そうやって季節は過ぎていった。
春から梅雨へと移り変わり、やがて夏が訪れたが、渚は回復の兆しを見せなかった。
制服も夏服に変わったが、渚の夏服姿を見ることもかなわぬまま夏休みに入った。
もし渚が元気でいてくれれば、どんな夏休みを過ごすことができただろう、と朋也は思った。朋也にはありもしない青春の一コマを夢想することしかできなかった。
朋也は毎日ずっと渚の部屋で、渚のそばにいた。
この部屋だけが時の流れから置いていかれたようだった。
ある日、朋也はふと、あの路地裏を思い出した。
渚が寝込んで以来、思い出すこともなかった。あれはどれだけ前のことだっただろうか。もうずいぶんと昔のことのようだ。ほんの数ヶ月前のはずだが、何年も前のことに思えた。
渚が高熱を出したあの日から、全てが変わってしまった。安らぎを求めるような心の余裕さえも失ってしまった。ただ渚の身を案じるだけの日々だった。
しかし一度あの異界の空気を思い出してしまうと、もう意識から追い出すことはできなかった。
考えてみれば、この部屋もあの空き地も、時の流れから取り残されてしまったという意味では似ているのかもしれない。ならば、もう一度あの異界へ行ってみるのも悪くないのかもしれない。そんな気がした。
(正気か、俺は……?)
あの日の後悔を忘れた日はない。朋也は渚を置いて一人であの空き地に入り浸り、渚の体調に気付けなかったのだ。
だが朋也は、既にあの路地裏を訪れる決意を固めていた。
渚はよく眠っているようだ。日はまだまだ落ちそうにない。夏の空だ。高く遠い青空。手を伸ばしても届かない、空。
「早苗さん」と店に出て呼びかける。
「はい。朋也さん、どうされましたか?」
「ちょっと出かけてきますんで、渚のこと、よろしくお願いします。今はよく寝てますんで」
「はい。もうすぐ秋生さんも帰ってきますので、大丈夫ですよ」
「それじゃ、行ってきます」
いたたまれなくて、すぐに店を出る。
早苗に(それと秋生にも)罪悪感を覚えないわけではなかったが、やはりもう一度あの空き地を確かめないわけにはいかなかった。
無意識のうちに早足となって路地裏へと向かう。
気が急く。
一刻も早く空き地へと辿り着き、あの空気を味わい、異界ということの意味を確認するのだ。そして可及的速やかに引き返さねばならない。
路地へと至る表通りまでやって来た。既に馴染みがあるといってもいい場所だ。迷うことなく、路地の入り口まで歩いて行く。関係のない横道を無視して通り過ぎる。
だが歩くうちに何かがおかしいと気付いた。
違和感の正体はすぐに判明した。いつの間にか建物の並びが見覚えのないものになっているのだ。
(通り過ぎたのか!?)
愕然とする。
あれだけ何度も訪れた場所だ。道を間違えたとは思えない。それに路地に入る前から強烈な圧迫感のある場所なのだ。気付かずに通り過ぎたとは思えない。
だが現に入り口に辿り着けていない。
朋也は動揺する気持ちを抑えて、注意深く建物の並びを見ながら、来た道を引き返す。少し歩くと見覚えのある場所へと戻ってきた。
(道を間違えたはずはないぞ!?)
今度は駆け足で道を戻る。すれ違う人が驚くが、気にしている余裕はない。
やはり、見当たらない。
どこにもない。
入り口があったはずの場所を通り過ぎている。
(いったい、どうなってやがる……?)
汗が止まらないのは、暑さのせいなのか、それとも――
もはや焦りを抑えることもできず、入り口があったはずの場所を必死に探しながら歩く。だが、気が付いたときには入り口のあった場所を通り過ぎている。
もはや間違いなかった。信じがたいことだが、信じないわけにはいかなかった。
自分でも何故だかわからないのだが、朋也は確信を持っていた。
(
そんなことが起こりうるのだろうか? だが実際に起こったとしか思えなかった。
朋也はどうすることもできず、夏の暑さの中、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
我に返ったときには、朋也は既に帰宅の途に着いていた。いつあの表通りを立ち去ったのか、まったく記憶になかった。
悄然として店の扉をくぐる。
「おう、どうした小僧。しけた面しやがって」
秋生がいつも通りの軽口をたたいてくるが、まともに相手をする気にもなれず、適当に返事をして、そのまま家に上がる。
「おい、小僧。本当にどうしたんだよ」
「悪い、オッサン。すぐに渚のところに行きたいんだ」
秋生は朋也の顔を静かに見つめたかと思うと、何を感じたのか、ため息混じりに目を逸らした。
「ちっ、仕方ねえな。さっさと行ってこい」
秋生の言葉もそこそこに、渚の部屋へと向かう。そこが朋也の今の居場所だった。
廊下で早苗とすれ違う。
「早苗さん、渚の様子はどうですか?」
「大丈夫です。今も部屋を覗きましたけど、落ち着いてましたよ」
「わかりました。その……」と、朋也は言い淀む。「急に出かけてしまって……すみませんでした」
「いいんですよ。それより、朋也さんも顔色があまりよくないですよ」
秋生にも早苗にも気遣われる。そんなにも動揺が顔に出ているのだろうか。
「俺なら大丈夫ですよ。ほら、こんなにピンピンしてます」
両腕を広げて肘から先を上に曲げ、力を入れてみせる。
「それならいいですけど……」
納得していない様子ながら、渋々引き下がる早苗。
何度も同じことを繰り返してるな、と朋也は思った。
(だが、こんなことは今日で終わりにするんだ)
今の渚に心配をかけるわけにはいかない。
(俺が渚を支えるんだ)
部屋のふすまの前で、小声で渚に尋ねる。
「渚、入ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
起きていたらしい。早苗の言ったとおり、比較的しっかりとした声が聞こえる。とはいえ、やはり本調子とはいかないようだ。もう数ヶ月も渚の健康な声を聞いていない。
部屋に入ると、渚が布団に入ったままこちらに視線を向ける。寝込んだ当初は朋也が来ると布団から起き上がろうとして、それを朋也が止めたものだが、今ではそういうこともなくなった。渚が床についていることが日常になってしまっていた。
これからどうなってしまうのか。不安が募る。考えたくはなかったが、どうしても考えてしまう。
だが渚には不安を見せないように意識する。何も心配のいらない、いつも通りの自分を演じるのだ。
窓の外に目をやる。既に外は薄暗くなっていた。しかし完全に日が暮れたわけでもなかった。窓の外の景色が青味を帯びて見える。
「調子はどうだ?」と何でもないような口調で訊く。
「今日はだいぶ体調がいいです」
渚はそう言うが、起き上がることは難しいらしかった。横になったままで話す。
「朋也くん、さきほどはお出かけになっていたみたいですけど……」
「ん? ああ……大したことじゃないよ。ちょっと出かけただけだ。それがどうかしたのか?」
朋也がそう訊くと、渚は少し躊躇っていたが、口を開いた。
「朋也くんは……ずっと寝てばかりの私のそばにいなくてもいいんですよ」
「馬鹿っ」
思わず叱りつけるように言ってしまう。
気まずい思いを誤魔化すように、優しく言葉を続ける。
「俺はお前の何だ? 彼氏だろ?」
「はい……」
「だったらさ……そばにいなくてもいいなんて悲しいことを言うなよ。俺はお前とずっと一緒にいたいだけなんだし、渚もそれを受け入れてくれればいいだけなんだよ。付き合ってるんだからさ……」
「はい……」
渚はかなり弱気になっているようだ。無理もない。原因もわからないような病気が長く続き、しかもそれを幼い頃から繰り返してきたのだ。去年は留年までした。
そうした経緯があって、渚はあの日、坂の下に立ち尽くしていたのだ。今もあのときのように弱気になっていた。
渚の手を握る。弱々しかったが、しっかりと握り返してくれた。そんなことに安堵を覚える。
町が、人が、どれだけ変わろうと、渚だけは変わってほしくない。そう願った。強く、願った。
どれだけの間そうしていただろうか。渚はいつの間にか寝入っていた。
「朋也さん、晩ご飯の時間ですよ」
渚の食事を運んできた早苗が声をかける。
もうそんな時間だった。
渚の食事を持ったまま引き返す早苗に返事をして、朋也も居間に行こうとする。そっと渚の手を放し、立ち上がる。
そこで机の上のだんご大家族のキーホルダーが目に入った。渚が小学生の頃、学校に付けて行っていたというキーホルダーだ。長らく物置の中で忘れ去られていたのだが、演劇の資料となる絵本を探す際に発見したものだ。
あの空き地にあったぬいぐるみとは違い、綺麗に手入れされている。
すぐに居間へ行くべきだったが、朋也はそのキーホルダーを手に取らずにいられなかった。
優しく表面を撫でる。あの空き地で渚がそうしたように。
シンプルで愛らしいデザインだ。縦に太い線が書かれているだけのつぶらな瞳が、こちらを見つめている。だんごは朋也に何かを訴えかけようとしているのだろうか。
朋也にはわからなかった。しばらくだんごを眺め続ける。一昔前に流行し、今では世間から忘れ去られてしまったマスコットキャラクター。キーホルダーやぬいぐるみに意識があるとしたら、どんなことを思うのだろう。
渚だったらわかるのだろうか。渚の寝顔を眺める。そこからはどんな答えを読み取ることもできなかった。
朋也はため息をついてだんごのキーホルダーを元の場所に置いた。
(早苗さんと……それにオッサンも、待たせてしまったな)
実家にいた頃は、居間で暖かい手料理を食べるなど、とうてい考えられないことだった。だが今ではそんな食事も、渚がいないという欠落感が先に立ってしまい、寂しい。
(渚の誕生日にはだんごのぬいぐるみをプレゼントしよう)
朋也は不意にそんなことを思った。
渚の誕生日はクリスマスだ。それまでに金を貯めよう。今でもだんご大家族のぬいぐるみを売っている店も探さなくてはならない。
いずれも先の話だった。
それまでに渚の体調が回復していることを願う。
カーテンを閉めようとして、ふと窓の外に視線を向ける。最後に残っていた明るさも消え、既に夜の帳が落ち始めていた。
子供の頃は、まだ明るいからと油断して帰宅するのが遅くなり、それで親父に怒られたものだ。過ぎ去ってしまった時代を思い出す。もう戻ることのない、遠い時代の話。
カーテンを閉め、明かりを消す。部屋の中の領域が曖昧になり、安らかな静けさが訪れる。
部屋から出て、音を立てないようにふすまを閉めると、朋也は食卓へと急いだ。