その日から渚とともに空き地を訪れることはなくなった。
渚はもうあの場所に未練はないようだ。興味を失ったように見える。朋也はまだ気になってはいたが、空き地に近寄ることを恐れていた。
朋也はあの路地裏のことをできるだけ考えないようにしていた。渚と二人で、ときには春原も交えて、穏やかに過ごした。
だが朋也の中にはどうしても消せないしこりが残り続けていた。それは日を追うごとにその存在感を増し続けていく。忘れてはいけない何かを忘れてしまった罪悪感のように。
朋也はもう一度あの空き地へ行ってみるべきか迷っていた。異界といっていいあの場所に、どうしても惹かれてしまう。
だがそこに渚を近付けたくなかった。以前は渚を連れて行くことに何の抵抗もなかった。しかしだんご達のぬいぐるみが消え去って以来、渚があの忘れられた場所にいることが好ましくないと思えてならないのだ。
朋也としては渚と一緒に、あの場所で安らかな気分に浸りたいという気持ちは強い。それでも、渚はあの場所にいてはならないと感じるのだ。渚には現実だけを見ていてほしかった。
そしてそれ以上に、渚は変わってしまったのだと――もう二度とあの安らかな一体感を渚と一緒に味わうことはできないのだと――思い知らされてしまうことが怖かった。
朋也がもう一度あの場所に行きたいと言えば、渚も一緒に行くと言うだろう。渚に来ないように言うこともできるが、渚は心配するはずだ。渚もあの場所が異界だとわかっているはずだから。
そのときは渚には秘密にする必要がある。だけど渚に嘘をついたり誤魔化したりしてまで、あの路地裏を訪れたいわけではなかった。
そのようにして気分が晴れないまま、数日を過ごしていた。
「朋也くん、最近元気がないみたいです」
気がかりのあることを渚に気付かれた。
(当然か)
どうしてもあの空き地のことを忘れられない。ふとした瞬間にあの空気を思い出してしまう。下校時、あの路地へ行かない道を選ぼうとすると、その思いは特に強くなる。
今もそうだ。あの路地の入り口へと向かう曲がり角にいると、何かがあの路地の奥から手招きしているように感じられるのだ。ここからは数百メートルは離れているのに。
通らないはずの道を朋也がじっと見つめているのだ。渚も不思議に思っているはずだし、この先にあの異界への入り口があることもわかっているだろう。
できるだけ普段どおりに振る舞おうとはしているのだが、やはり一緒にいる時間の長い渚に隠し通せるものではなかった。しかも渚は、いつも自分のことより他人のことを気遣う優しい娘だ。ましてや今は恋人なのだ。
しかし朋也が気に病んでいる内容までは、さすがに思い至らないはずだ。
渚に気がかりの理由を話すべきか? だが朋也自身もあの路地裏が気になっている理由がわからないのだ。話しようがない。
あのような寂れた場所にいったい何の魅力があるというのか。なぜあんなにも安らぎを覚えたのか。
迷ったが、朋也は渚に話さないことに決めた。
「いや、大したことじゃない。ちょっと気になることがあっただけだ」
「本当ですか? 私を心配させないように何か隠していませんか?」
「本当だよ。何も隠してない」
渚を安心させようと微笑む。渚から目を逸らしたかったが、逸らすわけにはいかない。渚の瞳を見つめて話す。
「だから渚は心配しなくていい」
中身のない微笑だ。ちゃんと微笑んでいるように見えただろうか?
渚はまだ納得していない様子だったが、それ以上は何も訊いてこなかった。渚に隠し事をすることに罪悪感を覚えたが、話すことはできなかった。
(俺は何をしてるんだろうな……)
あの路地は気まぐれに寄り道したときに見つけたもので、何の理由もなく何度も立ち寄る場所ではない。渚に黙っている以上、あの路地へと曲がる道に向かうことはできない。
朋也は空き地への思いを抑え込み、そのまま帰宅する道を選んだ。
「岡崎、お前最近どうしたんだ?」
春原がそう訊いてきたのは、それから数日後のことだった。
鞄を持って帰ろうとする矢先だった。動揺が顔に表れないよう、つとめて平静に振り返る。下校の邪魔をされて面倒だ、という具合に。
(まさか渚だけじゃなく春原にも気付かれるとはな……)
もともと学校生活に興味がないとはいえ、春原に気付かれるほど学校生活に身が入っていないとは思わなかった。
(いよいよ問題を先送りにできなくなってきたぞ……)
このままでは何をしていても落ち着かない。楽しいことをしていても気がかりが妨げとなり、心から楽しむ余裕がなくなってしまう。いや、既にそうなっているのだ。
さすがに朋也も現状に危機感を覚えてきた。
「どうしたって、何がだよ」
訊き返す朋也に、春原は嫌味な笑みを浮かべ、知ったふうな口ぶりで答える。
「もしかして渚ちゃんと上手くいってないんじゃないの?」
「んなこたねえよ」
「ほんとかよ? ほんとに何もないの?」
「しつこいぞ。そんなことだから油汚れみたいな男だって言われるんだよ」
「言われたことねぇよ!」
「あ、わりぃ……お前は知らなかったんだな……。今のは忘れてくれ」
「え……? ほんとに言われてるの……?」
「……………………」
「何か答えてくれぇぇぇぇぇっ!」
床を転がって悶える春原。しつこいといっても、これは油汚れというより、黒くて一匹見かけたら三十匹はいる生物のほうだった(金髪だが)。
しばらくして落ち着いたのか、春原は気を取り直して訊き直してきた。
「じゃあ、他に気がかりでもあるのか?」
やはり朋也が普段と違う様子なのが気になるらしい。
春原にまで心配されているのだろうか? だとすれば重症だった。
「別に。何でもねえよ」
春原にはそう言ったが、朋也はもう一度あの空き地を訪れる決意を固めていた。
渚と同じように春原も納得していないようだったが、適当に会話を打ち切った。
不思議なことに、あの路地に入らなかった日から春原は朋也たちと放課後に行動をともにすることはなくなった。
これは偶然なのだろうか。それともあの異界の空気が影響しているのだろうか。
(考えすぎか……?)
ともかく、今日も春原と別れたあと、朋也は渚と二人で帰宅することになった。
渚にはヤボ用があるとだけ言って、一人で例の路地へとやって来た。
渚の心配そうな顔に気付かなかったわけではないが、あえて気付かないふりをして、一人でこの場所を訪れたのだ。
最後にこの路地を訪れてから既に一週間が過ぎていたが、予想通り何の変化も見当たらなかった。
空き地はゴミの溜まり場だが、そこへと至る路地にはただの一つもゴミは落ちていない。それどころか清潔感さえ漂っている。路地に似合わぬ清潔感には気味の悪さしか感じなかった。まるで時の流れから放り出されたかのようだ。
今まで路地にゴミが落ちていないことを当然だと感じていたことに気付く。なぜだろう。不思議なものだ、と朋也は思った。
久しぶりに訪れても、この異界へと続くような冷たい違和感は変わらない。自分が正しい場所にいるのか不安になる。かなり慣れたとはいえ、相変わらず精神をざわつかせる空気だ。
長い長い路地を通り抜けていく。どれだけ角を曲がれば目的地に辿り着くのか、幾度通り抜けても覚えられない。実は通るたびに路地が変わっているのだとしても驚かないだろう。記憶されることを拒絶しているかのようだった。
不意に空き地が現れた。いつもと同じように。どの角もコピーしたように同じに見えて、どれが最後の角なのかわからない。
空き地に入る。忘れ去られたこの土地に安らぎを感じるのも変わらない。
この安らぎの理由を知りたいのか、それともただ安らぎが欲しいだけなのか。朋也は自問した。この一週間、何度も自分に問いかけてきた。
ここに来れば、その答えがわかるかもしれない――そんな淡い期待もあった。
やはり答えはわからない。ただ安らぎを得ただけだ。
だが渚のそばにいるときほどの安らぎは得られない。
(それなのに、なぜ俺は一人でこんな場所にいるのだろう)
腰まである雑草をかき分け、奥へと進む。
粗大ゴミなどが積み重なった奥側と、雑草しかない手前側。奇妙な対比だった。整然としていて、律儀ささえ感じる。
粗大ゴミの山を前にすると、いつもながら圧倒される。いったいどれだけの人が、この空き地までゴミを運んできたのだろう。
冷蔵庫、ブラウン管テレビ、ビデオデッキ、ラジカセ。本棚にタンス。学習机。よくぞここまで運ぶことができたものだ。金がかかっても業者に回収してもらったほうが楽だろうに。
どれも古いものばかりだ。何年前のものだろう。古さを競い合っているかのようだ。新しくてもせいぜい九〇年代前半だ。それも数は少ない。多くはバブル時代の家電製品だと思えた。
一昔前に過ぎないだんご大家族のぬいぐるみは、この中では新しい部類だと言えた。そのだんご達が真っ先にこの空き地から消えたのは、皮肉なことだと言えるのかもしれない。
いずれにせよ、二○○三年の今からすれば昔のものに過ぎなかった。
そんな古い家電製品に朋也は懐かしさを覚えた。かつては朋也の家にも同じような家電製品があった。この場所では不思議とそんなことを思い出す。
あの頃は子供ならではの好奇心で世界を眺めていたものだ。
冷蔵庫を開けるためにぐっと力を入れることも。テレビのチャンネルを変えるためにリモコンのボタンを押す感触も。初めて学習机に向かって座ったときの座り心地も。ありありと思い出すことができた。
ここに捨てられている家電は朋也の家にあった家電とは違うものだ。だが時の流れに晒された家電たちは朋也から失われたものたちのことを思い出させた。
風に雑草がなびく。思えば、いつも不思議と強い風が吹いていた。どこから吹いているのだろうか。建物の間でおかしな反射をしているのかもしれない。小さな校庭ほどの土地一面の草が揺れる様は、なかなかの壮観だ。
空は晴れ渡っているようだが、太陽の姿は建物に隠れて見えない。空き地の大部分には陽が射さず、その様はまるで日陰に守られているかのようだった。
そういえば何度もこの空き地を訪れたが、一度も雨に降られたことはなかったな、と朋也は思った。
(俺はこんな所で何をしているんだろう)
だんご達のぬいぐるみも既に失われたのだ。この場所にいても、ただ立っていることしかできない。
もしかしたらどこかにだんご達のぬいぐるみは隠れているのかもしれない。だが探す気にはなれなかった。とてもだんご達が残っているとは信じられなかった。
ゴミの一つ一つを眺めるでもなく、物色するでもなく、ただ全体として眺める。
もちろんそれで答えが得られるわけではない。
目を閉じ、風を感じる。
この気持ちは何だろう。安らぐような、もの寂しいような。
ただこの場所が無くなってほしくなかった。変わらないでいてほしかった。それだけが確かな気持ちだった。
それからも何日か続けて路地裏を訪れた。空き地は変わらず安らぎを与えてくれたが、やはり答えに辿り着くことはできなかった。
長いような短いような時間を過ごした後、空き地を去る。そしてまだ日が沈んでいないことを知る。本当に時間は止まっていたのかもしれない。
同じことを繰り返すだけの日々だ。
その日の朝も同じ気持ちだった。それまでと何一つ変わることなく。下校後、一人で空き地へ行こうと思っていた。そして不思議な安らぎを得て。日が沈まないうちに帰宅するのだ。
そう思った矢先の出来事だった。
渚が高熱を出した。
渚を留年させることになった病気が、再び発症したのだ。原因は不明。治療法も判明していない。
今回も長期間の休学が予想され、再度留年する恐れもあった。
(なぜ気付かなかったんだ……!)
どうも前日から体調は悪くなっていたらしい。
朋也は、そんな状態の渚を置いて空き地などにうつつを抜かしていた自分を責めた。
(これじゃ彼氏失格じゃないか……!)
創立者祭の翌日を思い出す。朋也と渚は部室に忍び込み、黒板に落書きをした。二人で日直をすると。二人一緒がいいのだと。
それなのに朋也は一人で寂れた路地裏などに行っていた。短時間とはいえ、渚と一緒にいられる時間を削ってまで、あのような人の営みから遠く離れた場所に行くべきではなかった。しかも渚の体調にも気付かずに。
一度持ち直したことで油断があったのかもしれない。だとしても許されることではなかった。
朋也が渚の体調に気付いたところで、何ができたわけでもない。それでも朋也は自分自身が許せなかった。
今となっては、渚と一緒にいるには、渚の部屋で時を過ごすしかなかった。
学校にいる間も授業や進路のことなど何一つ頭に入らず、ただ渚のことだけを考えた。そして帰宅すれば、布団から起き上がれない渚のそばにいて、渚を元気づけようと話しかけたりした。そんなことしかできなかった。
現世から離れた路地裏のことなど、考える余裕はなかった。