――正直者。
彼女の言う正直者とは、嘘の訂正の暗示だ。
彼女が俺に吐いた嘘を、修正することの宣言だ。
「……話して、大丈夫なのか。辛くないのか?」
「正直、少しは辛いと思います。でも、貴方には話したいです。嘘つきが言えることでもないですが」
彼女は決意するように深呼吸をした後、口を開く。
目尻に透明な雫を携えたまま、目もしっかりと開けて。
「私は元々盲目――先天性の全盲者ではないのです。角膜に傷が付いて、見えなくなったのです」
病気、遺伝、外傷など。
様々な原因で引き起こされる盲目症状は、他の病気と同じように、先天性と後天性に分かれる。
彼女は先天盲ではなく、後天盲だった。
「私が小さいときに、祖父母に都会に連れて行ってもらったこと、覚えていらっしゃいますか?」
「あぁ。はっきりと」
「その時です。失明してしまったのは」
彼女の声が、ほんの少しだけ萎んだ。
元々細い声だった分、悲しげであることに変わりはない。
ただ、懐かしむとは相当にかけ離れた表情をしていた。
「車が信号を無視した後に歩道を乗り越えて、私と祖父母の前に突っ込んだのです。突っ込んだ先の店の硝子に衝突、散った硝子の小さな破片が目に入り、角膜に傷が入りました」
「じゃ、じゃあ、君が車が嫌いなのは……」
「えぇ。どうしても、車の音が聞こえると怖くなってしまうのです。近付くと、尚更」
「都会が、嫌いなのも……」
「はい。車が多く通るので、車が恐怖の対象である私には、とても」
「……ごめん」
過去の自分の行いをこれほど後悔して、恨めしく思ったことはない。
軽率な質問が、無意識の内に彼女の傷を掘り返していたのだと考えると、自分が許せなくなった。
察することがどうしても叶わないのだとしても、それが彼女を苦しめていい理由にはならない。
それを隠して、傷を背負ったまま俺と過ごしていたことを考えると、自分が気持ち悪い。
様子は全く変えた印象がなかったが、裏で悲しんだ姿を想像すると、気持ち悪く思えて仕方がなかった。
「どうして、貴方が謝るのですか」
「無神経だったからだ。君の祖父母の件といい、今回といい」
「いいんですって。私から話すと言っているんですから、聞いてもらえるだけでありがたい話です」
彼女は、寛大だった。
きっとそれは、限りなく聖人に近い人間のそれなのだろう。
完全に当てはまらないにしろ、それに類似しているのは確かだ。
この様子だと、車の運転手にもどうにも思っていないかもしれない。
穏やかな声質が、それを先に想像させる。
「目が見えていた景色も、覚えてはいます。特に、あの向日葵畑の光景は」
「……道が、途中でわからなくなったのは」
「耳でしか、場所がわからないからです」
「……耳がいいって、君が言ったのは」
「最初から耳は元々いい方ではありましたが、やはり耳は私にとって必須ですから」
――全てが、繋がっていたのだ。
今思ってみれば、彼女の言動には盲目を思わせるものが含まれていた。
買い物のとき。八百屋の店員が「助けてやれ」と言ったこと。
彼女があの店のお得意様であることは明白であり、当然彼は盲目であることは知っているのだろう。
詰める量を覚えていたのも、お得意様であることだけでなく、彼女が手に取りにくいから。
そう考えると、納得がいく。
向日葵畑へ出かけたとき。彼女が、「この辺りのはず」、「合っていましたか」と言ったこと。
目的地へ着いて、合っていたかなんて言うのは、道がわからないときくらいに限られる。
実際には、わからないではなく、見えない故に確認の仕様がなかったから。
彼女の家に上がって、向日葵の話をしたことは、少し強く印象に残っている。
俺の話をしたときに、初めて声のトーンが沈んだのだから。
確か、「ただ花が同じ方向を向いているだけ」、という感じに言ったはずだ。
その言葉さえ、彼女にとっては『ただ』だとか、『だけ』だとかではないのに。
彼女は俺の書いた小説を、いつか読んでみたいと言った。
その『いつか』には、どんな気持ちが込められていたのだろうか。
手に届く『期待』なのか、それとも手に届くことのない『夢』なのか。
いつも、彼女は食事の時間をずらしていた。
盲目だと、食事がどうしても拙くなってしまうからなのだろう。
その中で、サンドイッチやカレーライスは比較的食べやすく、俺と一緒に食べられたのだ。
一瞬で彼女との交流が、目の前に情景として溢れるように浮かび上がった。
それだけ強く覚えているのにも関わらず、何も気付かなかった自分は情けないにも程がある。
いっその事、強く誰かに罵倒された方が楽なんじゃないかと思うくらいだ。
「私、本当は自分の目が嫌いなんです。目を開けても閉じても、見えないことに変わりはないですから。あまりそんな目は見せたくなかったので、目を瞑ったままにするか、帽子を深く被るかしていました」
彼女の一言が語られる度に、俺の胸は痛みを増す。
自分への罪悪感と、彼女を気の毒だと思う気持ちによって。
本当は、気の毒だと思ってはいけない。自分が第三者であることを露呈させてしまうから。
しかしながら、俺にはそれで精一杯だった。
「でも、ついこの間、ある人に目を褒めてもらったんですよ。『すごく綺麗だ』って。その時、とっても嬉しくて」
「え……? そ、それって――」
「はい。紛れもなく、貴方です。私の盲目を知らない上でそう言ってもらえたことが、またさらに嬉しかったんですよ? 今でも、思い出すと感動で泣きそうなんですからね?」
振り返ると、俺は数々の失敗を重ねてきた。
彼女へ、申し訳ない気持ちでいっぱいであることは今でも変わらない。
ただ、このときだけは思えた。
――自分に正直で、本当によかったと。
――彼女に瞳が綺麗だと、不器用ながらも正直に言えてよかった、と。