終いには、頭が真っ白になってきた。
どうして。おかしい。そんな一言さえも、頭をよぎることはない。
予想していた現実とは乖離した、現実。
どちらが夢で、どちらが現実なのかすら区別がつかなくなってくる。
俺に許されたのは、目を見開いて、懸命に眼前の光景を否定することだけだった。
「どうされたのですか?」
「あ、お疲れ様です。いやぁ、このお客さんが……」
俺と駅員に、もう一人の駅員が話しかけてきた。
混乱の最中から引き上げられて、その駅員の方を見る。
白髭の、年配の男性。駅員のスーツ姿がよく映える方だ。
――見間違えるはずもない。夢見村の駅員、その人だった。
帰りの列車で、意味深長な言葉を俺にかけた、あの人。
心や思考に引っかかっていたため、印象と記憶には深く刻まれてる。
「夢見村前? って駅に行きたいらしいんですよ。こっちの方面じゃないことは確かなんですけど、どこの線の駅かわかりますかね?」
「ふぅむ、私も詳しくは知らないが、聞いたことはある。違う路線で探してみますので、どうぞこちらに」
「え、あ……はい」
初対面で寡黙な印象を抱いた分、思いの外長い会話に驚く。
若干ながら遅れて、彼の後ろをついていく。
小さな人目につきにくい扉から、無人の白部屋に入った。
「君は、望んだんだね」
「え、えっと……」
「白い切符は、まだ持っているかね?」
言葉が短くなり、俺の記憶上の姿と合致した。
一つ一つの言葉に重みが増して、その中で発せられた白い切符の存在。
決して夢見村のことに無関係ではないことは、容易に想像がつく。
「持ってますよ。……はい、どうぞ」
財布を取り出して、折り目一つすらついていない、ほぼ一年前と同じ状態の切符を差し出す。
まるで今もらったかのように、新しさすら感じさせるだろう。
彼はその切符を受け取って、静かに頷く。
満足そうに、笑顔を浮かべながら。
「貴方は、本物のようです。こちらの別の切符で、終点まで降りないで列車にお乗りください」
「わかりました。ありがとうございます」
白とは別の、ちゃんと印刷された切符と白い切符を受け取った。
部屋から出て、改札へ。
元の場所に戻ると、俺が最初に話しかけた駅員がいる。
「あっ、どうでしたか?」
「どうやら、駅の名前の勘違いだったらしいです。話を聞く限りでは、この線で間違いはないですね」
「おっ、そうでしたか。よかったです」
爽やかな笑みに見送られながら、会釈をして改札を通る。
暫くだけ待って、列車が警笛を鳴らしてやってきた。
列車の扉が開いて、微かな緊張感と共に、中へと乗車。
席について間もなく、高らかな笛の音。
扉が徐に閉まり、僅かな揺れに包まれながら、線路を沿って前へ。
徐々に加速する感覚を感じながら、窓の奥に広がる景色を楽しむ。
少し経ってから、例の向日葵畑の絶景が見えてきた。
目を輝かせながら、咲き並ぶ向日葵を見る俺の様子は、さぞ子供っぽいことだろう。
ただ、それだけこの光景が見られることが、嬉しかった。
夢見村に行ける。その事実が、俺に遅れて実感ある安堵を齎した。
席の背もたれに倒れるように深く座り直し、軽い溜め息。
思い悩むような重苦しい溜め息ではなくて、本当によかった。
そして直ぐ様、微睡みに襲われる。
箱の微弱な揺れが眠気をさらに掻き立て、俺の意識を深みへと落としていく。
いつの日かと、同じだな。そう思った時には既に、目の前は閉ざされた。
はっとなり、飛び起きる。
一日一本の運行ダイヤで、引き返されるとこちらとしては困る。
「次は~、終点、夢見村前~」
「……全く、本当にいつの日かと同じじゃないか」
つい漏れ出した独り言に、自分で笑ってしまう。
列車はやがて速度を落とし始め、止まる。
目の前の扉が、蒸気を上げる音と共に開かれた。
この時を、ずっと待ちわびていた。
昨年から、ずっとずっと。
毎日のように思い出しては、夢見村に行きたいと思っていたのだ。
花屋の前を通る度に、夢見村の向日葵を連想した。
別れ際にもらった手紙を読み返す度に、彼女の弾ける笑顔が目に浮かんだ。
列車から降りると、異様な暑さに見舞われる。
見渡す限りの自然に歓迎されるが、一年前と打って変わらずの猛暑。
遠くの地面からは陽炎が立ち込めて、無軌道に左右に振れ続けている。
それを確認した直後に、真後ろで扉が閉まり、列車が発つ。
無人の改札口を抜けて、運行ダイヤを確認した。
やはり、一日一本。何もかもが、そのままだ。
「……こんにちは。貴方は、旅のお方でしょうか?」
聞こえた瞬間に、身が震えた。
すぐにでも声のした方を向きたかったが、言葉の意を汲む。
ゆっくりと、そちらを向いた。
目深にハットを被った、白いワンピースを着た女性。
長い黒髪が陽光を反射して煌めいている。
ホームに吹き抜ける爽やかな風が、彼女の魅力溢れる黒髪とワンピースを揺らしている。
「はい、そうですが」
「ふふっ、ここには何もありませんからね。私の家でよければ、宿として提供しますよ?」
「いいの、でしょうか?」
「えぇ。では、行きましょうか――と、いきたいところですが」
あの日の再現は、完璧だった。
俺の再び湧き上がる恋と、彼女に見惚れる様子など、ほぼ変わらないのではないか。
俺達は、ただ言葉だけを淡々となぞっているだけではなかった。
「お久しぶりですね、丁度一年ぶりです」
そう言いながら、彼女は徐にハットを脱ぐ。
しっかりと目が開かれて、俺の方を向いている。
相変わらず、綺麗な目をしていた。
どこまでも澄んだ黒は、誰しもの視線を吸い込んで離さないだろう。
「そうだな。随分と、長く感じたよ。五年か六年でも経った気分だ」
「へえ、では私は十年分くらい経った気分です。……貴方に、ずっと会いたかった」
「嬉しいお言葉だことで。俺からも、同じ言葉を返すとするよ」
互いに、互いの再会を求めていた。
口上だけでなく、心から今日この時間を渇望していた。
このやり取りを、どれだけ欲していただろうか。自分でも、想像がつかない。
相当に大きい、ということはわかるのだが。
「ふふっ、私の予知夢ってすごいです。夢の姿と今見える貴方の姿が、まるっきり同じなんですから」
「……見える、のか?」
「はい。手術、受けました。といっても、つい最近なんですけどね。都会行かないと手術ができない。でも、都会で聞こえる車の音が怖い。たった二つの連鎖に、暫く悩まされました。えへへ」
可愛らしい様子も、当時から一切鈍っていない。
彼女の純粋さも、丁寧な口調も、柔らかい言い方も、全て。
変わったことと言えば、彼女の目が見えるようになったことと、気のせいか笑顔が前よりも輝かしいことだ。
俺にとっては、どちらも歓喜のあまりに、小躍りしてしまいそうになるほどだ。
「あっ、そうそう。今日の夜、花火大会があるんですよ。一緒に、花火を見ませんか?」
「おう、勿論。それよりも、本当に花火大会を開催するとは、思ってもみなかったよ」
「だって、貴方は嘘が嫌いでしょう? それに、私も貴方も喜べそうなので」
別れの日の、約束を思い出す。
約束と呼べるほど現実的ではない、一年後の花火大会の開催。
まさか、彼女の意志が村を動かすとは。大したものだ。
彼女だけの意志ではないのかもしれないが、発端は明らかに彼女だろう。
俺にためでもあると思うと、やっぱり恋する俺としては嬉しい。
「喜びすぎて飛べそうだよ」
「わあ、随分と大きい鳥さんですね。それと、貴方の小説、読みましたよ? 面白かったです」
「ありがとさん。それはそうと、俺のペンネーム、言ったっけか?」
「あんなにわかりやすいタイトルで出しておいて、よく言いますよ、本当に」
彼女の呆れた笑いも、また懐かしい。
安直すぎる題名というのも、意外な得があったものだ。
「出す日とか、わかったのか?」
「いいえ? 一ヶ月ごとに、本屋に出向きました!」
腰に手を当てて、満面の笑みで胸を張る子供らしさといったら、可愛いのなんの。
そのまま頭を撫でたくなるような、庇護欲をそそられてしまう。
彼女の行動力といったら、それはもう素晴らしいものだ。
車の恐怖は完全に消え去ることはないだろうに、毎月本屋に行って、何万とある本の中から探したのだ。
どう考えても、普通の人なら早々に諦めるレベルだ。
それを見つけて購入し、読むのだから、良い意味で常軌を逸している。
「そこまでしてくれると、作家冥利に尽きるよ。……なぁ。一つ、いいか?」
「えぇ、どうかしましたか?」
「俺は君に、ずっと言いたかったことがあるんだ」
一年前から、ずっと秘めた思い。
どうしてあの時言えなかったのだろうと、後悔もした。
けれども、最後の日に打ち明けても、空中分解しそうでできなかったのだ。
「奇遇ですね。私も、直接貴方に言いたいことがあるんですよ」
「なんだ? 同時に言えってか?」
「ふふっ、それはいいですね。そうしましょうか」
俺達は、確信していたのかもしれない。
寄せ合う想いに、既に気付いていたのかもしれない。
互いの名前すら、知らないのに。でも、そんなことは正直、どうでもよかった。
夢見村に訪れる八月は、蝉の鳴き声と共に。
蒼浪が広がる青空は天高いが、手を伸ばせば届きそうだ。
雄大な自然に、背中を控えめに押された気がした。
「私は――」
「俺は――」
貴方のことが――
ありがとうございましたぁあああ!
最終話です! 四月の終わりから連載して今日まで、意外と長かったです。
七月から、とある理由で急ピッチで仕上げてきました。申し訳ない。
ともあれ、タイトルにもある八月に終わったのはポイント高い。何の話だってね(´・ω・`)
他作品に比べて圧倒的に人気が出ませんでしたが、情景描写は一番頑張れました!
人気どうこうよりも、こうやって頑張って完走できたことに、読者の皆さんへ尽きぬ感謝を。
最後、貴方のことが――の後に続く言葉は、想像におまかせします。
一体、どんな言葉が続くんでしょうね?
一応、これがトゥルーエンド的なポジションです。
いかがでしたか? 前話が納得いかなくて、今話で納得する人がいるかと言われると、また微妙なところですが……
『私の中では』一番ふさわしいというか、いいエンディングのつもりです。
私の中では。ここ、重要。
情景描写意外に頑張ったことは、やはり彼女視点ですね。
視覚描写が書けないということは、私にとってかなり痛かったです。
主に視覚に頼っていたことがわかって、課題の発見にも繋がりました。
長くなりましたが、これで本当に八月の夢見村は最終話となります。
改めまして、この作品をここまで見ていただき、ありがとうございました。
度々送られてくる感想に感謝しつつ、頑張れました。
本当に、ありがとうございました!