「時雨、夕立見なかった?」
「見ていないけど……どうしたの?」
日も傾き始めた頃、道すがらすれ違った由良に声をかけられた。
手に書類をどっさり抱えた由良は数名の駆逐艦娘を引き連れ、提督室へ向かうらしい。そういえば、昨日は由良を筆頭とした水雷戦隊が、鎮守府周辺を哨戒中に敵艦隊と交戦したという話を先ほど聞いたばかりだ。
手にしているのは、戦闘の記録だろうか。量を見るからに、骨の折れる仕事だったに違いない。
「報告書作り手伝ってって言ったのに、姿が見えなかったのよ」
「そうなの?」
時雨は首を傾げる。
夕立は確かに天然というか、少し脳天気なところはあるが、約束をフイにするような娘ではないはずだ。もっとも、利発な由良の下であっても、書類作成の作業に貢献できたかは怪しいが。どうやら苦手分野のようだ。
「まぁ報告書は出来たし、昨日は夕立も随分頑張ってくれたから、怒ってはいないんだけど」
そう言って苦笑してみせる由良の穏やかな表情に、時雨はほっと胸を撫で下ろした。
「今なら暇だし、ちょっと探してみるよ。理由も……まぁ、聞けそうなら聞いてみるね」
「ええ、お願い」
由良は踵を返し、廊下の向こうへと消えて行った。
しかし――と時雨は唸る。
こういう時、夕立は何処にいるのか。
「っと……」
窓から空を見上げて、灰色の雲が広がり始めているのに気付く。
こいつはひと雨来そうだ。
静かな雨音は好きな時雨だが、どうもこの様子だと雨脚が強くなりそうだ。さすがにずぶ濡れは勘弁願いたい。
「とりあえず、人気のない、屋根のあるところ……かな」
結局これといって検討もつかぬまま、時雨は歩き出した。
しばらく歩きまわって、夕立は案外あっさり見つかった。
海の見える、桟橋近く。家屋の軒下に並べられたベンチに膝を抱えて座っている。顔は膝の上に埋まっていて、波が高くなりつつある灰色の海をじっとりと見つめていた。
「夕立、こんな所にいたのかい?」
「……時雨?」
夕立はきょとんとした様子で顔を上げた。
「由良が心配してたよ? 姿が見えないって」
「う……」
気まずげに視線をそらし、夕立はまた渋面を作る。
「隣、いい?」
夕立の顎が短く引かれたのは、会話を拒否する仕草だったか、あるいは肯定の意思だったか。ともあれ返事がないので、自分の都合の良いように解釈することにした時雨は、夕立に並んでベンチに腰掛ける。
「ひと雨来そうだね」
「…………。」
「荒れた海は好きじゃない。身体を冷やすのも良くないし、少ししたら引き上げようよ」
「…………。」
押し黙ったままの夕立に、時雨は「へぇ」と目を丸くした。ここまで沈んでいる彼女も珍しい。体調が悪いのかとも疑ったが、その様子もなさそうだ。あるいは、昨日の戦闘で何かあったか。
「由良、夕立が頑張ってくれたって言ってたよ。怒ってる様子じゃなかったけどな」
さては約束をすっぽかして顔を出すに出せないのか、と探りを入れてみる。
――と。
「頑張ったんじゃないの」
「え?」
時雨の眉が上がる。
「夕立は頑張ったんじゃないの。そうなっちゃうの。気付いたら敵を倒してるの」
「えーっと……」
意図が掴めず、時雨は視線を揺らす。
実力自慢? いや、夕立に限ってそんなことは……。
思慮している内に、言葉は続けられた。
「夕立ね、最近改造受けたでしょ」
「あ、うん……改二になったね」
時雨は夕立の側頭にぴょこんとはねたくせっ毛を眺めながら肯定する。
改二、それは一定の練度を得た艦娘が許される、新たな力の発現だ。提督の推薦もあり、夕立は先日、晴れて改二への改装を実施されたのだ。
ちなみに、時雨はそれよりも一足早く改二となっていた。姉妹艦である夕立の晴れ姿は、時雨にとっても非常に誇らしい物だった。
「なんかね、それから夕立、変なの」
「変?」
「戦闘になるとね、なんかよくわかんないけど、頭がかぁ~っと熱くなってね、周りが見えなくなるの」
「そう……なの?」
初耳であった。もちろん気のせいかもしれない。時雨はとりあえず相槌を打って、次の言葉を言外に促した。
「時雨は、そういうことない?」
「うーん……どうだろ」
首を捻る。
改二になってから過ごした時間は、夕立と対して変わらない。しかし、彼女の言うような感覚はこれといって感じたことはなかった。強いて言えば、夜戦の時に僚艦が被弾して酷く憤った気持ちになったか。
しかしそれも、いつものことといえば、そうかも知れない。
「凄い怖いの。夕立が夕立じゃない感じ」
夕立は時雨の回答を求めてはいないようだった。あくまでも、自分の感覚の違和感と向き合っている。
思えば、夕立はいつだって一生懸命だ。海戦でも、遠征でも、日常でさえ。不器用とも思える力の抜かなさが夕立の魅力でもある。あるいは、改二という新しい力を得て、それが不用意に発揮されているのだろうか。
時雨の述べる感想を、夕立は黙って聞いていた。
「なんかね、分かってきた気がするの」
夕立が短く呟くのと、時雨の頬を雨粒が叩くのはほとんど同時だった。
「夕立が改二になって手に入れたのは、壊す力なんだなって」
「壊す……」
時雨はその言葉を胸の中で反芻した。
艦娘の力は、ある種、人の想いの力であるとも言える。
かつての戦いで沈んだ船、そしてそれに乗って戦った人々。そうした様々な「業」が、普通の女の子であった彼女たちに艦娘として戦う力を与えているのだ。
夕立の名を冠した船はかつて「悪夢」とさえ呼ばれた。単艦敵陣に突入し、戦場をひたすらかき回し、南海を朱に染めたのだ。自らの船体を引き換えに、である。
「敵艦を見ると、戦いたいって気持ちが強くなる。強い敵なら強い敵なほど、感情が昂るの。周りが見えなくなって、気付いたらみんな満身創痍になってる」
真剣な声だった。いつもの陽気な少女の雰囲気は鳴りを潜めている。あるいは、これが彼女の本当の姿なのだろうか。
半分覗いた横顔に見える赤い瞳が、何かを物語っているようでもあった。
「敵も味方も傷付けるんじゃないかなって、思うの」
時雨はどきりと肩を震わせた。その言葉は、下手をすれば艦娘の戦う意志を根こそぎ消してしまう、危険な言葉だった。仲間を想う優しい彼女なら、なおさらだ。
「夕立――」
「時雨、あたしはどうしたらいい? あたしは……」
がばと身を起こし、夕立は潤んだ瞳で時雨に抱きついた。真っ赤な瞳が、殊更充血しているように見えた。
「夕立、大丈夫だよ」
時雨は夕立の背中に手を回し、優しくなでた。
「たとえ僕たちが誰かを傷付ける力を持っていたとしても、それは使い方次第で変わってくるはずさ。壊す力も、守る力に変えられる」
「でも。でももし時雨を傷付けるようなことになったら……」
「僕は大丈夫さ。駆逐艦娘一人に出来ることなんて、そう多くはない。だから僕たちはみんなで戦わなきゃいけない。その為なら、僕は君の助けになりたいし、その為にこの力を使いたい」
夕立の身体を起こし、時雨はその頭を撫でた。一筋夕立の目から雫がこぼれたが、それが涙だったか、雨粒だったかは定かではない。
いや、雨粒だった、ということにしておこう。
「まだ慣れてない部分もあるはずさ。ゆっくり自分をコントロールできるようになろうよ。その時はきっと、君の力が艦隊のために活かされるはずさ」
まっすぐ瞳を見つめる。
澄んだ蒼と、鈍い紅。対照的な輝きを持つ視線が交錯する。
「……うん!」
夕立は笑った。野に咲くひまわりのように。雲を割る日光のように。
雨雲は少しばかりの雨粒を残して、どこかへ去ろうとしているようだった。
雲の隙間から白い光が覗きはじめる。
「さぁ、みんなの所へ行こう。みんなに聞かせてあげようよ、夕立の活躍をね」
「分かった! 時雨、ありがとう……大好きっぽい!」
ぎゅっと抱きついて頬を寄せる夕立。
「ぽいってなにさ、はっきりしないなぁ」
苦笑するが、時雨も悪い気持ちではなかった。
夕立はそのまま両手を広げて駆け出し、少し行ったところでくるりと時雨を向いて、また軽やかに笑った。
「時雨、大好き!」