日差しが強く白くて大きな入道雲が山の向こうにあった。
自分の人生が変わったあの瞬間の光景はいつだって思い出せる。きれいな写真のように残る記憶。ただその内容は他人に聞かせるようなものではなかった。
「君の両親が我々にいくらの借金をしていると思う?」
水道とトイレだけがある畳の六畳一間は自分の家であった。帰る気が起きなかったとしても、そこで以外で帰る場所というものはない。学校以外の時間はほぼ全てアルバイトに費やしているとはいえ、帰る場所はそこだったのだ。
家に帰れば両親のどちらかがいる。彼らはいつだって寝転がって酒を飲んでいるか、知らないだれかとの肉体的な交友をしていた。それが嫌で出来るだけ家にはいないようにしていたのだが今日は帰る必要があった。
久しぶりに彼らからの連絡があったのだ。話があると。これまでの事と、これからの事。自分たちが今までないがしろにしてきた事について話さないか、という伝言をアルバイトの店で聞いた時はどういうことだと困惑したものの、嬉しかった。
若い自分は、これを契機に良い方向に進んでいくだなんて考えていたのだ。
待っていたのはガタイのいい男数名と、いい身なりをした妙齢の人物だった。
家に入って何も理解ができていない自分の両脇を抱えたガタイのいい男に連れられて大型のボックスカーの中に押し込まれた。後部座席は向かい合わせになっていて、後ろのほうの席に自分とその両脇に男二名。向かい側に妙齢の男とガタイのいい男が一人座り、車が走り出す。妙齢の男が口を開いた。
「今時エアコンもないあんな場所で長々と話なんてしてられないからな。それに、結局君は移動する羽目になるのだし、物事は合理的にというわけで強引だがこうさせてもらった」
その言葉の後に先ほどの質問が来たのだった。自分の両親の借金の額だなんて知るはずもない。
「すいません。知りません」
まあそうだろうなと相槌を打った彼は隣の席に置いてあった鞄の中から台帳のようなものを取り出してパラパラとめくり、そのページを見ながら言った。
「そうだな、細かい数字は省いて二億五千万だ」
は? という声すら出ていなかっただろう。
「さらにこの中で一億円の利子は単利だけど残りの一億五千万は複利になってる。借りてる場所がそれぞれ別だからこうなってる……って言ってもまだ高校二年生の君にはわからんか。
とにかく、君の両親は一般的に言って莫大な額の借金がある、ということを理解したかな?」
「は、はい。あなた方はその借金を取り立てに来たということでよろしいのでしょうか?」
「理解が早くて助かるよ。さて、じゃあ取り立ての話に入ろうか」
妙齢の男は満足そうにうなずくと、懐から煙草を出して吸い始める。
「ええ、しかし、僕の両親の借金はまさかとは思いますが僕が返済するだなんてこと」
「あるね」
顔が歪むのが分かった。そんなむちゃくちゃな話があるかと叫びたい気分だったが、目の前の男の機嫌を損ねることは不利益しか生まないと頭でわかってしまっていた。故に、ぐっと言葉を飲み込んで叫びたい衝動を抑え込んだ。
「まあ、といっても先ほど話した満額を返済してくれって話じゃないんだ。君の両親がいくらか返済してくれてるからね」
「それはいくらなんですか?」
「残りはざっと二億円くらいかな。死ぬまでとは言わないけど返済できるくらいの額だから安心していいよ」
不可能だ。という計算はすぐだった。その額を自分が働いて返すのはいつになることだろう。月にどれほどの返済額が必要なのだろう。利息で返済額はなおも増えるだろうし、考えれば考えるほどに無理だという結論の補強にしかならなかった。
「今、無理だって考えただろう?」
妙齢の男がそう聞いてくる。
「……はい。どう考えても、僕がどれだけ働いても完済は不可能だと思います」
そりゃそうだろうなあと彼は言った。しかしその後、前傾姿勢になって顔を近づけてきた彼はニヤリと笑いながら言うのだった。
「完済方法がある。それも比較的早い段階で返せる当てがある。君が協力的でさえあれば」
その提案に頷く以外に生きる道はないものと思えた。
×××
「あらあなたが新入社員の?」
人生で初のスーツはあまり慣れないものの、これからはこれが普段着だというくらいに慣れなくてはいけない。これから社内を案内してくれるという緑色の制服を着用した女性にはいと返事をしてお辞儀をする。
「これから半年ほどは試用期間ということでお世話になります!」
「いえいえこちらこそ。私は千川ちひろと申します。ここ、346プロダクションの事務員をしています」
346プロダクション。今日これから働き、その後も働く予定の場所だ。妙齢の男からは人外魔境の伏魔殿なんて紹介を受けていたが来てみればまったくそんなことはない。入口は綺麗な噴水があり中に入れば荘厳な階段。外装にこだわりがあるだけではなく仕事場などは効率が重視される内装も整っている。パッと見てみれば自分なんかが就職できるような場所ではない。もっとエリートな人物が入るべき場所であるように見えた。
その後、千川さんに案内を受けて346プロダクションを案内される。とりあえずは特に自分が使うだろう部屋と知っておくと便利な場所が中心だ。他の細かな場所は過ごしていくうちに自然とおぼえるだろうということだった。
「ええっと、確かあなたはプロデューサー、ということで就職なさったんですよね?」
「はい、そうです」
「そうですか……では、最後に紹介しなくてはいけない場所がありますね」
千川さんは先程までのにこやかな表情から一転して真剣な表情でそう言う。なんだというのだろう。脳裏にあの妙齢の男の人が言っていた言葉が蘇る。
“君にはこれから346プロダクションという場所でプロデューサーをやってもらう”
“もちろん拒否してもいいが、その場合は君がさっき前考えていた通り返せるかもわからない額の借金を返済し続ける日々だ”
“プロデューサー業は何があろうとやめてはいけない”
“全うしろ。そしてできるだけの努力を惜しむな”
“そうすればまあ、あの人外魔境の伏魔殿から生きて帰ってこれるかもしれない”
“まず半年は試用期間だ。そこで潰れてくれるなよ? その後は五年間働けばいい。そうすれば君は自由だ”
二億円もの借金が五年間でチャラになる。うますぎる話だが乗らなければそれこそ地獄だ。乗らないわけにはいかない。
「その、最後に紹介する場所というのはどこなんですか?」
「女子寮です」
なんだそんな場所かと思うと同時、なんとなくドキドキとした。こちらは高校二年生。アイドルだなんて天上の人たちが住む場所を紹介されるともなれば心踊るというものだ。先ほどまで思い浮かべていた不吉な予感なんて秒でどこかへ行ってしまった。
「プロデューサーともなればアイドルの送迎とかで必要だからですか?」
「まあそれもそうなんですけど……これはなんというか説明だけしてもわかりづらいというか、信じがたいというか……」
千川さんがそう言葉を濁すのを不思議に思うも、考えたって結論は出ないので忘れることにした。
そうして連れられてやってきたのは女子寮。外観だけでもこれぞオシャレなマンションという風体であり、ここにアイドルが住んでると言われればそれもそうだろうと納得できる。一応管理人の方に面通しをして、今日はもう帰りましょうと千川さんと一緒に女子寮を出ようとすると帰ってきたのであろうアイドルに鉢合わせた。
「むっ?」
「おっと?」
二人の反応は違ったが行動は一緒だった。そろって左に首をかしげてこちらに近づいてくる。
「あの、千川さん彼女たちは」
「えっ、あ、そ、そうですね。彼女たちもアイドルですよ」
それを聞いて彼女たちはグイとその視線を千川さんに向ける。
「というとその人は!」
「プロデューサーだねっ!」
元気のいい少女だった。一人は青の瞳を輝かせて、ロングの髪の毛を逆立てるんじゃないかというくらいのやる気を見せている。もう一人の少女は三つ編みのツインテールが逆立ってピコピコと動いていた。上下に動く様子は自然と目で追ってしまう。髪の先端についている髪飾りが光を不規則に反射させる。
えっ、とそのあまりに現実離れした光景に目を奪われて彼女たちがする質問にすべて素直に答えてしまう。
「年齢は?」
「十七歳です」
「趣味は?」
「これと言ってないです」
「なぜプロデューサーに?」
「それは……それはまあいろいろあって」
「アイドルをプロデュースする気はある?」
「やるからには全力でやります」
「ヒーローは好き?」
「かっこいいと思います」
「ゲームは好き?」
「昔やったことがあるけど面白いと思いました」
そうしているうちにハッと意識を取り戻す。なんだったんだ今のは? まるで魔法か何かを使われたみたいにホイホイ素直に答えてしまった。自分の様子を見ると彼女たちはまたねーと言いながら立ち去って行った。
「あの、千川さん」
「ああ、質問は帰ってから受けます。このままここにいるとさっきみたいなことを何度も経験することになりますよ」
先に歩いていく千川さんをあわてて追いかける。女子寮から出ようとすると妙に後ろが気になった。振り返るとそこには誰もいない。ただ、床に一つ落ちているリボンがあったので管理人さんに渡しておこうかなんて思い拾い上げると指先に小さな痛みが走った。
小指の第二関節のやや上に細く赤い線がある。自分の血だった。何故と疑問に思うその間に傷は元からそこになかったように消えてしまう。それはリボンも一緒だった。
不思議に思っていると千川さんの自分を呼ぶ声が聞こえた。小走りで女子寮から出るとなんだか今までが夢か何かであったのではないかという気さえしてくる。浮ついた気分のまま事務室に戻ると、千川さんが目の前に一本の栄養ドリンクのようなものを差し出してきた。
「飲んでください」
「いいんですか?」
「はい。一本で十分でしょう。ぐいっといってください」
彼女に促されるままにぐいと飲むとその味は何とも言い難いがおいしいということだけがわかる。味覚が感じたそれを表現しようとすると言葉の不便さに気が付くような、未知の味だった。神秘的というか常軌を逸しているというか、不思議な味だった。
飲むとなんだか先ほどまで翻弄されっぱなしで疲れた精神が癒されるような気がする。
「ありがとうございます。なんだか落ち着きました」
「いえいえ、いいんですよ」
千川さんの笑顔がまぶしい。まるで彼女自身が輝きを放っているかのような後光が差しているようにさえ見える。目を擦るとそんなことはもちろんなくて、一瞬彼女の顔が幾千もの変貌を遂げたようにも見えたがもう一度目を擦ると特に変化はないように思えた。
「そういえば先ほどのことなんですけど、いったい何がどうなったんですか?」
とりあえず一息ついたので千川さんにそう聞くと彼女は顎に手を当ててそうですねえと悩みながら話しはじめる。
「その、アイドルについてどの程度ご存じですか?」
「歌ったり踊ったり……ライブとかテレビに出たりする職業というくらいです。勉強不足で申し訳ないです」
事前にある程度調べはしたものの、アイドルのやることというのは多岐に渡るようだということしかわからずにいた。正直に言えば多すぎる。テレビにしたってバラエティーにもドラマにもアイドルは出るのだ。
「あー、そうですね。職業としてはその通りです。では、その語源というか、彼女たち自身の存在をどの程度ご存知ですか?」
「えっと、語源は確か“偶像”です。彼女たちの存在と言いますと、現役のアイドルの方々ということでしょうか。すいませんが、本当に有名な方ぐらいしか知りません」
そう言うと千川さんはうーん、と悩んだ様子でこめかみのあたりをぐりぐりとした。その後にふうと深いため息をついた後に一から説明しますと言って話し始める。
「偶像の意味は知っていますね? 神仏をかたどった像のことです。なぜアイドルがそのような名称で呼ばれているかわかりますか?
ああ、一般で言われてる意味ではないです。アメリカで若者の人気者だなんて意味で呼ばれ始めたなんてのは後付なんです。
本当は本来の意味そのままの意味で彼女たちはアイドルです。
ただし、形作られたその元は神仏だけとは限らないのですが、彼女たちはあらゆる意味で偶像なんです」
千川さんの表情から、それが冗談で自分をからかっているだなんてことは無いということが分かった。真剣に告げるその信じがたい真実は先程の経験があるからこそより強固に補強される。
「彼女たちは偶像です。本来であれば彼女たちは別の姿があり、現状はアイドルという偶像の状態でいるのです。
なぜそんなことをと思うかもしれません。私たちだってわからないんです。なぜ彼女たちがアイドルなんてことをしているのか全く分からない。
ただ彼女たちは現状を悪く思っている節はない様子で、さらに言えば皆一様にトップアイドルになろうと努力を惜しまない」
「別の姿というのはいったいどういうものを指すのですか?」
聞いてしまってから、なんとなく嫌な予感がした。千川さんの顔から表情も何もかもが抜け落ちた。すとんと音が鳴りそうなほど一瞬で無表情になった。まるで被っていた仮面が落ちてしまったかのような変化である。
「……見てもらったほうが早いでしょう」
言うが早いが彼女がねじれた。粘土細工が、絵の具がそうであるように彼女が混ざる。ねじれきったそこから醜悪なモノが出現する。
理解とは脳でするものだ。視界でそれをとらえたとして、正しくその有様を認識することはできないし理解はもっての外であった。ある一定の形状をとったと思えば次の瞬間には全く想像だにしないような形状であり、口だと思えばそれは瞳であり覗き込まれたかと思えば飲み込まれそうになる。
不定形の悪夢がそこにあった。人の悪意を超越した広大で強大な何もかもを詰め合わせたかのようなそれは煮詰まるように混ざり曲がり収束し――
「――まあ、このようになるわけですね。他のアイドルたちはそれぞれに別々の姿を持ち合わせているとは思いますが、皆一様に私のように優しくはないと思いますので、あくまで自己責任ということで本来の姿の追及はやめておいたほうがいいかもしれませんよ」
そう言って今まで見た様子と寸分違わずに笑顔を浮かべた千川さんに自分は上手く笑い返せているかはわからなかった。
設定改変が多いのでアンチヘイトタグをつけるか迷ったけど別にアイドルに悪意あるわけでもないしええやろ
設定
千川ちひろ―1
彼女の本来の姿はニャルラトホテプである。宇宙のトリックスターである無貌の神が何で事務員やってるかって言うとそれはすべて監視のため。
346プロダクションに存在するあらゆるアイドルたちはワンチャン宇宙滅ぼす規模のやばいことをやらかしかねないので不本意ながら真面目に仕事に取り組んでいる。
彼女がプロデューサーと呼ばれる人物を収集し育成しているのはその辺に事情があるようだ。
アイドル―1
偶像である彼女たちの本質はそれぞれである。
ある国では妖怪と呼ばれる存在がそうであるかもしれないし天使と呼ばれる存在がそうであるのかもしれない。
人類がいまだ知りえない外宇宙からの侵略者であるかもしれなければ異世界の魔王であるかもしれない。
悪の組織の首領かもしれないし正義の味方かもしれない。
電子の妖精であるかもしれないし本の精霊かもしれない。
彼女たちは千差万別であるのかもしれない。