泡沫のような理想に、溺れた。
すぐに割れてしまう明媚は、俺に恋をさせた。
その恋も、最早無駄なものなのかもしれない。
せめては、嫌われないことだ。
自分の中での妥協の気持ちが渦巻いて、一瞬で消えた。
音もなく、まるで砂の城のように、跡形もなく崩れていく。
それは本当に、一瞬の出来事だった。
意識は、突然にして途切れる。
手放した感情を胸の奥にしまうことさえ、できなくなっていた。
手の中に残った僅かな欠片を、握り締めようか。
淡い期待に潜んだ小さな不幸に、諦めをつけようか。
最後に少しの夢を見たいと、足掻いた。
結果として俺が形にできたのは、隣の彼女の手をほんの少しだけ強く握ることだけだった。
「おはようございます。起きてください。もう朝ですよ、ほら」
「あ……」
今日は、彼女に起こされる側となった。
窓から差し込む光を背に、彼女の白の服が光っている。
逆光に揺れる彼女の姿は、綺麗だった。
――夢のように、綺麗だった。
「今日はお出かけではなく、沢山お話しをしませんか?」
「あぁ……そうだな」
俺の多少濁った意味を孕む返事に、疑問を感じたのだろう。
長い艶やかな黒髪が、不思議そうに揺れる。
彼女の成す一挙一動に、未だに目を奪われる俺が恨めしかった。
未練がましくも、恋を望む自分が。
結局は引きずってしまうのだと、諦めの付かない自分が情けなくも感じていた。
「どうかしましたか?」
「……いや、何でもないさ。さぁ、何から話そうか!」
自分さえも騙すためにか、彼女の不安を吹き飛ばしたかったからか。
笑顔で、明るく振る舞う。
恋して間もないが、思った以上に夢中になっている自分がいた。
少し霧のかかった外を、窓越しに一瞥する。
白く曇った空気であることが、硝子越しでも十分にわかるほどの濃い霧。
水滴となった水分が、
ゆっくりと複数の水玉が数を減らして、大きさはその分大きくなって、やがて重なる。
それは複合するにつれて、縁をなぞる速さを速めた。
縁を律儀になぞるものもあれば、奔放に平面を下りるものもある。
霧の向こうにある朝焼けに照らされていた。
届く僅かな光。だからこそ、美しさは増していたのだろう。
俺にはそれが、どこか羨ましくも思えた。
「何か、ありましたか? 私でよければ、聞きますよ?」
「いや、何でもないんだ。強いて言うなら、昨日の君みたいに好きな人のことを考えていたんだよ」
驚きを前面に出した彼女。
そんなに俺は、恋をしないように見えるのだろうか。
人は大抵、恋はするものだろう。実るとも、実らずとも。
好きになるとは、個人の自由。
しかしあくまでも、恋愛とは互いの好きの合致である。
恋をするのは簡単だ。それに対して、恋愛をするのが難しいのは、それが所以。
だからこそ、俺は恋愛がしたい。その合致が、想像よりも遥かに尊いものだろうから。
「……貴方も、好きな方がいるのですか?」
「あぁ、一応な。つい最近始めながらも、すぐに失恋してしまいそうなんだがな」
皮肉交じりに、自虐の笑み。
そうしてしまえば、自分に降りかかる痛みが軽くなる気がした。
甘えて、実行してしまった後に気付く。
確かに軽くはなった。
ただ、決して忘れることはない。
軽くなった分、何か大切なものが、気付かない内に抜け落ちたのかもしれない。
身軽になった分だけ、見えない何かを失ったのかもしれない。
その不安は、中途半端なものではなかった。
「いや、もう失恋『した』に入るのかな? でも、俺は諦めきれないんだよ。結局、往生際が悪くて醜いだけさ」
「そ、そんなことはありませんよ! そんなに大切に想われているんですから!」
彼女は、必死になって否定してくれる。
親身になって、それはもう励ますように、否定してくれる。
けれども、それは遠かった。俺にとって彼女からの励ましは、むしろ心が締め付けられた。
「その恋……叶うといいですね」
「見込みは薄いけどな、残念ながら。君にも、うまくいってほしいよ」
「ありがとうございます。でも、もう駄目なんですよ。嫌われることが、目に見えています」
俺の彼女に対する恋は変わらない。
けれども、彼女のする恋は応援したいと、素直に思う。
依存しているわけでもないし、何より彼女がそれで幸せになるのなら、それが一番なのだろう。
恋をする者の一端として、願うべきなのだろう。
好きな相手の恋愛を、自分の恋の成否に関わらず尊重するのが、本当の恋という持論でしかないのだが。
俺はそれを、心から信じたい。
「ごめん、この話は止めようか」
「そう、ですね。すみませんでした」
「謝ることじゃないさ。俺としても、配慮が足りなかった部分もある」
切り替えて、何の話をしようかと迷う。
気付けば、俺がこの村に、この家に滞在させてもらえるのも残り僅か。
夏休みの残り日数を考えると――
「あの、貴方は後何日くらいで帰ってしまうのですか?」
残りの日数を数えようとしたとき、彼女から声がかかる。
シンクロしたようで、気が合うんじゃないかと変な誤解をしてしまいそうになった。
それに対して少し嬉しくなったのは、嘘ではないのだろうが。
「ん~、後……二日がいいとこなんじゃないかな、とは思うな」
「え……二日だけ、なのですか?」
「あぁ。仕事があるからな。何だ? 寂しいのか?」
「正直、すごく寂しいです」
俺が冗談を交えて言ったことに、至極真面目に答えを返される。
照れもせず、恥ずかしくもないと、心から寂しいというように。
そんな風に言われると、逆に俺が恥ずかしい。
裏で、とても嬉しくもあった。
言葉にせずに「帰ってほしくない」、と言われているようで。
「まだ一緒にいたい」、と言われているようで。
「まぁ、こればっかりは仕方ないさ。仕事だけじゃなく、小説も――あっ!」
「へぇ、小説家は副業だったんですか。って、どうしたんですか?」
「いや、思えばこの村に来てから、全く書いてねえなって」
一体何をしに列車に乗ったのかわからなくなってくる。
ここに来たのも、元々は列車の中で眠ってしまったのが原因だ。
そして俺は、疑問に思った。
切符の存在、車掌の存在、この夢見村前の駅員の存在。
この三つが不自然であることに、不思議に思わずにはいられなかった。
記憶が正しければ、切符はまだカバンの中。
突き動かされるままにカバンを探し、一枚の紙切れを見つける。
列車の中で、点検された覚えもない。すぐにしまった覚えはある。
というのも、すぐに眠ってしまったので、点検がされてあるならば車掌さんに起こされているはず。
そして、降りた夢見村前の駅員。
降りたその瞬間から周りに人の気配はなく、初めて会ったのがこの女性。
少なくとも、駅員がいたとは見受けられなかった。
この村に自動改札があるとも思えない。実際、自動改札に切符を吸い込ませてもいない。
さらに列車の切符なので、点検には
車掌にも駅員にも、改札鋏で切符を切られた記憶はなし。
じゃあ、どうやってこの列車から降りられたのだろうか。
夢見村前には、一日に一回しか列車は来ない。それも昼時だ。
その時間を狙ったかのように、駅員が席を外すだろうか。
幾つもの疑問が、束になって俺に襲いかかっていく。
「どうされましたか?」
「あ、いいや、何でもないよ」
一度疑問は保留にして、切符をカバンへと放る。
しかし、複雑に絡み合った糸は、そうそう解けることはなかった。