アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件   作:やんや

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千早「僕は人間を(定期的かつ段階的に)やめるぞ! 春香ーッ!」


アルティメットな初ライブその9

 久しぶりのライブは楽しかった。

 思いっきり歌うと心が軽やかになる。生きている実感が湧く。

 今日プロデューサー相手に見せたライブはなかなかの出来栄えだったと思う。プロデューサーも満足してくれたみたいだし。

 確かな充足感を覚えた僕は足取り軽くアパートの階段を上る。

 

「ふんふん~」

 

 ライブの後、さすがにこれ以上は居残りは不可とプロデューサーに言われてしまい渋々帰らされた。

 帰りはプロデューサーが車で近くまで送ってくれることになり家の前まで送って貰うことになった。最初は僕一人で帰れると言ったのだけど、この時間に女の子一人で帰らせるわけにはいかないと無理矢理送られたのだ。

 そう言えば、車に乗るのって子供の頃以来じゃないかな? 

 車嫌いなんだよね……。

 

 カツカツと鳴る階段のリズムに合わせて鼻歌を歌う。

 未だに眠り姫の余韻は残っている。消えたと思っていた心の中の情熱は微かに燻火となって残っていた。それが今日新たな風を受けて再燃したのだ。

 この熱さはきっといつまでも忘れない。

 

 上がったテンションのまま部屋へと入る。

 

「あ、お帰り!」

 

 当たり前のようにエプロン姿の春香が出迎えてくれた。

 合鍵を渡した日から春香はたまにこうして部屋の雑事をしてくれるようになった。僕なんかとは別次元で忙しいはずの彼女にそこまでさせるのは悪いと思い、休憩所扱いで構わないと伝えたのだけど、使わせて貰っているならこれくらいやりたいと逆に説得されてしまった。きっと綺麗好きの春香には僕の部屋の汚さは許容できなかったのかもしれない。今度からもっと頻繁に掃除しておこうかな。中身が男のためどうしてもその辺がズボラになってしまう。春香が来てくれるのだからその辺も意識を改めるとしよう。

 

「ただいま」

 

 軽く挨拶をしながら靴を脱いでリビングへと向かう。

 今日は春香が来ているから自主訓練は無しかな。いや、春香が眠った後にロードワークに向かうのはアリかも? 

 

「今日も遅くまで掛かったんだね」

 

 夕食の準備をした後らしく、テーブルには料理が並べられていた。エプロンは洗い物をするために着けたままだったようだ。

 

「ええ、ライブまで時間もないからレッスンに力が入ってしまったわ」

 

 やけに手の込んだ料理を視界の端に捉えながら上着を脱ぐと、当たり前の様に春香が上着を受け取ってくれる。そのまま流れるようにクローゼットにしまうまでの動きが自然過ぎた。

 慣れすぎてやいないかね。させてしまっている僕が言うのもアレだけどさ。

 日に日にお嫁さん力が増している気がする……。いったい誰向けなんだ? 

 

「そうなんだ……新人アイドルにそんなに負担のかかるレッスンをやるなんて、思っていたよりもスパルタな事務所なんだね」

「ま、まあ、あくまでバックダンサーとはいえライブ自体は大きなところだし。それに……本番まで時間もないから」

 

 本当はもっと早く帰れるのに不可抗力とはいえ春香を待たせてしまうことが申し訳なく感じる。

 自分のエゴと実力不足ゆえに親友に迷惑をかけている。それを嘘を吐いてまでやっているとあれば自責の念を抱かざるを得ない。

 

「だったら、千早ちゃんには精が付くものを食べてもらわなくちゃ! 今日は自信作だから食べてね」

 

 今日は本田達とお昼を食べたので夕食を食べたら日に二食食べることになる。普通はそれでいいんだろうけど、僕にとっては食べ過ぎだ。でも、せっかく春香が僕のために作ってくれたご飯を食べないわけにはいかない。

 く、さすが春香だ。笑顔で飯食おうぜと誘ってくる姿勢は体育会系(?)のそれである。

 

「私、春香の、ご飯、好き」

「本当? よかった。たくさん作ったから遠慮しないで食べてね?」

 

 確かに、テーブルの上に並べられている料理は品数も量も多い気がする。大皿にドンと青椒肉絲があるかと思いきや、たくさんの小皿に色とりどりの旬の品を使った物がテーブル狭しと並べられている。

 

「お、オッス」

 

 どうやら僕の試練はこれから始まるようだ。

 

 

 もう入らないよー。

 春香が作ってくれた夕食をお腹の限界以上に食べた僕はベッドを背もたれにして床に座り込んでいた。

 ご飯を食べられることは幸せなことだ。しかし、幸せも過ぎれば苦痛となることがある。それを身をもって体験している僕であった。

 夕食を食べたら春香が用意してくれていたお風呂に入る予定だったが、このお腹具合だとお風呂の水圧でリバースしかねないので春香に先に入るようにお願いした。

 春香には一緒に入ろうと誘われたけれど断った。お風呂中にリバースしたらトラウマを与えかねないからね。

 それに、春香と一緒に入ると、つい春香を見てしまいそうになるから……。いや、たまに見ちゃってることあるけど……極たまにね。

 でも、視線を向けた時に限って春香がこちらを見ていて目が合ってしまうのだ。僕が裸を見ていたと知ったら春香も良い気分はしないと思って可能な限り視線は送らないようにしていた。

 本当下心は無いんだって。誰に言い訳しているんだ僕は。

 

「今のうちに自主訓練でも……うるさくなりそうだからダメか」

 

 お風呂に入っている春香が何事かと思って出て来たら悪いか。湯冷めなんてさせて風邪でも引いたら大変だ。

 大人しく何もしない時間を過ごそう。

 何もしない時間というのは暇である。普段は何かしらの訓練に時間を当てているから、今みたいに何もしない時間があると手持ち無沙汰になる。

 そういう時は春香が話を振ってくれるのだけど、その春香もお風呂に入っているから本当に今の時間は暇だった。

 

「そのうちFAQ2に復帰しようかな……」

 

 それもいいかもしれない。今みたいに何もしない時間ができた時用に携帯ゲーム機でも買っておこうかな。確かFAQ2対応の奴が出ているはずだし。

 PCでやるのは億劫でも、それなら気が向いた時にパッとできるからいいかもしれないな。

 あー、買うと言えば、スマホも買わないと。プロデューサーと連絡をとるのにもメールだと不便なことがあるから。優とお揃いのを買いたい。

 

「お風呂上がったよー」

 

 しばらく頭の中で買いたい物リストを作成していると春香がお風呂を終えて戻って来た。

 湯上がりの春香は直視し辛い。微かに水気を含んだ髪が赤く上気した肌に貼り付いているのもそうだし、少し弾んだ息遣いも妙な色気を感じさせる。

 親友相手にこういう感想を持ってしまうのはいけないことだとわかってはいても、男の本能が淡く蘇ったかのようにじわじわと心身を蝕む。

 

「それじゃ私もお風呂に入るわね」

 

 あまり春香を見ないようにしてお風呂場へと向かう。

 

「行ってらっしゃい」

 

 すれ違う瞬間に言われた言葉は何ということはない普通の言葉なのだけど、近付いたことで春香からかおるお風呂上り特有の匂いと合わさり、僕をいたたまれない気持ちにさせるのだった。

 

 お風呂場に入ると途端に鼻腔に広がる女の子の匂いに顔を顰めそうになる。

 つい先程まで春香が使用していたのだから匂いがするのは当然だった。決して不快ということはなく、むしろ良い匂いに感じるのだけど……先程すれ違う時に感じた物と同じだと思うと、先程までここを春香が使っていたのだと嫌でも実感してしまい色々と申し訳ない気持ちになるのでぶっちゃけ困っている。

 そもそも一緒にお風呂に入ったことがあるのに今更意識するも何もないだろうに。

 身体を一通り洗い湯舟へと浸かる。

 

「はぁ~……」

 

 特に疲れているわけでもないのに声が出てしまうのは僕が日本人だからだろうか。

 しかし、疲れを感じないからといって肉体にダメージが残っていないというわけではない。意識しない程度の筋肉の損傷は意外とパフォーマンスを下げる原因になり得る。そのため湯舟の中でしっかり揉み解しておく。こういう地味な努力の積み重ねが大事なのだ。

 やることをやったら後は逆上せない程度に湯舟で温まるだけ。あまり早風呂だと春香にちゃんとお風呂に入っていない汚い奴だと思われるかもしれないからね。

 

「……」

 

 それにしても、そこそこちゃんと入った後だというのに、浴室の春香の匂いが薄まる気配がない。自分のにおいというのはわかりにくいというのもあるのだろうけど、それにしては強すぎない? 

 まあ、臭いわけじゃないからいいんだけど。と言うか、僕が春香の匂いに敏感なだけかもしれない。僕が先に入れば万事解決なのだが、お客様でありお風呂の用意までしてくれている春香より先に入るわけにもいかない。だから可能な限り呼吸をしないように意識するしかなかった。

 

「上がったわ」

 

 まだ乾き切っていない髪をタオルで拭きつつリビングへと戻る。長い髪の毛はこういう時に不便に思う。いっそ短く切ってしまおうかと思ったこともあるのだが、その時の周りの反発が予想以上だったのでしばらく長さを変えるつもりはない。まさか春香のみならずプロデューサーや優まで止めてくるとは思ってなかったよ……。

 たまに短くして飽きたら戻せばいい話だしね。そこまで深刻な話でもない。

 

「おかえりー」

「お風呂上がりにも『おかえり』と声をかけるのね」

「えへへ、だって最近言えてなかったから、機会さえあれば言っておきたくて」

「不思議な考えね。ポイント制なのかしら」

「んー、なんとなく、おかえりと言われるのが当たり前だと思ってくれないかなーって」

「なるほど」

 

 普段おかえりと言われ慣れていない僕が寂しい思いをしてやいないかと心配してくれたのか。やはり春香は気遣いのできる優しい子だ。

 

 

 食事も終わり、お風呂も入り終えると寝るまでの時間を僕達は各々好きに過ごす。

 一緒の空間に居るからと言って四六時中話し続けるわけではない。時折思い出したかのように雑談を挟み、また各々の時間を過ごす。それがここ最近の僕達のあり方だった。この楽しいでも寂しいでもない、何とも不思議な空気感を僕は気に入っていた。

 そんな苦にならない沈黙が流れる部屋で、僕は今日やったレッスンをノートに書き込んでいた。

 僕が注意された箇所を細かく書き出す。その時の状況がどんな感じだったのか読めばわかるようにできるだけ事細かに描写する。後で見返す用と言うよりは、客観的に場面を思い浮かべるためだ。それに対する実際に行った対策と今になって改めて考えるアプローチ方法をそれぞれ書き加えておく。

 それを四時間分記すとなるととんでもなく長丁場になると思うかもしれない。でも通しての描写じゃなくて注意された箇所だけだから実際はそこまで書くことはないのだ。回数自体は多いので大変なことに変わりはないが。

 

「よし……完成」

 

 二時間ほどかけてノートを書き終え、その出来栄えを確認する。うん、今日の分も結構良くできていると自賛しよう。

 これならいつでも簡単に見返せる。このライブが終わった後にも使えるだろうクオリティになった。

 

「随分熱心に書いていたみたいだけど、それって今日のレッスンの復習を書いていたの?」

 

 書き終えたタイミングで春香が何を書いているのか尋ねて来た。ずっと気になっていたのに気を遣って終わるまで待っていてくれたようだ。

 

「ええ、そうよ。鉄は熱いうちに打てとも言うし、今日やったことは今日書いておきたかったの」

「そうなんだぁ。……あ、守秘義務とかに問題が無いなら書いたノート読んでみてもいいかな?」

「え? それは別に内容としてはレッスンの話だけだから問題は無いけれど……」

「千早ちゃんが普段どんなレッスンをしているか気になっちゃって……ね?」

 

 時計を見たらもう夜の十一時を回っている。春香が明日遅出とはいえ夜更かしは美容の大敵なのだからあまり付き合わせるのも悪い。そう思ってやんわり断ろうとしたのだけど、食い下がって来られたのでそこまで言うのなら……とノートを差し出す。

 

「わー、千早ちゃん字上手! あとこっちだと男の子みたいな言葉なんだね」

「それは、まあ……色々と」

 

 しまった。普段話す時やメールなんかでは女の子のふりをして書いているのがバレてしまった。

 いや、この場合ノートの方がイレギュラー扱いになるのかな? 

 

「どんなレッスンをしているのかな……」

 

 一瞬焦ったけど春香はそれ程気にした様子もなくノートを読み進めて行った。

 ここ数日分のレッスンが書かれているので全部読むとなると時間がかかる。

 

「……」

 

 春香は最初微笑ましい物を見るような目をしてノートを読んでいた。まるで子供の絵日記を読む母親のような慈愛に満ちた顔だ。

 謎の羞恥プレイにも感じる。

 だが、そんな春香の表情は数ページほど読んだところで徐々に変わって行った。

 たぶん僕の成長の無さに呆れてしまっているのだろう。

 

「春香、そこから先は代わり映えしないから読んでもあまり意味は」

「ちょっと待ってて」

 

 初日以降は内容に進歩が見えないため僕以外が読んでも意味はない。だから意味が無いと春香に伝えようとしたのだが、ぴしゃりと待てをされてしまい口を噤む。

 それからしばらく春香がペラペラとページをめくる音だけが室内に流れた。

 なんだこの空気……。

 

 今日の分まで読み終えた春香がノートを閉じるのを見て僕は息を吐き出した。張り詰めていた空気ごと体から追い出す。

 

「どうだったかしら。自分としてはきちんと書けていると思うのだけれど……春香的には何か付け加えた方が良い部分とか」

「千早ちゃん」

「……ひゃい」

 

 声が裏返ってしまった。それくらい春香から感じる圧が強かったからだ。

 春香の顔を見る。

 口元は笑っているのに、目が……笑っていない! 

 本来笑みとは攻撃的な感情の表れとはよく言ったものだ。確かにその通り。逆に笑顔の乏しい僕は昔ほど攻撃的な性格ではなくなったということか。

 いや、僕の話はどうでもいいか。

 こうして話を脱線させねばならない程に今の春香からは脅威を感じる。僕は何か春香をこうさせてしまうようなことをしたのだろうか……。

 やはりノートの中身が悪かったのかな。あまりに僕がダメダメだから春香が呆れてしまっても不思議ではない。せっかく一緒にアイドルをやろうと言ってくれたのに、僕がこんな体たらくなど申し訳ない。

 

「ごめんなさい、春香を不快にさせるつもりはなかったの……」

 

 親友にこんな顔をさせてしまった自分が嫌になる。

 

「えっ、違うよ! 千早ちゃんが謝ることじゃないって!」

 

 しかし、僕が謝ると春香から一瞬で圧が消え、慌てて否定して来るのだった。

 

「え? そう、なの……? 私はてっきり、あまりの私の駄目さ加減に呆れられたのかと」

「そんなことで怒ったりしないよ……」

 

 やっぱり怒っていたのか!? 

 あ、でも僕に対して怒っていたわけじゃないということになるのか。じゃあ、誰に……? 

 

「春香は……それを読んで、何にそんなに怒ったの?」

 

 気になったなら訊かずにはいられない。もしこれでやっぱり僕のせいだったなんてことになっても、知らずに怒らせたままでいるよりは真正面から詰ってくれた方が楽だから。

 

 ──チハヤなら解ってくれるかなって期待してたのにな。

 

 ……。

 ……。

 言ってくれないとわからないこともある。

 言ってくれさえすれば直すから。

 察してくれというのが困るのだ。

 

 僕のお願いを聞いて、春香は自分が怒った理由を教えてくれた。

 

「私が怒ったのは、この千早ちゃん達を指導した人が無理を言っていたからだよ」

「無理? 別に城ヶ崎さんは単純に私が他の二人とズレていたから指摘して来ただけで、それは無理でも何でもないことだわ」

「へぇ……、指導した人っていうのは、城ヶ崎さんだったんだ……」

「アッ」

 

 僕が城ヶ崎の名を出すと、再び春香の表情がスッと冷めるのがわかった。

 自分用とはいえ、一応個人情報なので個人名をノートに書いていなかったのに、こうして口に出してしまってはその意味がない。

 凄いよ春香。笑っているのに笑顔じゃないなんて。矛盾が顔面一杯に貼りついている。最強の矛と最強の盾? 知るか、両方でぶん殴れば勝つだろ的な理不尽の権化が生まれてしまった。

 もしかしなくても、僕は城ヶ崎に対してとんでもないキラーパスを出してしまったのではないだろうか? 

 ……怖いから深く考えるのは止めよう。

 

「そ、それでも、私が実際にズレていたのは確かなのだし、指導としては正しいと思うってわけよ」

 

 あまりの怖さに自分でも何を言っているのかよくわからない。キャラもブレてしまっている。

 

「これが千早ちゃんに対してじゃなければ順当な指導だったのかも知れないよ? ……まあ、相手が城ヶ崎さんってところで多少引っかかるけど」

「私じゃなければ?」

「うん。普通の子相手ならズレているって指摘は正しいかもしれない。少なくとも、正式なデビューもしていない新人の初ライブ、その最初のレッスンでズレていることを指摘しないことはあり得ないから」

「?」

 

 何か持って回ったような言い方だ。春香が何を言おうとしているのか僕にはわからない。

 

「でも、それは千早ちゃんには当てはまらない。だって、千早ちゃんは間違えないから」

 

 だから、春香が続けて放った言葉を僕はすぐには理解できなかった。

 僕が間違えないからズレることがおかしい? いや、ズレていると指摘することがおかしい? 

 

「それのどこがおかしいの? 現に私は二人とズレていたわ」

「二人とズレていた、それは正しい認識なのは変わらないよ。でも、ズレていることが悪いことだと思うのは間違っているんだよ」

「えーっと……?」

「……つまりね、千早ちゃんが間違えないということは、その動きが常に正しいってことだよ。だから、千早ちゃんが皆とズレているという指摘は正しくない」

「……」

 

 そこまで言われたらさすがに春香が言いたいことを理解する。

 つまり、春香が言いたいのは……。

 

「ズレているのは……間違っていたのは、その二人の方だったってこと。だから、千早ちゃんがズレているという指摘は間違っている」

 

 きっぱりと言い切る春香。

 確かに、僕は間違えない。何十回何百回何千回やろうとも同じ動きができる。だって僕には”如月千早”があるから。

 だから僕の動きが正しく、本田と島村の動きが間違っていた。

 それがズレの正体! 

 

 ……とはならないんだよなぁ、これが。

 

「あの春香……その、とてもドヤ顔で言わせてしまった後にこう言うのもアレなのだけど……」

 

 おかしいなぁ、僕ノートにもきちんと書いていたはずなんだけど。

 でも僕が間違えないということを前提に推理したわけだし、ミスリードに引っかかったと思えば。

 

「私は正しい動きをしていないわよ?」

「はえ?」

 

 最高のキメ顔で証明終了を確信していた春香だったが、その証明を真っ向から僕本人に否定されたことで変な声を出していた。

 

「ど、どういうこと? だって、千早ちゃんって生き方とか人との接し方とか以外は間違えないよね?」

「今さりげなく春香の私に対する人物評が聞こえた気がしたけど、とりあえず無視して……。あのね、私が正しい動きをしていたのではないわ。私は他の子に合わせようとして、それができなくてズレていると指摘されていたの」

「ん? え? えー……」

 

 僕の言葉を聞いた春香があんぐりと口を開け固まってしまった。

 その表情を見れば言いたいことはわかる。「なんでそんな無駄なことを?」と言いたいのだろう。

 

「……えっと、千早ちゃんの言ったことが本当なら、失敗の原因は他の子に合わせようようとしたことになるんだよね。気にせず正しい動きをしていれば良かったのに……」

「だって、プロデューサーが二人に合わせろって」

「そのプロデューサーさんの指示もどうかと思うけど……。そっか、千早ちゃんの場合は完璧だから合わせようとすると逆にズレちゃうのかぁ。うわぁ、そんなことあるんだ」

 

 カルチャーショックを受けたのか、春香が珍しくドン引きした顔で僕を見て来る。その顔は止めて欲しい、学生時代のアレコレを思い出すから。

 

「ようやく本当の意味で理解したよ。で、今回問題の解決方法はいくつかあるけど……」

「あるの!? すごい、さすが春香!」

 

 思わず「好き! 抱いて!」と優相手にするような冗談を言いそうになった。言わないけど。

 

「合わせるのを諦める」

「試合放棄ですやん」

 

 つまり、二人を気にせず正しい動きをすればいいってことだ。それは根本的な解決にはならない。

 僕は二人と合わせて踊りたいのだ。

 

「だよね。うーんと……じゃあ、その一緒に踊る子に千早ちゃんが普段やっている練習をやってもらって完璧にしてもらうとか?」

「死ぬんじゃない?」

 

 死ぬな。いや、死ぬね! 

 

「そんなあっさりと死ぬって言うような練習をしているの……!?」

「あ……。いえ、慣れてないと死ぬほど疲れるというだけよ?」

 

 春香が僕の自主訓練の内容に不安を抱いたので慌てて否定しておく。いや、心配しないで欲しい。僕は死なないからさ。

 普通の人がやると死ぬけど。

 

「そうなると、あとは千早ちゃんが頑張って合わせられるようにするしかないけど……」

 

 三つ目の方法は春香ですら自分で言いながらあまりおすすめしない方法だった。

 そしてそれ以外の案はもう無いらしい。

 結局そうするしかないのだ。合わせられないなら、合わせられるまで頑張るしかない。

 努力するしかないのならば、努力するしかないのだ。

 実にシンプル。僕はシンプルなのが大好きだ。

 

「ありがとう、春香……私は頑張ることにするわ」

「結局そこに落ち着いちゃうんだ。私としては気にせず正しい動きをするのをお勧めしたかったかな」

「それでも私は頑張りたいわ。プロデューサーに言われたからというのもあるけれど、ようやく立てるステージの上なのだから、最後まで頑張りたいのよ」

「……そっか」

 

 僕が頑張ることを渋る春香だったが、僕が頑張る意思が固いとわかると納得してくれた。本心は納得なんてしてないのかもしれないけれど、それでも僕を尊重してくれたことが凄く嬉しかった。

 

「それなら私も協力するね。そっちのダンスは知らないけれど、合わせる練習には付き合えると思うから」

「春香……ありがとう!」

「さっそくやってみようか? 千早ちゃん用の練習方法を考えてみたの」

「このわずかな時間に練習方法を?」

 

 さすが春香である。僕が考えつかないことをあっさりと思いつく。やはり春香も天才の部類だったのだ。

 

「私が動くから、それに追いつけるように頑張って!」

 

 ……思ったよりも脳筋な方法だった! 

 確かに正解に釣られないように合わせようとするなら、アドリブの対応力を鍛えるのが正解だ。

 でも力技すぎやしないかね。やはり春香は体育会系だと思うんだ。

 

「というか、今からやるの? いくら春香が明日オフだと言っても、もう夜中よ?」

「大丈夫だよ。ライブの本番前とか、このくらいまで起きてリハするなんてよくあることだから」

「そうなの? 凄く楽しそうね!」

「……それを嬉々として言えるのは凄いし、実際に楽しくやれちゃうのが千早ちゃんなんだろうなぁ……」

 

 だって、深夜までリハーサルするとか凄くアイドルっぽいじゃん。いつか僕もライブのために夜更かしとかするのかな? 

 楽しみだ。

 

「春香が付き合ってくれるのなら、私に否はないわ。春香が付き合うと言ってくれなければ一人でやっていたでしょうし」

 

 たとえば道行く人の動きを即興で真似するとか。これなら二十四時間練習が可能だ。

 

「うん、だから言ったんだよ」

「ん?」

「さ、はじめよっか。動きは事務所のトレーニングでやる練習メニューから出すからね」

 

 そう言って立ち上がった春香に促され僕も立ち上がった。

 

「それじゃ、いち、にー、さん、しー」

 

 春香が簡単なダンスを踊り出す。見たことが無い振り付けなのでライブ用ではないのだろう。765プロが過去ライブでやったダンスは全て頭に入っているので練習用というのは本当らしい。

 

「えっと、いち、にー、さん……しー?」

 

 春香の動きに合わせ、初見の動きを再現しようとするも当然上手くいかない。再現に慣れた僕には初見の動きに対応することができないからだ。

 

「ちょっと遅れちゃったね。たぶん、右足を出すタイミングが少し遅かったんだと思う。いち、にー、の時点で足を動かし始めるとタイミングが合うよ?」

「なるほど……」

「もう一度やろうか。いち、にー、さん、しー」

「いち、にー、さん、しー……できたわ」

「わー、凄い凄い! さすが千早ちゃん!」

 

 言われたとおりにやると、今度は問題なくできた。我がことのように喜んでくれる春香だが。しかし、これは……。

 

「次は別の動きね。いくよー……いち、にー、さん、しー」

「いち、にー……にー?」

「腰の動きが左右逆になっちゃったね。右手を上げるときは左に、左を上げる時は右に回すんだよ」

「なるほど」

「じゃあ、もう一度。いくよー……いち、にー、さん、しー」

「いち、にー、さん、しー……できたわね」

「うん、できてる!」

 

 今度も二回目には春香に合わせることができた。ほんの微かなズレを生じながらも、レッスンの時のような致命的なズレは生じていない。

 確かできている。

 できているのだけれど……。

 

「それじゃ、次ねー」

 

 そうやって三つ目、四つ目、五つ目と、春香が踊り、それを僕がその場で真似するという練習を行った。

 

「次は」

「あの、春香。とても言いにくいことなのだけど」

 

 六つ目の振り付けを開始しようとしたところで春香を止める。

 これはたぶん根本的に駄目な奴だ。

 

「どうしたの?」

「あのね、今の練習なのだけど、実はまったく成功していないわ」

「え? でも、二回目にはできて……」

「それは一度見たからだわ。二回目は動きを覚えているから合わせられただけ。それも春香が完璧に近い動きだからこそズレが目立たなかったのよ。だから一回目で合わせられていない時点で私は全敗中なのよ」

「今、さらりと凄いことを言ったよね……?」

 

 僕の言葉に春香の頬が引き攣ったのが見えた。

 いや、そんな反応されても。見ればわかるじゃないか。

 

「さすがに全敗は凄い酷いわよね……」

「いや、そうじゃなくてっ! 二回目からはすでに覚えちゃってるっていうのだよ。千早ちゃんは当たり前の様に言ってるけど、それってアイドルとして反則的な能力だよ?」

「そんな。反則と言われる程ではないわ。春香だってできるでしょ?」

「できないよ〜……それは特別なことだよ」

「そうなの……? アイドルなら誰もが持っている能力だと思っていたのだけど」

「……お願いだからアイドルのハードルを上げるのはやめてあげて? 普通のアイドルはそんなことできないから」

「えー……?」

 

 普通のアイドルはできないの!? 

 衝撃の事実だった。

 あまりの驚きに目を剥いてしまう。それくら春香の発言は信じられない内容だった。

 いや、まさか。それじゃあ、みんなどうやって振り付けを覚えているんだ? 

 

「あの、春香? ちょっと質問なのだけど、他のアイドル達はどうやって振り付けを覚えているのかしら? 観て覚えられないのでしょう?」

「その質問が出ちゃうのが千早ちゃんなんだろうね。……普通の人は練習しながら少しずつ覚えるんだよ。一回ごとに少しずつ、全部覚えるまで」

「……待って、春香。貴女が言う通り、一般的なアイドル達が振付けを覚えるのにとてつもない労力を割いているとして」

「さりげなく大多数のアイドルを敵に回すようなことを言わないで」

「そうすると、振り付けを覚え切るまでレッスンができないじゃない?」

「レッスンの中で段々と覚えるんだよ?」

「なんで? 振付けすら覚えてないのにレッスンをする意味ってあるの?」

「……千早ちゃん、絶対にその質問は他のアイドルの子にしちゃ駄目だからね?」

 

 何故か諭されてしまった。ただ疑問に思ったことを訊いただけなのに……解せぬ。

 

「春香もできない、のよね?」

「うん。私にはできないかな。たぶん、現役のトップアイドルの中でも、それができるのは美希とかの極々一部の天才と呼ばれる人達くらいだよ。その人達だって、千早ちゃんほどの完璧さは持ってない」

 

 春香が引き合いに出した美希とは765プロ所属のアイドル星井美希のことだ。

 星井はこの世界でも天才的な才能の持ち主で、そのルックスもさる事ながら、立居振る舞いが洗練されている。どう自分を見せればいいか、その最適解を理解しているのだ。しかもそれが考えてというよりは直感でやっているような節が見られる。

 まさにアイドルの天才。魅せることにかけては僕なんか足元にも及ばないくらい前に居る。

 そんな彼女が持つ一度見た振り付けを再現する能力は春香に言わせれば特別なものであるらしい。

 

 いや、そんな、待って欲しい。だって春香が言ったことが嘘じゃなければ……。

 

「本田さん達はレッスン中に振付けを覚えようとしていた……?」

 

 そういうことになるじゃないか。

 

「そういうことになるね」

「……」

 

 ……えっ! 

 えっえっえっ!? 

 嘘!? 

 本当にレッスン中に振付けを覚えようとしていたのかよ! 

 

「何のためにレッスンを受けていたのかしら……」

「覚えるためじゃないかなぁ。そのためのレッスンだろうし。あと、それは絶対に本人達に言っちゃダメだよ?」

「私はてっきり……レッスンでは合わせる練習をするのだと思っていたわ」

 

 本田達と動きがズレるのは僕が正しく、彼女達が間違っているからというのは春香の話を聞いて理解した。しかし、それは間違っているだけで、そもそも振付けを覚えていないというのは想像していなかった。

 だって、ゲームだといつもそうしてるじゃん。最初から振付けできてたじゃん。何でできないの? 

 

「となると、私がやろうとしていたのって」

「振付けを全部覚えきれていない人の動きに完璧に合わせようとして結果ズレちゃったとしか思えないね」

「ああああああ~……」

 

 あまりに残酷な真実を知ってしまった僕は床へと崩れ落ちた。

 何それ。絶対に合わせられるわけないじゃん。

 言ってしまえば、それって毎回オリジナルダンスを踊っているようなものでしょ。そんなものに初見で合わせるとか無理なんだけど。

 僕のこれはあくまで一度見たものを再現するものだから、リアルタイムで再現はできない。僕の感覚では能力ですらない普通の行為だったから逆に他人にはできないという発想がなかった。

 そうか、この間プロデューサーが言っていたのはこれのことだったのか……。それはあんな微妙な顔をされるわけだ。

 全部僕のせいじゃん。あとプロデューサーはやっぱり言葉が足りないと思う。

 

「成長する過程なんてわからないわ……」

「完璧なことが、ここまで足枷になる人がいるなんて」

 

 頭上から聞こえる春香の声には多分に憐憫が含まれているものだった。普通なら羨ましがられるものらしいのにね。憐れまれちゃったね。

 こうなると今のままでは僕にはどうすることもできない。ライブ本番までに本田達がダンスを完璧にしてくれでもしない限り、僕が彼女達に合わせることは不可能に近いとわかってしまったから。

 

「千早ちゃんがユニットに拘る理由は何となくわかるけど、そこまで追い込むことはないと思うよ? 最近の千早ちゃんを見ているといつか壊れちゃいそうで心配だよ」

 

 春香も同じ結論に至ったのだろう。これ以上は無駄な努力だと言外に伝えて来る。僕なんかの心配をしてくれる春香には申し訳ないけど、僕は立ち止まれない。

 だって、ずっと待っていたチャンスだから。求めていた未来が目の前にあるのに、中途半端なままで終わらせたくない。

 あの頃の僕は努力が足りなかった。身体は今よりも頑丈ではなかったけれど、精神的にも体力的にも余裕を残していた。それなのに、当時の僕は身体が壊れた程度で休もうなどと平気で考えるような甘ったれだった。

 もっと僕が頑張っていたら、そう思わなかったことはなかった。

 もっと頑張れていたら……。

 

「千早ちゃん……」

 

 僕の名を呼ぶ春香の声は僕を憐れむものだったけれど、同時に後悔に苛まれた声色をしている。

 春香が僕を憐れむ必要なんて無いのに。後悔なんてして欲しくないのに。

 でも、僕は、彼女が本質的に僕の何を憐れみ、何に後悔しているのかがわからなかった。

 他人の痛みがわからない、こんな奴が努力をした程度で”みんな”の中に入れただろうか? 

 入れるのだろうか? 

 努力すれば到達するのだろうか? 

 努力すれば報われるのだろうか? 

 努力すれば……。

 努力して、頑張って、足掻いて、縋っても手に入らなかった場所があった。

 

「それでも、私は……”みんな”とステージに立ちたいから。努力不足で駄目になるのは、もう嫌だから」

 

 ”如月千早”(先輩)、こういう時どうすればいいんですかね……?

 自然と脳内の彼女に縋ってしまう。そんなことをすれば自分にどんな影響があるかなんてわかっているのに、それでも縋るしかない。

 努力して、頑張って、足掻いて、縋って……這いずってでも守りたい場所ができたから。

 だから、諦めてなんてやるものか。

 もう何も諦めないと誓ったのだ。もういい、と……捨てるのも捨てられるのもたくさんだ! 

 そんな僕の願いに応えたわけではないのだろうけれど、脳内の”如月千早”(先輩)が他人事のように、それでいて実感を込めながら答えてくれた。

 

 ――私達に人と合わせるとか、できるわけないじゃない!!

 

 ……まったくもって、おっしゃる通りだわ。

 否定しようもない正論に頭をガツンと殴られたような錯覚を覚える。だが、それは僕が目を覚ますには十分な衝撃だった。やはり眠った人間を起こすのはとりあえず殴るのが正解なのだ。

 

 そもそも、人と合わせようと思うなんて──僕程度が誰かに合わせられるだなんて、それこそが間違いであったのだ。

 見てから動き始めるのでは追いつけない。極小のズレが生じる限り、僕の動きは本田と島村の動きに追いつくことはない。頭の中の亀はいつだって僕よりも前を歩いているのだから。亀が自分よりも前に居る前提を覆す必要がある。どれだけ速く追いかけようとも、相手が先に動いたのなら、どうしても相手にアドバンテージがある。

 速さの壁が存在するのならば、その壁を超えるしかない。

 

 ”如月千早”を発動させる。

 

 聴覚を最大まで上げる──室内の音響の響きを耳で聴き取る。

 触覚を最大まで上げる──室内の空気の流れを肌で感じ取る。

 味覚を最大まで上げる──室内の成分を舌を使って取り込む。

 

 この部屋の全てをデータとして数値化する。

 目の前の春香ですら数値化の対象にして、全ての情報を脳内に取り込む。

 春香の鼓動が聞こえる。彼女の血管に流れる血の音をはっきりと耳が捉える。筋肉の動き、関節と骨の軋みすら聴き取る。

 春香が動く度に発生する筋電位……筋肉を動かす際に発する数十マイクロボルト程度の極小の電圧を僕の肌は感じ取り、それを表面筋電図として脳内でパターン化する。

 天海春香というパーソナルデータを数値化する。

 

「千早ちゃん……?」

 

 突然黙り込んだ僕に春香が心配そうに声を掛けて来るが、それに応えることはせず、僕はゆっくりと立ち上がった。

 

「どうしたの? やっぱり疲れて……」

「もう一度だけ、付き合ってくれないかしら。それで駄目だったら……そこまででいいから」

「え……う、うん。それは良いけれど……大丈夫?」

 

 こちらを気遣う春香の鼓動が早まっているのがわかる。肌を流れる汗は運動をしたからだけではないようだ。呼吸が荒いのは緊張のためだろうか。

 僕を見る彼女の目、その黒目部分が眩しい物を見たかのように広がっている。揺れる髪の本数すら瞬時に数えられる程の空間把握能力により、僕は春香の全てを知覚する。

 

「それじゃ、行くね?」

 

 最後の一回となる春香のダンスが始まった。

 ──と、同時に、僕は彼女が動こうとする意思と、そこから実際に動き出す際に発生する情報から次の行動を予測する。

 小数点が幾つも並ぶほどの極わずかな近未来を、脳内で鮮明に思い描く。

 それは”今”から算出された未来の映像だ。

 だから──、

 

「──視えた」

 

 春香が右手を上げると同時に、僕の右手も同じ動き、同じ速さで上がった。

 

「え……?」

 

 自分の動きにぴったりと付いてきたからだろう。春香が驚きと戸惑いの混ざった声を上げる。

 次に春香は左手を上げた。──それを知っていた僕は遅れることなく同じ動きで合わせた。

 右手を左右に振る──当然のように僕はそれに合わせてみせる。

 

 だって、知っているから。

 

「千早ちゃん……これって……」

 

 顔を強張らせ、戸惑いながらも春香はダンスを止めずに踊り続けてくれる。

 ありがたいことだ。僕がお願いしたことを嫌な顔もせず付き合ってくれる春香には感謝するしかない。

 春香の左右へのステップ──これも知っているので遅れずに付いていける。

 前への踏み込みからのターン──後ろ向きになった瞬間ですらズレることなく動きを合わせられる。

 今までの苦戦が嘘だったかのように、いともたやすく春香の動きに僕は付いて行った。

 

 ……。

 一通り踊り終えた後、僕はすぐに春香の手を取った。

 

「ありがとう、春香……。おかげで、また私は強くなれた」

 

 心からの感謝を春香へと贈り、掴んだ手にもう片方の手を重ねた。どうかこの気持ちが春香にズレなく伝わるように願いながら。

 きっと春香相手でなければこの能力は手に入らなかったから。

 春香の匂いも、音も、感触も、なぜか味も? 彼女と過ごした時間の中でデータを蓄積できていたからこそ習得できたのだ。これが他の相手だったらこうはいかなかった。唯一、優相手ならワンチャンあったかも知れないけど、味のデータが無いんだよね。

 まあ、人に合わせる能力が手に入ったのだから良しとしよう。

 

「千早ちゃんは、それでいいの……?」

 

 喜ぶ僕に対して、何故か春香は泣きそうな顔をしていた。そんな顔をさせたくて強くなったわけじゃないのに……。

 

「私にはこういうやり方しかできないみたい……不器用だから、不器用なりに頑張らないとね」

 

 普通の人なら誰かに合わせるのにこんな苦労はしない。誰しもが当たり前のようにできることが、僕には途方もなく難しく感じるのだから。

 だから、これでいい。望んだ未来とは違うけれど、望まない未来に行くことはなくなったのだから。

 普通で届かないならば、普通でなくなっていい。

 王道なんて要らない。

 裏道だって構わない。

 ”それ”が手に入るなら、僕は何度だって捨ててやろう。

 

「私じゃ今の千早ちゃんに何も言ってあげられないね。正解を教えてあげられたら良いのに……そんなことすら私じゃできない。それがとてももどかしい」

 

 泣きそうな顔で薄く笑いそう言う彼女に、僕は何も答えを返せない。

 きっと僕は間違っている。この答えは間違っている。

 それでも。

 

「一緒に居てくれるだけで十分よ。それだけで私はどこまでも強くなれるから」

 

 大切な親友を泣かせてしまった、その罪を背負うことになろうとも、僕はこれで良いと言うのだった。




今回の一番の被害者は一文字も登場してないのに業界最強格に目をつけられた城ヶ崎姉。
もしくは千早とプロデューサーがこっそり会っていたと耳にしたちひろの胃。


予知能力でも無ければ越えられない速さの壁を文字通り予知能力を獲得することで超えた千早であった。

「人と合わせる」ことを諦めることで「人に合わせる」能力を得た千早。再現、怪力、超スピードを持っている中、とうとう予知能力まで手に入れてしまいました。また一歩人外に……。
ちなみに、この能力は超能力ではなく”超”能力なので普段使いが可能です。よく知った相手ならば動きを見て覚える必要すらなく、同時進行で動きの再現が可能になりました。
化物に予知能力を与えた──”予知能力を取得する大義名分”を与えた武Pの業は深い。「人に合わせろ」と千早に言ったことが彼の最大の”やらかし”でした。
シンデレラを灰被りから少女へと戻すのが魔法使いの役目ならば、魔法をかけるのもまた魔法使いの仕事です。
千早を人間にできる武Pは同時に千早を化物に変えることもできます。たった一言、ある言葉を伝えるだけで自重も何もない化物が生まれます。

千早の弱点。それは初見で動きが完璧になってしまうので「完璧になるまで成長する過程」が自分の中にないこと。一度でも見た動きは再現可能ですが、他人と練習する時は毎回他人の動きが「初見」の動きになってしまうため再現ができません。そもそもこの場合は再現するという考えが間違いですが、千早は再現に意識が行きそのことに気付けていませんでした。
千早の正しい運用方法は、手本となる動きを見せたら洗練するまで放置する、です。
見ればトレースできるので動きを覚える過程は不要。あとは自分の身体に合った動きに筋繊維単位で修正するだけです。ソロでやる限り最初の一回以外指導者は不要となります。仮に最初から千早にとっての最終系の動きを見せられれば、その後の練習すら不要になるわけですね。
千早の再現能力は人のそれではなくゲーム基準なので、何万回繰り返してもズレることはありません。そういう次元に居る千早に「人に合わせて動け」というのは「相手の動きを未来予知しろ」と言っているのと同じことになります。この指示は周りのアイドルを守るという面では武Pのファインプレーでしたが、千早の精神や人間らしさを守るという意味では最悪の手になりました。

春香は千早の弱点にいち早く気付きました。それを指摘できたことは春香の功績です。しかし、それの解決方法を天才ではない春香では教えることができませんでした。結果千早が「何かしら」をして乗り越えたことで、千早が本来望んでいた「誰かと一緒にライブをやる」こととズレたことに気付き、答えを教えてあげられなかった自分の無力さと親友が普通を諦めたその心情を思い心を痛めた感じです。
現状千早が本質的に脆いことを知っているのは優と春香だけで、本田達をはじめ武Pも千早は精神的には結構タフだと勘違いしています。タフに見えるのは壊れることに慣れているだけです。丈夫であっても頑丈ではない。ひきこもり時代の千早を知っているかどうかの違いですね。

千早と本田達の関係は、皆が千早を気遣い、千早が皆に気を遣っている感じです。
悪口を言われるとまでは思っていませんが、自分が居ない時に自分への愚痴くらい溢し合うとは思っています。これでも他人からの好意を信じていない千早にしては、かなり好意的な見方をしています。本田達の善性は信じても、それを自分に向けるかどうかは別という感じです。

化物に人の気持ちなんてわかるわきゃねぇんですよ。

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