その日の下校は渚と二人きりだった。
春原はいつものごとくラグビー部に連行されていった。人語とも思えない悲鳴を発しながら引きずられていく春原を見送る。
何をしたのかは知らないが、昼休みにラグビー部の一年と知らずに下級生に因縁をふっかけ、三年の部員に報復されているらしい。どうせまた強引に奢らせようとでもしたのだろう。自業自得だ。
春原には悪いが、そのおかげで渚と二人きりになれたのだから、春原の馬鹿さ加減とラグビー部には感謝しなければならない。
創立者祭を何とか無事に終え、今は演劇部としての活動をすることもなく、実質的には帰宅部のようなものだった。
渚としても創立者祭での演劇で夢は叶ったことになるわけだし、渚も朋也も春原も演劇に関しては素人なため、これからどうしたものか決めかねていた。
そうしたこともあって部室には寄らず、そのまま下校しているのだった。そうすれば幸村が合唱部の顧問に専念でき、合唱部は毎日活動できるのだった。
創立者祭の翌日に渚は熱を出し、今年も留年してしまうことになるのかと恐れたのだが、渚は何とか持ち直すことができた。再び元気に登校できるようになって数日が経過していた。
朋也と渚は差し迫った懸案事項から解放され、気楽に言葉を交わしながら、まっすぐ古河家へと向かっていた。
だが実を言えば、渚と恋人らしい会話をしながらも、朋也は今ひとつ気持ちが晴れないものを感じていた。
「朋也くん、どうかしましたか?」
渚が小首をかしげて声をかけてくる。
朋也は突然、脇道の手前で立ち止まっていたのだった。
朋也の気分を沈ませていたのは、ホームルームでの進路の話題だった。
この学校の生徒のほとんどは進学する。進学校なのだから当然だ。
だが朋也に進学するつもりはない。春原もそうだろう。就職を選ぶことになる。渚に進学を望む気持ちがあるのかどうかは分からないが、身体が弱いから進学は難しいかもしれない。
朋也は進学する生徒たちをうらやましいとは思わなかった。だが彼らが坂の上へと歩を進めていることは確かだ。
(俺はいったいどこへ向かっているというんだ?)
と朋也は思った。
(渚のそばにいることはできる。でも渚をどこか別の場所へと連れて行ってやることは、俺にはできないんじゃないのか……?)
朋也はその考えを振り払う。今は今できることをやるしかないのだ。だが――
「なあ渚。ちょっとこの脇道に入ってみないか?」
「この路地にですか?」
脇道を見て、再び朋也に視線を戻し、少し驚いた顔で聞き返す渚。
驚くのも無理はない。あまりにも唐突だ。
道幅は二人が何とか並んで歩ける程度のものか。薄暗い路地だ。
道が曲がりくねっているせいですぐ近くまでしか見えない。その先がすぐに袋小路になっている可能性も考えられた。
この古さを感じさせる路地は、人の侵入を拒んでいるようですらある。表通りとの空気の境目が目に見えそうなほど、特殊な空気を感じさせた。うまく言葉にできないのだが、現世に存在してはいけないような、そんな雰囲気を漂わせている。
だが朋也はどうしてもこの道に入ってみたかった。ただの好奇心ではない。そこには何か切実なものがあると感じられるのだ。その理由は朋也自身にも分からない。たまたま通りがかっただけの路地が、朋也にとって特別なものだと、そう感じるのだ。
まったく理屈に基づかないその感覚は朋也の意識の片隅を鈍く刺激していた。その感情の強さは朋也自身にも判別できなかった。
「駄目か?」
「いえ、朋也くんが入りたいのでしたら私はかまいません」
素直に受け入れる渚。
「なら入ろう」と朋也は言う。「こんな狭くて薄暗くて寂れた場所に連れ込んで悪いけどさ」
渚には警戒心はないのだろうかと朋也は思う。
(俺を信用しているのか)
それとも男とこんな場所に二人きりで危ないという発想そのものがないのか。
恋人同士だから別におかしくはないのかもしれない。だが二人はまだ高校生で……いや、しかし……。
(まあ、手を出す度胸があるかと言われると、それは……)
そんな思いがよぎったのも一瞬のことだった。
路地に入った瞬間。
朋也はその独特の空気に呑まれていた。
「何だ、ここは……」
空気が冷たい。温度が低いのではない。生気がないとでもいうべき雰囲気が漂っているのだ。冷蔵庫を開けたときの冷気ではなく、冷蔵庫を開ける想像をしたときに感じたと錯覚する冷気に近い……とでも言えばいいだろうか。ただし、その冷気の強さは比較にならない。
思わず周囲を見回す。とはいえ見るべきものは何もない。
見た目には何の変哲もない路地だ。どこからこのような異様な雰囲気が生まれているのだろうか。よく見れば塵一つ落ちてなさそうな清潔な路地だ。精巧にできたCGのようで現実感がない。
どちらから求めたのか、気が付いたときには渚と手をつないでいた。自分が現実の世界に存在しているのだと確認するように。
渚もこの路地の非現実的な雰囲気を感じているのか、かすかに手が震えていた。渚を安心させようと固く握ると、渚も強く握り返してくる。
「なあ、渚。やっぱり戻らないか。俺のわがままでお前をこんなとこに連れて行くわけにいかないだろ」
「いえ、私もこの先に行ってみたいです」
渚の声には緊張が感じ取れたが、口調はしっかりとしたものだった。
「あのさ、俺に対してそんな遠慮するなよ」
「いえ、本当にこの先が気になるんです」
珍しくきっぱりと主張する渚。
「この先に何があるのか確認しないといけない気がするんです」
こちらを見上げる渚の目に迷いは感じられなかった。いつも大人しくて、でも時に強さも見せる、渚らしいまっすぐな瞳で。
「わかったよ。なら行こう」
「ありがとうございます」
「いいよ。もともと俺が行きたいと言い出したんだから」
ため息をつく。普段の渚は控え目だが、一度こうと決めたら意外なくらい頑固になるのだ。
「でも本当に無理はするなよ」
「大丈夫です。朋也くんがいてくれたら、どんなことでも乗り越えられると思います。でもこの空気はやっぱり、ちょっと怖いですけど……えへへ」
冗談めかして平気だという振りをする渚。にこりと笑う顔も朋也には空元気に見えたが、それについては何も言わなかった。
「俺の手を離すな」
それだけを言った。
「はい」
うれしそうに答える渚。
それからはどちらも何もしゃべらない。ただ手をつないだまま路地を歩いていく。二人が並んで歩くのがやっとの狭い路地だ。
道はかなり入り組んでいる。角を曲がるたびに、まるで現世から遠ざかっていくかのような感覚。
並ぶ建物に、この路地に面した入り口は見当たらない。ただの一つも、だ。
路地の空気に呑み込まれそうになる。それとも既に呑み込まれているのか。
不思議と物音がしない。朋也と渚の足音だけが響き続けている。日々のざわめきはどこに消えてしまったというのだろうか。
足音も遅れて聞こえていないだろうか? いや錯覚だろうか……。そんなこともわからなくなる。
確かなのは、つないだ手の感触だけだった。
どれくらい歩いたのか。感覚が麻痺する。路地の現実離れした雰囲気に圧倒されているのだろう。
だけど圧倒されていることにも徐々に気付けなくなってきている。異界こそが現世なのだと、そんな風にさえ思えてくる。まるで昔からこの場所に住んでいるかのように。ただの路地に郷愁の念を覚えるほどに。
ただ、単なる脇道にしては長すぎるという気はした。しかしその違和感も錯覚かもしれない。歩いてきた時間の感覚も失われているのだから。
初めこそ路地のあちこちに注意を向けながら歩いていた。しかし今では前方にだけ意識を向けていた。言葉をかわすこともなく、ひたすら無心に歩き続ける。
いつしか角を曲がることがただの作業になっていた。始まりも終わりもないような、そんな作業。
不意に開けた場所に出た。
「何だ、ここは……?」
つい先ほども発した言葉だった。だがその意味合いは違ったものだ。
二メートルほどの高さのコンクリート塀に囲まれた空き地だった。小さな学校の校庭くらいの広さはある。
角を曲がるまでは何も見えないが、曲がれば既に空き地に辿り着いているのだった。つくづく先が見えない。
「ここ以外に、この空き地へ入れる場所はなさそうですね」
空き地を見回しながら言う渚。
「そうだな……」
うなずきながら、朋也も空き地を見回す。
塀のすぐ向こうの建物では人が活動しているはずだ。それなのにここには人の気配が全く感じられなかった。寂れた場所だ。
だが不思議と恐怖は感じなくなっていた。むしろ安らぎを覚えるほどだ。しかしそれと同時に、この場所に安らぎを覚えるなと本能が警告している気もした。こんな感覚は初めてだ。どう対応していいのか判断できない。
隣を見ると渚も朋也と同様に、緊張しながらも恐怖は薄れているようだ。
「渚、もう大丈夫なのか?」
「はい、もう大丈夫です。朋也くんには心配をかけちゃいました。ごめんなさいです」
「馬鹿。俺に遠慮するなって、いつも言ってるだろ」
「そうでした。ごめんなさいです……って、また謝ってしまいました」
こちらを見上げて、照れたように笑う渚。
「ずっと手を握ってもらって、ありがとうございました。とても安心できました。もう手を離してもらっても大丈夫です」
本当に離しても大丈夫なのか朋也は少し迷ったが、結局手を離すことにした。
ずっと握っていたせいでかなりの汗をかいていた。それとも緊張のせいか。汗が冷えていくのが気持ちいい。
しかし手を離しても、まだ渚とつながっているように感じられた。不思議な気分だ。この場所が生み出す安心感のせいかもしれない。
二人は空き地の中へと入っていった。
「雑草が生え放題だな……」
うんざりしながら、腰の高さほどもある雑草の合間を進んでいく。その後ろを渚がついてくる。
よくもまあ空き地一面にこれだけ生え渡ったものだ。路地裏にあるとは思えない。
「ゴミも大量に放置されてるし……」
奥にあるゴミの山を見て、うめく。
渚もよくこんな場所に入る気になったものだ。女子高生のすることとは思えない。ただし呆れると同時に、そんな性格が好ましくもある。
朋也は引き寄せられるように、空き地の奥へと入っていった。ここが自分の居場所だとでもいうように。
何故だろう。それは朋也自身にもわからなかった。惹かれるというのでもない。ただそうすることが自然だと思えるのだ。渚もそう感じているのだろうか?
「こんなに散らかっていて、土地の所有者の方も困っていらっしゃるのではないでしょうか」
心配そうに言う渚。
「所有者ね……」
このような奇怪な場所に所有者など存在するのだろうか? もしいたとして、既にこの土地のことは忘れ去っているのではないか?
ゴミの多くは粗大ゴミか電化製品だった。紐で束ねた雑誌類もある。荷車にでも載せてわざわざこんな場所まで運んできたのだろうか。どれも古いものだ。新しいものはない。人々から見放されたものばかりがある場所だった。
あ、と渚が小さく声を上げる。何か見つけたらしい。朋也を追い越し、草をかき分け、そこへ急ぐ。必死の姿だった。そしてそこで立ち尽くした。
「どうした?」と言いながら朋也は渚のもとへと歩み寄った。「何かあったのか?」
渚の隣に立って、そこに何があるのか気付いた。
だんご大家族のぬいぐるみだった。
ぬいぐるみは三つあった。三つあるのは家族のつもりなのだろうか。片手では持てないほどのサイズだ。
ぬいぐるみは粗大ゴミの間にあるスペースに収まっていた。誰かがぬいぐるみを置くためのスペースを空けて積み上げ直したのだろうか。
渚もよくだんご大家族のぬいぐるみに気付けたものだ。渚も何かに引き寄せられたのかもしれない。
粗大ゴミを屋根のようにしていたので雨にはあまり濡れていないはずだが、それでもぬいぐるみはかなり汚れていた。とても使い物にはならないように見える。まるで殉教者のような姿だ。
(あるいはホームレスか……)
朋也は皮肉げに想像した。粗大ゴミを家の代わりとして住まうホームレス。
普通の女の子なら触りたいとすら思わないだろう姿だ。
だが渚はぬいぐるみの一つを抱きかかえるように手に取り、哀しそうに目を閉じた。
朋也は何か言おうとしたが、言うべき言葉が見つからなかった。
風が雑草をなびかせる。
「やはりだんご大家族は、もう人々から忘れ去られてしまった存在なんでしょうか……」
ぬいぐるみを見つめたまま、渚は力なく言った。
「渚……」
「だんご大家族は百人家族で、みんな仲良しなんです。ときには喧嘩もしますけど、すぐに仲直りします。だんご達のことを考えると私も心が暖かくなります。だから私はだんご大家族が好きなんです」
淡々と話していた。しかし渚が哀しみに必死で耐えているのは明らかだった。
「これではだんご達がかわいそうです」
だけど涙は流さなかった。以前の渚なら、こういうときには泣きそうなものなのに。
渚が泣かないのは、以前よりも強くなったからだろうか? それとも渚に少しばかりの諦めの感情があったから? だんご大家族が流行したのは一昔も前のことで、今では顧みる人は、もう、ほとんどいないのだと。
渚はぬいぐるみを一度粗大ゴミの上に置くと、ハンカチを取り出し、ぬいぐるみを拭き始めた。ハンカチはすぐに黒くなったが、ぬいぐるみの汚れはほとんど落ちていないようだ。何かが変わったようには見えない。
「きれいにしてあげられなくてごめんなさいです」と言うと、渚は制服が汚れるのも気にせず、だんごのぬいぐるみを胸にしっかりと抱きかかえた。子供の頃の渚なら、抱えることも大変だったであろうサイズのぬいぐるみだ。
「渚。だったらそのだんご達を家に持って帰るか?」
その問いに、渚はすぐに答えなかった。何かを迷っているように見えた。
だが何を迷うことがあるというのだ? だんご大家族を大好きな渚が、だんご達を見捨てられるはずがない。必ず助けようとするはずだ。
(俺を支えてくれたように――)
いずれにせよ渚が答えるのにそれほどの時間がかかったわけでもなかった。
渚は沈痛な声で、
「いえ、このだんご達はここにいたほうがいいと思います」
その答えは意外なものだった。
「どうしてだ? お前、だんご大家族が好きなんだろ。お前の性格からして、こんな状態になってるだんご達を放っておけないんじゃないのか?」
「もちろん、困っているだんご達をこのまま放っておきたくはないです。私としては家に持って帰って、お風呂できれいに洗ってあげたいです」
胸からぬいぐるみを離し、切なげな表情でじっと見つめる。
「でもこのだんご達を持っていた方が、思い直してだんご達を迎えに来られるかもしれません。だから私が持って帰るわけにはいかないんです」
そんなことはありえない。そう思ったが、口にすることはできなかった。
このぬいぐるみが捨てられたのはかなり前のことだろう。このぬいぐるみだけではない。ここにあるゴミは全て古いものだ。ここはゴミの不法投棄をするような者からも忘れ去られた場所なのだ。今さらこんな薄汚れたぬいぐるみを回収しにくるはずがない。
雨が当たらない場所に捨てたのは、持ち主のせめてもの思いやりなのだろう。そんな思いやりには何の意味もないとしても。
(だけどそんなことを言っても、渚をよけいに悲しませてしまうだけだ)
だから渚には違うことを言った。
「そうだな。じゃあ、このぬいぐるみはここに置いておいたほうがいいな」
「はい。そうします」
切なげに微笑んで、もう一度ぬいぐるみを抱き締める渚。
「その代わりこれから毎日、だんご達の様子を見に、ここへ来たいと思います」
いかにも渚の言いそうなことだった。
「じゃあ俺も付き合うよ」
「いえ、そんな、これは私のわがままですから、朋也くんは無理に付き合わなくてもいいです」
「馬鹿、お前一人でこんなところに来させられるかよ。それに俺はお前の彼氏なんだからな。俺にはどんどんわがままを言えよ。お前の望むことは、他の誰よりも先に俺が叶えてやりたいからな」
朋也は無理やり笑みを浮かべた。
あと渚が言ってるのは、わがままじゃなくて優しさだからな」
「朋也くん……ありがとうございます」
ようやく温かみのある微笑みを見せてくれた。やはり渚には笑っていてほしい。俺は渚の笑顔に支えられてきたんだからな、と朋也はしみじみと思った。
渚はだんごのぬいぐるみをそっと元の場所に戻した。
もしかしたら渚はこのぬいぐるみを、この忘れ去られた土地の象徴のように感じているのかもしれない。ふと、そう思い至った。だけど朋也はそのことに触れないことにした。
「元気出せよ。きっと所有者がだんご達を迎えに来るよ」
「はい。そうなってほしいです」
空き地を後にし、長い路地を抜ける。
不思議と来た時ほどの異質感は感じなくなっていた。
それでも路地を抜けて人気のある場所まで戻ってくると、全身から緊張が抜けていくのを感じた。人目がなければ座り込みたくなるほどの疲れだった。
その日はそのまま古河家へと帰宅することにした。
かなりの時間路地裏にいたつもりだったが、まだまだ日は暮れそうになかった。まるで時間が止まっていたかのようだった。
その夜。
明かりを消した部屋の中。
朋也は布団にくるまりながら今日の出来事を思い返していた。
あの路地。あの空き地。まるで異界にいるかのような感覚。
あの場所は一体何なのだ?
いくら無秩序に町を開発していったとしても、あの路地の入り組み方は異常な気がする。それに人家がすぐ近くにあるというのに、全く人気が感じられなかった。道に人がいないという意味ではない。空間そのものが人々の生きる世界から切り離されているかのような感覚だ。別世界への入り口のような、現実感の無さ。
そして路地を抜けた先。あの空き地の、現世から遠ざかったような安らかさ。
どう考えてもまともではなかった。
だが朋也はあの場所が気になって仕方なかった。渚もあの場所が気になるという。ならばあの場所は特別な場所なのだろう。
しかしそのことが自分達にとってどういう意味を持っているのか。朋也には見当もつかなかった。
(まあいい。どうせ明日も行くんだからな)
考えてもわからないことは考えても仕方がない。
既に夜も遅い。古河家に居候するようになってからは、普通の時間に眠れるようになったのだ。できもしないことにかかずらって、睡眠不足のまま登校するのも馬鹿馬鹿しい。――実家にいた、あの日々のように。
(今日はもう寝よう)
だがすぐに眠れる自信はなかった。
翌日も二人はこの場所に来ていた。あの空き地だ。相変わらず辺りには一切の人気がない。
昨日と同じ、異界に迷い込むような違和感を抱いて路地を抜けてきた。同じように二人、手をつないで。ただ、その違和感は少し薄れているようにも感じられた。
この空き地に漂う安心感は変わっていない。
そしてだんごのぬいぐるみも変わらず打ち捨てられたままだ。
渚はぬいぐるみを抱くこともせず、ただ黙したまま、だんご達を見つめていた。
朋也は失望したのか、それとも最初から諦めていたのかわからないまま、つぶやいた。
「今日は持ち主は現れなかったみたいだな」
「……はい」とだけ、わずかな間を置いて答える渚。沈んだ表情で、だんご達をただ見つめている。
「ほら、だんご達を抱いてやったらどうだ」
渚にぬいぐるみをひとつ手渡す。
「その前にだんご達をきれいにしてあげないといけないです」
「おっと、そうだったな」
朋也は粗大ゴミの上にぬいぐるみを置く。そして渚がタオルでぬいぐるみを丁寧に拭いていく。朋也も別のだんごを拭き始めた。
学校が終わったあと一度家に戻り、何枚もタオルを用意してからこの場所へ来たのだった。二人とも汚れてもかまわない服に着替えている。
「今日はタオルをたくさん持ってきましたから、昨日よりは少しはきれいにしてあげられると思います」
だんご達に語りかける渚。
「本当は洗濯してあげられればよかったんですけど……ごめんなさいです」
とはいえ、ここまで水を持ってくるわけにもいかない。あまりきれいにもできないだろう。
そのあとは二人とも黙々とだんご達を拭き続ける。タオルが黒くなって使い物にならなくなると、未使用のタオルと交換する。三体目は渚が拭いた。
タオルを全て使い切った。その甲斐があったというべきか否か。ぬいぐるみの汚れは、ある程度までは落ちた。あくまでもマシになったというレベルだ。汚れたぬいぐるみであることに変わりはない。しかしマシになったことも事実だ。
だがぬいぐるみが放つ、捨てられたもの特有の重苦しい存在感までは消すことはできなかった。これ以上はどうすることもできない。
ぬいぐるみがまだこの空き地にあることも確認したし、タオルで拭きもした。今日ここですべきことは終わったが、渚はもう少しここにいたいと言った。
朋也に異存はなかった。渚の好きにさせてやりたいし、それに朋也自身もこの場所のことが気になっていた。
「人の好みが変わっていくのは仕方のないことです。新しいものが出てくれば、古いものは忘れ去られます。それは健全なことだと思います」
渚はだんごの一体を抱き上げると、その頭頂部を静かになでる。まるでだんごのぬいぐるみに触れることで、自分がまだこの世界に存在しているのだと確認するかのように。
「でもだんご大家族だけは忘れ去られてほしくはなかったんです」
「渚……」
「私は朋也くんに背中を押してもらうまで、坂の下で立ちつくしていました。何もかもが変わってしまって、楽しかったことも何もかも変わらずにはいられないんだと思うと、もう一歩も動けませんでした」
それは、朋也が坂の下で渚と出会ったときにも聞いたことだった。違うのは、既に坂を上り始めたということ。
でも、と渚は続ける。
「朋也くんは、変わってしまうのなら新しいことを見つければいいんだと教えてくれました。ですから私は変わってしまうことをただ悲しむだけではいたくありません。新しい何かを探したいです」
渚は抱いたままのだんごを見つめながら、精一杯に自分の思いを伝えようとしていた。
「ですが私はだんご大家族を捨てることもしたくありません。ですからだんご達がもう一度、新たに受け入れてもらえる日が来ることを信じたいです」
あのときには無かった強さで、そう決意を述べる渚。
「朋也くんが一緒にいてくれれば、私はその日を待てます。その日をここで見守りたいです」
おそらくまだ変化に対する恐れは消えていないだろう。この場所にいたいと思う気持ちには、変化を否定したい気持ちも含まれているはずだ。
しかし渚は変わろうとしているのだ。それは確かなことだ。それが俺のおかげだというのならうれしい、と朋也は思った。
「そうだな。そんな日が来るといいな」
「はい」
その日が来る可能性は極めて低いのかもしれない。だけど渚の決意に水を差したくはなかったから、何も言わなかった。
それからも毎日、放課後になると「異界」へと足を運んだ。だが一週間が経っても、ぬいぐるみを引き取りに来る者は現れなかった。