婀嗟烬我愛瑠〜assassin girl〜 作:大岡 ひじき
何かが風を切る音が聞こえたと思った瞬間、一歩前を歩いていた幸さんの身体が、スローモーションのようにその場に崩折れた。
喉に開けられた小さな穴から血の糸が空間に広がり、幸さんの持っていた買物袋とともに地面に落ちる。
「…!!?」
次の瞬間、同じ音とともに私の身体にも衝撃が走り、寸でで急所は外したものの、何かに脇腹を撃ち抜かれた痛みが、一瞬遅れて襲ってきた。
重力に敢えて逆らわずに倒れこみながら、音の方向に目をやる。
視界がぼやけてはっきりとは見えなかったが、前方にある住宅の大きな木の枝に、黒い服を着た人物が、Y字型の棒のようなものを、こちらに向けて構えていた。
まさか…あれは
かつて中国の山岳地帯において狩猟の為に考案された、Y字型の枠にゴム様の弾力性のある弦を張って、石などの固い玉を飛ばす構造の飛び道具を、より高い殺傷力のみを追求して改良されたものである。
的に正確に命中させるには高い技量と、何より弦を引く腕力が必要とされるが、
この発 引候の名が、今日の『パチンコ』の語源になった事は言うまでもない。
名前は忘れたが、多種多様な技を持つ東アジア圏発祥の暗殺組織があると「御前」から聞いた事がある。
今回任務に失敗した上、事実上出奔した形になる私を、消す依頼がとうとう為されたという事だろう。
刺客を送るなら私ごとき、「御前」の手駒の闘士たちで充分事は足りるだろうに、わざわざ外注する必要があったのだろうかといささか疑問には思うが、今はそんな事を気にしている時ではない。
「御前」がそれをお望みならば、私は殺されても一向に構わないが、でも今は駄目。
私が倒れたまま動かずにいると、黒い服の人物…どうやら男であるらしい…は、音もなく木から飛び降り、それから私の肩に、もう一撃放ってきた。
くそ…どうやら私が死んだかどうかを確認したらしい。
念の為保険を切っておいて良かった。
この場合の保険…例の針状の氣を自分自身に撃ち込んで、体内の氣の流れを調節する事により、一時的に肉体の弾力を高める事。
これにより今撃ち込まれた、恐らくは小さな鉄の玉は、私の肉体に傷もつけずに弾かれて、明後日の方向に転がっていった。
だがこれをやると、数時間は身体に力が入らなくなり、満足に動く事もままならなくなるが、幸い私がこれからやらなければならない事に、力は一切必要ない。
私は今、この瞬間は死ねない。
だから、申し訳ないが、この男に死んでもらう。
男が、依然倒れたままの私に近づいてくる。
その数歩の間に私は、五指全てに氣を集中させる。
鋭い針のように、研ぎ澄ます。
そして…
男の足が、私の傍で止まる。
私の身体を、ひっくり返して確認しようとでもしたのであろう、伸ばしてきたその掌に、
私は氣の針を、撃ち込んだ。
氣は一瞬にして、男の掌から、血管を伝い、心臓に達して、内部で弾ける。
その身体には傷一つ負わず、苦悶の声すら発する事なく、男は一瞬で絶命した。
だが、まだだ。まだやる事が残っている。
私は、脱力し始めた四肢を引きずるように幸さんの側まで這った。
間に合って。お願い。
私は死んだっていい。だが今は駄目。
今私が死んだら、幸さんを助けられない。
私は倒れた幸さんの首筋に指を当てて脈拍と、ついでに呼吸を確認する。
大丈夫だ。微弱ながら、ある。
もう一度、五指で氣を研ぎ澄ます。
そのまま、ツボ数カ所を一度に押さえ、氣の針を今度は優しく、幸さんの身体に送り込む。
幸さんの喉に開けられた穴から、血にまみれた小さな鉄の玉が、コロリと地面に転がり落ちた。
そしてその穴は、見る間に塞がっていく。
もう…大丈夫だ。
ホッと息をついた瞬間、四肢から全ての力が消えた。
同時に、全身の汗腺から、一気に汗が噴き出してくる。
どうやら、ただでさえ少ない氣を、完全に使い果たしたようだ。
だが、これ以上は必要ない。
名前も知らない暗殺者の、敗因はたったひとつ。
私より先に、幸さんを狙った事だ。
幸さんの命を救う為に、私は生きなきゃいけなくなった。
私だけなら、素直に殺されてあげたのに。
と。
「…さすがに、この程度の奴に殺されはせんか。
だがこいつはこいつで、充分役には立ってくれたな。
これで反撃される心配もなく、貴様をブッ殺せる。」
どこか聞き覚えのある声が、暗殺者の亡骸の後ろから近づいてきた。
動かない首を懸命に捻って、声の主を確認する。
「
「気安く名を呼ぶな、毒蜘蛛が。
親父や豪毅はうまく誑かしたんだろうが、俺はそうはいかんぞ。」
これはこれは、毒蜘蛛とは、随分嫌われたものだ。
しかし、まだ12歳になるかならないかの義妹に夜這いをかけて撃退された鬼畜の汚名は、他の誰でもないおまえの所業を正確に述べているだけで、夜這いをかけられた私のせいではない筈なのだが、反撃として10日間の激痛を与え続けた事で、どれだけ恨まれているのやら。
「親父は貴様を、自分の跡目を継ぐ者に与えると言った。
だが俺は、貴様のような毒蜘蛛を妻にするなどまっぴらだ!
正直、総理の暗殺に失敗したと聞いて、よくやってくれたと思ったぞ。
俺に、貴様を殺す理由を与えてくれてな。」
…なるほど。
「御前」はそんな事を考えていたわけか。
私に手をつけなかった理由は、おそらくそれに違いない。
それにしても…、
「フッ…クククッ……。」
「なにが可笑しい!」
「クク…それは最初から無用な心配ですよ。
『御前』の跡目にあなたが選ばれる事自体、そもそもありえませんからね。
私が知る限り、あなた方兄弟の中で『御前』が一番目をかけていたのは、一番下の豪くんだったようですし。」
ああ、そうなると私は豪くんと結婚しなければいけなくなるな。
それは彼にとっても迷惑な話だったろう。
この男のように、蛇蝎の如く嫌われているわけではないにしろ。
「……このっ…!」
顔を真っ赤にして、獅狼が力任せに私を蹴る。
動けない私は彼のなすがままだ。
「…殺してやる、光。」
獅狼は隠し持っていたらしい短刀を抜き放つと、私に向かって突き立てようと構える。
…いずれは「御前」の刺客に討たれるとは思っていたがまさか、「御前」の息子の1人とはいえ、このようなつまらない男に殺される事になるとは。
これまでに何人もの命を奪って来た、これが報いというわけか。
ならば仕方ない。死神に少し不満があるが、運命を受け入れてやるとしよう。
と。
「ぬおおおぉぉお!千歩氣功拳!!!!!」
野太い声の叫びと共に、凄まじい氣の奔流が頭上を疾り抜けた。
本来なら目には見えない筈の、あまりにも強大なそれは、視覚的に明確な巨大なひとつの拳の形をとる。
「ぐおっ!!?」
その巨大な拳をまともに背中から食らった獅狼は、吹き飛ばされて近隣の住宅のはるか上空を飛んでいき、恐らくはどこかに落下して見えなくなった。
千歩氣功拳!?
「御前」の配下の中にそれを使う者がいたが、私が一度見たそれは、今のような巨大な拳ではなく、無数の手刀の形をとっていた筈だ。
「光、というのが貴様の名か。
このような形で知る事になろうとはな。」
和服姿の巨漢が、横たわったままの私の顔を覗き込む。
先ほどの「千歩氣功拳」、放ったのは彼だったようだ。
「私より、幸さんを。
傷は塞ぎましたが、出血が多かったんです。
命に別状はないかと思いますが、安静は必要です。
連れて帰って休ませてあげて下さい。」
「なに、心配するな。
わしの女の命を救うてくれた事、感謝するぞ。」
江田島が、私を抱き起こしながらニヤリと笑う。
私は思わず彼から目を逸らした。
「私と居なければそもそも起きなかった事です。
逆に申し訳なく思います。
私のことは…どうぞ、お捨て置き、を…。」
そこまで言ったところで意識が途切れた。
☆☆☆
次に目を覚ますと、
氣が肉体の裡に充足したら傷は自分で治す事ができるが、それまでに出血多量で死んでしまえばそれもできない。ありがたい事だ。
服もその日着ていたものから清潔な肌着のみに着替えさせられていたが、これは誰の手によって為されたかは敢えて考えない事にする。
というか手当てするのに服が邪魔だったのはわかるが、別に下着まで全て外さなくても良かったのではないだろうか。
「指拳の使い手と見たは誤りか。
貴様が使ったのは、まさしく
奪うにせよ救うにせよ、人の命を左右する技よ。
絶えて久しいと思うておったが…貴様、橘の末裔だな。」
私が目覚めた事を知った江田島が、何か訳のわからない名前を出す。
平安時代中期までは源氏、平氏、藤原氏と共に隆盛を誇った橘氏の、傍系にあたる
それは極限まで練り上げた氣を、経絡(ツボ)を入り口として外部から注入する事により、様々な治療効果を期待するものであり、主に怪我の治療に多大な効果を発揮した。
ただしツボ同士の組み合わせによっては、患者の肉体に悪い影響を及ぼし、最悪死に至らしめるものもあった。
橘 法視はこれらの悪例を『
ちなみに、この術を用いて傷の治療を行う橘 法視の姿は、一般の者には手をかざしただけでみるみる傷が治癒していくように見えたと伝えられる。
某国民的RPGの、体力を回復する呪文が、この法視の名から取られたものかどうかは定かではない。
「たちばな…何ですか?」
「知らずに使うておったのか?
いつ、誰に教わった?」
「記憶にある限り10か11の頃には既に使えておりました。
それ以前の事は覚えていませんし、使った状況もお話ししたくありません。」
記憶にある一番最初にこの技で手にかけたのは、自分と歳もそう変わらない少年。
何もない谷底のような場所で飢えて渇いて、死にたくなければ殺せと命じられて、そばにいた私の首を絞めてきたその少年は、先ほどの
その頃の私の氣の練りはまだ未熟で、技も今ほど洗練されてはおらず、即死させる事はできなかった。
少年は自分に何が起こったのかわからぬまま、地獄の苦しみを味わいながら、数分後に息絶えた…。
「こちらも聞きたくはないわ。
背中の刺青を見る限り、楽しい話でない事は確かであろうからな。」
「!……あの刺青の意味を、御存知でしたか。」
それは孤戮闘…中国拳法極限の養成法とされ、世界中から年端もいかぬ子供達を集め脱出不可能な谷底に落として、一週間程飲まず食わずの飢餓状態に追い込んでから、その後人数に対し半分の数量の食料を投げ入れ、その食料を巡り奪い合いをさせる。
力が劣り闘いに負け糧を得られなかった者にあるのは死であり、それは最後の一人になるまで続く。
そして最後に生き残った子供を素質のある者と認め、それ以上に苛酷な修行を受けさせるというもの。
私の左肩甲骨の下部にある、六芒星をモチーフとしたデザインの刺青は、それを修了した証である。
私は目が覚めた時は、柔らかい肌着の下は止血のための包帯以外のものを身につけてはいなかった。
江田島はこの包帯を巻く際に、この刺青の存在に気付いたのだろう。
「うむ、話に聞いた事があるだけだがな。
しかし、光。」
名前を呼ばれた。
ただそれだけだが、それが妙に心に響く。
名、というものは、こんなにも重要なものであっただろうか。
気がついたら呼ばれていた、単なる識別記号であるだけなのに。
「何故貴様がそこに入れられたかは知るよしもないが、それは貴様のせいではない。
貴様はただ、大人の思惑の犠牲になっただけ。
そして、その中で生き抜こうと足掻いただけの話よ。
もっとも、貴様がそこに入れられた時点で既にその技を操れたというのならば、貴様がそこで勝ち抜く事は定められた筋書きのうちであったのであろうがな。
どのみち、貴様の責任ではない。」
…そういえば、あそこに私とともに放り込まれた子供達の中に、私のように特殊な技を持つ者はいなかった。
だとしたら、私があそこで生き残った結果そのものが、ある意味出来レースだったという事なのか。
「後から現れた男は、単なる刺客ではなかったようだな。
恐らくは、貴様の飼い主の縁者であろう?
貴様は飼い主に捨てられたという事ではないか?
その飼い主に、忠義立てする義理が本当にあるか?」
「やめてください!」
思わず考え込んでしまった私にかける江田島の言葉に、私は思わず声を荒げる。
確かに私は捨てられたのだろう。
もはや飼い犬ですらない。
だが、これまで培ってきたものを、いきなり捨て去る事など出来る筈もない。
「…失敗したのは私です。
始末されるのは当然の流れです。」
私は「御前」の意向に添えなかった。
だから捨てられても仕方ない。
使えない道具は処分される。
それは実に当たり前の話だ。
「…惜しいな。」
私の言葉に、何故か悲しそうな表情を浮かべて、江田島が呟く。
「え?」
「貴様のその力よ。
貴様の主は、命を奪う事のみに貴様の価値を認めておるようだが、それは本来は救う事を目的として生み出された技。
力に善悪はなく、振るう者次第で如何様にも傾くもので、それは光、貴様自身にも言える事だ。」
「私…自身?」
思わずおうむ返しに問い返すと、江田島が頷いて、微かに笑う。
「貴様の点てた茶には、心の曇りは一切なかった。
貴様もまたその力と同様、如何様にも変わっていけるという事よ。
今の貴様に、主を捨てろとは言わぬ。
貴様の様子から見て、主に忠義以上の感情もあるようだからの。
だが、貴様はこれから、貴様自身の生を生きねばならん…いや、生きてみよ。
これまでは死を間近に、嫌という程見続けてきておろう。
これから先は生を、嫌という程見続けてみるがよい。
光よ、貴様はまだ若い。
これまでは、主の世界の中だけで生きてきたのだろうが、新しい世界を知るというのは、存外楽しいものだぞ?」
江田島はそう言うと、またあのニヤリ笑いを浮かべ、それからいつかしたようにその大きな手で、私の髪をぐしゃぐしゃになるまで撫でた。
何故だろう。
私はこの行為を嫌だと思っていない。
そして何故か、鼻の奥がツンと痛む。
私は生きていていいのだろうか。
彼の言う『新しい世界』は、本当に私が見ていいものなのか。
わからない。わからないけれど。
それを知る為に、もう少し生きてもいいかと思っている自分がいる。
「それにしても、ぬかったわ。
あの時はまず、貴様の側から排除する事を考えて遠くにすっ飛ばしたのだが、貴様がここに居る事を、知られてしまったのではないか?」
江田島が少し悔しそうに私に問う。
「彼以外は大丈夫でしょう。
無駄にプライドの高い男でしたから、私を見つけたのに取り逃がしたなどと、主に報告はできない筈です。
そもそもそんな事をすれば、彼自身も粛清対象となりましょうし。
ただ、私と共にいた幸さんは念の為、拠点を移した方が良いかと。
私がここを出て行った後、私の居場所を探す為に、彼があの人に危害を加える可能性も否定できませんので。」
睡眠をとったからそろそろ氣も快復する頃だ。
まだ完調ではないにせよ、この脇腹の傷を塞ぐくらいなら、今ある氣の半分も使えば充分だろう。
傷さえ塞がれば、私一人ならどこにでも行ける。
「待て。今あっさりと出て行くとか申したな。
どこへ行く気だ?」
「それは聞かぬ方が良いでしょう。
とにかくこれ以上、お世話になったあなた方に、ご迷惑をおかけする訳には参りませんので。
…ご心配なく。
うまく立ち回って逃げ延びてみせますよ。
あなたの言う、新しい世界を見る為にも。」
私にとっては、この出会いこそが新しい世界だった。
…気がついてしまったのだ。
私は「御前」の飼い犬としての自分の立場を、充分わきまえているつもりだった。
それなのに私は無意識に「御前」の愛情を求めてしまっていた。
褒めて欲しかった。頭を撫でて欲しかった。
だからあの方の求める自分の役割を、完璧にこなしてきた。
だけど「御前」は私に、頭を撫でてくれるどころか、優しい言葉ひとつかけた事はない。
仕事が終わって報告を終えれば、「ご苦労だった。下がって良い。」と背を向けるだけで。
当然だと思ってきた。
けれど心はいつだって、得られないものを欲しがって叫んでいた。
だけど。
私の親でもない人たちが、私を気にかけてくれた。
頭を撫でてくれた。
失敗しようがなんだろうが、生きていいのだと言ってくれた。
だからこそ、離れなければならない。
この人たちに甘えて、危険を犯させるわけにはいかない。
獅狼の台詞ではないが、毒蜘蛛が抱きしめられる事を望むべきではないのだ。
「今更水臭い事を申すな。
貴様一人匿う先くらい、既に用意しておるわ。
あそこなら決して見つからぬであろうし、見つかったとしても貴様を害する事は出来まいて。
わしに任せておくが良い。」
それなのにどうしてこの人は、こんなにも優しくしてくれるのだろう。
「しかも、退屈は決してせぬぞ。
ただし貴様には、今日より男になってもらう。」
「…男に?」
どういう意味かと訝しむ私に、目の前の男は笑って、一言こう言い放った。
「フフフ、わしが男塾塾長、江田島平八である!」
…まったくなんの説明にもなっていなかった。
名もない暗殺者は勿論あの組織の一員で、「一番の小者」より更に小者でしたwww
そして次からようやく原作始まります。