婀嗟烬我愛瑠〜assassin girl〜 作:大岡 ひじき
赤石の応急処置が済み、一足先にここの簡易休憩所に彼を運んでいった雷電と飛燕が戻ってきたあたりで、自陣からの集音マイクが聞きなれない声を拾った。
「ちょっくらものをたずねるけんどよ、天挑五輪大武會準決勝戦の闘場てな、どこかいのう?」
そちらに目を向けると、恐らくは私より小柄な、編笠を被った恐らくは少年が、うちの屈強な男どもの間を、テケテケと歩いてくるところだった。
その物怖じのなさに全員が戸惑っているのも構わず、少年は続ける。
「この島全体、まるで迷路みたいな道で、さっぱり方角がわからなくなっちまってな。
知らんかのう!?
チョビヒゲの、汚い顔したおっさんよ」
向いている方向からすると、どうやら最後の言葉は富樫に向かって言ったらしい。
待て!
富樫は確かに老け顔だがオッサンは止せ!!
あと、汚い顔は言い過ぎだろ!
ちょっと大きな傷痕はあるが、あの子は味のあるいい顔だよ!!
もっと大人になって顔と年齢が釣り合う頃には、独特の色気が出てくる筈だからね!
…………………多分!!
なんかちょっと、親バカに近い感情入った気がするけどきっと気のせいだ。
そして全員がやや硬直気味な中、失礼な事を言われた富樫と、最初に我に帰ったらしい虎丸が少年に摑みかかるが、少年は構わない調子で富樫を突き飛ばすと、反対側の敵陣を指差して叫ぶ。
「ああっ、いたいた──っ!!
あんちゃん達はあんな所に〜〜っ!!」
見れば相手側の陣では、それまでそこにいた老人以下全員が、2人の男を囲んで跪いており、その2人は男塾側を見つめている。
…というか、先ほどから集音マイクが拾ったあちら側の会話を聞く限り、三首領と呼ばれるうちのふたりが、その立っている男たちらしい。
ということは、それを兄と呼んだこの少年こそ…。
「俺の名前は梁山泊三首領のひとり、泊鳳!!
どうやらあんた達は、俺の敵だったみてえじゃな。」
編笠を指先で押し上げながら、少年は白い歯をむき出してニヤッと笑う。
その顔は大目に見積もっても13歳より上には見えない。
というか11歳の頃のうちの豪毅の方が顔立ちは大人びていたし、体格ももう少し大きめだったと思うし、成長してからはなかなかのイケメンだし…止そう。
その少年に何故か殴りかかった富樫の拳は空を切り、次の瞬間彼のちいさな身体は、闘場の真ん中にあった。
「おーい、早く降りて来いや──っ!!
俺が相手になるぜい───っ!
言っとくが、俺はとてつもなく強いぞ──っ!!」
その闘場の上から、男塾に向かって呼びかける泊鳳少年。
その挑発に、先ほど拳を躱された富樫が降りていこうとするのを、別の声が止める。
「貴様のパンチが通用する相手ではない。
…さあ、ゴングを鳴らしてもらおうか!!」
そこには蒼い目をしたサムライが、己の両拳を打ち合わせていた。
「J───っ!!」
・・・
「相変わらずの奴よ。」
「フッ、だがわたし達は恐ろしい弟をもちました…。
泊鳳と戦い、命があった者は未だかつておりませぬ。」
相手側の陣に立っている偉丈夫と美丈夫が物騒な事を言うのを集音マイクが拾う。
美丈夫の『わたし達』というもの言いからすると3人は兄弟であるらしい。
だが偉丈夫の方が『相変わらず』と言ったところを見ると、ひょっとしたら最近は顔を合わせていなかったのかもしれない。
そして話題の中心である弟はというと、Jが縄ばしごをゆっくりと降りていくのを待つ間、登場に座り込んで弁当をつかいはじめた。
その箸の動きが止まる。
どうやら視界の端に、降りてくるJの姿をようやく捉えたらしい。
「おお───っ!!
出て来たな、この命知らずが───っ!
カッカカ、仲間としっかりこの世の別れの、挨拶は済ませて来たろうな──っ!!」
このチームさっきからこの『命知らず』って表現好きだな。別にいいけど。
それはそれとしてこの子、三首領のひとりというからには、少年といえど侮ってはならないだろう。
少なくともJがこれまで戦ってきた相手の中には、このタイプは居なかったと考えていい。
ボクシングを戦闘スタイルにとる彼は、そもそも体格に差がある相手との戦闘経験自体が少ない筈だし。
…一番近いのが、私かもしれない。
ってやかましいわ!
・・・
Jが完全に闘場に足を踏み入れた事を確認して、泊鳳が立ち上がり、パンパンと腹を叩く。
「さーて、食後に軽く、腹ごなしの運動でもするか。」
空の弁当箱は足元に置いたまま、何故か箸だけは離さずに、戦闘態勢をとるJを指さす。
「その構えは西洋でいう、ボクソングとかいう奴だべ。見たことあるぞ。」
…ひとの戦闘スタイルをなにか音楽のジャンルみたいな響きの言葉にするんじゃありません。
「俺をなめない方が身のためだ。
相手がガキだからといって手加減はせん。」
いつもは冷静で大人対応なJが、今ので若干キレたかもしれない。
深く踏み込み、パワーもスピードも充分に乗った左のストレートが泊鳳の顔面に向けて放たれ…た次の瞬間、信じられないことが起きた。
「なっ!?」
泊鳳が先ほどまで弁当を食べるのに使っていた箸を、ひどく無造作に顔の前に出したと思うと、その華奢な二本の棒が、すべてを砕く筈のJの拳を、挟んで止めたのだ。
しかもどうやらそこに相当な力がかかっているらしく、拳を引き戻そうとしたJの左腕の筋肉が大きく盛り上がっているにもかかわらず、それはそのまま動かず箸の間にある。
それでも次に至近距離から右の拳をくり出すJ。
「おっと!」
瞬間、泊鳳のちいさな身体は宙に跳び、一瞬その姿をJは見失う。
「どこに目ん玉くっつけてんじゃーっ!!
俺ならここにおるぞ───っ!!」
目にも留まらぬ速さでJの拳から逃れた泊鳳は間合いの遥か外、10メートルは離れた場所で、短い手足を振り回していた。
…この相手ならJよりも雷電や飛燕、或いは卍丸といった、スピードや体術に秀でているタイプが出ていた方が戦いやすかった気がする。
相手がどう出てくるか読みにくいタイプだから、気配に敏感な月光もいい勝負ができそうな気が。
まあ、卍丸や月光は今日は既に戦っていてそこそこ負傷もしている(月光に至っては急所は外したとはいえ胸に矢を受けている)から、また出すわけにはいかないだろうけど。
さっきの赤石といい、常に人選とタイミングが悪いというか。うーん。
「どうもこれじゃやりにくいのう、あんちゃん。
こうも闘場がだだっ広いと俺の素早い動きにはついてこれず、勝負にならんじゃろう。
…そうじゃ、いい考えを思いついたぞ!」
泊鳳がそう言って、拾った石で地面に線を引き始める。
この年齢の男の子が言う『いいこと考えた』は大抵ろくなことではない、というイメージは偏見だろうか。
あ、豪毅はそんな事なかったよ。
戦い方とか荒っぽい事を仕込まれていても、あの子には育ちの良さというか品があった。
それはさておき即興で引いたにしてはまっすぐな、恐らく6メートル四方くらいの四角形を描いた泊鳳は、少し息を切らしながら、その真ん中で短い両腕を広げた。
「ボクソングのリングってな、こんくらいの広さじゃろが!
俺はこの中から一歩も外に出たりせん!!
一歩でも足を踏み出した時は、負けを認めて腹かっさばくぞね!」
言って自分の胸を叩く泊鳳を、Jが呆れたように睨む。
「いいのか、そんな大口をたたいて。
自分で自分の首をしめ、地獄で後悔することになる。」
「フッフッフ、そうかな……!?」
編笠の陰になった泊鳳の瞳が、少年とは思えない好戦的な輝きを放った。
Jは少し考えてから、その挑戦を受ける事にしたようで、黙ってその即興リングの中に足を踏み入れる。
そして得意のフットワークを使い、泊鳳に照準を定めながら、その動きを正確に追っていく。
「こ、これはたいした足さばきじゃ。
いくら逃げてもジリジリと追いつめられていくぞね。」
やけに説明的な台詞を吐きながら、泊鳳は次第に動きを狭められて線の端、ボクシングでいうならロープ際まで追いつめられていった。
「ああっ、いかん!早くももう後がないーっ!!」
自身の引いた線の際で、ぐらつかせた泊鳳の上体に向かって、Jの右のストレートが放たれる。
「と、思いきや」
逸らした上体がバネの如くしなり、下半身を上にした状態で跳躍した泊鳳の脚が、Jの右腕を脚で挟む。
そのままくるりとJの太い腕の上に乗った泊鳳は、両手の指で下まぶたを引っ張って、あかんべえをしてみせた。
「全然、ピンチじゃなかったりして♪」
明らかに苛ついた様子でJが腕を振り払うと、泊鳳はやはり宙返りをするようにそこから跳躍して、逆立ち状態で地面に降り立つ。
そこに休ませぬ勢いで駆け寄ったJのパンチが飛ぶも、やはり猿のように素早い動きでそれは躱された。
Jはそこから休むことなく攻撃を繰り返すが、そのことごとくが掠りもせずに空を切る。
「あの体術は確かに見事だが、それ以上に、Jの動きが読まれているようだな。」
影慶が呟くのに、私やディーノが頷く。
その事にJ自身も気がついたようで、その表情に焦りの色が見えた。
「どうやら気づいたようずら。
いかにも俺は、
「
思わずといった体でJが足を止め、泊鳳もそこに攻撃をする事もなく、二人の攻防が一旦停止する。
「知らぬなら教えてやろう。
人間の体というのはその肉体を駆使する寸前、必ず筋肉・表情・呼吸に、微妙な変化が現れる。
俺はそれにより、貴様の動きを完璧に予見するというわけずら。」
泊鳳の説明を聞き、うちの拳法辞典が呻くような声で呟く。
「ぬうっ、恐るべき奴……!!
よ、よもやあのような年端もいかぬ者が、體動察の法を極めるとは……!!」
肉体には運動を起こす時、大脳から意志を伝達する運動神経の中継機能を持つ體動点がある。
この全身に張り巡らされた體動点の変化を見極める事を拳法に応用し、完成させたのが體動察である。
ちなみに目の周りには特に體動点が集中し、古来より諺にある「目は口ほどにものを言う」というのは、このことを証明するものである。
つまりはJの攻撃は全て彼の予測の範囲内。
勝てるとしたら、わかっていたとしても避けようのない圧倒的なスピードやパワーで対抗するしかない。
だが現時点ではそれは絵に描いた餅だ。
「あんちゃんのパンチも、当たれば相当の威力がありそうだけんど、俺も負けちゃおらん。」
泊鳳がそう言って、手近にあった大きな石、というよりは重そうな岩を宙に放り投げる。
それほど高くは上がらず、すぐに目の前に落ちてきたそれに、彼は掌を合わせた。
「梁山泊奥義・
次の瞬間、岩は粉々に砕け散る。
「ただの掌底突きではない…!!
奴は、氣功法をも体得しているのか……!!」
それを目の当たりにした桃がひとりごちる。
身体がちいさい分その総量が少ないものの、その練り方は洗練されているようだ。
というか少ない量を密度を圧縮して解き放つ氣の運用の仕方は、私の使い方に極めて近い。
「行くずら──っ!!」
守勢にまわっていた泊鳳が攻撃に転ずる。
先ほどの岩を砕いた掌底が連続で突きかかってくるのをJはフットワークで躱す。
その勢いでつんのめる形になった瞬間、
「横へ躱すと見せかけて、実は背後へ回る。」
まさにその通りの動きをするかしないかのうちに言い当てられ、Jは振り返った相手と真正面から向き合う形となった。
それでも間を置く事なく、右のストレートが繰り出される。
「この右のパンチはフェイントで、本当は左で俺の顔面を狙うつもりだ。
…全ておまえの動きはわかってるといったはずじゃ──っ!!」
音速を超えるワンツーの隙間をあっさりかいくぐり、泊鳳はガラ空きになったJのボディに、掌底突きの一撃を食らわせた。
「がはっ!!」
少年の細腕から繰り出されるとは思えないほどの威力が、体重なら彼の倍はあるだろうJの身体を吹っ飛ばす。
「ノックダウン──っ!!カウント開始──っ!!
ワン!ツー!スリー!……」
恐らくは肋骨の1、2本は折ったのだろう腹部を押さえつつJがそれでも立ち上がったのは、カウントを数えられたボクサーの習性だろう。
口の中を切ったものか口から血を吐き出し、それからポケットに手を入れて、愛用のナックルを装着する。
「どうやら貴様の大口は、ただの思い上がりではなかったようだ…!!
この俺をマットに沈めたのは、貴様が初めてだ……!!」
…確かに、桃の時はリングの外まですっ飛んだからね。
いや、そんな事言ってる場合じゃないけど、私が知る限り、Jがここまで追い詰められるのは、ハッタリでもなんでもなく初めてだと思う。
桃の時も、雷電や卍丸と戦っていた時ですら、もっと表情に余裕があった筈だから。
今更ながら、確かに恐るべき敵だ。
今の年齢でこうなら、成長して身体ができてきたら、どれほど強くなるものか。
あちら側で見ている兄たちがどれほどの強さであるかはわからないが、この子が持つ天性の才は、兄弟の中でもずば抜けているのではなかろうか。
不意に、またも御前に居合の稽古をつけられていた頃の豪毅の顔が浮かぶ。
あの子はとにかく真面目な性格だったから、泊鳳と同じくらいの年齢だった頃にも、戦いながら遊ぶような真似はしなかったと思うけど。
それにしても、この泊鳳が別れた頃の豪毅と年齢が近いせいか、先ほどからやけにあの子のことを思い出している。
…そういえば御前のチームはどこまで勝ち進んだだろう。と、
「フッフフ、そうだ、それでいい。
この俺の
楽しい遊び道具を見つけたような、少年特有の残酷さを孕んだ笑みを、泊鳳はその幼い顔に浮かべた。
だが立ち上がったものの、現時点でのJに決定的な打開策はない。
「まだわからんとね!!
いくらパンチを繰り出そうと無駄だということが!
あんちゃんの動きは、
Jはひたすらにパンチを繰り出しては、まるで桜の花弁のような泊鳳の動きにひらひらと躱され、その合間を縫って攻撃が入る。
またダウン。Jにとっては屈辱なのだろう。
いつもの冷静さを完全に失っている。
「くうっ!!」
Jはカウントの声に再び立ち上がると、間髪いれず左のパンチを放った。
だがその腕をまた泊鳳の脚が挟み、ぶら下がった形のまま、例の掌底がJのボディを打つ。
「梁山泊奥義・
その、岩をも砕く掌底突きが連続で入る。
逃れようにも、泊鳳はJの腕からぶら下がってこの攻撃をしているのだから避けようがなく、Jが滅多打ちにされる。
その最後の一撃が顎に入ると同時に泊鳳はようやくJの腕を離し、その勢いで飛ばされたJの身体が、みたび地面に倒れた。
「今度はカウントを取るまでもあるまい。」
終了だ、と言いかけて泊鳳が倒れたJを見やる。
「タフな奴よ。まだ息があるとは……!!
アバラ骨すべてを叩き折ったというのに…!!」
何本かは確実に折れたと思ったけど全部かよ!
やっぱり大人と違って子供は容赦ないな!!
あと今は関係ないけど女も。
女が本気で攻撃する時は、基本、息の根止めるまでやめないんだよね。
弱い生き物故に、手加減したら自分が死ぬって本能で判断するからね。
やる時は殺る。やられる前に殺る。これ鉄則。
…それはおまえだけだって?
いやいやそんなわけないでしょ。
誰と話してんのか知らないけど。
「さ、さすが梁山泊三首領のひとり…やはりただ者ではなかったな…!!
出来ることなら、使いたくはなかった。
だ、だが、そうも言ってはおれんようだ。
…見せてやろう。俺のニュー・ブロウを……!!」
…比べると、男にはいざという時の甘さがある。
この期に及んで隠し玉を温存していたというなら、Jは容赦しないと言いながらも、この子を殺してしまう可能性を避けたかったのだろう。
「ま、まさか…あのパンチが完成したというのか……!!」
息を呑んだような桃の声が聞こえ……。
・・・
「……いや、どれだよ!」
「…え?」「はい?」
「あ、いえ、何でも。
…その、Jは普段から研究熱心なボクサーでして、割と時間がある時にはトレーニングのかたわらニュー・ブロウの開発をしているので、未完成だった技が幾つかあったのを知っているものですから、つい。」
☆☆☆
私には幾つもありすぎて特定できなかったJのニュー・ブロウの桃の心当たりは、この天挑五輪大武會が始まる前の事らしい。
私がいつもの桜の下まで来ると、先にJがトレーニングを始めており、桜とともに舞い散る落ち葉を打っていた時があった。
私がここで彼や桃と顔を合わせるのはいつもの光景なのだが、その日は珍しく、田沢や松尾、極小路が、少し離れたところから、その光景を見守っていた筈だ。
「ありゃなんのトレーニングじゃ?
さっきからずっと落ち葉を打っているが。」
「アメリカにいた頃からやっていたトレーニングだそうですよ。
スピードを高める為だと聞いておりますが。」
「相変わらず練習熱心じゃのう、Jは。」
彼らに混じってそんな会話をしていた時、校舎の方から桃が歩いてきたのを見つけて、手を振った。
その瞬間。
それまでとはやや違う角度から放たれたJのパンチは落ち葉に命中せず、その落ち葉が彼の拳の周りを、渦状に回転するのが見えた。
単にパンチの風圧で飛んだのではない。
「J、今のは一体……!?」
それに興味を惹かれたのだろう、桃が歩いてきて問いかけ、私たちもJのそばまで駆け寄った。
「…スパイラル・ハリケーン・パンチ!!
文字通り凄まじいパンチの威力で、大気中に竜巻を起こすというものだ。」
そんなにわかには信じがたい話に、思わず一番目線の近い極小路と顔を見合わせると、まだまだモノには出来んがな、とJが微かに笑う。
「…こんな話がある。
昔、157戦157KO勝ちという、ボクシング史上無敵最強とうたわれた、
Jの話によれば、彼がニューヨークに滞在した際に、ホテルが大火災に見舞われたという。
最愛の一人息子と共に最上階に泊まっていた彼は逃げ遅れ、部屋を出た時には、廊下は火の海。
非常階段は廊下の10メートル先で、業火の中ではそこまでたどり着く前に、二人とも焼け死ぬのは明らかだった。
チャンプは怖がる息子に言ったという。
『わたしの合図と共にこの廊下を、非常階段の扉まで一気に駆け抜けろ』
そして…奇跡は起きた。
合図と共に駆け出す息子の背中から、この世で最後にチャンプが放ったパンチが、火の海を斬り裂き、突風のような竜巻を起こした。
少年はその中を駆け抜けて命を取り留め、チャンプは死んだ…。
「だが、そのパンチは伝説として名を残した…それが
☆☆☆
「
それは肉体も気力も極限状態となった時、初めて打てるとJは言った……!!」
桃がその話をそう締めくくる。
Jにとっては今がまさにその時ということか。
ちなみにJからその話を聞いた時、理由の判らない違和感を禁じ得なかった事を思い出す。
Jの話を信じていないわけではなかったが、何かピースがひとつ足りない感じ。
・・・
「フッフッフ、伝説のパンチだと〜っ!!
おまえの仲間の話はよう聞こえたぞね。
そんな伝説なんて、つくり話に決まっとるぞね──っ!!」
馬鹿にしたように笑いながら、さあ来いと泊鳳が、小さな手で手招きをした。
「見せてやろう。偉大なるチャンプから引き継いだ遺産を……!!」
満身創痍の状態で立ち上がりながら、Jがファイティングポーズをとる。そして。
「我が名はJ!
くらえ、
何をしようとしているか、事前にわかっていたところで避けようのないほどの、強力な一撃。
Jが放ったパンチは、まさにそれだった。
Jの拳から生み出された竜巻は、真っ直ぐ泊鳳へと向かい、その小さな身体を宙空に吹き飛ばす。
「ぎゃわっ!!」
次の瞬間おかしな悲鳴をあげた泊鳳は、自陣の崖に頭から突っ込んでいた。
「Thanks, daddy…!!」
どこか震えたような小さな声で、Jが呟いた。
…泊鳳は見た目に反してとてもタフだった。
死んでいてもおかしくない、崖の岩壁に頭から埋め込まれたような状態から、崖に手をついて力任せに頭を抜く。
それから縄ばしごに飛び移り、再び降りてこようとして、足を滑らせて転がってくる。
頭からひどく出血した酷い姿で、それでも立ち上がった彼に、Jは絶対に乗り気ではないだろう表情で、それでもファイティングポーズをとった。だが。
「ま、負けじゃ。俺の負けじゃ。」
悔しそうな顔をしながらも、少年はその場に跪く。
「あんなすげえパンチが本当に存在したなんて…!
な、なのに俺は、あんちゃんの親父さんを、馬鹿にするような事を言っちまって……!!
ゆ、許してくれ……!!」
どうやら、これが言いたいが為に戻ってきたらしい。
それは、真に誇り高い戦士の言葉。
なりは小さくともこの子はやはり、一軍を率いる長のひとりなのだ。
それを認めるようにJも膝をつき、大きな手で泊鳳の手を掴む。
「いい勝負だったぜ。
おまえの強さは想像以上だった!!」
握手を解いて立ち上がり、自陣に戻ろうとするJの背中に、泊鳳が声を震わせながら叫ぶ。
「次会う時はこうはいかねえぞ──っ!!
もっと強くなって必ず、あんちゃんにリターン・マッチを申し込むけんのう──っ!!」
「ああ、楽しみにしてるぜ。」
振り返ったJの顔は、何故か嬉しそうに微笑んでいた。
☆☆☆
「なるほどね…先ほどのお話は、J君のお父上の話だったのですか。
不思議だと思ってはいたのですよ。
当事者しか知り得ないはずのそのパンチの打ち方を、何故J君が知っているのかと。」
「それだ!」
男爵ディーノの言葉で、私は自分がモヤモヤしていた部分の正体にようやく気がついた。
Jと初めて会った時、私を兄と間違えて声をかけた彼は、あの時確かにそう名乗ったではないか。
『キング・バトラー・ジュニア』と。
足りないピースがようやくハマった気がして、なんだかとてもスッキリして、思わずディーノの右手を握手のように握り、ぶんぶん上下に振り回した。
…隣で影慶が、なにか残念なものを見るような目をしていたのは気づかなかったことにする。
光、桃、Jの3人をトレーニング仲間にしておいたのは、ここの回想シーンに混ざりたかったからって理由が一番だったのです。
光を強くする目的が最初からあったわけじゃありませんでした。