婀嗟烬我愛瑠〜assassin girl〜魁!!男塾異空伝   作:大岡 ひじき

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12・羽根のない天使のように堕ちる

「と、虎丸…。

 あいつ、あの業火の海を泳ぎきりやがった…。」

 火の海から柱を登ってきた虎丸は、比喩でも誇張でもなく全身真っ黒コゲだった。そりゃそうだ。

 燃えたぎる油を泳いで渡ってきて、全身揚げられたに等しい状態だったんだから。

 髪なんかもすっかり焼け落ちて見る影もないし、下帯が辛うじて残ってるのはきっと神の慈悲だ。

 言葉どおり、羅刹と戦うつもりなんだろうけど、息も上がっているし、肉体のダメージは明らかだ。

 

「やめておけ虎丸…。

 おまえの勝てる相手じゃねえ。」

 四肢を拘束された状態のまま、伊達が言う。

 でも多分、言わなきゃいけないからとりあえず言ってるけど、無駄だって事は分かってる、て感じ。

 

「それが助けに来てもらって言うセリフか。

 まったく口の減らねえ野郎だぜ。

 …見せてやるぜ、猛虎流拳法の真髄をな!!」

 叫んで虎丸が、羅刹に向かって突進する。

 飛び出した勢いに任せて拳を振るうも、その拳は羅刹が背にしていた柱を砕いて穴を開けたものの、肝心の羅刹の姿を見失った。

 

「き、消えた…!!」

「猛虎流拳法だと…。

 そんな流派は聞いたことがない。」

 羅刹は同じ柱の、虎丸の目線より一段高い足場に立って、腕組みすらして見下ろしていた。

 

「あったりめえじゃ──っ!

 俺が考えたんだからな──っ!!」

 ああ、言っちゃったよ。

 言わなきゃある程度のハッタリかませたものを。

 いや、無理か。

 見る者が見れば虎丸の動きは、正式にどこかの流派の師について導かれたものではない事は分かってしまう。

 身体能力が高い上無駄に小器用なせいで、ある程度通用してきちゃったのが、逆に今の彼にとってのマイナスかもしれない。

 そもそも驚邏大四凶殺の時には、月光相手に完全に翻弄されていたし。

 富樫同様、達人クラス相手にはそろそろ頭打ちかもしれない。

 …この戦いが終わって男塾に帰ったら、富樫と虎丸も修行に誘おうかな。

 私がそんな事を考えている間にも、羅刹が虎丸に次々と攻撃を加える。

 蹴りを避けられたと思えば、息つく間もなく指拳。

 虎丸は躱すのが精一杯で、一旦体勢を整えようと柱の陰に移る。が、

 

「無駄だ、それで身を守っているつもりか。」

「ゲッ!!」

 その柱をぶち抜いて羅刹の指拳が頭部を掠め、虎丸はどんどん追い詰められていく。

 実力の差もさることながら、全身火傷のダメージは、確実に虎丸の身体を蝕んでおり、更にこの高所での闘いは、完全に羅刹のステージなのだから、もはや結果は目に見えている、のだが…

 

「フッ、獅子はウサギを倒すにも全力を尽くすという。

 味わわせてやろう、鞏家(きょうけ)兜指愧破(とうしきは)の極意を!」

「な、なにー、この俺をウサギだと──っ!!」

 …なんだろう、この虎丸の動き。

 一見、羅刹の攻撃を躱しながら、闇雲に逃げてるように見えるけど、なんかその注意が一定方向に向かってる気がする。

 

兜指(とうし)関節砕(かんせつさい)!!」

「そんなものが俺に通用するか──っ!!」

 自分に向かって真っ直ぐ飛んでくる羅刹に、カウンターを当てるように拳を突き出した虎丸だったが、その拳が空を切り、羅刹の親指が右肘に突き刺さった。

 

「こ、これは…!?うぐぐ………!!」

「な、なんだ!

 虎丸の腕がおかしな具合に曲がっているぞ──っ!!」

 一号生たちが指差して叫ぶ通り、虎丸の肘から先が、ありえない方向に曲がっており、恐らく現時点で指先の感覚はあるまい。

 

「もはやその右腕では箸をつかむこともできん。

 腕の枢肘関節を破壊して外したのだからな。

 火の海を泳ぎ切った貴様の努力も徒労に終わったな!!

 もう一本の腕ももらうぞ。」

「うおっ!!」

 言うや羅刹は、辛うじて柱の足場にぶら下がる虎丸の左手の、先ほどと同じ部分に指拳を突き刺す。

 

「く、くそ──っ!!」

 その状態で体重が支えられる筈もなく、虎丸の指から力が抜けた。

 

「と、虎丸──っ!!」

「だ、だめだ、落ちるぞ──っ!!」

 だが虎丸は落下しなかった。

 両脚を柱に絡めて、なんとか粘っている。

 

「ヘッ、なめんな…。

 この虎丸様は、そう簡単に殺られやしねえぜ。」

 落下だけは防ぎつつも、攻撃も防御もままならぬ体勢で、それでも虎丸は笑ってみせた。

 

「フッ、貴様の相棒のしぶとさだけは大したものよ。

 しかしあの様では、次の一撃は避けられまい。」

 馬鹿にしたように嗤いながら、羅刹は虎丸ではなく伊達に向かって言う。

 

「…馬鹿が。余計な真似しやがって。

 おとなしく見物していればいいものを……!!」

 溜息のように伊達が言うと、虎丸が何故だか優しげに微笑んだ。

 

「俺にはわかっているぜ。

 おまえがなぜ俺を戦わせないで、ひとり勝負していたか……。」

 瞬間、伊達の瞳が何かの感情に揺れたのが、はたして虎丸に見て取れたかどうか。

 

「やっぱり俺のかなう相手じゃねえ…。

 俺が負けて殺されんのは見えている。

 だからおまえは、自分の身に代えても、俺を戦わせたくなかったんだろう?

 そういう奴だよおまえは。

 口は悪いが、本当は優しい奴だもんな。」

「………馬鹿言ってんじゃねえぜ。

 俺がそんなに甘い男に見えるかよ。」

 そう言って馬鹿にしたように伊達は笑ったが、もはやそれは照れ隠しにしか見えない。

 

「だが俺だってむざむざ殺られに、火の海を渡ってきたわけじゃねえ。

 俺はおまえを助けにきたんだ。」

 急に虎丸が表情を引き締める。

 そして脚に力を込めると、足場をうまく利用しながら、脚だけで柱を登っていく。

 …並外れた筋力と関節の柔らかさがなければできないな、これは。

 この男が化粧まわしを締めて、雲竜型の土俵入りで四股を踏んだら、その姿はとても美しいのだろうなと、ひどく場違いな事を私が考えたあたりで、虎丸の動きが止まった。

 

「なる程な。

 貴様、ただ逃げ回っていたのではなく、その柱を狙っていたか。」

 それは、伊達を拘束している縄縛環のワイヤーが巻き付いている、どうやら中心のようだ。

 

「確かにその柱に巻きついているロープの束を切れば、伊達の体は五体自由になる。

 しかし両腕を使えぬ貴様に何ができる…。

 その鋼鉄製のワイヤーは決して切ることはできぬ。」

「じゃかあしい。

 よーく目ん玉あけて見ていろや。」

 柱に脚を絡めた状態から、腹筋だけを使って身体を起こした虎丸が、息を乱しながら一旦背を反らせる。まさか。

 

「おりゃあ──っ!!」

 気合いの掛け声とともに、頭部を柱に打ちつける。

 どうやら虎丸が選択したのはロープを切る事ではなく、それが巻き付いた柱を破壊する事。

 それも、頭で。

 

「やめろ虎丸ーっ!!

 柱より先に、頭が割れちまうぞ──っ!!」

「フッ、何を馬鹿な。石柱を頭突きなどで……。」

 脚と腹筋の固定に力が分散されている筈なのに、そうとは思えないほどの力が、一撃一撃に加わっているのが、見ていてもわかる。

 常識的に考えれば、頭骨の方が先に砕けるのが当たり前なのに。

 

「み、見ろ!柱に亀裂がはしった──っ!!」

 …まったく、どこまで常識のない奴なんだ。

 

「おおおっ!もう一丁──っ!!」

 馬鹿にして見ていた筈の羅刹の表情にも焦りの色が走る。

 

 

 正直見ていられなくて、思わず目を覆いかけたら、誰かに肩を抱かれた。

 驚いて振り返ると、月光が私の方に顔を向けずに小声で囁いた。

 

「目を背けてはならぬ。

 ここに足を踏み入れた以上、貴様には見届ける義務がある。」

 …ああ、その通りだ。

 驚邏大四凶殺の時に三号生の依頼を受けただけにしても、私が彼らをここに導いたのだ。

 私にはその責任がある。

 月光に向かって頷いてから、再び闘場に向き直る。

 こちらを見てはいないが動きは伝わった筈。

 私を女扱いしないでくれる、月光の心遣いが、今は有り難い。

 

 

「チィッ!そうはさせん!!」

「危ない、虎丸──っ!!」

 羅刹が指拳を構えて飛び出すのと、伊達が思わず叫んだのは同時だった。

 次の瞬間、羅刹の親指が、無防備な虎丸の背に突き刺さり、血飛沫を上げる。

 虎丸の名を呼ぶ伊達の声が、まるで悲鳴のようだ。

 

「なめるな…。

 なめんじゃねえ、この虎丸様を……!!」

 もうこれ以上は保たない。

 そんなタイミングで、虎丸の背が、今まで以上に反らされた。

 そして。

 

「だ、伊達!あとはたのんだぜ──っ!!」

 渾身の頭突き。

 その一撃は、間違いなく柱を粉々に砕き割った。

 

 

 柱が砕かれ、巻き付いていたワイヤーが散る。

 だが虎丸本人は、それを確認できたかどうか。

 

「だ、だめだ虎丸の奴、石柱は砕いたが、脳震盪をおこして意識がなくなってる──っ!!」

「あのまま火の海へ真っ逆さまだ!虎丸──っ!!」

  一号生たちが悲痛に叫ぶ。

 が、次の瞬間、ヒュンと風を切る音が響いた。

 業火の中に落ちる寸前の虎丸の、その足首に、さっきのワイヤーが巻き付いて、落下を止める。

 そのワイヤーを握っているのは……、

 

「だ、伊達──っ!!」

 悲痛の声が、歓喜に変わる。

 かつては敵として現れた、今や頼もしい味方の名を呼んで。

 

 

 四肢の自由を取り戻した伊達は、炙り焼きにならない高さまで虎丸の身体を引き上げると、ロープを足場のひとつに結びつけた。

 

「世話になったな、虎丸。

 しばらくはこれで我慢してくれ。

 …今、おまえの仇はとってやる。」

 前半は、ひどく優しい声で、最後の部分は強い口調で言いながら、伊達は羅刹を睨みつける。

 

「良かったな…。

 寸での所で、相棒のおかげで命びろいできて……。」

 だが、鋼環はまだ残っている。

 どうするのかと思っていたら、

 

「まだわからんらしいな。……見せてやろう。」

 伊達は両手の鋼環を胸の前に揃えて、スッと瞼を閉じた。

 

 闘・妖・開・斬・破・寒

 滅・兵・剣・駿・闇

 煙・界・爆・炎・色・無…

 

「おまえはやり過ぎた…死んでもらうぞ、羅刹!!」

 気合一閃。先ほどと同じように筋肉が膨張し、白金鋼の鋼環が弾け飛んだ。

 

覇極流(はきょくりゅう)気張禱(きちょうとう)の極意か…なる程な。

 貴様にはまだその手があったか。」

 言いながら羅刹が、先ほど伊達に潰された拳を鳴らす…って羅刹、あなた絶対今、その事忘れてましたよね?

 まあいい、武士の情けだ。

 一瞬ちょっと痛そうな顔したのは見なかったことにしよう。

 大丈夫、多分私以外誰も気付いてない。セーフセーフ。

 

「す、すげえ伊達の奴、白金鋼でできた鋼環をぶちこわしたぜ!!」

「しかし、だったらなんでもっと早く、あの気張禱で脱出しなかったんだ!?」

「おうよ。

 そしたら虎丸も、あんなに傷つかずに済んだかもしれないのに!!」

 いや、あの、君たちね…。

 

「わからんのか……。

 伊達は、虎丸の男をたてたのだ。」

 完全に危機を脱した伊達に安心すると同時に、湧いた疑問を口にする一号生たちに、桃が、闘場を見つめたまま答える。

 

「己の危険もかえりみず火の海へ飛び込み、黒コゲになりながらも自分を救出しようとしている虎丸を見て……誰が止めることができる。」

 深く落ち着いた声で、諭すように。

 

「……伊達は心を鬼にして堪えていたのだ。

 虎丸の気持ちを無駄にせぬためにな!!」

 桃の言葉に、皆が黙り込む。

 って、君らそれで納得するんかい。

 いや、しちゃうんだろうな。彼らは男だから。

 一般的には論争を交わす際、女は感情で武装するのに対し、男は理論で武装する生き物だと思う。

 端的には、物事を女は『好きか嫌いか』で判断するのに対し、男は『正しいか間違っているか』で判断するって事。

 女は三界に家無しってくらいで己以外の寄る辺のない生き物だから、自身の内面にこそ自信の在り処を求めるけど、男は己の自信を己の外に求める生き物で、他人からの容認がなければ自己を確立できない。

 それには『正しい』が一番の近道なわけだ。

 だけど、男のプライドとか男らしさを論じる時に限り、何故かそこに感情論が入るってのは、一体どういうわけなんだろう。

 その場合のみ、正しい事が必ずしも正解ではなくなり、己の感覚のみを信じて動く、どちらかというと女性的な行動の方が、男らしいと判断される事が多いのだから。

 この場合正しいかそうでないかで判断したら、その判断は決して正しくはない。

 だけど男らしいかそうでないかと問えば、10人中10人が『男らしい』と答えるだろう。

 突き詰めれば本当は女の方が男らしいって事なんだろうか。

 それって既に『男らしさ』とは言わなくないか?

 うん、まったく意味がわからない。

 いつか独眼鉄に投げかけられた「男とはなんぞや!?」を、私の方が彼らに問いたいくらいだ。

 そうなったらそうなったで人数分の『男』が掲げられて、ますますわからなくなりそうだけど。

 というか、うん。

 実のところ桃の説明も、多めに見積もっても半分しか正解じゃないと思うよ。

 あの気張禱って、連続して使用できるような便利な技じゃない筈だから。

 一瞬とはいえ、下手すれば己の肉体そのものを破壊しかねないほどの力を引き出すんだから、後からその反動が、肉体への負荷という形でこなきゃ嘘だ。

 ひょっとしたら伊達にそういう気持ちも少しはあったかもしれないけど、実際には、ある程度の時間を置かなければ使えなかったってのが本当のところだと思う。

 というか今使えたのだって多分だが奇跡に近いだろう。

 感情の昂りが肉体を強化しているからこそできた筈だ。

 恐らくは後で、立っているのすら辛い状態になる。

 

「フッ……すさまじい殺気だ。

 貴様の怒りの程がよくわかる。」

 その怒りは、誰に向けてのものなのか。

 虎丸を傷つけた羅刹に対してよりも、本来待たせたまま終わらせてやる筈だった虎丸を、ここまで来させてしまった自身への怒りの方が、より強いのではないだろうか。

 

「だが高所にあって、俺の鼯樵橤拳(ごしょうずいけん)滑空殺(かっくうさつ)に敵はない!!」

 言って飛び出した羅刹が、伊達に向かって何かを投げた。

 伊達は首をわずかに動かしたのみでそれを躱す。

 そもそも、当てようとして投げたものではなかったらしいそれは、伊達の背にした柱に当たると、大袈裟な音を立てて破裂した。

 

「むっ!!」

 続けて第2投。

 同じように破裂したそれは、黒い煙を立てて、二人のいる闘場を覆い尽くし、羅刹はその黒煙の中に飛び込む。

「これぞ鼯樵橤拳黒闇殺(こくおんさつ)!!」

 

 ・・・

 

「さすが死天王のひとり羅刹よ…。

 煙幕を使っての黒闇殺とは……!!」

「黒闇殺…!?」

 それは全く目の利かぬ闇夜や暗い屋内での殺傷を目的とした暗殺拳だという。

 この拳を極めた者は、最低でも10m先の距離で落ちた針の気配を察知できるらしい。

 と聞くとなんか凄そうというか、実際凄いんだろうけど…多分だけど、さっき月光が言った、目が見えないって言葉が本当ならば、月光はこれに近い事が日常生活でできてるんじゃないかな。

 注意深く観察すれば、彼の視線が微妙に焦点が合ってない事に気付くかもしれないけど、普段の彼の動きとか身のこなしとか見ている限り、それで目が見えないという結論には至らない。

 ひょっとしたら、他の三面拳や伊達ですら気付いてないかもしれない。

 それくらい所作が自然だから。

 それはともかく、私たちのところからは闘場の動きがほぼ見えなくなった。

 二人の動きだけは空気の動きでなんとなく読めはしても、それ以上の事はわからない。

 

 ☆☆☆

 

 “フッ、見えまい。俺の姿が……。

 しかし俺には、貴様の一挙一動が、手に取るようにわかる。”

 

 “俺は闇にあって、十M(メートル)先で落ちた針の気配さえもつかめる。”

 

 “どこを見ておる。ここだ。俺はここにおる。”

 

 べらべらとうるさい野郎だ。

 気配を絶ってはいても、声でおおよその方向はわかる。

 それを奴もわかっているのか、ある程度は反響の起こる場所だけで声を出しているんだろうが。

 一瞬奴の気配があらわになった場所に、俺は拳を放つ。

 だがそれはどうやらどうやらフェイクだったようで、強烈な殺気が背後から襲いかかってきた。

 寸でで飛んで躱した瞬間、それまで背にしていた柱が砕かれた。

 

 “見事…と言いたいところだが、今の一撃はただの脅しだ。

 俺が完全に気配を絶って攻撃した時はそうはいかん。”

 

 次の瞬間にはまた黒煙に身を隠した羅刹の声が反響する。

 

「笑わせるな。

 こんな子供だましが俺に通用すると思うのか。」

 溜息のかわりにそう言ってやる。

 相手の実力も把握せずに勝ち誇る馬鹿ほどうっとおしいものはない。

 

 “次は、貴様の胸板を貫く!”

 

 できるものならやってみるがいい。

 次に頭上から姿を現した羅刹の攻撃を躱し、奴のお株よろしく、黒煙の中に潜り込み、気配を絶つ。

 一方、奴の狼狽する気配が伝わってきた。

 

 黒闇殺において、十M(メートル)先で落ちた針の気配を察知できるなどというのは最低限の条件だ。

 拳を極めるという事はそういう事ではないだろう。

 常にその上を目指さねば意味がない。

 ガキの頃に地獄を生き残り、送り込まれた先でこの拳を修めた俺は、二十M(メートル)先で落ちた針の動きでもつかむことができる。

 そう言ってやると羅刹の狼狽の気配がますます強くなった。

 そろそろあれを用意しておくか。

 必ず必要になってくるだろうから。

 

「まさかあやつも黒闇殺を…。

 それも俺より上手に体得しているというのか……!!」

 そもそもガキの俺があの組織から逃げ出した時、一番役に立ったのがこの拳だ。

 闇に乗じて気配を消し、施設の大人たちを全員皆殺しにして逃げ出し、右も左もわからぬ山の中で、飢えて渇いて倒れていたところを飛燕に発見されて、奴らの修行する寺に運び込まれたわけだが…まあそんな事は今はどうでもいい。

 

「ど、どこだ、どこにいる──っ!!

 汚ねえぞ、出てきて勝負しろ──っ!!」

 どうやらこいつは、動揺すると注意力が散漫になる質らしい。

 さっきまでの余裕に満ちた態度が嘘みたいに、言葉遣いまで変わってきている。

 

「汚ねえ…!?どこからそんなセリフが出てくる。

 この仕掛けを仕かけたのは貴様の方だぞ、羅刹…。」

 俺が寄ったわけではなく、自分の方から俺のいる柱に降り立ち、勝手に背後を取られた羅刹に、親切にも声をかけてやる。

 冷静さを失ったこの程度の男に俺が負ける道理がない。

 慌てて振り返り俺に向けてきた指拳を払い、顔面を蹴り飛ばす。

 

「どうやら勝利の女神は、まだ俺に味方しているようだぜ。」

 飛ばされた先で、足場に括り付けられたワイヤーを見るなり、羅刹がその側で俺に向かって叫ぶ。

 

「聞けい伊達──っ!!これが見えるか──っ!!

 貴様の相棒を吊ってあるこのロープを外せばどうなるか!!

 姿を見せねえと、貴様の相棒は火の海へ真っ逆さまだ──っ!!」

 やはりそこまでの男か…。

 あまりにも予想通りで笑いがこみあげてくる。

 

「やれよ。おまえの好きなようにしたらいい。」

 そう言ってやると驚いて、俺に不意打ちをくらうかもしれない危険などどこぞに飛んだように、羅刹はワイヤーを引っ張り上げる。

 気配を絶ちながら俺が用意した、柱の破片を縛りつけたロープを。

 虎丸は既に別の柱に括り付けてある。

 仮にも俺を助けようと重傷を負った男を、いつまでも足一本結わえたままの逆さ吊りにしてはおけんからな。

 

「おまえのような男が考える事はよくわかる。

 俺とおまえとでは格が違う。

 あらゆる状況を想定しそれに備える。

 これは闘法の初歩的問題だ。」

 今度は間違いなく羅刹の背後を取り、一段上から声をかけてやる。

 

「クッ、まだわからん。

 勝利の女神がどちらに微笑むかはな……!!」

「女神じゃない…おまえに微笑むのは死神だ!!」

 奴にそう告げた時、何故かあの塾長秘書の顔が頭に浮かんだ。

 なるほど、女神の顔をした死神か。

 我ながら言い得て妙だ。

 その顔を振り払うように、俺は奴の胴に蹴りを放つ。

 柱の足場である大きな棘が、奴の背中に突き刺さるのが見えた。


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