偽伝・機動戦艦ナデシコ T・A(偽)となってしまった男の話 作:蒼猫 ささら
あれから五日が経過。
懸念される襲撃の兆候はなく、航海は順調。しかし嵐の前の静けさというのが正しい所。敵はナデシコを火星まで誘い込みたい訳だから地球からは遠く、仮に何かトラブルがあったとしても引き返すにはもどかしい位置を狙う筈。時間的には三週間後か、一ヵ月後か。距離的には地球と火星までの間の中間点か、それを越えた辺り。
また、ナデシコを本気で厄介……邪魔者と判断していた場合でも、確実に落とす為に、逃がさない為にも同様の地点で仕掛けると思われる。
ただ私としてはそれだけ猶予があるのはありがたくもある。特に万が一……後者の場合に備えての対策を進める時間を得られるのだから。
「…ふう、とりあえずこんなものでしょうか」
一息吐いてIFSコンソールから手を離す。
「オモイカネ、出来上がったソフトをセイヤさんに送って置いて」
『はい、お疲れさまでしたルリさん』
対策の一環として組み上げたプログラムソフトが一つ出来上がり、オモイカネに後を任せる。
セイヤさんには既に話を通してあり、プロスさんの了解も得ている。
ただ、まだ検証やら実証などもあるし、バグ取りや修正の必要もどうしても出てくるだろうから、完成とはとても言えないのだけど。それでもようやく一段落付いた。
「ん…」
グッと腕を頭の上まで掲げて背筋を伸ばす。
ずっと同じ姿勢で座っていたから身体が固まっていた。伸ばした動作に応えてググッと筋肉と関節が解れる音が耳に入る。
「…はぁ」
身体の解れと共に僅かながら疲れが抜けたようにも思え、自然ともう一度息が漏れた。
「お疲れ様、何か大変そうねルリルリ」
私の仕草を見て、オモイカネに続いてミナトさんも労いの言葉を掛けてくる。
コンソールに手をついたまま動かず、傍から見れば何もしていないように見えるが、それが私の仕事風景だとすっかり理解していてくれている模様。
「じゃあ、お昼に行きましょ」
「はい」
コミュニケで確認すると時間は
何しろ――
「あ、ルリちゃん来たね。お昼の用意できてるよ。ハルカさんのも」
食堂の暖簾を潜るとアキトさんが声を掛けてきた。そして私が返事をするよりも早くカウンターの向こうに姿を消し、カウンターの脇を抜けて厨房から出て来る。トレイ付きの台車を押して。
台車のトレイには3人分の料理が乗っている。私とミナトさんと――そしてアキトさんの分だ。
そう、忙しいお昼時を過ぎたこの時間帯にアキトさんは休憩に入る。また私もその時間帯をお昼休みにしている。
火星までの航路。敵襲の警戒の必要性もあってブリッジクルー全員が艦橋を空ける訳には行かないので休憩は交代制となったのだが、艦長は正午に直ぐに入る事を選んだ。それまでの事からアキトさんの調理する姿を見ていたいからそうしたようだ。
これにメグミさんも対抗心を覚えたらしく、艦長に続いたが……残念ながらそれは失策だった。食堂スタッフでない人間を二人も、忙しい昼時の厨房に入れる事にホウメイさんは難色を示したのだ。
それなら艦長も駄目では?…とメグミさんは食い下がったのだけど、ホウメイさんは艦長に対してこれまで許していた経緯もあって今更駄目とは言い辛かったらしく、加えて「まあ、艦長なら良いんじゃないか?」という雰囲気もホウメイガールズの中にはあった模様。
意外な話だけど、艦長は料理が全く駄目なのにホウメイさんの指示を誤ったり、聞き間違ったりしてアキトさん他、ホウメイガールズの皆が調理作業や手順を間違いそうになると、艦長はその都度指摘して料理スタッフを助けている事が多々あり、それが艦長が厨房に居る事を許容する雰囲気を形成される事となっていた。
つまり艦長は、厨房内で完全に立場を確保していた。
意図しての事ではないのに流石としか言う他ない。
艦長はそういう人なのだ。未来の“ユリカさん”も似たような事していた。
三人でアパートで暮らしていた頃、夕方から翌日の朝方まで(だいたい終電に当たる午前二時くらいで屋台を閉め、そこから明日の仕込みに入って終える四時頃に就寝。翌日の午後十二時頃に起床して掃除洗濯などの家事を済ませてまた仕込み、十七時前に屋台を開く)と仕事をして、夜型に近い生活をしていたアキトさんは、自然と近所付き合いが薄くなってしまい、世間的にちょっと苦労していたのだけど、私達が押し掛けて以降はユリカさんの不思議な人柄と近所付き合いで改善されて、同じアパートや近所の住民から色々とアキトさんは気に掛けられるようになった(多少変な誤解があったけど)。
屋台を構える先でも同様で、その近辺の人達に配慮と便宜を受けられ、常連さんまで
ただアキトさんは世間の目が和らいでいた事に反して、ユリカさんが押し掛け、若い男女が同じ屋根の下で寝食を共にしているという世間体を気にしてしまいプロポーズを――
「――……」
そんなアキトさんに対して、早まったのではないかとも、もう少し……具体的には3年ほど待っても良かったのではないかとも思ってしまうのは、私の我儘でしょうか?
まあ、勝ち目があったとも思えませんが。
そもそも私は恋をしていた自覚がなかった訳ですし。
ともあれ、そんなユリカさん……艦長らしいバイタリティを発揮して、艦長は厨房に立場を確保し、アキトさんの傍に居られる時間を得た。
一方、私はお昼休憩を一時以降としてアキトさんの休憩時間に合わせる事でその時間を得た。
正直な所を言うと、料理一生懸命に取り組むアキトさんを直ぐ傍で見られる艦長の得た立場の方が羨ましくあるのですが、こうして一緒に食事をし、お話しできる時間を得られた事を思うと一概にどちらが良いとは言えない所もある。……中々に悩ましいです。
どちらも得られなかったメグミさんの事を考えると実に贅沢な悩みですが。
「はい、ルリちゃん」
考え事をしている内に私とミナトさんが座ったテーブルにアキトさんが手早く料理を並べる。
私のはテンカワ風オムライスをメインに栄養バランスを考えて生野菜のサラダの盛り合わせと魚介を使ったあっさり目のスープ。
ミナトさんはサンドイッチ各種のセットとブイヤベースのトマトスープ。
アキトさんはスパゲティ、日本独特のパスタ料理であるナポリタンだ。プチトマトの乗ったサラダも付いている。ドレッシングは無く、塩だけのよう。
「……」
成人男性近いアキトさんは大盛りで、付け合わせのサラダも器が大きいのは分かりますが、
「ん、何? どうしたのルリルリ?」
「いえ」
思わずミナトさんの方を見つめてしまい、返された怪訝そうな声に首を振る。
ミナトさんのサンドイッチセットは実に慎まやかで女性らしく見えるのに、私の前に並ぶオムライス他、2点は――……大盛りを越えた特盛、サラダもスープも器が大きい。中身もたっぷり。
カロリー消費の大きいIFS強化体質な上、将来の為でもあるから仕方ないとはいえ、とても11歳の少女のお腹に入れる量ではない。
アキトさんも私の体質の事は分かってくれていますが、それでも大喰らいな姿を見せるのは恥ずかしいです。食べた後にお腹も少しポッコリと出てしまいますし…。
「気にしない方が良いわよ、アキト君も食が細いよりも良いって言ってたんだし、ルリルリはただでさえ同年代より成長がちょっと遅れているんだから」
う、……ミナトさんにはしっかりと見抜かれたようです。しかしアキトさんがそのように言ってたのも本当。大喰らいな自分をどう感じているのかを思い切って尋ねたらミナトさんが言っていたような事を答えた。
ですのでそう意識する必要はないのですが……乙女心は複雑なのです。
「ふふ、ま…ルリルリの気持ちも分かるけどね」
フォローを受けても、むう…と眉を顰める私にミナトさんはクスリと笑う。それにますます恥ずかしさを覚えて微かに頬が熱くなった。
「お待たせ。…じゃあ、食べようか」
トレイ台を片付けに厨房に戻っていたアキトさんが来てそう言う。
今ほどのやり取りは聞かれてなかった模様。何となくその事にホッと息を吐いて私達は合掌する。
「「「いただきます」」」
ふんわりと焼いた卵に包まれたオムライスは絶品です。本当に美味しくて思わず頬が綻んでしまう。
私の大好物という事もありますがアキトさんが作ってくれて、未来では食べられなくなったテンカワ風なのだから尚更です。
この過去に来て
「アキト君ってどうしてコックになったの?」
食事の合間にミナトさんが唐突にそんな事をアキトさんに尋ねた。
「え? 俺っすか?」
「うん、昨日は私の事を話したから今度はアキト君の番かな?って」
昨日の昼食では確かにそんな話を聞いた。
何気ない雑談からナデシコに乗った理由を話す事になって……まあ、私は選択の余地がなかったから兎も角、アキトさんは“私達の事情”を話す訳にも行かないので前回のように成り行きで乗る事になったとだけ短く答えて、その分、ミナトさんが多く話す事になった。
ミナトさんは、ナデシコに乗った理由に刺激と充実感を求めての事だと言った。
これは前回でも聞いている……というか、その頃の私は周囲の人間関係に殆ど無関心だったのでミナトさんが一方的に話すのを適当に相槌を打ちながら半ば聞き流していた。
なので今回は改めてその事を真面目に聞く事になった。
端的に言えば、若くして大企業(ネルガル傘下にあれど)の社長秘書として抜擢され、安定しながらも代わり映えのしない退屈な日常に疑問を感じていたらしく、そんな時にプロスペクターさんのスカウトが来て思い切ってその誘いに乗ったのだという。
云わば衝動的な物であり、深い考えがあっての事ではない。
「それで良いんでしょうか?」とアキトさんは当然そう尋ねたが、ミナトさんはあっけらかんと、
「そうね、まだ充実感は感じてないし、勤務もちょっと手が空いてるけど、退屈には感じてないから悪くない職場だと思ってるわ。社長秘書なんてほど多忙な仕事じゃないしね、……だから良いんじゃない」
等とそう答えた。
アキトさんとしては、安定した生活をそうも簡単に捨てて、ただ衝動で戦艦……戦う船に乗った事を疑問として尋ねたのだろう。しかし今一つその答えとなっていない返事を受け、どう言葉を返して良いか分からない様子だった。
或いは、簡単に捨てたようにも、衝動的な動機に見えるようなものであっても、ミナトさんにとっては大事な決断だったのかも知れないと思ったのか、アキトさんはそれ以上はミナトさんに何も尋ねなかった。
私の方としても正直に言えばミナトさんのその考えは理解し難い。
けど、アキトさんやユリカさんとはまた違った意味で大好きなミナトさんがナデシコに乗ってくれた事は私にとってとても嬉しく、恵まれて幸運な事だったと思う。
だから私的にはミナトさんがナデシコに乗ってくれた事だけが重要であって、その動機はどうでも良かった。
少し冷たい考えかも知れませんが、そうとしか感想は持てない。
「…火星ってナノマシンの所為っていうか、無理なテラフォーミングの所為か、それともまだ土壌開発が進み切っていないのか、土が悪いんですよね。だから野菜だとか果物だとか余り美味くないんです。それを餌にする家畜なんかも少し質が悪くて。けどそんな美味くない、不味い物でもコックが上手く料理すれば美味しく食べられる。それが幼い頃魔法みたいに思えて――」
「だからコックに憧れたんですよね」
ミナトさんに答えるアキトさんに私は言った。
前回でアキトさんの料理の練習や研究を手伝っていた時(と言っても主に試食
して感想を言うだけでしたが)に聞いた話だ。不味い食材でも美味しい食べ物に変えてしまう事が幼いアキトさんには凄い事に思えた。
そう話していたアキトさんは嬉しそうで、だけど半端にパイロットもやっている事に悩ましそうでもあった。
それもあって私は今回こそはコックに専念して欲しかった……――のですが、い、いい加減不満に思うのは止めましょう。アキトさんはそれが必要な事だと進んで決めた事なのですから。
「うん、ただ火星でも掛け持ちで飲食店なんかでもバイトはしてたけど、本格的に学んだのはサイゾウさんの所が初めてだけどね」
私の言葉にアキトさんは少し苦笑する。どうしてか若干困った様子だ。複雑そうにも見える。
「……料理が魔法に、ね」
「ふふ、何となく分かりますね、その気持ち」
「…!」
ミナトさんの相槌に続く声に思わずハッと顔を上げる。
見るとそこにはアキトさんと同じく生活班所属を示す黄色い制服を着る女性――
「――サユリさん」
「こんにちは、ルリちゃん、ハルカさん」
「こんにちは」
「…こんにちは」
「テンカワさん、私も相席良いですか?」
「あ、うん、良いよ」
ミナトさんと私の返事を聞くと、両手に二枚のお皿を持っていたサユリさんは、アキトさんの承諾を得てその隣に座る。
「……」
私はアキトさんの対面でミナトさんは私の隣に座っている。だけどまだこのテーブルの席には空きもあるし、他のテーブルも空いている。
勿論、だからと言ってアキトさんの隣に座ってはいけないなんて事は無いのだけど、けど……何となく面白くありません。
いえ、何となくではなく、サユリさんが私にとっての“敵”だからなのでしょうが。
「テンカワさんとは違うかも知れませんけど、私も幼い頃を思い出すと母が料理する姿……包丁を始め、色んな調理道具を使う度に野菜やお魚やお肉が、食材が形を変えて美味しい料理になっていくのを不思議な気持ちで見てましたね。私もそんな母の姿が魔法使いみたいに見えていたのかも」
「そうね、今思い返すと私も似たような事を感じていたわ。手際よく鮮やかに料理する母親の姿がなんかカッコよく見えて憧れがあったわね」
サユリさんの言葉にミナトさんが頷いて同意を示す。
母親のいない私にとって二人の話は実感できないものだ。けど少し共感できる部分はあった。母ではないけどアキトさんの料理する姿を見るのが好きだから。真剣な表情で、でも楽しそうでもあって凄くアキトさんらしいと思うから。
けれど、そんなアキトさんを間近で見られていないのは少し残念で、悔しくありますね。こうしてお昼を一緒にというのも嬉しいですが……やっぱり艦長が羨ましいです。
――やはりそろそろ例の計画を進めるべきですね。
そう思い。あのレシピを脳裏に浮かべる。
「…?」
鼻に少し違和感を覚える。甘さと酸味を感じさせるトマトの香りが強まった。
ミナトさんのトマトスープとアキトさんのナポリタンとは違う。これは私のオムライスと同じもの。テンカワ風の……甘みと酸味を高める為にケチャップソースに柑橘系果実のしぼり汁を混ぜるアレンジを加えた特有の香り。
と、気付く。
「あ、それ」
私が指摘するよりも早くアキトさんがサユリさんの前にあるお皿の中身を見ながら言う。
「はい、多めに作ってあったようですから頂きました。ホウメイさんは良いって言ってましたが、駄目でしたか?」
「いや、ルリちゃんの他にも注文があったら出して良いって言ったから問題ないよ」
「良かった。私、一度食べてみたかったんですよ」
アキトさんにそう答えてサユリさんがスプーンで掬ってそれを口にする。赤く色付いたライスを。――そう、チキンライスを。私のオムライスの卵に包まれたものと同じものをサユリさんは頬張った。
「……」
先程、面白くないと感じていたモノがムクムクと胸の内で大きくなるのを自覚する。
それは、そのチキンライスはアキトさんが私の為に用意してくれたものであるのに…と。
勿論、そうでない事は分かっている。アキトさんは此処の食堂スタッフで、作る料理はナデシコクルーの皆が食べるものだという事は。
しかし、それでもアキトさんオリジナルのソースを使ったものは私しか食べていないものだった。普段はホウメイさん特製のソースとレシピを使ったチキンライスないしオムライスが出るからだ。私のようにアキトさんの料理を指定しない限りは。
だから納得できない不満と怒りを覚えてしまう。けど、何とか抑える。サユリさんを睨みつけそうになる感情を我慢する。
それは我が儘だと、ナデシコクルー皆の為の料理でもあるという理を理性的に考えて。
それに、
「うん、美味しい! 良いですね、この柑橘の香りと風味。それに甘みも酸味も意外に合ってて」
こうしてアキトさんの料理が褒められて認めてくれる。だから我慢出来るし、私も嬉しくなるから。
私も包む卵と一緒に赤く染まったライスを頬張る。
うん、本当に美味しいです。……ただもうちょっとですね。
「ありがと、でも中の肉、チキンがその柑橘の酸味の所為で柔らかくなり過ぎてて、まだ改良の余地があるんだよね。それが改善できれば、ホウメイさんは正式にメニューに加えられるって言ってるけど、…中々、ね」
「あ、確かにそうですね。こうして食べててもお肉の触感がライスとあまり変わらないように思えます。煮込み料理のようなとろけるような感じでもないですし…」
その通りです。
私の指摘を受けるまでもなく、そして恐らくホウメイさんに指摘されるまでもなくアキトさんは気付いていたのでしょう。
未来のアキトさんはその問題をクリアしていた。それさえ何とか出来ればテンカワ風チキンライスは完成となる。けど私もそのチキンを柔らかくし過ぎない方法は知らない。こうなるのだと分かっていれば……昔の私にもっと真剣にアキトさんの料理の研究に付き合うべきだったと叱り付けたくなります。
無茶振りもいいとこですけど。
ですが、まあ……良いです。その改善の事も含めて例の計画をアキトさんに持ち掛けましょう。
前回と違って今回は積極的に協力しますよアキトさん。私も未来……いえ、将来の事を考えると本格的に料理を覚えるべきだと思いますし。
何となく視線をカウンター越しに見える厨房に移し、脳裏に描いた光景――成長した私がアキトさんと並んで調理をしている姿を投影した。
……うん、ナデシコ食堂のような小さな店でも良いから、アキトさんと一緒に料理をして働けて、傍でこの人の夢を支えられる未来を手にしたい。
そして看板娘……じゃなくて、良い奥さんだと近所で評判されるようになりたいものです。
まるでユリカさんのようにそんな未来を妄想してしまう。
妄想に耽りながらもオムライスの味を堪能していると、
「あ、ルリちゃん、ご飯粒が付いているよ」
「え?」
突然、アキトさんが自分の下唇の方を指差しながら指摘し、私は咄嗟にスプーンを置いてアキトさんを真似て下唇の方へ指を撫でさせるが、
「逆、右…じゃなくてルリちゃんから見て左の方」
再度指摘され、アキトさんの手が私の顔に伸びてきて――…一瞬ドキリとする。
昔、ヒカルさんの描いた漫画や読んでいた小説などで見た展開。やや陳腐ながらも恋愛物では良く使われる場面が脳裏に過る。
それを裏付けるかのように私の下唇の方へ伸びた手はご飯粒を取り、取った人の口に運ばれた――ただし、
「はい、取れたよルリちゃん」
「……ありがとうございます、“サユリさん”」
ただし取った人はアキトさんの隣に座るサユリさんだった。
アキトさんの手が私の元へ伸びるよりも早くサッと素早く横から手を出したのだ。
ご飯粒を口に入れてニコリとした笑顔を見せ、私もお礼を口にしながら笑顔を返すが、
「「ふふ」」
互いにクスリと笑いつつも睨み合った。
サユリさんが“阻止”のために動いたのは分かったし、サユリさんも私のお礼が形だけだと分かっているからだ。
ほんと余計な事してくれました。そう内心で呟きながら目線に力を入れる。しかしサユリさんは意に返した様子はなく、してやったという気配があり、余裕に受け流している。
子供なので侮られているというのが何となく分かった。
「ル、ルリルリ……」
「……サ、サユリさん」
笑みを浮かべながらも睨み合う私達の脇で、何故かミナトさんとアキトさんが表情を強張らせている。――と、あっ!
「アキトさん、頬に…」
スパゲティを吸う時にパスタが跳ねて描いたのか? アキトさんの頬に赤い線が引いている事に気付いて椅子から腰を上げる――が、
「!?」
遅く、隣にいるサユリさんがこれまた素早く動いてサッとアキトさんの頬を指で撫でた。
「いっ、サユリさん!?」
「テンカワさん、ソースが付いていましたよ」
突然頬を撫でられた事に驚くアキトさんを他所にサユリさんはソースを拭った指を自らの口に運んで舐め取る。
「…っ」
思わず歯軋りしそうになった。
一度ならず二度までも! アキトさんとの間接キスの機会が奪われるなんて、それも目の前で!
アキトさんもアキトさんで間接キスを察したのか、或いはサユリさんの指を舐め取る仕草にやや照れた様子ですし。
「ふふっ」
「!」
照れと動揺を見せるアキトさんの顔に向いていたサユリさんの視線が一瞬私の方を一瞥し、クスリと笑われた。
「……」
良いでしょう、理解しました。それは挑戦ですね。分かりました。
これまでは前回で明確な行動を起こさなかった事もあって確信はしてませんでしたが、今ようやくハッキリと理解しました。
――サユリさん、貴方はやっぱり“敵”なのですね。
しかし仮にも子供である私にそこまで挑発的にかかって来るとは。
余裕めいていて実の所焦っているのでしょうね。アキトさんと同じ副主任という立場になった為、シフトが合わない事が増え、非番日や時間も合わないのですから。
だから、
「ふふふ」
にこりと……けど何処か不敵且つ余裕な感じで私も笑みを返す。
その挑戦と挑発を後悔しない時が来ると良いですね、と答えるように。
◇
まいったな、と思う。
楽しい食事時間が氷点直下な空気に代わり、サユリさんが自分に向ける好意にもいい加減気が付いた。
ただ、彼女に対してそんはフラグを立てた覚えはないし、原作でもユリカ嬢やメグミ嬢のような具体的な動きは無かったので、正直どうして好意を向けられているのか分からず、首を大きく傾げたい所なのだが。
『テンカワさん、今お時間良いですか?』
考え事をしているとコミュニケに着信が入ってメグミ嬢が出た。
「うん、大丈夫だけど」
彼女が映るウィンドウの背景に自販機が見える。どうやらブリッジからではなく、休憩スペースから連絡を入れているらしい。そうした意図は……まあ、理解できる。ブリッジだとルリちゃんとユリカ嬢の目に付くからだ。
ちなみに俺も今は厨房ではなく、食堂近くの休憩スペースに居る。朝から五時から昼過ぎまでシフトに入っていたから夕食時まで一度抜ける事になったのだ。
ナデシコ食堂の開店は朝の七時から、その二時間前に朝の仕込みに入って昼のかき入れ時までと既に八時間ほど働いている訳で。パートタイマーなら大体フルタイムきっちり務めた事になる。
なおナデシコ食堂が特殊なのかは分からないが、自分的には変わったシフトを敷いていて朝は必ず全員が出て、朝の仕込みを終えた時点で三人が抜けて三人が残り、残った人達はお昼時過ぎまで務め。かき入れ時が過ぎたその時点で食堂は一度閉店し、夕食前の十七時頃に再び開店して朝抜けた三人が入る事になっていて、中には俺のように希望すれば朝からの居残り組が入る事が出来るようになっている(全員出勤の日の場合だが)。
ついで言えばホウメイさんは朝から晩までずっと食堂に努めている。…まあ、俺もサイゾウさんの所に居た頃は朝早くから閉店まで働き詰めだったから、そんなホウメイさんに余り違和感はない。
此処と同じで昼時が過ぎればやっぱり一度閉め、少しの仕込みだけで結構手が空くし、そんなキツイと感じなかった事もあるんだろうけど。
そんな訳でお昼を過ぎたあと、俺は時間を持て余していた。
「それで何か用かな?」
『はい、私もう二時間ほどで今日は上がるんですけど、その時間だとテンカワさんも空いてますよね?』
「ああ、うん」
今は午後の二時過ぎ、その二時間後だと四時になる。ブリッジメンバーが上がり、
『良かった。それじゃあ四時頃になったら展望室に来て下さい』
「いいけど、なんの――」
『――ふふ、約束ですよ。あ、こんな時間だ。切りますね、ブリッジに戻らなきゃ』
ってあれ? 切られたぞ。何の用事かと尋ねようとしたんだけど……。
「……これは」
図られたか? サツキミドリの件でメグミ嬢はお礼をしようとしてくれていたが、俺としては受ける理由がないのでその度に断っていた。
「だからこう来た訳か」
用件を言わず、強引ながら約束だけを取り付けに来たと。
そうなると仮に此方から断りの連絡を入れてても着信を拒否されるか、仕事を理由に着信を受けても直ぐに切られるかのどちらかだな。
「…仕方ないか。何れにしろこうして話をする時が来たんだろうし」
メグミ嬢には悪いが面倒ごとのような気がしてやや溜息が零れ、肩も竦めたが、彼女の用件に付き合う事を受け入れる。
「……」
ふと思う。贅沢な悩みだな、オイ…と、自らに突っ込みを入れて。女性に…それも可愛い女の子に好意を向けられて面倒ごとだと考えてしまう自分に対して。
原作でウリバタケさんを筆頭とした男性クルーがアキトをやっかむ気持ちを我が事で分かってしまうとは。
「…といってもなぁ」
贅沢だと分かってもそう感じてしまう自分の心を誤魔化せそうにはなかった。
◇
「やっぱり強引だったかな?」
通信を切って消えたウィンドウ。それが浮かんでいた虚空を見つめてメグミはポツリと呟いた。
「ううん」
メグミは首を横に振った。
こうでもしないと彼と二人っきりで話をし、距離を縮められる機会は作れない……そう思い直して。
「艦長にもそうだけど、ルリちゃんにも後れを取っているんだもの…」
キュッと唇を引き締めて少し気合を入れる。
負けたくないとメグミは思った。
元より彼女がナデシコに乗った理由は出会いを求めての物だ。戦艦に乗ればカッコいい人と会える、機会を作れるとそんな理由だった。
14歳の頃から看護士学校に通いながら声優業を営んでいた彼女。若くして人気声優の道を歩み、修得した看護師資格を活かす事なく、声優一筋で社会に出ていたメグミだが、その周囲には魅力的に映る男性は居なかった。
いや、皆無という訳ではない。仮にも芸能の世界だ。仕事を通じて有名な俳優やモデルにアイドル歌手など多くの男性と顔を合わせている。
しかし、そんな彼等と付き合うことになったり、良い関係になったりすると世間を賑わすスキャンダルになるであろうし、人気も伸び続け、本格的なTV出演と歌手デビューも視野に入っていたメグミに対して、スキャンダルを望まない所属事務所の意向もあり、メグミは年頃の少女にも拘らず恋愛から遠ざかっていた。
だからだろう。彼女がネルガルの、プロスペクターのスカウトを受けてそれに乗ったのは。
幼い頃からの夢で好きな職業であったし、誇りに思っていた声優の仕事であったが、彼女は窮屈さを感じていた。
まだ17歳と思春期の少女らしい感情的な部分もあるのだろう。社会の柵に捉われて、どこかままならない自由に反発があったのだ。
つまり、半ば衝動的な取り留めのない動機でメグミ・レイナードは幼い頃からの憧れであった夢の仕事に背を向け、自ら成功しつつあった道から外れてナデシコへの乗艦を決めたのである。
しかしこれは別段責めるような事ではない。
若い頃であれば誰にも訪れるその多感な時期。それ特有の情緒の揺らぎや迷いのようなものなのだから。
そういった誰もが経験する物事を踏まえて皆、大人になっていくのだ。
そう、メグミ・レイナードの一見その稚拙に思える動機もそれに他ならず、その動機によって、これから得て行く経験は掛け替えのないものとなり、それは少女である彼女を大人へと成長させる大事な
◇
展望室へと呼び出された俺は、メグミ嬢のお礼の一貫だというサツキミドリで彼女が購入したものや、知り合ったコロニーの重役から頂いたお茶菓子などを摘まみながら一応デートと言うべきか? 展望室で様々な風景を…世界遺産にもなっている地球の雄大な自然の風景や、プラネタリウムのような満天の星空や何処かの遠い宇宙の星々の姿などを楽しみながら二人っきりで会話を楽しんだ。
「へぇー、凄いね。14歳で声優デビューなんて、それも看護士の学校に通いながら」
「そんな事ないですよ。デビューと言っても端役で、毎回出番があったキャラじゃなかったですし」
「でも一応レギュラーに近い位置づけのキャラクターだったんだし。それも難しい感じの」
「うーん、そうですね。作風は青年誌連載が原作の大人向けの恋愛物で、今の私よりも年上の…大人の女性キャラで、端役でも主人公との絡みもそれなりありましたしね」
「物語の脇を固める大事なキャラクターだった訳だ。新人でそれを任されるなんてやっぱり大したものだよ」
「ふふ…、声優になろうと思った切っ掛けのような憧れの感じのアニメでもキャラクターでもなかったですけどね。でもやっぱり思い入れはあります。初めてなのにしっかり名前のある役を貰えた訳ですし」
メグミ嬢の声優を目指した切っ掛けやその仕事の思い出話を聞き、
「テンカワさんは火星生まれなんですよね? 火星ってどんなところなんですか?」
「どうしてコックになろうと思ったんですか?」
などと尋ねられて
やはり思い返そうとすれば、これといった違和感もなくアキトの記憶が明瞭に浮かぶ所為だからだろうか?
同時にふと思う。メグミ嬢にこういった話をするのは、原作では火星に到着した直後だったんだけど……まあ、その前の話…『ルリちゃん航海日誌』では、葬式に忙殺されてユリカ嬢のみならずアキトも忙しく、メグミ嬢ともこうしてゆっくりする時間は無かったみたいだし。
だから、コロニーで葬式が行われ、個人の物もサツキミドリや本社側が請け負った分、原作と違って俺はメグミ嬢と話せている訳で、バタフライ的に火星に着く前にそういった話題も出るのか…。
メグミ嬢と会話しながらそんな事も頭の隅で考える。
「魔法みたいにですか…」
「うん、まあ…でも俺も変わっているよな。幼い頃の子供の、それも男の子の夢なんて大抵はもっと…何かの運転手さんとか、警察官だとか…もっと…何て言うかそういったものなんだけどなぁ」
「ううん、そんな事ありませんよ。素敵な感じ方だと思います!」
こちらに身を乗り出して意気込んで言うメグミ嬢に、はは…と苦笑しながらありがとうとお礼を言う。
「それに運転手っていうのもエステバリスに乗って、警察官っていうのも違いますけど、パイロットになってナデシコやコロニーの皆を守って頑張っているじゃないですか!」
意気込みの所為か、少し要領を得ない言葉だったが、うん、そうだね、と俺は頷く。言いたい事は何となく分かるからだ。
自分の事を卑下した積もりではなかったけど、メグミ嬢はそう感じたようだ。
◇
楽しい時間は瞬く間に過ぎ行くもので気になる男性が仕事に戻る時間が近づいた。
「それじゃあ、メグミさん」
「はい、行ってらっしゃい、テンカワさん。また今度こうしてお話ししましょうね」
「うん、お互い時間が合ったら、また」
軽く手を振りながら彼は展望室から立ち去る。
展望室から出て行く彼のその背中を見ながら、メグミは内心で「よし!」ガッツポーズを取る。
何気なく礼儀的に言った物だとしても“また次”という言質を取れた。
「ふふ」
思わず笑みが零れた。
最初、今日は約束を取り付けられたこの時間で、思い切って自分の中にある好意を彼にぶつけてみる積りだった。
しかしそれは、彼と話していて思い留めた。
「ちょっと焦っていたかな?」
冷静になった今となってそう呟く。
自分は彼の事を何も知らず、彼もまた自分の事を知らない。そこで事を急いて早まった行動に出てはきっと良い結果にはならない。
「うん、テンカワさんの事を良く知って、それ以上に私の事を知って貰わなきゃ」
優しい彼の事を知って、自分の良さも彼に知って貰わなくては彼の気を引く事は出来ない。
艦長とルリちゃんに出遅れているのは分かっている。けれどそれで焦っては意味がない。
「だから少しずつ段階を踏まえて行かないと」
大丈夫。艦長はまだ彼にとっては幼馴染の域は出ていないし、ルリちゃんもまだ子供。
「だから大丈夫。きっと追い付ける」
時間を見つけて彼と一緒に居られる時間を増やして、そして彼に自分を見て貰えるようにアピールしよう。
今日、二人っきりで過ごして知った彼の優しさ、魅力に触れてメグミはアキトに対する好意が大きくなったのを自覚して決意する。
「負けないんだから…!」
此処にいない恋敵に向けてか、それとも自分を鼓舞する為か、そう意気込んで呟いた。
随分久しぶりの投稿ですが話は進まず。読者の皆様には申し訳ない所です。
書きたい事が多くありながらもリアルの事情もあって中々執筆が出来ず、それと最近になってオリジナル作品を新たに書く事になりまして。
なるべくこちらにも執筆時間を割きますが更新は滞ると思われます。楽しみされている読者の皆様には本当に申し訳ありません。
ですが次回以降は、今回ほど間が空かないように投稿したいとも思っております。
あとメグミさんに明確なフラグが立っている事も申し訳ないです。
ハーレムにはしたくないのですが…書いている内にメグミさんが自重してしまって、本当はこの回で焦って無謀な告白、そして玉砕にする予定でしたが、それだと違和感を覚えてメグミさんも慎重な考えを持つ事に…。
改めて小説を書く事の難しさを感じました。
指摘くださった方々も誤字報告等ありがとうございます。助かります。