やはり俺の女性関係は色々とまちがっている。 作:四季妄
「……雪ノ下、さん」
「うんうん、覚えてくれてたんだね、いやーお姉さん嬉しいなー」
けらけらと笑う顔は、しかしどこか嘘くさい。他の人間からしてみれば何ともない表情だとしても、父親からの英才教育を受けた俺にはお見通しだ。主に美人局とかそこら辺のリアルな女性事情に関するものである。親父は何度その毒牙にかかってきたのやら。
「でも本当、久しぶりだよね。何ヶ月ぶり?」
ずいっと雪ノ下さんが近寄ってきて、反射的に仰け反った。片足が後ろに引かれ、上半身を斜めに保ちながら、なんとか余裕だけは崩さないように気を張る。尤も、あっちからしてみれば今の動作だけで十分だろう。警戒するくらい、過剰評価するくらいが適当な加減だ。雪ノ下陽乃を甘く見ることは許されない。誰が許そうとも、彼女自身が許さない。
「あはは、全然変わってないね」
「ちょ、あの、やめ」
「懐かしいなー、もう、だって――」
ひたりと、彼女の両手が俺の頬にそっと触れる。
「――それ、二度と見れないと思ってたから」
ぞくりと、背筋に凄まじい悪寒が走った。言葉では表せられない恐怖感。説明し難い不気味な雰囲気。垣間見た、雪ノ下陽乃という人間の底の深さ。正しく深淵を思わせるようなそれに、耐えられる訳が無い。
「ッ!」
「わっ」
ばっと飛び退いて側を離れ、二メートルほど距離をとった所で身構える。余りのことに、さっと触られた頬を撫でた。見ようによっては意識しているような行動は、この人相手に何てことはない。今更それくらいで何か変わるような性質じゃないのを知っている。
「そんな驚かなくてもいいのに。比企谷くんてば初心なんだから〜」
「……あ、あぁ、いや、すいません」
「別に気にしてないけど、うーん、でも、そうだなぁ」
そのまま雪ノ下さんは顎に人差し指をちょこんと当てて、悩むように斜め上を向きながらうんうんと唸る。それから思い付いたのか、最初から思い付いての行動だったのか。あっと声を上げて態とらしくぱんと手を叩いて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「うん、折角なんだし、少し話すってのも良いね。避けられるような対応されて、お姉さんちょっと傷付いたから」
「いや、あの……」
この程度で傷付くほど柔であればどれだけ楽だったことか。ありえない話だ。むしろ笑う所だと言われた方が信用できる。もう昔の俺ではない。全てを捨てて自分だけが引き受ける覚悟は無用の長物となった。過去の対応は過去のこと。雪乃が見ている前で、そんなことをやらせばどうなるかは分かりきっている。
「……姉さん」
「ん? 雪乃ちゃん、どうしたの?」
と、後ろに下がった俺とは反対に雪乃は前へ進み出た。ちょうど雪ノ下さんと向かい合う形、都合の良い解釈で言い換えると俺を背にして庇うように。
「何か用でもあるの? 無ければ私達はもう行くのだけれど。……そちらだって、都合はあるでしょう」
「あー、うん? あの子達?」
ちらっと雪ノ下さんが視線をやった方には、数人で固まって歩く一団が見えた。如何にもリア充と言った奴らの集まりだ。先程先に行ってと断りを入れていたのを見ている。数名が名残惜しそうに振り返っていることから、あのグループの中心は――もっと言ってしまえばサークルや学校の中心にまで、雪ノ下陽乃はなっていてもおかしくない。それだけのスペックと世渡り術を持っているのだ。
「いいよいいよ、正直話つまらなくて退屈してたし。なんならほら」
とんっと、一足であけていた距離を詰められる。濁って透き通って綺麗で歪な瞳とかち合う。多量のそれらを含んでいるからではない。分か
「比企谷とのお喋りは、凄い楽しいと思うんだよね」
巫山戯んな、こっちは何も楽しくない。断固として拒否の姿勢を崩すつもりはなかった。かなり本気で御免こうむる。
「それくらいにしてちょうだい。……彼は今、私と行動しているの」
「え、なに? まさか雪乃ちゃん、比企谷くんとデートとか?」
「えぇ、そうよ。だから、邪魔しないでくれる?」
いやお前何言ってんの。ねぇ、何言ってんの。ちょっと、あまりにもナチュラル過ぎて意味を噛み砕いてから内心飛び跳ねる思いだ。ああちくしょう、こんな時だっていうのに昨日のアレを思い出してしまう。やめろ、やめてくれ、ストレートに心に来る。
「へぇ! そうなのそうなの? どうなの比企谷くんっ!」
「っ、あ、あー、その」
「しつこいわ姉さん。私がそうだと言っているのだからそう。それで良いでしょう?」
「……ふーん」
瞬間、刹那の間だけ。剥げた、剥がれた、剥がした。どれに当てはまるのかは分からない。ただ明確に、雪ノ下陽乃はその仮面を取っ払っていた。理由はなんだ、動機はどこにある、リスクリターンメリットデメリットの全てを考えたのか。探るなんて無理だ、分からない。
「……あは、雪乃ちゃんってば。ちょっと見ない間にそんなになっちゃって」
「そこまで……いえ、強いて言えば、そこの男と居るから、かしらね」
「おぉーっ、愛されてるねぇ、比企谷くんっ。このこのー」
「なっ……」
すうっとすり抜けるように雪乃の横を通り抜けて、態々人の頬に指を突き刺すために雪ノ下さんは近寄って来る。そこまではない、軽い筈だと高を括っていた。彼女達と同じくらい重い訳が無いと。大して特別な関係性でも無く、すぐに切れて忘れるようなものだと。実際はどうだ。全くもって違っている。雪ノ下陽乃に興味を持たれた時点で、十分に特別な関係性だ。
「ふふっ」
ふわりと、甘い香りが鼻先を掠める。唐突に顔を近付けてきた雪ノ下さんと、意図せず抱き合うような体勢になっていた。耳元で息遣いすら鮮明に聞こえるほど近い。そんな状態でぼそりと小さく、けれど確かに言葉は呟かれた。
「……ほら、私の言った通り」
にちっと、肉の動く音が笑ったことを教えてくれる。じわっと背中に汗が滲み始めた。どうしてこうも上手くいかない。この人とは何も無かった。他の奴等みたいにそこそこ良い関係性にすら届いていなかった筈だ。何度か二人で話す機会はあったとは言え、俺は終始警戒していたし、あちらも本当の顔をそうそう出しては来なかった。時折たまに見えたくらいだろう。
「やっぱり君は面白いね、比企谷くん……♪」
だというのに、上手くやれない。
「やめなさい」
凛と、鈴のような冷たい声が響いた。どうしようもない現状を打破する一言。絶対零度のそれが、陽気に振る舞う彼女へ向けられる。
「嫌がっているでしょう、彼」
「……強くなったね、雪乃ちゃん」
「っ、どうでもいいわ、そんなこと。――全ては優先順位の問題よ」
急速回転、悪い状況ほど頭はよく回る。それが比企谷八幡の編み出した処世術の一つだ。今まで自分のことしか頭になくて気付かなかった。愚かな手前に呆れて怒りすら湧いてくるというもの。堂々と接しながら、雪乃の足は微かに震えていた。
「……ま、今日はここまでかな。あまり待たせても悪いしね。じゃ、また今度ね雪乃ちゃん。比企谷くん」
ふりふりと手を振って、にこにこ笑顔を浮かべて。
「――今度また、お茶でもしよっか。ね?」
意味深な表情と言葉を交えて、まさに嵐は過ぎ去った。