アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件   作:やんや

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※注意
今回最後の方に微妙に下ネタ的な話があります。
そういうのが嫌いな方は今回の話を飛ばしていただくようお願いいたします。

今回も蛇足なので問題ないです。



アルティメットなアイドルの卵その5

 お出掛け──春香が言うところのデートを終えた僕達は一旦僕の家へと寄ることになった。

 思ったよりも時間が掛かってしまったこともあり、これから春香が家に帰ると夕飯の時間を大きく遅れることになるため僕の家で食べることになったのだ。

 ちょうど外で食べるには早すぎて春香が帰るには遅すぎる時間だったので、僕が誘ったところ春香が快諾したという形だ。

 まるで狙ったかのような時間に運命的な物を感じてしまう。いや、たまたま時間がそうなっただけなのに運命などと思ってしまうなんて案外自分は乙女なのかもしれない。

 男なのに乙女って……。

 思わぬ形でダメージを受け心に傷を負ってしまった。がくんと首が折れる勢いで項垂れる。

 今でも心は男のつもりなので乙女チックと評価されるのはたとえ自己評価だとしても辛いのだ。

 気持ちを浮上させるために何となく春香へと目を向けるとキッチンで夕飯を作っている春香が視界に入る。

 春香用のエプロン──いつの間にか置かれていた──を身に着けて鼻歌混じりに料理をする姿は新妻のようで、見ているだけで何だかドキドキしてしまった。

 良かった、恋愛対象はまだ女性のままなようだ。

 

「……ん?」

 

 何で今僕は春香を見て”恋愛対象(そんなこと)”を考えたんだ?

 頭に中に生まれた思考に顔が引き攣るのを感じた。

 彼女は親友だろう。初めて僕を親友と呼んでくれた彼女に対し恋愛対象に成り得るなんて、どうしてそんな失礼なことを思ってしまったのだろうか。

 強く頭を振って思い浮かんだ雑念を払い、こんな考えはいけないことだと自重(自制)する。

 

「どうかした?」

 

 料理の手を止めた春香が不思議そうな顔で訊いて来るので何でもないと答える。

 春香は僕に良くしてくれている。滅私奉公とまでは言わないけれど、かなり僕に気を遣ってくれていることがわかる。今も僕の挙動不審な態度に気付いてくれたのは、それだけ僕を気に掛けてくれているからだろう。

 それが春香の負担になっていないか心配だった。

 春香がまた無理をしてしまわないか心配だった。

 同時に、そんな春香をそういった対象に見てしまう自分の浅ましさに嫌悪するのだった。

 

「度し難いほど愚かしい」

 

 そして醜悪だ。

 自分を大切にしてくれてる相手に返す感情としては最低の部類だろう。

 春香は下心なく純粋な気持ちで接してくれているのに、僕は春香に不純な気持ちを抱こうとしていた。なんて悪いやつなのだろう。

 きっとこの感情は麻疹みたいなものだ。だから、いつか治って消えてしまう。そうすればまたこれまで通り親友として接することができる。

 でもその前に春香の気持ちを裏切るようなことを僕がしたらと思うと焦燥にかられるのだった。

 なんとかしてこの身体の奥底に眠るものを切り捨てる方法は無いだろうか……。

 

 結局、春香が料理を完成させるまで考えたが良い案が浮かぶことはなかった。

 

 

 

「私、春香の作るご飯好きよ」

「本当っ? 私も千早ちゃんのこと好きだよ!」

 

 春香が作ってくれた料理は今日も美味しそうだった。

 昼間にお菓子を爆食い(春香のみ)していたのでカロリーを気にしたメニューが胃に優しく見える。

 結局僕の方は自分の失敗談を語るのに夢中でそんなにお菓子を食べられなかった。別に元から体調不良だったので食べられなかったのは良いのだけれど、せっかく春香に誘って貰ったスイーツフェスタであまり食べられなかったことが心残りになっていた。

 お菓子が食べられなかったことよりも、誘ってくれた春香に申し訳ないと思う気持ちの方が強い。

 代わりと言って良いのかわからないけれど、春香が作ってくれた料理の方は美味しくいただくつもりだった。

 

「しばらく食べていないと無性に食べたくなるのよね。何でかしら……」

「私も食べたくなるよ」

 

 春香の料理って家庭の味なんだよね。派手でもなければプロ顔負けの美味しさってわけでもないのに、ふとした時に春香のご飯食べたいなと思うのだ。

 これがお袋の味ってやつなのかも知れない。ごめんねお母さん、貴女の娘は他所の女のご飯に母性を感じてるよ。

 

「毎日春香のご飯を食べられたらいいのに」

「千早ちゃんさえ良ければ毎日作ってもいいよ?」

「ううん、それはさすがに悪いわ。春香には仕事だってあるのだし。毎日ここに通うわけにもいかないでしょう?」

「だったら一緒に住めばいいんだよ。私も実家通いが辛くなって来たし、いっそのことルームシェアとかすれば家賃も浮くよ?」

 

 言われてなるほどと思った。確かに春香の言う通り一緒に住めば色々と都合がいい。春香も遠い距離を電車に揺られる必要もなくなるのは僕としても心配の種が無くなって助かる。

 

「……うん、でもやっぱり止めておくわ。優が来れなくなっちゃうもの。中学生とはいえ、さすがにアイドルの家に異性を入れるわけにはいかないでしょう?」

「……」

「春香?」

「まだ優君の方が上かー」

「春香、どうかした?」

「ううん、何でもないよ。本当に千早ちゃんは優君のことが好きなんだなって思って」

「うん……だって、弟だもの。好きじゃないわけないわ」

「本当に弟としてなのかな?」

「ごめん、春香。よく聞こえなかったわ。いま何て言ったの?」

「千早ちゃんは本当にブラコンだねって言ったんだよ」

「むむ、ブラコンで悪いかしら」

「まさか。ブラコンな千早ちゃんも可愛いよ!」

 

 ブラコンを可愛いと言われたのは初めてだった。

 中学時代はクラスメイトの女子から「如月さんっていつも弟さんの話しかしないから」とか言われて全てのグループからハブにされていた僕だけど、春香はブラコンの僕を気持ち悪がらずに相手してくれる。本当に稀有かつ得難い親友だ。

 そんな春香と今後はアイドル仲間として頑張れると思うと凄く心強い。

 できれば同じ事務所で……というのはさすがに尾を引きすぎか。

 もう僕は346プロのアイドルなのだから。いつまでも765プロのことを引きずるわけにはいかない。憧れは憧れのままに、執着心を捨てられるように頑張ろう。

 それに765プロの皆とは無理だったけれど、春香とはこうして仲良くなれたのだから、それだけでも良しとしよう。それ以上を今の僕が求めるのは欲張りだ。

 それに、765プロの代わりに346プロの人達と仲良くなればいいんだ。どんな人達が居るか知らないけれど、プロデューサーや千川さんみたいな良い人が居るのだから他の人達もきっと良い人達に違いない。

 最終面接の感じからして、各部門長と経営のトップ方からの僕の印象は最低だから、アイドルと現場スタッフから好かれるように心掛けよう。アイドル生活を有利にするため言うと利己的に思えるけど、味方が多いに越したことはないからね。頑張って仲良くなるぞ。

 プロデューサーが言うには僕の他にシンデレラプロジェクトのメンバーは十三人居るらしい。元からメンバーに選ばれていた十一人と補充枠として僕を含めた三人を足した十四人がメンバーになる。その中には島村も居るとのことなので、会った時にでもこの間のことは謝ろう。

 あとは補充枠の最後の一人についてはどう接したものか悩み中だ。

 面接官の人が言うにはオーディションの最終審査に残ったのは二人。その内一人は僕が追加されたことでギリギリで落とされたそうだ。最終審査まで残った者同士なら少なからず交流があっただろうし、もし二人でアイドルをやることを約束していたりしたら、僕のせいで約束を果たせなくなったことになる。

 そんな相手に仲良くして欲しいと言えるだろうか。ちょっとそこまで図々しくはできないかな。下手をするとお前のせいでと言って詰られる可能性すらある。

 今のうちに心の準備だけはしておかないといけない。

 でも大丈夫……。だって、僕ってばメンタル強いから!

 きっとその補充枠の人から何か言われたとしても耐えられるはずだ。無理そうなら他のメンバーと仲良くなろう。十二人もいるのだから、一人くらい僕と仲良くしてくれそうな子だって居るさ。

 この十七年間で鍛えたコミュ能力を見せてやる。

 

「ふんっ」

 

 意気込んだ拍子にぐっと握り込んだ箸が折れてしまったが気にしない。僕の箸は基本コンビニの割り箸だ。

 

「……お箸新しいの持ってくるね」

「ええ、ありがとう」

 

 慣れた様子の春香が替えのお箸を取ってきてくれたのでお礼を言う。

 

「今の私はやる気に満ち溢れているわ」

「そうなんだぁ……。はい、お箸」

「ありがとう」

 

 差し出されたお箸を礼を言って受け取る。

 今度は食べ終わるまで折らないように頑張ろう。

 

「やる気に満ち溢れているって、何にやる気になっているの?」

「それはもちろん……んっ」

 

 346プロのアイドル達と仲良くなること。

 そう言おうとしたところで、先程スイーツフェスタでの春香を思い出し言葉を飲み込んだ。

 

 ——千早ちゃんが私以外の人と仲良くしているのを見るとチクチクするから

 

 そう言った時の春香の表情が今の春香と重なってしまう。あんな顔……今にも泣き出してしまいそうな春香は見たくない。

 だから、意思確認が必要だった。その結果如何によっては、僕の346プロでのあり方が決まる。

 

「春香は……私が346プロで他のアイドルと仲良くなったらどう思う?」

 

 とても勇気が要る質問だった。

 何とか紡いだ言葉が、果たして春香にどんな影響を与えるのか予想できない。

 

「千早ちゃんが他のアイドルの子と仲良く……」

 

 僕の言葉を反芻するように繰り返す春香。

 

「千早ちゃんが……」

 

 僕にも僕の事情がある。

 孤独に慣れているとはいえ、所属事務所でぼっちになるのは避けたかった。誰かとユニットを組むとことだってあるだろう。

 何よりも、僕はシンデレラプロジェクトのメンバーなのだから、否が応でも他のメンバーとの付き合いはしなければならない。

 でも、そういった僕の事情を春香に伝えることで、春香の感情を押し殺すことを僕は望まない。

 

「…………もしも、私が」

 

 僕の投げたボールを果たして春香はどう受け取って、どう投げ返すのか。

 僕は春香が答えを口にするのを待った。

 

「……」

「……ううん。やっぱり止めた! これは違うもんね!」

 

 だが、春香は何も答えないことを選んだ。

 

「いいの……?」

「うん! 私ね、千早ちゃんとはちゃんと仲良くなりたいと思ったんだ。だから、これは違うなって。……こういうのは違うなって」

 

 それが何かは僕にはわからない。でも、春香が言うことを躊躇ったということは、少なからず良い話ではなかったということだろう。

 別に僕は春香が望むなら、346プロの人間と挨拶だけの関係になってもいいんだけどなぁ……。

 

「私はまっすぐ千早ちゃんと向き合うって決めているから。私は千早ちゃんを不幸にしてまで幸せになりたくないもん」

「今も十分に幸せよ? それに、私は春香が幸せになってくれるならちょっとやそっとの無理なんて苦でも無いわ」

「千早ちゃんは本当に優しいね……でも、違うんだ。私は幸せになりたいんじゃないんだよ」

 

 春香が僕の手を掴み、その両手で包み込んだ。

 彼女の手の温もりを感覚のほとんどを失った僕の手は確かに感じた。

 

「私は千早ちゃんと幸せになりたいの!」

 

 万感の想いを込めるような春香の声が僕の耳朶を打つ。

 

「だって、私は千早ちゃんが大好きだから!」

 

 春香からの「大好き」という言葉が僕の胸に突き刺さる。

 大好きだと言われたことは正直嬉しい。それが僕と幸せになりたいという意味なのも含めて、春香の言葉は僕を幸せな気分にしてくれた。

 

「私も好きよ……大好き」

 

 だから、春香からの想いを受け止めない理由にはならなかった。

 だって僕達は──、

 

「私達は最高の親友ね!」

 

 お互いに違う事務所だとしても、こうして友情を確信できるって良いよね。

 ズッ友万歳。

 

「……」

「……春香?」

「ンゥイウウウウヴァー!」

 

 春香が壊れた。

 

 

 

 

 

「はぁ~……」

 

 友情確認の後、夕食も恙無く終わり、洗い物を片付けてソファへと着いた春香が珍しく溜息を吐いていた。

 

「……何かあった?」

「え……なんで?」

 

 そんな盛大に溜息を吐いておいて何もないってことはないと思う。

 それに疲れた時の春香は甘えて来るようになるので、今みたいに溜息を吐く時は何か悩んでいることになる。

 

「何も無かったならいいの。でも何か悩みがあるなら私は何だって聞くわ。もうあの時とは違う。私はすぐに貴女の手を取れる」

「千早ちゃん……」

 

 今でもたまに思い出すことがある。あの日春香が僕に向けて差し出された手を僕は取ることができなかった。あの時の絶望に満ちた春香の顔がちらつく度に、彼女のために何かしてあげたいという衝動が生まれる。

 もしも、自分があの手をすぐに掴める強さを持っていたらと何度も考える。そんな強さが僕にあれば、僕の人生はもう少し順調だったのかなって夢想する。

 誰かを傷つけず、誰からも恨まれず、何も間違えない。そんな人間であれたなら僕はもっと幸せだったのだろうか。

 765プロのアイドルになれたのだろうか。

 そんな意味のないもしもを考える。

 でも、そんな考えも自分の人生の失敗を嘆いている行為でしかなく、そこに春香への思い遣りの心が欠落していたと気付いてからはしなくなった。 結局自分が一番可愛いだけじゃないかと自己嫌悪する。

 

「私と千早ちゃんって別の事務所なんだなって改めて思ったら何だか気落ちしちゃって」

「春香……」

 

 春香の表情は暗い。いつか見せた絶望に染まった暗さこそ無いものの、春香らしい晴れやかな顔とは程遠い。

 この目の前の少女が時折見せる負の面は僕を不安にさせる。

 これまでの会話の端々から予想するに、春香は765プロの皆に相談事というものをしたことがないように思える。

 それが彼女の遠慮の所為ならばそこまで心配することもないんだろうけど、もしそれが仲間への拒絶だったらと思うと心配になる。春香に限って仲間を拒絶するなんてあり得ないことだと思いたい。でも、彼女の口から765プロの話が出る度に、何か言葉にできないモヤモヤとした違和を感じてしまう。話を聞く限りでは仲が良いはずなのに、仲間のはずなのに、春香と765プロの間に何かある気がしてならないのだ。

 これが僕の勝手な妄想であって欲しいと思っている。

 

「千早ちゃんがアイドルになって、これまで以上にお互いの時間が合わなくなったりしたら、こうやってデートする時間もとれなくなるのかなって思ったら……あはは、駄目だなぁ私。せっかく今日は楽しい日にしようと思っていたのに、最後にこんな風に弱音を吐いて千早ちゃんを困らせちゃった」

 

 それは違うよ春香。

 このまま春香が何も言ってくれなかったら、僕はまた春香の抱える苦しみを見過ごしていた。春香が一人で悩んでいることを知らずに居たままだった。

 

「春香の悩みを全て取り除けるなんて傲慢なことを言うつもりはないわ。でも、春香が一人で抱え込まずに済むように、貴女の話を聞くことはできるのよ?」

 

 前にも言ったことだが、一人で溜め込み易い春香の話を聞くことで、少しでも力になれることがないか一緒に考えたい。

 僕程度でよければ何だってしてあげるから。

 なんて言っても迷惑かもしれないけれど。

 

「確かに春香が言う通り、今後私の方もアイドルの仕事で忙しくなると思う。……だから、春香とこうしてゆっくりとした時間を共有する機会も減ると思う」

「……」

 

 僕の言葉に春香は段々と表情を暗くしていく。

 その顔を見ると罪悪感を覚えてしまう。誰も悪くないはずなのに。ただ、お互いに活躍を望めばそれだけ二人の時間が減ることを疎んでいる。

 それ以上に僕が心配しているのは、この部屋を春香が避難所として使えなくなることだった。

 これまで僕が家に居ることが多かったので春香を迎え入れることができたのだが、今後僕が家を空けることが増えた時に春香の避難所として使えなくなってしまう。

 また春香が長い時間電車に揺られることを何とか回避できないかと、少し前から考えていたのだ。

 そして出した結論を今から春香に教えるつもりだった。

 

「春香、ちょっといいかしら」

「ん、なぁにぃ?」

 

 まるで単体生物の様に、でろーっとソファの背もたれに身体を預け首だけをこちらに向けて来る春香に内心で苦笑する。

 最近僕の部屋だとダレすぎじゃないですかね春香さん……。

 

「実は春香にあげたいものがあって」

「あげたいものー?」

 

 春香の疑問に答えずに、まだ垂れたままの春香の隣に座る。

 もったいぶるつもりはないけど、さらっと渡すのも何か味気ない気がするのでちょっとだけ焦らしてみる。

 

「突然だから春香も戸惑うかもしれないけど……前々から春香にあげたいものがあったの」

「……何、かな?」

 

 急に神妙な顔で居住まいを正す春香。

 

「今まで誰にもあげずにいたものなんだけど……」

「千早ちゃんが誰にもあげなかったもの」

「このままだと誰も貰ってくれないかなって……あ、押し付けるつもりじゃないのよ? でも、こういうのって仲の良い特別な相手にしかあげられないし」

「……それって」

「私が春香にあげられるもので、特別な物って言ったらこれくらいしか思いつかなくて……」

「千早ちゃん……!」

「だから、受け取って欲しいの」

 

 満面の笑みで両手を広げた春香へとそれを差し出した。

 アイドルとなった僕が家に帰る時間が遅くなることで春香が泊まりに来られないかもしれない。その解決方法というのがこれだ。

 

「……これは」

「合鍵」

 

 僕が取り出したのは僕の家の合鍵だった。この間優に頼んで持って来てもらった。

 これを春香が持っていれば、たとえ僕が部屋に居なくても帰りを待つ必要がない。これを使って中に入って貰えばいいわけだ。

 

「ほら、私がアイドルとして働き始めたら、どうしても遅くなる日があるかも知れないでしょう? そんな時に春香が泊まりに来てくれたりしたら締め出されると思って。良かったら持っていてほしいの」

「あい、かぎ……」

 

 合鍵さえあれば、もう春香が締め出されて寒い思いをすることがなくなるからね。

 

「これって……あいかぎ」

「ええ、そうよ。合鍵よ。家族以外では春香しか持ってないもの」

 

 ただの友達に合鍵を渡すなんて普通しないもの。それを渡すなら親友じゃないとね。

 

「合鍵……」

「ええ」

「……んんー! 残念バンザイ!」

 

 両手を上に挙げ春香が叫んだ。

 それは、残念なのか良かったのかどう受け取れば良いのだろう?

 

「えっと、喜んでもらえたのかしら……。それとも、迷惑だった?」

「まさか! すっごく嬉しいよ! こんな合法的に千早ちゃんの家に入れる物を貰えたんだもん!」

「そ、そう? 私が部屋に居なかったら遠慮なく入って構わないわ。昨日みたいに部屋の前で春香が待ちぼうけだなんて嫌だもの」

「ありがとう、千早ちゃん。合法的に千早ちゃんが不在の部屋に入れるようにしてくれて」

 

 言い方。

 さっきから言い方が何か引っかかるんだよなぁ。

 春香に限って変なことはしないだろうけど。きっと僕の脳が変な翻訳をしているだけに違いない。

 何にせよ、想像以上に喜んで貰えたようで良かった。最初は合鍵なんて渡しても喜ぶか不安だったけどこの様子なら問題なかったみたいだね。最悪面倒だと受け取って貰えない可能性だってあったから、こうして喜ぶ春香の姿を見て安心した。

 

「そ、それはそうと。合鍵が貰えたってことは……つまり、これって……そ、そういうことでいいんだよね?」

 

 そういうこと?

 自由に部屋に入っていいということだろうか。合鍵を渡したのだからそう受け取って貰って構わない。いちいち部屋に入るという連絡も要らないくらいだ。昨日みたいに何か僕が連絡に気付けないこともあるだろうし、その時入れないというのでは合鍵を渡す意味がない。

 

「そうね。そういう意味と受け取って貰って問題ないわ」

「わっほい!」

 

 大袈裟に喜ぶ春香の様子が微笑ましい。いや、ここは反省すべきだろうか。まさか締め出された反動でここまで喜ぶなんて……。

 ルームシェアができない代わりにこれで仮宿としてこの部屋を使って貰えたら良い。

 

「千早ちゃんの特別……」

 

 そうだね。親友というポジションは特別だよね。

 友達すらいない僕に親友というポジションは特別以外の何者でもないわけだ。

 春香の笑顔が太陽みたいなキラキラした誰かを照らすものならば、僕の笑顔は誰かの喜びを映して光る月だ。それでいいんじゃないかと思った。

 誰かの楽しいとか嬉しいという気持ちを大切にしよう。その気持ちを思い出せる、自覚させられる笑顔が僕の笑顔だ。

 

「いつも料理とかしてもらっている春香に何か返せるものが無いかと思って、鍵以外にも何かないか考えたのだけど……」

 

 これでも色々と考えていたのだ。

 でも服とかアクセサリは日々の食費にすら困っている貧乏人に買えるわけがないし、逆に料理を振る舞うにも”如月千早”に料理上手な奴が見つからなかった。

 

「でも、駄目ね。何も思いつかなくて……だから、何かして欲しいことってあるかしら? 何でもするわよ」

 

 最後の手段として「何でもする」を発動してみた。

 これって何でもって言われた側が困るやつだよね。春香も言われて困ると思うんだ。

 

「本当!?」

 

 だが春香の食い付きはとてもよかった。

 

「本当の本当に、何でもいいの?」

「え、ええ、私ができる範囲内ならばだけど」

 

 この念の押しようは何だ。春香から何やら鬼気迫るものを感じる。

 そんなに必死になって何でもを強調されると何を言われるのかと不安になるんだけど。

 

「私は! 千早ちゃんとお風呂に入りたい!」

 

 …………。

 うん。

 うん?

 お風呂に入りたい? 僕と?

 

「それだけ?」

「……うん」

 

 念のため確認してみると春香からは弱々しくもはっきりとした肯定が返って来た。

 ……えーと、よく意味がわからないけど、そこまで溜めて言うほどのことかな。

 そんな一世一代の覚悟みたいな顔をするから何を言われるのかと身構えちゃったよ。いまいち春香の中の友達との距離感が理解できないね。

 男と女の話でもないんだから気軽に言えばいいのに。

 

「別にいいけど?」

「本当!?」

 

 僕が了承した途端に春香がノータイムで迫って来た。だからそこまで喜ぶ感覚がわからんのだが。

 

「ええ、本当よ。お風呂に一緒に入るのよね?」

「うん、うん! 一緒に、入るよ、千早ちゃんと私が同じ湯船に! 念願の!」

 

 あ、もしかして友達とこういうイベントをしたことがないとか?

 765プロのメンバーと仕事先や合宿先の大浴場で裸の付き合いをするシーンが度々描かれていたけれど、プライベートの友達とこういうイベントをしたことがかったとか。これが春香式友情確認の儀式なのかも知れない。

 だったらなおさら断る理由はないね。

 問題は僕の中身が男ってことだけど。春香にそれを言うつもりもないのでやはり問題はないのだった。

 

 

 

 興奮した様子の春香に促され、さっそくお風呂に入ることになった。

 

「えへへ~千早ちゃんとお風呂だぁ」

 

 大して広くもない脱衣所で二人並んで服を脱いでいると、隣から嬉しそうな声が聞こえたので顔を向けるとニヤついた顔の春香が目に入った。

 

「そんなに喜ぶことかしら?」

「だって、千早ちゃんとお風呂に入れるんだもんっ。合法的に」

 

 その「合法的」って言うやつ、何か犯罪臭が凄いからやめて欲しいなぁ。

 そもそも合法的があるなら非合法なやつって何よ。青狸の秘密道具でお風呂に突撃するとか?

 友達との初イベントだから嬉しいというのはわからないでもないけど、ちょっとはしゃぎすぎに見える。

 いや、僕も初めての友達である春香との初イベントとあって嬉しい気持ちに変わりないんだけどさ。

 しかし、その喜びに浸っている余裕は僕になかった。意外にも春香が隣で服を脱いでいるという状況に今になって気恥ずかしさを感じ始めてたのだ。

 だってあの春香だよ。アイドルマスターのメインキャラでトップアイドルの春香が隣で脱いでいるんだよ。冷静でいられるわけがない。

 前にライブ衣装を見せてくれると言う春香が部屋で下着姿になったことはある。その時目にした彼女の下着姿に何も感じなかったので今回も大丈夫だろうと高を括っていたのにこの様である。そう言えば女性の下着姿なんて中学時代の体育の授業で何度も目にしていたから慣れていただけじゃないか。それだって慣れるまでは恥ずかしかったし、慣れた後もあまり見ないようにしていた。だからこんな風に真横で、しかも裸になる状況というのは初めての体験だった。

 ちらりと隣の春香を覗き見る。

 ちょうど上を脱ぐところだったらしく、シャツに頭を通している。両手を挙げて胸を強調する格好のため自然と胸に視線が行ってしまった。

 春香の年相応に育った胸とその下の綺麗にくびれたお腹が眩しい。

 なんとなく自分の胸を見下ろしてみると、何の苦労もなく爪先が見えた。これが春香ならやや前に頭を移動させなければいけないというのに、僕はデフォルトだった。

 

「……」

 

 別に胸の大きさを気にしたことはない。アイドルならもう少しあっていいとは思うけど、無いならば無いでいいと納得している。少なくとも他人のを羨ましがったりするようなことはなかった。

 早々に胸の成長は諦めていたからね。十二歳の時点で。

 

「千早ちゃんの肌ってスゴク綺麗だね。雪みたいに真っ白……」

 

 上を脱いだ状態で一旦脱ぐのを止めた春香が感嘆混じりに僕の肌を褒めて来た。確かに僕の肌は生まれてこの方日焼け一つしていないくらいに白い。きめの細かさは赤子と比べても遜色がないらしい。

 実は昔デパートの美容器コーナーで肌年齢を測定するサービスを受けたことがあり、その際肌年齢が一歳児と同じという結果が出たのだった。その時測定してくれたお姉さんにスキンケアの秘訣をしつこく訊かれた思い出が蘇る。あの時のお姉さんの鬼気迫る表情は今も覚えている。超怖かった。女性の美への執念は世界が変わっても強いのだと知った瞬間である。

 春香はまだ若いので件のお姉さんの様なことにはならないだろうけど、この反応からして僕の肌に興味深々なのは変わりないようだ。ケアのコツとか訊かれても困るんだよね。生まれた時からずっとこれなんだから。スキンケアなんてろくにやったことないよ。素直に言うとそれはそれでブチギレ案件なんだよね……。

 

「えっと、最初に言っておくけど特にケアとかは……」

「シミもないし。ほくろだって一つもない。……ほわ~、すべすべだー」

 

 あの、春香さん?

 肌の綺麗さに感嘆してくれるのは恥ずかしいけど嬉しいからいいよ。でも感想を言いながら触ってくるのはどういう了見だろうね。一応女同士とはいえ、そこは一言断りを入れるところじゃない?

 僕の無言の抗議に気付いていないのか、春香は肌の触感に執心中である。肩から背中、腰にかけて手を往復させている。指先でなぞるようにしたかと思えば、手のひら全体で肌の感触を確認するように触れてくる。

 

「千早ちゃんの肌……すごい……」

「あの、春香、そろそろ」

「美味しそう」

「え……ひゃっ!?」

 

 カプリ、と音がするくらいの勢いで春香が首筋を噛んで来た。

 さすがに触覚が死にかけているとはいえ、首筋に噛み付かれたら感覚が伝わるよ。

 

「なにするのっ? いきなり噛み付くなんて……」

 

 噛まれた首筋を押さえて春香から距離を取る。あまり取りすぎると傷つけるかもしれないので気持ち程度だけど。それに狭いしね。

 

「あっ……ご、ごめん! あまりにおいしそうに見えたから、ついっパクっと」

 

 申し訳なさそうに眉を下げる春香に逆に申し訳なくなる。驚きはしたけど怒るほどじゃないから。

 

「もう……褒めてくれるのは嬉しいけれど、噛み付かれるのは困るわ。食べ物か何かに見えたの?」

「え、千早ちゃんの肌に見えたけれど?」

「んっんー?」

 

 ちょっと日本語が通じ合ってない気がするぞい。

 食べ物か何かと錯覚したならともかく、ちゃんと僕に見えていたなら噛み付かないでしょ……。

 

「ちょっとこの話は置いておくとして……あまり裸でいても風邪をひくわ。先に入っててくれるかしら?」

 

 僕の肌を触りながら脱いでいたとでも言うのか、いつの間にか全裸になっていた春香にお風呂場へ行くように促す。

 

「うん、先に行ってるね。途中でやっぱり止めたとか嫌だよ?」

「そんなことしないわよ。すぐに行くわ」

 

 春香を押しやるようにして浴室へと向かわせた。その時裸を見ない様に気を遣うのが大変だった。

 無邪気にじゃれて来る春香には申し訳ないけれど、中身男の僕には少々刺激が強すぎた。思わず鼻血でも出てやしないかと鏡で確かめる。

 

「……赤くしすぎだろ」

 

 少し曇った鏡でもわかるほどに僕の顔は赤くなっていた。

 

 

 

 浴室へと入ると春香はシャワーを浴びているところだった。

 こちらに背を向けているため当然なのだが、春香のスキンケアを欠かしていない綺麗な背中とその下の形の良いお尻が視界にばっちり映ってしまう。

 

「……」

 

 いけないことだと重々承知しているのだが、男のサガと言うべきものか……意識して視線を外しても視界の端に春香を意識してしまう。

 って、何をしているんだ僕は!?

 春香は僕を親友として想ってくれているというのに、僕は不純な視線を春香に向けようとしているなんて……!

 親友と慕ってくれる相手に色のついた視線を向けるなんてゲスすぎるだろ。こんなゲスい奴は僕くらいしかいないんじゃないだろうか。もし僕以外にも居るなら侮蔑のそしりを受けてもらおう!

 

「お、お待たせ……春香」

 

 何と声を掛ければいいのかわからないので適当に口に出してはみたものの、何か変な感じに聞こえるぞこれ。

 理由はわからないけど。

 

「待ってたよー、千早ちゃん!」

 

 シャワーを浴びるのを止めた春香がこちらへと振り返ったので慌てて目を逸らす。

 さすがに前を見るのはアウトだろ。いや、女同士だからアウトもセーフも無いはずなんだけど……。いや、意識している時点でアウトか?

 

「千早ちゃんって……」

「な、何かしらっ?」

 

 こちらを見た春香が意外そうな声を上げるの慌てて聞き返す。

 何だ、僕は何かをしていまっただろうか?

 顔が赤いことがバレた?

 変な目で春香を見ていたことがバレた?

 

「千早ちゃんの髪の色って地毛だったんだ……」

「え?」

 

 今更何を、というか今なんでそれを春香が言ったのか不思議に思い、できるだけ下を見ないように横目で確かめると、春香の視線が僕の下半身に向いていることがわかった。

 

「……」

 

 その視線の意味──何を見て春香が僕の髪色が地毛だという結論に至ったのか気づいた僕は、持って来たタオルで春香の視線から体を隠したのだった。

 

 

 

 その後は変な空気になることもなく、いたって普通に体を洗い終えた僕達は一緒に湯船へと浸かっていた。

 洗っている間は目を瞑って誤魔化していたけれど、湯船に浸かるとなると色々と見えてしまうことに気付いた僕は、苦肉の策として入浴剤を湯船へとブチ撒けることで視覚的脅威を排除した。

 その際春香から残念そうな声が上がった気がするが、あまり入浴剤とか入れないタイプだったのかもしれない。悪いことをしたと思いつつ、僕の精神の平穏を保つためにも我慢して貰おう。

 

「ちょっと、狭いわね……」

「そうだね。キツキツってほどじゃないけど、足を伸ばせるって感じじゃないね」

 

 今の僕達はお互い向き合う形で湯船に入っている。足を伸ばすにはこの浴槽は小さ過ぎるため体育座りの形だ。

 せっかくお風呂に入ったというのに、足も伸ばせないとあっては片手落ちと言えるだろう。

 お風呂は足を伸ばしてゆっくり浸かりたいよね。ただでさえ今日は歩いたわけだし。春香にしても同じ気持ちのはずだ。

 

「春香も疲れているでしょう? 私は先に上がるから、春香はゆっくりしておいて」

「待って!」

 

 湯船から上がり、春香に独占させてあげようと思い立ち上がろうとすると春香に待ったをかけられた。

 

「えっ上がっちゃうの? まだ早くない!?」

「でも、二人だと足も伸ばせないし、ゆっくりできないでしょう?」

「大丈夫。私にイイ考えがあるから!」

「良い考え?」

 

 はて良い考えとは何だろうか。

 まさか対面のまま足を伸ばすとかじゃないよね。お互い足を横にずらしてもちょっと狭いと思うけど。

 

「じゃ、千早ちゃんこっちに来て」

「は? な」

 

 何を──と言う前に腕を引っ張られる。身構えていなかった僕はあっさりと春香の方へと体を引き寄せられてしまった。

 その際ぱしゃりとお湯が跳ね、僕の顔にかかったことで一瞬視界が塞がった。

 その一瞬だけで春香の行動は終わっていた。たぶん、感触こそないが、今の僕は春香に抱き着いてしまっている。

 

「は、春香っ!?」

 

 まさか良い考えってこれのこと?

 僕が春香に抱き着くのが良いこと?

 いや、確かに悪くはないけど……いや、駄目だろっ。

 タオルの一枚すら間に挟まず肌を触れ合わせている状況に頭が混乱する。感触が無いことが唯一の救いだった。

 

「で、こうして反対を向いて座ればいいんだよ!」

 

 僕の混乱をよそに余裕のある態度で春香は僕の肩を掴むと、僕の身体を反対側へと向けた。

 これは……僕が春香を椅子にして座っているってことになるのか?

 

「あ、あの、春香? これはさすがに」

「これなら二人とも足を伸ばせるよね?」

 

 確かにお互い足を伸ばせるけども!?

 そういう問題じゃない気がするんだけど。

 

「いや、その、これ」

 

 色々と当たってる、はず。

 僕のお尻には春香の太ももが、背中には春香の胸が当たっているはずだ。

 

 ──はずだ!

 

 感触が無くて助かった!

 今ほどチートの副作用に感謝をしたことはないね。と言うか、副作用に感謝する機会が来るとは予想していなかった。

 

「千早ちゃんかるーいっ! ぎゅー!」

 

 ぎゅうぎゅうと後ろから抱き着かれても何も感じないで済む。確かに、これなら視界に春香が入らない。感触は副作用で無くなっているから問題ない。

 ありがとう副作用。今後とも必要に応じて副作用を服用させて貰うね。

 

「重くない? 大丈夫?」

 

 視覚と感触からの脅威を感じなくなったため幾分平常心が戻って来たので春香を気遣う余裕もできた。

 いくら湯船の中とはいえ、僕を足の上に乗せている春香に負担はかかっていないだろうかと心配になる。

 

「全然! 軽いくらいだよ。と言うか、何を食べたらこんな軽くなるのかってくらい?」

 

 何を食べたらって言うか……何も食べなければこうなるってのが正解かな。

 春香と優が用意してくれない限り食べ物とか口にしてないから。

 

「まあ……春香が大丈夫ならいいけれど」

「うん! この体勢がたぶん一番いいと思うんだよね」

 

 春香が良いなら僕に否やは無い。自分で言うのも何だけど、僕は身長の割に体重が著しく軽いので湯船の中と相まって春香への負担は極小だろう。

 せっかく彼女が提案してくれたのだ、しばらくはこの体勢で浸かっておくことにしよう。

 

「……」

「……はぁはぁ」

 

 背中越しに春香の存在を感じるけれど、それ以外はよくわからない。下手に動くと春香に痛い思いをさせてしまうのが怖いので動けない。

 春香の方も何かを言って来ることがなくなったので、たぶん黙って湯船に浸かるつもりなのだろう。

 

 しばらく無言の時間が続いた。

 浴室には僕達二人の息遣いと、時折浴槽の縁から溢れたお湯が床へと落ちる音だけが聴こえる。

 時折僕の視点がズレることがあるが、これは春香が座り直すか何かしたことで僕も同様に動いてしまっているということか。

 まあ、こうして静かにいられるなら意識しないで済む。

 ちょっと耳元に聞こえる春香の鼻息が段々と音量を上げているのが気になるくらいか。

 僕は気にしてないけどお湯が熱いのかもしれない。

 とうとう春香が僕の肩に頭を乗せて来たのでこのあたりが潮時だろう。

 

「春香」

「えっ!? あ、い、嫌だった? あんまりこういうの慣れてなかったら……」

 

 ちょっと何を言っているかわからないが、春香が言っているのが頭を預けることだというのならどうってことない話だ。

 

「別にそれはいいのだけど、そろそろ上がった方がいいんじゃないかしら? これ以上は春香が逆上せそうよ」

「え、私は平気だけど……?」

「いやいや……」

 

 どう考えてもそんな鼻息を荒くした状態の人間が大丈夫だとは思えないんだよなー。

 

「そうは思えないから言っているのだけど。逆上せて倒れたりしたらどうするのよ」

「でも、今かなりいい感じだし。このままもありかなって」

 

 湯船の中でまったりというのも悪くはない。しかし、湯あたりを舐めてはいけない。その時は大丈夫に思えても、時間が経ってから体調が急変することだってあるのだから。

 僕は湯あたりどころか熱湯の中ですら問題なく活動できるけれど、春香は肉体的には一般人なのだから気を遣い過ぎということもないはずだ。

 この世界の人間は車に轢かれたり、高所から落下するだけで大怪我したり、下手をすると死ぬくらい脆いのだ。春香も例に漏れず脆いので心配してしまう。

 

「駄目よ、お風呂ならまた今度一緒に入ってあげるから。今日はこれくらいで終わりましょ」

「えー! 待って、もう少し……あと少しだけ堪能させてっ?」

 

 絶望した声音で拒否をする春香。

 どれだけお風呂好きなんだ。彼女の新たな属性を知れて嬉しいのだけど……お風呂好きを湯船から上がらせるのは骨が折れそうだ。

 

「あがるわよ」

「だめー! もう少しだけだからー!」

 

 湯船の縁に手を掛けて立ち上がると春香が腰に抱き着いて来て出ることを阻止して来た。

 体勢が悪かったために踏みとどまれずに再び春香の上に座り込んでしまった。

 

「ちょ、春香っ、お風呂の中ではしゃがないで!」

「もうちょっとだけだから! 少しコツを掴んで来たところだから! ねっ?」

 

 何のコツ?

 いや、だから逆上せたら危ないっての。それよりもお風呂の中で暴れると危険だってわかって欲しい。

 

「春香? ねぇ、お願いだからこれ以上は……」

「大丈夫だから! 私大分わかって来たから!」

「何がっ? ちょっ、春……」

「私に任せてくれたらいいんだよ?」

 

 ……。

 ……。

 ……。

 

 ちょっとのぼせた。さすがに長風呂が過ぎたようだ。

 僕がこれなのだから、春香の方は案の定逆上せてしまいダウンしてしまった。

 今春香は僕の膝を枕にバスタオル一枚を体に巻き、頭に氷を乗せた状態でソファの上で唸っている。

 氷を頭にバランスをとって乗せる気力も無さそうなので、僕がソファに座り春香の頭を膝に乗せ、手で氷を押さえる形で冷やしている。

 春香が思っていたよりも強情でなかなか出ててくれなかったので長風呂になってしまった。

 僕が湯船から出ようとしても離してくれず、ずっと僕を抱えたままお風呂を堪能し続けたのだった。

 案外春香にはサドっ気があるんじゃないか。僕は別にマゾではないのであんまり強く当たられると困る。

 本当なら春香に一言文句を言ってやろうと思ってたんだけど、僕以上にのぼせてダウンしてしまった春香に追い打ちを掛けるわけにもいかないので保留中だ。

 僕基準で耐久レースとか無謀過ぎるんだよ。文字通り命賭けになるから。

 まあ、死んだところで僕には勝てないだろうけど。

 

「うー……」

「お風呂で騒ぐから……」

「面目……ありません」

 

 今春香が巻いてるバスタオルだけど、それほど大きくないため体を全部隠し切れていない。辛うじて上下のキワドイ部分を隠せてはいるものの少しでも体を動かしたら見えてしまいそうだ。今更春香の裸を見たところで何だって感じだけど。

 何かお風呂の一件でいちいち気にするのがアホらしくなってしまった。他の女の子はともかくこの先春香相手に似た状況でドキドキすることはないだろう。これで一安心と言えるね。やっぱり友達相手にドキドキするとか不純だもの。僕は春香とは友達でいたいから今回の一件は怪我の功名的な意味でも良いイベントだったと言えよう。

 

「こんなことした手前言いにくいんだけど……また、一緒にお風呂入ってくれる?」

「私で良ければいつだっていいわよ」

「よかったー……今度はもう少し上手くやるね?」

 

 ……何を?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、僕は珍しく夢を見た。しかもそれが夢だと自覚する、いわゆる明晰夢というものだった。

 その夢は僕が飼っている大型犬と戯れるというありきたりなものだ。

 前世も今世でもペットなんて飼ったことがない僕だけれど、犬とのやりとりがやかにリアルだった気がする。

 夢の中の犬がしっぽを振りながらじゃれついて来るので頭をよしよしと撫でるすると犬はしっぽを振りながらさらにじゃれついて来た。

 顔を舐めたり匂いを嗅いで来たり、僕が想像する犬っぽいことはだいたいされた気がする。さすがに口にむしゃぶり付かれた時は慌てたけど、すぐに夢だと思い直してされるがままになっていた。

 だが服の中に顔を突っ込んで来た時は夢の中と言えどさすがに止めざるを得なかった。やけにリアルな夢だったためにくすぐったくて止めたのだ。やけに興奮した犬が少し怖かったというのも理由だった。

 犬の方も僕が軽く顔を押しやると服に顔を入れるのは止めてくれた。聞き分けが良い子だと褒めるために頭を撫でるとまた口にむしゃぶりつかれた。

 夢とはいえ、これ僕のファーストキスなんですが……。

 そんな、ほのぼのとしつつもどこかモヤモヤを残す夢だった。




千早「春香を恋愛対象にしないと誓う」

千早が本能に従い欲望に負けることがきっと皆を幸せにする。皆が幸せになる。
元々アイマス好きというのもあり、千早は765プロアイドルが好きです(凛を除く)。
仮に今の時点で春香が千早に告白していた場合、よほどタイミングが悪くなければ千早は即OKを出していました。それくらいには千早の中身は男のままなのです。
ただし、この先キャラが増えてくると成功率は下がっていき、とあるキャラと千早が仲良くなった後は独力での春香ルートは無理ゲーになります。
つまり、この日で春香にとってのイージーモードは終了です。次回からハードモード開始。

今回は春香と千早に一緒に風呂に入ってもらい、春香に千早の髪の色が地毛であると知ってもらうためだけの回。この部分が4話目でカットされたというシーンです。それ以外は余分でしかありません。
そして一年近く筆が止まった原因でもあります。
最後のお風呂シーンにつなげるためだけに5-9話を書きました。まさしく蛇足。そして肝心のお風呂シーンも蛇足。

あと今回春香は特大の地雷を踏みかけました。「もしも…」の後を続けていたら千早がブチ切れています。
実はこの時点で春香側に千早に対する大きな認識のズレがあり、それを知らずに地雷を踏んだ場合修復不可能なレベルで二人の関係が崩壊していました。
その場合全てのアイドルを食い尽くす化物が生まれていたでしょうけど、寸でのところで春香が思いとどまったためアルティメットクリーチャーは卵のまま孵化しませんでした。

総括:千早の体毛は青い



次回は初お仕事編。
千早のチートが少しだけ開始です。

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