アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件 作:やんや
今回はアニメの2話目くらいのお話です。
今まで切りのいい場面まで書いてから一気に投稿していましたが、投稿予定文字数が10万文字を超えてしまったため分割投稿する形にいたします。
一旦投稿終えた後に統合するなどの対応を考えております。(まだ書き途中ですが)
また、開始時点でとあるイベントの描写が飛んでおります。
そのため前の話から繋がらない箇所がありますが、そちらは後の話で描写いたします。
本来1話の中で描き切る予定でしたが、分割投稿のためこの話だけ見ると疑問点が少なからずあると思いますが、そういう構成ということで
あるところに、一匹の怪物がいました。
その怪物には名前がありません。
世界でただ一匹だけのその怪物に人のように名前は必要なかったからです。
怪物も自分に名前がないことを不思議に思いませんでした。
その怪物はとても心優しい生物でした。
自分よりも劣った生物がいたとしても、決して食べようなどとしませんでした。
なぜなら怪物には食事が必要なかったからです。
必要がないから怪物は他者を食べることはしませんでした。
怪物はとても美しい生物でした。
怪物ではあっても化物ではないからか、見た目も人とそう変わりありませんでした。
だから自分と同じ姿をした人を怪物は愛しました。
でも怪物は知りませんでした。
人は自分と同じ姿をしているだけで、それ以外の全ては同じではないことを。
怪物は自分が強いことを知りませんでした。
それ以上に、人が弱いことを知りませんでした。
自分の言葉が人にどれほど残酷に聞こえるか、怪物は理解することはできませんでした。
怪物が見る世界は怪物が見たいものでできていました。
その世界で怪物は独りよがりの愛を口にします。
それは残酷な言葉として人には聞こえます。
でも一番残酷なのは、怪物が自らを怪物と自覚していないことでした。
怪物は自分を人だと思っていたのです。
──その日、一匹の怪物が生まれた。
今日僕はアイドルになった。
目指した未来に少しだけ近付いた。
自分が千早に転生したと知ってから、十年以上アイドルを目指して来た。苦しい時間が長く続いた分その嬉しさたるや言葉では表現し尽くせない。
ずっとアイドルになるための努力はして来たつもりだった。自分ならば簡単にアイドルになれると思い込んでいた。でも765プロのオーディションに落ちたことで夢を見られなくなって、そうやって二年間も燻り続けた。
色々な人に迷惑をかけた。心配して来た人を傷つけたりもした。
不都合な現実から目を逸らし、聴きたくない言葉に対して耳を塞ぎ、自分の失言を理由に声を失った。
辛くて惨めな日々が続いた。自分の求めていた未来が消え、自分自身すら消えてしまいたくなるような気持ちだった。
でも、そうやって自分の殻に閉じこもってしまった僕を支え助けてくれた人達が居た。
優が僕を支えてくれた。
春香が僕を助けてくれた。
一人でふさぎ込んでいた僕は再びアイドルを目指せるようになった。
そして、そんな僕をプロデューサーが見つけてくれた。
それは諦めかけていた夢が突然かなったようなものだ。
だから、なのだろうか。
アイドルになったことで心に余裕が生まれた今になって疑問を抱いてしまう。
「アイドルってなんだろう?」
……いきなり何を言っているのかと思うかもしれないけれど、何も哲学的な問いを投げかけているわけではない。
ただ、アイドルになったのだと思った瞬間、アイドルになるというのはどういうことなのかと疑問に思ってしまった。
もっと深く言うと、何をすればアイドルなのだろうかと考えてしまったわけだ。
事務所に所属すればアイドルなのか。
曲を出せばアイドルなのか。
雑誌に載ればアイドルなのか。
テレビに出演したらアイドルなのか。
ライブに出ればアイドルなのか。
僕の中にあるアイドルの定義があやふやなせいで、何をしたらアイドルなのかわからなかった。
曖昧な定義は自分が立つ位置を不安定にさせる。確固とした自己の確立が人より不得手な僕にとってそれは出口の無い袋小路に迷い込んだのと同じだった。答えの出ない問答を延々と繰り返す壊れたパソコンみたいにアイドルとは何と問い続ける。
そんな曖昧であやふやで不安定な自己分析にも似た問い掛けは、ふとした瞬間に終わりを迎えた。
それはアイドルという存在を特別な生き物と考えていた僕には衝撃的な解だった。
それはありふれたものだった。
誰もが当たり前に持つ答えだった。
アイドルも人だと思えばこそ、それを当たり前と言えるわけだ。
でも、僕はアイドルを特別な存在と思っていたからそこに行き着かなかった。
何度も答えは見えていたのに、それを答えと認識せずに、存在しない別の答えを求めてしまっていた。
いや、きっと別の答えというものは存在するのだろう。それこそ人によってはもっと俗物的な理由だって答えに成り得るのだから。
……印税が貰えたらアイドルとか。
まあ、そこまで俗っぽい物を言う人間はいないだろうけれど、世のアイドル達はきっと何かしらの答えを得ているのだ。
そして僕の答えは
それだけだ。
きっとその一つだけあれば僕は自身をアイドルと名乗ることができるだろう。
たとえこの先どのような苦難が待ち受けていようとも、その一つがある限り、僕はアイドルとして立っていられる。
だから、今回の話は僕がアイドルになった話ではない。
これだけ語りはしても、それは蛇足でしかない。僕がアイドルになった話はおまけ程度に聞いてくれれば良いんだ。
本題はそれからの話。
僕がアイドルになった……そう錯覚していた日から数日後の、そのまた数日後からこの話は始まる。
身体が重い。チートの反動が今も僕の身体を蝕んでいる。
最終審査を終えた僕は今、家の帰り道を満身創痍で歩いている。
上手く動かない手足を気力で無理やり動かしている状態だ。少しでも気を抜けば、一度でも立ち止まればもう二度と歩きだせないと思えるほどに全身が不調を訴えかけてくる。
関節を動かすだけでザクザクと刃物が突き刺さってくる様な激痛が走り、一瞬意識が薄れかけのを歯を食いしばって耐える。そうやって何度も襲い来る激痛の波をやり過ごしながら歩き続ける。
まさか”如月千早”との完全同期がここまで負担になるなんて……。
確かに人間一人分の人生を背負うわけだから、その負担が大きいのはわかっていた。でも、まさかここまで酷い状態になるなんて思ってなかったんだ。
反動で上手く動かない手足を必死に引きずる不便さと合わさって自分の考えの浅さに腹が立った。
「身体が重い……こんな気持ちで帰宅するなんて初めて。もう、何か全部怖い」
これでもだいぶ良くなった方だろう。
チートを使用してからまだ三時間程度しか経っていないけれど、ようやく人心地着いたと言った感じだ。
使用直後は本当に辛かったからね。これに比べたら前に自分の喉を殴り潰した事なんてどうってことないと思える。
今はまだ日も高い時間帯のため人の目がそこかしこにある。そんな中、ゾンビみたいなぎこちない歩き方をする女が居たら絶対変な目で見られる。これからデビューを控えている身で変な噂を立てられるわけにはいかない。
だから僕はなけなしの気力を振り絞り「なんてことは無い」という顔を作り、精一杯の虚勢を張って歩いた。
ようやくアパートまで辿り着けた。
やはり自分の家が見えると幾分心に余裕が生まれるものだ。
早く部屋に入ってベッドに横になって眠りたい……。
プロデューサーは次の月曜日に346の事務所に来るように言っていた。その日が仕事始めとも教えてくれた。
今日は金曜日だから、今から寝れば丸二日休める計算になる。それまでにはこの身体の不調も治っているはずだ。
万が一治らなければ、本当は嫌だけれど、チートを使って乗り切るしかない。治り切っていない身体でチートを使用するのは身体への負担を考えると正直避けたいところだ。でも、ふらふらの身体で初仕事に臨むよりはマシだ。
何せアイドルとして初仕事になるなのだから無様な姿は晒せない。プロデューサーだって見てくれているんだ。アイドルらしく振舞わなければならない。
「アイドル……」
そう、だよね。
僕はアイドルになったんだよね?
今になってようやく実感が湧いてくる。
僕でいいのかな?
こんな欠陥品のなり損ないがアイドルになってよかったのかな?
最終審査の問い掛けを思い返して胸へと手を添える。
僕にアイドルをやる覚悟はあるのか。僕以外にもアイドルになりたい人はたくさん居る。今回のシンデレラオーディションだってたくさんの応募者が居たはずだ。
その中から最終審査に残った人間は二人。その二人の内の片方が掴みかけた椅子を僕が横から奪った。
その事実を聞いた僕は揺れた。765プロに落ちた僕と同じ絶望を今度は僕が与える側になるなんて。敗者になるのと同じくらいに勝者にも痛みが伴うなんて僕は知らなかった。
でもプロデューサーは僕を選んだ。
プロデューサーは僕をアイドルにしたいと思った。その誰かよりも僕を選んだんだ。
プロデューサーが僕を選んでくれたから……。
だから、今の僕はアイドルなのだろう。
さっきは緊張とチートの反動で意識していなかったけれど、今になって自分が本当にアイドルになった実感で喜びが込み上げてくる。
「アイドル……アイドル!」
ああ、なんて素晴らしい響きだろうか。
自分がアイドルだと名乗れる日が来るなんて。諦めなくて良かった。足掻いてよかった。惨めでも、情けなくても、指一本分の希望が残っているならと絶望という名の谷に向かって落ちなくて良かった。
今から月曜日が楽しみだ。
浮ついた気分で家へと帰った僕は、しかし部屋の前にたどり着く前にその足を止めることになった。
部屋の前に春香が立っていた。
春香は眼鏡と帽子という、変装という言葉に真っ向から殴り合いを仕掛けて行く何時ものスタイルで薄く笑みを浮かべながら部屋の扉を見つめて居る。
まだ夕方にもなっていない。いつもみたく終電を逃したから寄ったにしてはだいぶ早い時間だ。いつもの打ち合わせが長引いたパターンではないみたいだけど……何か用でもあるのかな?
春香の予想外の訪問に暫く突っ立っていると、春香が部屋のインターホンを押した。
小さくピンポーンという呼び出し音が聞こえる。当然僕は外に居るため部屋から誰かが出てくることはない。なるほど、ちょうど春香が来た時に僕は戻って来たわけだ。
春香にインターホンを無駄押しさせたことに軽く罪悪感を覚えつつ、声を掛けようと口を開く。
「春……」
春香がインターホンを押した。
再び音が響く。
春香は変わらぬ笑みを浮かべている。
「……」
またインターホンが押される。
音が響く。
春香は笑っている。
そうやって何度も春香はインターホンを鳴らしていた。
いや、僕居ないからね。
「春香」
ご近所迷惑になるので止めるためにも春香に声を掛ける。
春香の反応は早かった。
ぐるんと音が鳴るのではないかと思うくらい勢い良く頭を振りこちらへと振り返る春香。
「千早ちゃん!」
僕に気付いた春香がこちらへと歩み寄ってくる。先程までの薄ら笑いではなく満面の笑みを顔に浮かべて。
あのくらいの笑顔ができたら僕ももう少し歌のレパートリーが増えるのにな。
「部屋の中に居るのかと思ってピンポンし続けちゃった」
「ずっとインターホン鳴らしてたの? ケータイにメールくれればよかったのに」
「えー、ずっとメールしてたよ。電話もしてたし」
うそん。春香に指摘されてケータイの着信履歴を確認する。
だが履歴欄には新着情報はない。
まさかと思いすぐにメールセンターに問い合わせをする。
次の瞬間画面が大量の電話とメールの着信履歴で一杯になった。
日付により五分ごとにメールと電話をかけ続けたことがわかる。なんと春香は二時間前から数分ごとにメールと電話をしていたらしい。
「……」
着信メールの数に自然と背中を汗が流れた。
恐る恐るケータイの画面から顔を上げる。
すぐ目の前に笑顔の春香の顔があった。
顔が近い。どちらかが微かにでも動けば鼻先がぶつかるくらいの距離だ。
当然そんな近くに立たれたら嫌でも色々と情報が入ってくる。
まずは匂い。今の僕の壊れた嗅覚でもわかる程の甘い香りが鼻孔へと入って来た。香水のような無機質な香りではなく、シャンプーと春香自身の体臭とかが混ざり合った匂いだ。
僕はあまり制汗スプレーの臭いが好きではない。たまに居る逆にスプレー臭い女の子とかいると思わず顔を顰めてしまうくらいだ。そんな話を前にメールのやり取りの中で春香に言ったことがあるけれど、春香からそういった臭いがないということは彼女もあまり使用しないようだ。
でもスプレー臭くない代わりに、春香の襟元から漂う汗の匂いは女性に慣れていない僕にとっては刺激が強い。それが春香みたいな可愛い子ならなおさらだ。興奮とまではいかないまでも、十分にドキリとさせられる。
「千早ちゃん」
春香の声は優しい。
とても二時間近く待たされた後に出せる声ではない。
怒りや不満が見えない春香の笑みはまさしくアイドルとして完璧なものだと思った。
春香、貴女って子は……。
二時間待たせても笑って許してくれるだなんて、何ていい子なのだろう!
春香の聖母のごとき優しさに涙が出そうになった。
そんな心優しい友人の汗の匂いにドキドキした僕は一度死ねばいいと思うよ。
「ごめんなさい! メールセンターで止まってて、メールとあと電話に気づかなかったの……」
春も終わりを迎えようという季節であっても、夕方頃になると少しだけ肌寒い。そんな中で待っていた春香に申し訳ない気持ちになる。
「もちろん私は信じてたよ? 千早ちゃんがわざと私を無視するわけないって」
「当たり前でしょ! 大好きな春香を無視なんてありえないもの」
こんなに優しくて色々と僕を気に掛けてくれる春香を無視なんてするわけがない。
「えっ、大好き……?」
「ええ、大好きよ春香」
「えへへ、そっかー、大好きかー……うん、うん……良かった!」
もちろん友達としての好きだけど。
すでにこの人生で恋愛を諦めて居る僕には春香相手に友情以上の感情を持つことはないだろう。
今でも僕の恋愛対象は女の子だと思うから、なおさら春香は友達だと思い込む必要があった。ほら、女の子同士のスキンシップって男からすると激しいからさ。女の子にとっては何気ないスキンシップでも、男にとってはドキドキさせられたりするでしょ。
春香も何かあれば抱きついてくるし。お尻や胸に触って来るし。キスして来るし。
一度やり過ぎではないかと言ったらこれくらい普通と言われてしまった。むしろこれくらいやらないと友達ではないらしい。強く言い聞かせるように言われたら、春香以外に友達がいない僕は納得するしかない。逆に春香から何でそんなこと訊くの? みたいな顔をされて慌てて誤魔化したくらいだ。
まあ、僕が誰かを好きになったとして、その相手が女の子なら相手がレズでもない限り恋愛に発展することはないだろう。どこかその辺に居ないかな。
「とりあえず、部屋に上がった方がいいわ。いつまでも外に居たから冷えたでしょ?」
「そうだね。あ、でもさっきので熱くなったかも……」
何気なく吐かれた春香の言葉にギョッとする。
身体が熱いって……それは風邪じゃないか?
僕が早く帰らなかった所為で春香が体調を崩したなんてことになったら大変だ。大切な友達を自分の不注意で辛い目に遭わせるなんて許されない。
「春香!」
慌てた僕は春香の体温を確認しようと彼女の顔に両手で触れた。
しかし僕の手に春香の体温が伝わることはない。今の僕は触覚が麻痺しているため、春香の体温が手で触れた程度ではわからないのだ。
体温を感じ取るために自分と春香のおでこを合わせる。
しかし、それでも春香から熱を感じることはできないため、他の部位——頬とか首で春香に触れる。
「え? えっ? えええ?」
春香の方は状況がいまいち飲み込めないのか目を白黒させている。
今この時にも春香の顔は赤くなり体温も上昇してしまっている。明らかに熱があるってわかるのに、ポンコツな僕の体はそれを感じ取れない。
それにしても、春香は自分の不調に気付かないなんて……。
僕は春香の忍耐力を友達として誇らしく思うとともに、その忍耐力が彼女を苦しめていることに心を痛めた。原作でも自分を拒絶した千早を見捨てず最後まで説得し続けた春香の根性はこの世界でも変わらないと知っていながら、こうして彼女が無理をする事態を回避できていない。
せっかく春香が友達と呼んでくれているのに、これでは友達の意味がないじゃないか。僕は本当に春香を傷付けてばかりいる。それでも僕と友達を続けてくれる春香に今度何かお礼をしよう。日頃の感謝を込めるのだから、僕ができることなら何でもしてあげようと思った。
っと、その前に春香を安静にさせなくちゃ。春香の様子を見ると、顔を真っ赤に染め息を荒くしていた。目を開けているのも辛いのか、両目を閉じている。足元も何かふらふらと揺れており、僕が手で頭を支えていなければこちら側に倒れ込みそうだ。
「春香、すぐに部屋に上がりましょう」
とにかく部屋の中に居れて安静にさせなくては。
「え、へ、部屋?」
「そうよ。外じゃ何もできないでしょう?」
「ふあっ!? そ……そうだね! さすがに外じゃ無理だよね! 人の目もあるかも知れないし」
病人が人目を気にする必要はないと思う。でもアイドルならば体調不良一つとっても、ニュースのネタにされることがあるのかもね。春香みたいなトップアイドルならばなおさらだ。
アイドルに付き纏うパパラッチという存在を忘れていた僕は自分の失策に気付いた。今もこの瞬間に春香の特ダネを狙う記者が居るかもしれないのだ。僕は慌てて春香に覆いかぶさるようにして陰になりつつ、彼女を監視しているパパラッチが居ないかと周囲を確認する。原作で千早も世話になった、あの三下パパラッチ男が居たら大変だ。『体調管理もできないプロ意識の欠けたアイドル』などという記事を書かれかねない。まあ、そんなものを書いたら僕の秘密技”人だけコプター”で空を不自由に飛んで貰うつもりだけど。
「ち、千早ちゃん、お部屋に入ってからって話じゃ……」
腕の中で春香が何か言っているが、今はちょっとそちらを聞いている余裕がない。
僕は躊躇いなくチートを発動させた。と同時に再び身体を激痛が襲うが歯を食いしばって耐える。先程よりも痛みがましに感じるのは二回目だからなのか、そもそも痛覚が馬鹿になっているからなのか。後者でないことを祈りつつ知覚能力を上げる。
僕が今やっているのは先程最終審査会場でやった様にチートによる聴覚強化だ。犬よりも鋭敏になった聴覚により半径五十メートル以内の音を無差別に拾い上げる。春香の声はカット。
当然僕の平凡な脳では範囲内の音全てなんて処理しきれない。そもそも音が混ざって雑音に聞こえてしまう。そこで脳内で複数展開した”如月千早”にそれぞれ割り振った音だけをピックアップさせ必要な音だけを抽出する。その音を加算平均処理することで雑音を濾し取ることでようやく僕が理解できる音へと変換できた。
『おかーさんお腹すいたー』『膝に矢を受けてしまってな』『チェケラッイエェ』『さっき味噌食べたばかりでしょ』『私はまだアイドルを諦めたくない!』『青色サヴァン』『ばあさん、ワシのぶらじゃぁ知らんかね』『ちくわ大明神』『死ネ死ネ 死ネ死ネ 』『これが幻想の最果てだ!』『おじいさん、ぶらは今着けてるでしょ』
……どうやら知覚範囲内でそれらしき話声やシャッター音等の記者が発するような音は発生していないようだ。多少不穏な台詞が聴こえたような気がするけど、僕達には関係ないだろう。
とりあえず安心できたのでチートを切る。一瞬だけとはいえチートを発動したため身体が痛んだが、春香の安全のためと思えば安い代償だった。
改めて春香の様子を窺う。
腕の中の春香は先程よりも顔が赤かった。耳どころか首の下の方まで真っ赤に染まってしまっている。
「あ、あの……私、どうせなら、その……はじめてなら千早ちゃんの部屋がいいなって。あっ、千早ちゃんがどうしてもって言うなら外でもいいけど……」
しかも言ってることが支離滅裂になっているじゃないか。この短い間にこんなにも悪化しているなんて。春香を部屋に上げてから周囲を確認するべきだった。
「ごめんなさい。気が急いてしまって、春香のことを考えていなかったわ……」
「ううん! い、いいの、千早ちゃんも我慢できないことってあると思うし」
「そう言ってくれると助かるわ。改めて部屋に上がりましょう」
「うん。えっと、いいの?」
「もちろんよ。外よりも部屋の中の方が色々とできることがあるもの」
「色々っ!? そっ! ……うだね!」
そうだ、中の方が看病しやすい。当たり前だよね。
僕は突っ立ったままの春香を抱きしめたまま部屋の中へと入った。その時春香が「やった、勝った」と呟いていたけど意味はさっぱりわからなかった。病人の譫言だもんね。
「お、おじゃ、お邪魔しま~す!」
部屋に上がる時に律儀にそんな挨拶を言う春香にこんな状況だというのに感心する。親御さんの教育が良いんだね。
意識もしっかりしているみたいだし、案外大丈夫な気がして来た。
「いや、むしろただいまって言うべきなんじゃ。そしたら千早ちゃんがお帰りって」
あ、やっぱり駄目だわ。自分が今どこに居るのかも曖昧になっているぞ。春香は熱の所為で僕の家を自分の家と勘違いしているんだ。
「春香、すぐにお布団を敷くわ」
「えっ、お風呂にする? ご飯にする? それとものくだりは!?」
ちょっと何を言ってるかわからないですね。
春香を一度ソファに座らせた後に布団を取り出すために押入れを開けて中を漁る。
この間優が使ったのと同じ布団だが、きちんと干した後にケアしてあるから大丈夫だろう。
「あ、あと、ちょっと汗かいてるから先にシャワーに」
「シャワーなんてとんでもない!」
「えええええっ、いや、でも、汗とか流した方がいいと思うんだけど」
「私はそう思わないわ。むしろ浴びない方がいいくらい」
「マニアック!?」
病人なのにちょっと騒ぎ過ぎである。これ以上騒いで悪化したらいけない。
とにかく春香には安静にして貰わないと。
布団を床に敷くと僕は春香へと近付いて行った。
「千早ちゃんになら何をどうされてもいいけど、できれば綺麗な私を見て欲しーー」
「まどろっこしい」
ソファでモジモジと体を動かしている春香を横抱きに持ち上げる。所謂お姫様抱っこというやつだ。
「きゃっ。わ、わ、千早ちゃん力持ち!?」
「春香が軽いだけよ」
驚く春香を適当にあやしつつ布団へと運ぶ。実際春香は軽い。ちゃんと食べているのか心配になるくらいに。
腕の中で暴れる春香を宥めながら部屋を移動して布団まで辿り着くと、その上に春香を優しく下した。
「千早ちゃん、私こういうの慣れてなくて……」
普段元気な春香のことだ、風邪を引いたこと自体少ないのだろう。だからこうして看病されることに慣れていないんだね。
「大丈夫、全部私に任せてくれたらいいわ。こう見えて私慣れてるの」
「え……慣れてる?」
「優相手に何度もしてるから」
「……ふぅん、へぇ」
あれ、春香の目が据わった気がするぞ。さっきまであれだけ輝いていた瞳がドロドロに濁っているように見える。この風邪は長引きそうだ!
「優君とこういうことしているんだ?」
「そうね。弟のことだもの、当然だわ」
「当然って……こういうのって普通姉弟ではやらないよ」
まあ、確かに普通は親がやるよね。でもうち共働きだからニートの僕がやるのは当然なんだよね。母親が専業主婦で一人っ子の春香には違和感あるのかもね。
「優もそう言っていたわ。でも、他に適任がいなければ私がやるしかないじゃない。あの子気を遣って断るのよ。終いには自分でやるからいいって言うの」
「自分で……そ、そう言ってくれるならお言葉に甘えてもいいんじゃないの?」
「まさか! 優が苦しそうにしているのに一人でさせるなんてできないわ。だからほとんど私が無理やりしている感じね」
「無理やり!? え、千早ちゃんの方からしてるってこと?」
病人が自分で身の回りのことをするのは難しいことだ。 だから僕が代わりにしてあげるって言っているのに、それを優ってば断わるんだから困るよ。
飲み物用意したり、冷却シート貼り替えたり、お手洗いに連れて行ったり、身体拭いたり……。僕ができる範囲でやってあげようとすると全力で嫌がるのだ。最後は力尽くでやるけれど。
「優も恥ずかしくて自分から言えないんでしょうね。もしくは気を遣ってくれているのかも……優しい子だから」
「優しいというか、自分から言い出したらやらしいと言うか」
「だから優もね、最初は何かと理由をつけて断って来るのだけれど、最後の方は諦めて抵抗せずにいてくれるわ」
「千早ちゃんに無理やり……抵抗心を奪われて……」
「あの子のお世話をしていると、凄く心が満たされる気がするの。いえ、これは不謹慎ね」
「お世話……千早ちゃんのご奉仕」
「でも遣り甲斐があるのは確かよ。いつも二人にはお世話になっているのだもの、春香の看病くらいどうってことないわ」
「千早ちゃんの看病…………かんびょう?」
「ええ、そうだけど」
「看病」
「看病」
「なんで看病?」
「何でって……風邪を引いたから私が看病するという話でしょう? さっきからずっと顔が赤いし、様子がおかしかったから……違うの?」
「………… …… 風邪じゃないよ」
「そうだったの? 私てっきり風邪だとばかり……」
「え、じゃ、じゃあ、無理やりっていうのは」
「看病のことだけど?」
「……」
「春香?」
「あふん」
春香は後ろにばたりと倒れると布団を頭まで被ってしまった。
布団の端から見える手は真っ赤で、激しく震えているのが布団を被っていてもわかる。
「ちょ、ちょっと春香? 本当に大丈夫?」
「うん……ちょっと、ごふんだけ……落チ込マセテクダサイ」
何で最後ちょっとだけカタコトなんだ。
風邪じゃないと言うならいいんだけど。先程までの挙動不審な態度はちょっと普通ではなかったと思う。アレで風邪ではないというならもっと別の病気なんじゃないかと不安になる。
それ程までに春香は尋常じゃない様子だった。
いったい何が原因だったのだろう……?
それから、きっちり五分後に春香は復活した。
気分はすっかり良くなったそうだ。
むしろ元から何ともなかったから大丈夫と言われてしまった。気を遣われているのだろう。無理していないか心配だ。
「本当に調子が悪かったら遠慮なく言って? 私にできることなら何でもするから」
「何でも? ……ハッ、ううん! 大丈夫だよ!」
先程から春香の挙動がおかしい。僕の言葉をいちいち繰り返したり、意味を一瞬理解できないような素振りを見せる。やはり熱で思考能力がおかしくなっているのではないだろうか。
「本当に風邪ではないのよね?」
「うん。本当に大丈夫だよ。ちょっと疲れが出ちゃってぼーっとしちゃっただけだから。あ、でも少し横になったからもう大丈夫だよ?」
「それならいいのだけど。春香が辛そうにしているのを見るのは私も凄く辛いから……。私は春香のことを本当に大切に思っているの。その春香が苦しんでいたら力になりたいと思うのは私の我儘かしら」
「ふぐっ!?」
突如呻き声をあげて倒れる春香に慌てる。
「え、大丈夫!?」
慌てる僕の前で春香はまたしても布団を被ってしまった。その姿は何かに耐えているように見える。その証拠を掴む指先が震えていた。
やがて布団越しに春香の声が聞こえた。
「……罪悪感で死にそう」
その声は病人のように弱々しいものだった。
予想通り最近の春香は多忙だったそうだ。そのためメールもろくに返せなかったのだと説明を受けた。その際大袈裟に謝罪して来たので逆に慌ててしまった。アイドルとして忙しいことは良いことだ。それを喜びこそすれ、責めることなんてするわけがなかった。むしろ春香の頑張りが認められたように思えて嬉しい。
そう伝えたところ突如春香が自らの胸を押さえて倒れてしまった。やはり何かしらの病気なのかと慌てた僕に春香は何ともないと言ったけれど、それにしては何かに耐えるようにプルプルと震えているのは見ていて不安になる。
大丈夫と言われても、小声で「天使」とか「耐え」とか「尊い」とブツブツと呟いている姿はとても平気には見えない。本当に病気じゃないんだよね?
「春香に何かあったら耐えられないわ」
「大丈夫、私はまだ耐えられるから」
会話になってないよね。
「貴女に何かあったらきっと泣いてしまうわ」
「千早ちゃんをなかせる……」
「これからも春香と付き合っていきたいと思っているもの」
「千早ちゃんとつきあう」
「春香が思っている以上に私は春香が好きだから」
「ハネムーン!」
あの、聞いてくれてます?
わりと真面目なシーンのはずなんだけど、物凄くギャグ空間が広がっている気がする。
自分がシリアスになり切れないのは自覚している。さらに相手が春香ともなれば真面目な空気なんて長く維持できるわけがなかった。
でも、それで良いと思う。張り詰めた空気の中で居るよりも、ほんわかとした空気の方が良い。
本音を言えば身体の芯から訴えて来る疼痛のせいで今すぐにでも倒れてしまいたい気分ではあったけれど、春香と過ごす時間の方が優先された。
「あ、そうだ! 私千早ちゃんにお祝いがあるんだった!」
意識がそれていた僕を春香の声が引き戻した。まあ、春香の方も何やら独り言でブツブツと呟いていたのでお互いに心ここにあらずという感じだったが……。
やっぱり少しでも気を抜くと意識が薄れてしまう。千早の意識と混線……混戦したせいだ。今後このチートの使用は控えようと思う。下手をすると僕の自意識が死ぬ。
それはともかく、春香の言うお祝いとは何だろうか。
春香の誕生日はこの間祝ったばかりだし。……そもそも自分の誕生日祝いを他人に送ることはないか。
「お祝い? 何かあったかしら……」
不思議に思って訊ねる。
「アイドルデビューのお祝いだよ。おめでとう、千早ちゃん!」
笑顔で返された春香の答えに僕は目をしばたたかせた。
はて、僕は春香に最終審査に受かったことを教えていただろうか。
「あ」
と思ったけれど、よく思い返せば春香にアイドルになったと伝えていた事実に気付いた。しかし、それは今日のことではない。プロデューサーにアイドルになること告げた日のことで今日のことではない。
あの時はまだアイドルではなかったのだけど、プロデューサーのスカウトを受けた時点でアイドルになったと勘違いして家族と春香にアイドルになったと連絡してしまった。あの時の僕は自分がアイドルになれたと舞い上がりテンション高くメールしていたと思う。
その時期は春香からの連絡が一時途絶えていたので今まで忘れていたけれど、春香の方はそんな僕のテンションを見てわざわざ来てくれたのだ。
僕が色々な事務所のオーディションを受けては落ちてを繰り返していた時期に相談に乗ってくれていたのも春香だった。僕の愚痴混じりの近況報告を嫌な顔せずに聞き、自分の体験談を交えたアドバイスをしてくれたのだ。春香自身も765プロに受かる前はたくさんの事務所のオーディションに落ちていたということもあり、共感性を持ったアドバイスはとてもためになったことを覚えている。
アイドルのお仕事で忙しかっただろうに。最近だってメールする暇もない程に忙しかったはずだ。それでも僕の勘違いの結果を祝うために家に来てくれた春香の義理難さに涙が出そうになる。
今日の最終審査に受かって良かった。これで落ちていたら忙しい中来てくれた春香に申し訳が立たなかった。
「ありがとう……春香に祝って貰えて嬉しい」
勘違いの部分は説明せず、代わりに心からの感謝を述べた。
改めて言うけれど、僕の表情は基本的に真顔だ。今の台詞も真顔で言っている。当然感謝の言葉を口にする時も真顔になってしまうため、知らない相手からは淡泊に見えてしまうのだった。
一度お店の店員さんに同じように感謝を伝えたところ、泣きそうな顔で謝られた時は自分の感謝は一周回って怒っているように見えるのかと泣きそうになった。
そんな感じに僕がどれだけ心を込めても相手に伝わらないことが多々ある中、きちんと真意を読み取ってくれる春香はストレートに気持ちを伝えられる相手だ。希少で貴重な大切な存在だった。
「本当はすぐにメールで返した方が良いかなって思ってたんだけど、やっぱりちゃんと向き合って言いたかったから……」
春香のその言葉に目頭が熱くなった。気を抜くと泣いてしまいそうだ。友達の前で泣くのは恥ずかしいので必死で堪えたけど、嬉しいと感じた気持ちは本当だった。
ずっと友達もできずにいた僕にここまで言ってくれる友達ができた。その相手が春香だというのは僕が千早だから……ではないと信じたい。運命であっても必然であって欲しくなかった。
春香と千早だからという理由で僕達は友達になったのではない。もっと大きくて、純粋で、清らかな感情によって僕達は友達になったのだと信じたい。
「春香、私は春香のことが大好きよ。ずっと一緒に居たいくらいに」
春香も同じ想いでいてくれたら嬉しい。
「……これが優君の言っていた千早トラップか」
「今何か言った?」
「何でもないよ! 私も千早ちゃんとずっと一緒に居たいと思ってるよ!」
春香……。
これはもう行けるんじゃないだろうか。
春香の態度から「もしかしたら」と思っていたのだけれど、今の言葉で確信に変わった。
僕達は友達を超えた関係になれる。
「私は春香とは友達を超えた関係になれると思ってる」
「唐突にチャンス到来」
「私達、親友になれないかしら」
「と思ったらこっちもトラップか」
「春香……駄目かしら?」
「そんなことないよ! 私も千早ちゃんと親友になりたい!」
春香が僕と同じ気持ちだと言ってくれた。つまり僕達は今この時をもって親友になったのだ。
友達ができただけでも幸せなだったのに、まさか親友まで持つことができるなんて……。
こんな偉業は少し前の僕だったら考えもしなかったことだ。少し前の僕には親友どころか友達すらいなかったのだから。その僕が春香と親友になる。素敵な話だ。
「嬉しい。春香と親友になれるなんて、本当に嬉しいわ」
「千早ちゃん! 私も――」
「この友情は一生変わらないのね。何があろうとも親友という関係に罅が入らないように私頑張る」
「――涙が出そうだよ!」
春香の目に涙が浮かんでいるのを見て今度は貰い泣きしそうになった。泣くくらい喜んでくれるなんて、親友になろうと言って良かった。
あとで優に報告しないと。お姉ちゃんに初めての親友ができましたって言おう。きっと優も喜んでくれるよね?
「春香、改めてお礼を言わせて欲しいの」
そして春香には改めて言わないといけないことがあった。
本当ならばもっと前に、親友になろうと言う前に言わなければいけないことだった。春香に会うことができなかったというのは言い訳だ。言うだけなら何時だって言えたはずだ。それこそ親友になろうと提案する前に言ってもよかったんだ。
でも、こうして順番が逆になってしまったのは僕に勇気が無かったから。拒絶されるという怖れは無い。拒絶されることを恐れるなら親友になることを拒絶される方を恐れるべきだ。
ただ、僕はこの言葉を春香が重く受け止めてくれるだろうかということが不安だった。春香にとって何てことはない、どうでもいい事柄だと軽く受け止められないか、それが怖かった。
居ずまいを正してまっすぐに春香に目を向ける。
僕の本気さが伝わったのか、春香も布団から起き上がり対面へと座った。
「春香、ありがとう」
春香に対して頭を下げる。感謝の言葉とともに、これが僕の精一杯の誠意なのだと伝わるように。
「今まで春香が支えてくれたから、私はアイドルになることができた。私が心を閉ざして殻に閉じこもっていた時、春香がここに来てくれて、助けてくれたから今があると思うの。だから、ありがとう……」
僕は笑うことができない。喜びを表に出せない。見た目でそれを伝えられない。
だから何度でも言葉を重ねるのだ。ありがとうの言葉を何度も口に出して、頭を下げることしか僕にはできないから。
ありがとうよりもこの感謝の気持ちを伝えられる言葉があればどんなに良いことか。でもそんな言葉が存在しないというならば、せめて言い続けるしか僕にはできない。
「ありがとう、春香……アイドルになれたよ」
「千早ちゃん……」
春香が僕へと腕を伸ばすのが気配でわかる。
僕なそれに対して何もしない。この後春香がどうするのか半ば知っているとしても、結果が出る瞬間まで顔を上げることはしない。
もしも、僕の勘違いだったら……。
ふと湧き上がった怖れは、身体に回された春香の腕の感触により消し飛んだ。
春香が優しく抱きしめてくれている。それが分かった瞬間、今度こそ涙が零れそうになった。
良かった……。この気持ちが、感謝の言葉がきちんを受け止めて貰えた。
何でも無いことだと言われてしまったら、これまでの僕の人生が全て軽くなってしまうのではないかという不安があった。だから春香には本当に感謝してるということを理解していて欲しかったのだ。それがどれだけ自分勝手な物なのだとしても。
でも僕の不安は杞憂に終わったようだ。春香はきちんと僕の想いを理解してくれていた。
さすが春香。伊達に主人公を張ってはいないね。
「私が千早ちゃんの力になれて良かった」
耳元で聞こえた春香の言葉で流れそうになる涙を目を瞬かせて我慢をする。
泣きたければ泣けばいいと思うかもしれない。でも、僕自身が春香の前で泣くことを拒絶している。男児たるもの……なんて古臭い理由ではなく、単純に僕の中の男の部分が女の子の前で泣くことが恥ずかしいと訴えかけるのだ。
だから僕は春香の前では泣かないようにしようと思う。その分優の前で泣いてばかりいるけれども。そこは身内特権ということで。
「春香……」
春香との熱い抱擁が続く。
今日の朝から出かけて帰って来るまで締め切っていた室内は少しだけ暑い。春の陽気が差し込んでいるのも室温を上げている理由だろう。
その中でこうして人間二人が抱き合っているとそこそこ温かくなる。しかも春香が僕に覆いかぶさるように抱き着いているため密着度は高い。
「……」
抱擁自体に文句はない。春香からの思い遣りの証拠ということで感動すら覚える。
「あの、春香……?」
抱き締めて貰っておいて何か言うのも心苦しいので極力待とうと思っていたのだけれど、かれこれ十五分近く抱き合っているのは少し長いんじゃないかなと思うわけで。
「あったかい、千早ちゃんあったかい……いい匂い」
さらに僕の髪の毛に春香が顔を埋め何やらブツブツと言っている状態は何々なのだろうか。
髪の毛を貫通した春香の鼻息が頭皮に当たっているのもくすぐったいので出来れば止めて欲しいところだ。
「春香、ねぇ、春香? もう、そろそろ……ね?」
「はぁぁ…………あっ」
今度は僕が春香のことをあやす様に背中を軽く叩くことで、ようやく春香が気付いてくれた。
それだけ気持ちが込められていたということなのだろう。春香の友を想う気持ちの強さを心の中で称賛するのだった。
やがてどちらともなく離れ──何故か春香はとても渋っていたが──僕達は対面に座り直した。
「春香と親友になれて、その親友からお祝いの言葉を貰えるなんて思ってもみなかったわ。こうして祝われたことで改めて自分がアイドルになれたんだって実感できた。本当に今日はありがとう」
改めて春香へと感謝を伝える。
しつこいように思えるかもだけれど、僕としては春香にお祝いを言って貰えたことは最高のプレゼントだったから、何度言っても言い足りなかった。
あまり言い過ぎてもしつこいかなと思い、とりあえずこの話はこれで終わりにするつもりだった。
しかし春香の方ではまだ話は終わっていなかったらしい。
「実は言葉だけのお祝いだけじゃなくて、ちゃんとプレゼントを持って来たんだよ」
そう言って春香は立ち上がると、ソファの上に置いてあった鞄へと近づき中を漁り出した。
歩いている時の足取りは軽く、どうやら体調不良というのは本当に僕の勘違いだったのだと安堵する。春香の言葉を疑うわけではないけれど、僕に気を遣って体調不良を誤魔化しているという可能性もあったからだ。
やがてお目当ての物が見つかったのか、春香がこちらへと振り返る。
「じゃじゃーん!」
ジャジャーンという効果音が聞こえそうな勢い、と言うか実際に口で言いながら春香が取り出したのは一枚のチケットだった。
「……スイーツフェスタ?」
ロゴや店名、吹き出しなどでごちゃごちゃとデコレーションされている上に遠いのでよくわからないけれど、チケットに書かれている情報を集約して言えばスイーツの食べ放題の前売り券とあった。
春香がこれを僕に見せたということは、これがプレゼントということだろうか?
「春香、これは……?」
「今人気のスイーツ店の食べ放題チケットだよ。あまりの人気に完全予約制になったくらいで、チケットを買うところから競走が起きているくらいんだから」
胸を張りながら「小鳥さんに無理言って取って貰ったの」と言う春香は一欠けらの邪気すら感じられないほどに爽やかな笑みを浮かべていた。しかし765プロの日常をアニメと春香からの雑談から間接的にとはいえ知っている僕には、その裏で繰り広げられたであろう春香と音無小鳥のやり取りがリアリティを持って想像できた。一体今度はどんなネタで釣られたんだろうね?
まあ、いつものことだから良いのだろうけれども。
それはともかく、チケットには一つ気になることが書かれていた。
「これ……指定した日付は土曜日なのね」
チケットには予約日が記載されていた。それが土曜日、つまり明日になっている。
「うん。あっ、もしかして……明日から仕事始めだったりする?」
「いえ、そういうわけじゃないけれど……」
仕事始めは来週の月曜日からだ。だから日付だけなら問題はない。
しかし僕の今の体調でスイーツの食べ放題というのは些か辛いものがあった。元々省エネで少食のため食べ放題自体あまり向いていない。それに加えて今の僕の体調は最悪と言っていいだろう。明日になればいくらか復調している気はするものの、甘い物をたくさん食べられる気はしなかった。絶対吐く自信がある。
でも、せっかく誘ってくれた手前、ケーキをひとつふたつ食べておしまいというわけにもいかないだろう。
「えっと、お祝いって名目で持って来たのは確かなんだけど、本当は前から千早ちゃんとこういうお店に行ってみたかったの……嫌、かな?」
「嫌じゃないわ。むしろ大歓迎よ」
思わず頷いていた。上手い言い訳を考える暇すらない、まさにゼロタイムの即答。僕じゃなかったら見逃しちゃうね!
いや、春香にこんな風に言われたらOKするしかないじゃないか!
わざわざ僕のために苦労してチケットを取ってくれた春香の努力と気遣いを無駄にはできないでしょ。彼女の厚意を無下にしたら自分で自分を許せなくなる。
ああ、それにしても……「嫌、かな」って訊く時に上目遣いで、不安そうな顔で言う春香の破壊力は凄まじかった。見慣れた顔のはずなのに思わずドキリとさせられた。まったく予期していなかったため衝撃度が尋常じゃない。例えるならドラゴンボールでラディッツの戦闘力が53万あるくらいの衝撃だ。想定外過ぎて死ぬ。
この表情は媚びているというわけではないのだろうけど、とてもでないが男に見せてはいけないやつだ。僕が男だったら「実はこいつ僕のこと好きなんじゃね?」って勘違いするレベルだ。自分の性別が女ということが悔やまれる。いや、男だったら春香にこんな顔向けて貰えないか。
とにかく、春香のこの誘いに乗るのは僕の中では確定事項だった。断る理由が無い。
「仕事始めは月曜日からだから、明日は一日空いているわ」
「本当!? やったー!」
春香のこの笑顔を曇らせないためにも明日は死ぬ気でスイーツを食べよう。食べられないまでも、せめて楽しそうにしなくてはきっと春香が傷つく。
死ぬ気で食べるのではなく、死ぬつもりで明日に臨む。それが僕の覚悟だ。
覚悟はできているか?
僕はできている!
その後、明日の待ち合わせ時間と場所を決めると春香は帰って行った。まだ日も高いので泊まる程の時間ではないからだ。
帰ったらすぐに明日の準備をするそうだ。そんな準備する必要があるのだろうかと訊ねると「だって、せっかくの千早ちゃんとデートだもん」と言われてしまった。
たまに春香の冗談は心臓に悪いから困る。本人からすれば同性に対する気安さからなのだろうけれど、中身が男の僕からすれば十分動揺させられるのだ。
それにしたって、デートって……。
「僕達は女同士だろうに」
きっとそういうのを気にしているのは僕の方だけで、春香にそんなつもりは微塵も無いのはわかっている。
千早である自分と春香である彼女が親友としていられるのは女同士だからだ。もし僕が男だったら今の関係は成り立っていなかった。そもそも出会ってすらいなかった。
だから今の関係に不満はない。
それでも──。
自分が
久しぶりの投稿です。
あれから一年以上空いての投稿とあって緊張とともにこのあとがきを書いています。
前話までの千早が見せた葛藤や見せ場は今回の話(アニメ2話時点)で描くことは正直難しい。
さらに序盤は導入部とあって盛り上がり要素はありません。
その状態で投稿して、果たして読者の方に楽しんでいただけるのか。
クオリティ不足という不安により長らく分割投稿に踏み切れておりませんでした。
今回評価の上下を無視して投稿に踏み切ったのは今も続きを待っていて下さる読者の方々の声でした。
良い物を投稿するというのは確かに大事ですが、そのせいで投稿間隔が空き、長い間何も成果を生まず、そのままエタってしまってはこれまでの千早の物語とそれを楽しんで下さった方々に申し訳ない。
そんな思いからの更新に踏み切りました。
時間をかけても良い物を、という意見は確かにあるとは思います。
しかし、作者は時間をかけても今書いた分のクオリティを上げられる程の腕は無く、ただただ量を書くだけが能の物書きが趣味なだけの人間です。
このお話を「この世界の千早がどんな奴なのか」を読者に紹介する物語だと思って読んでいただけると助かります。
もちろんクオリティの維持・向上は命題として毎話心掛けております。
それ以上に埋もれない忘れられないように続けていくことを心がけようと思います。
本当のあとがきは今回の話。もう本章と言った方がよいでしょうか…数話にわたって送る千早の初お仕事後に語ろうと思います。
ではまた次回。