出来たろうに。

 兼善は少しだけ惜しくなって、腹いせに鬣を一本抜いてやった。

 

 キッカリ一時間、普通の馬ならば倍の時間は必要だろう。荒野に踏み込んだ兼善と銑鉄は周囲を見渡す。障害物の少ない荒野では目印一つだけでも得難い、しかし銑鉄が居るならば別だ。

 彼は走った道を全て記憶し、騎手を目的地まで確実に運ぶ。そして周囲を探す事数分、兼善は見慣れたテントを発見した。

 

「あった」

 

 兼善とカレアが旅で使用した、茶色のテントだ。銑鉄の方向を調整し、そのままテントに近付く。テントの周囲には幾つかの荷物と、それから焚火の跡。煙は昨夜の内に消したのだろう、灰が少しばかり残っているだけだ。

 そして足音に気付いたのか、そのテントから一人の女性が飛び出して来た。

 

 見慣れた女性だ。

 そう、何度も見た。

 

 

「兼善様!」

 

 

 満面の笑みで自身の名を呼ぶ女性。

 

 カレア。

 

 兼善は銑鉄から飛び降り、無言のまま手を広げた。瞬間カレアは駆け出し、兼善の胸に飛び込む。しかし甲冑を着ていた事を失念していた兼善は、勢いよくカレアとぶつかり、「ふぐッ」とカレアが苦悶の声を上げた。

 思い切り抱きしめるものの、胸にカレアの柔らかい感触が無い。甲冑が酷く邪魔だった、しかし抱きしめる事は止めない、カレア成分が欠乏しているのだ。

 

「痛かったです……」

「すまん、許せ、だが離さんぞ」

「離れませんよぉ~」

 

 ぐりぐりと鼻先を兼善の首元に埋め、カレアは笑う。その表情に悲しみの色は無く、太陽の様に眩しかった。やはりカレアは笑顔が似合う、それもとびきりの笑顔が。

 カレア可愛い。

 一分ほど存分に成分を補給し合った二人は、顔を見合わせてだらしなく笑う。それから兼善を見上げたカレアが問いかけた。

 

「兼善様、東の国は大丈夫だったのですか?」

「応とも、キッチリ、キッパリ、辞めてやった、俺の誇る刀も置いてきたし、問題無い、今日から自由の身だ」

 

 元々立場に拘る性質でもない、剣聖など所詮肩書に過ぎないのだから。それが無くとも兼善は世界で最強なのだ、技で競うならば並び立つ者無し。兼善が一切の憂いなく断言すれば、カレアは少しだけ申し訳無さそうに眉を下げた。

 

「すみません、私の為に」

「なに、これまでで十二分に祖国への貢献は果たした、これ以上は自力で何とかして貰うまでよ、それに好きで出奔したのだ、カレアの為だが、俺の為でもある、だからそんな顔をするな」

 

 カレアの頬を両手で挟み、兼善は満面の笑みを浮かべる。その頬の感触をぷにぷにと楽しみながら、あぁ自分は正しい事をしたと思った。茶化す様にカレアの頬を堪能する兼善に、カレアは最初こそしおらしくしていたが、段々とフラストレーションが溜まったのか「ん~っ」と兼善の頬に手を伸ばす。

 

「兼善様ばっかりズルイです、私にも触らせてください!」

「うん? 男の頬など摘まんでも面白く無いだろうよ」

「兼善様の頬だったら面白いのです!」

「良く分からんな」

 

 いーっ、と言いながら兼善の頬を引っ張るカレア、まぁカレアが楽しいのならば良しとしよう。互いに頬を満足するまでフニフニする、やはりカレアのフニフニ感は素晴らしい、カレアはどこを触っても柔らかい、凄いと思う、カレア凄い。

 

「ふむ、しかしこれからどうするカレア、何処かに居でも構えるか? それとも新天地を目指して旅でもしてみるか?」

 

 兼善が満足しカレアの頬から手を離すと、彼女もまた兼善の頬から手を離す。そして互いに至近距離で抱き合ったまま、今後の予定を立て始めた。

 

「ん~、兼善様とお家で生活と言うのも捨てがたいですし、また旅をするのも楽しそうです」

「そうか、そうなると適当に旅をしながら居を構える土地探し、なんていうのも良いだろう」

「わぁ! それ、凄く素敵ですね!」

 

 夢のマイホームを手に入れる為、理想の土地を探す旅。少なくとも王を殺す旅なんぞより何倍も良い、何と希望に溢れた旅か、考えるだけでも胸が躍る。カレアも同じなのか、瞳を輝かせて何度も頷いた。

 

「なら決まりだ、家を建てる絶好の土地を探す旅に出よう、見つけたら家を建てて、のんびり暮らせば良い」

「はい! 兼善様との新生活ですね!」

「応、新婚生活という奴だな」

 

 二人で向かい合って、へらっと笑う。

 カレアは兼善の新婚生活という言葉に、「じゃあ私は御嫁さんですか!?」と弾んだ声で問いかける、兼善は大きく頷いた。カレアは妻で、兼善は夫だ、戸籍など無い身だが昔は事実婚という奴があったらしい、ならばもうそれで良いだろう。

 そもそも互いに想い合っている男女が一つ屋根の下住むのなら、それはもう結婚していると言って良いのでは。

 あ、もう結婚してたわ。

 

「良し、今日からカレア、お前はカレアだ」

「? ――良く分かりませんが、分かりました!」

 

 兼善の意味不明な発言に、カレアは首を傾げながらも元気に返事をする、大変宜しい。

 

「つまり、カレアはもう魔の国の王でもないし、最後の守護者でもない、ただのカレアで、それ以上でも以下でもない、そういう事だ」

 

 カレアを強く抱き締めながら兼善は真っ直ぐ目を見て言う、それは今までの人生を捨て、新しい道を歩むために必要な事だ。カレアは兼善の瞳を見つめ返しながら、嬉しそうに頷いた。

 そして新しい道を往く以上、それは兼善自身にも言える。

 

「そして俺も、ただの兼善になる、剣聖でも無いし、藤堂の名も捨てる――【東の剣聖】は今日、たった今、死んだ」

 

 新しい道の為に、旧き道を捨てる。

 その分岐は大きく未来を変えるだろう、或は国の在り方さえも。しかし兼善はそれでも構わないと思った、苦しい人生になるかもしれない、辛い人生になるかもしれない、けれどその先で兼善は後悔だけはしないだろう。

 あの時、カレアの首を斬り落としていれば。

 正しい道に進めたかもしれない、幸せな未来があったかもしれない。

 けれどきっと――兼善は生涯後悔し続ける。

 

「さぁカレア、行こう、此処から先は何もない、何をしても良い、何をしなくても良い、自由だけがある」

 

 カレアの手を引き、荒野のただ中に立つ。

 その視界の向こうに見える山脈、その向こうの森林、そして平原。

 兼善とカレアが旅をし、乗り越えて来た困難の象徴。

 兼善はそれらを見据え、それから振り向き、溌剌と笑った。

 

「覚悟しろ、死ぬ程幸せにしてやる」

「ふふん、兼善様、甘いです! ――私は今でも死ぬ程幸せですよ!」

 

 カレアは兼善の手を、兼善はカレアの手を確りと握る。

 互いの温もりが伝わり、二人は相手を見つめ、それから満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 あの日、確かに二人の旅は終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 ――いや、もしかしたら。 

 

 

 

 二人の旅は、この日に始まったのかもしれない。

 

                                          

 

 

 

 了

 

 

 




 東の剣聖、無事何とか完結しました。
 期間は一ヵ月程でしょうか、個人的には今まで書いて来た中で一番ハッピーエンドです。
 色々ヤンデレをブッ込みたかったのですが、地下闘技場の方で多キャラヤンデレを行うと十五万字程度では収まらないと実感しました(技量が無いとも言う)
 本当なら天皇様とカレアの絡みとか書きたかったのですが、それは幻の第二部になりそうです。
 ともあれ、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 もし続くとしたらこんなもの。
 
 剣聖を退いた兼善、しかし東の国に剣聖不在の報を聞いた西の国が東へと攻め入る。
 西の猛攻を防ぎながら剣聖を探す天皇、そして派遣された一人の武士が兼善を遂に見つけ出す。
 託されたのは天皇直筆の勅命、そして過酷な旅に派遣された武士は命を落とし、彼の命懸けの手紙を握り締めた兼善は――


 恐らく続編はありません、上記は未来の私が読み返した時に「あぁ、こんな続き書こうとしたのか」と思い出す為のものです。
 次回作は何を書こうか、未だ決まっておりませんが近い内に何かしら投稿すると思います。 
 ではでは、本作をありがとうございました。

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