俺は強靭な狼の前足に押さえつけられて、身動きがとれない。
そいつはバランという黒狼で、俺がなにか怪しい動きをしようものなら、すぐに喉笛を噛みちぎるつもりらしい。
「やってくれましたね。まさか、本当に半分近く倒してしまうなんて」
俺は僅かに首をめぐらして、服の埃を払うアキを視界に入れた。
その肩に、白い鷹のリディアが留まる。
空から飛来するリディアと、地上のバラン。
両者のコンビネーションに加え、マント男たちの猛攻により、俺は無様にも敗北した。
宣言通り、マント男は半分ほど片付けてやったものの、もはや何の意味もない。
生殺与奪はアキの手中にある。
「なぜですか?」
アキは不思議そうな目で俺を見下ろしていた。
俺はかすれた声で答えた。
「何がだ?」
「なぜ皆さんにトドメを刺さないのです?」
倒れ伏した男たちは、いずれも四肢の欠損か武器の損失という理由で戦闘不能になっている。
俺はこの機に、命乞いをするべきだと考えた。
一人も殺していない。だから助けてくれ、と。
もはやプライドを優先している場合でないことは明白だ。
しかし、そんな思惑とは裏腹に、口が勝手に動いてしまう。
「お前ら人殺しと、一緒にするな」
グルル……
言葉が理解できたわけではないだろうが、バランが牙を剥いて威嚇してくる。
「こら、やめなさい」
アキが子犬を嗜めるような調子で注意すると、バランは渋々牙を引っ込めた。
彼女は頤に手を当て、何かを考えている。
「なるほど、あなたはあなたなりの正義に従ったわけですね。そのためなら、命も惜しくない、と」
アキの独白をそれとなく聞きながら、俺は審判の時を待っている。
俺は、死ぬかもしれない。
それを冷静に受け止めている部分もあれば、動揺し、叫び出したい衝動に駆られている部分もある。
一種の混乱状態のため、吐き気まで覚える始末だ。
こういう時、映画の主人公はどういう心持ちなんだろうか。
とてもじゃないが、彼らのように振る舞うことはできそうにない。
「オーマさん、私はあなたが気に入りました」
「なに?」
予想だにしない言葉に、俺はつい間抜けな声を出してしまった。
気に入った、とはどういう意味なのだろう。
先ほどの受け答えで、アキの琴線に触れる何かがあったとは思えないが。
加えて、彼女が俺の名を呼んだことも疑問である。
「なぜ、俺の名前を知っている?」
俺とアキは今日が正真正銘の初対面だった。
アキは嬉しそうに質問に答える。
「あら、有名人じゃないですか。コロッセウムの《秘剣》。中年のカタナ使いと来たら、真っ先にピンと来ますよ。それに私、あなたのファンだったんです」
アキがかがみ込んで、目をキラキラさせながら言った。
おそらく、プレイヤーを何人も殺してきているというのに、なぜこのように純粋な目ができるのか。
アキは興奮気味に続けた。
「でも、ファンだから気に入ったわけではありませんよ? あなたは信念のために、命すら賭けました。それは結果として私たちと敵対することだったけれど、根幹にあるものは同じです」
アキの右手が霞み、ナイフが俺の首筋に突きつけられる。
俺はゴクリと生唾を飲んだ。
「すなわち愛」
アキは恍惚とした表情のまま、ナイフの切っ先で俺の喉を撫でていった。
ダメージが入るほどのものではないが、急所に感じる金属の冷たさには思わずゾッとさせられる。
「私のものになって下さい。オーマさん。お気づきではないかも知れませんが、あなたの愛は歪んでいるのです。私が本当の愛を教えて差し上げます」
アキはさらに距離を詰め、耳元で囁くように言った。
「退屈はさせませんよ? その代わり、力を貸して」
冗談じゃない。
サイコパスの片棒を担ぐなど、絶対にごめんだ。
しかし、これは紛れもないチャンスである。
彼女の話に乗っかれば、少なくともしばらくの間、命は保証される。
その時、俺の脳裏に無残に殺されたであろうプレイヤーたちの姿がよぎった。
無論、幻だ。
そんな正体不明の感慨で、命を棒に振ってたまるか。
「……そのナイフと、狼をどかしてくれ。生きた心地がしない」
「それは、私の提案を受け入れるということですか?」
「ああ、お前の考えに感銘を受けたね」
「ふふ、嘘つき」
アキが笑った。
人の考えがこんな短時間に変わるわけはなく、アキもそれを心得ている。
「まぁ、何事もまずは形からと言いますしね。いいでしょう」
アキがナイフを引き、それと同時にバランが退く。
俺はとりあえず、ほっと一息ついた。
「で、俺はどうするといい?」
「私たちと来て頂きます。それと、あの少女も」
あの少女。
それがアルゴを指すことは瞬時に理解できた。
「どういうことだ?」
「あなたを何の縛りもなく、自由にさせておくわけがないでしょう」
俺はアキを睨みつけるが、彼女は涼しい表情で続けた。
「街の中にも同志はいます。中層レベルのプレイヤー程度なら、難なく連れてきてくれるでしょう。あなたはくれぐれも、馬鹿なことを考えないようにして下さいね」
何ということか。
俺は不甲斐なさに歯を食いしばった。
アルゴを逃したつもりが、結局、巻き込んでしまう羽目になった。
彼らに囚われるとは即ち、アキの気まぐれによっていつ「救済」されてもおかしくない状況ということだ。
イチかバチか。
俺は右手でカタナを柄を探る。
アキの目がスッと細くなった。
「やめた方がいいんじゃないですか?」
「そうだゾ。やめときナおっちゃん」
聞こえてはいけない声がした。
俺は目を剥いて、周囲を見渡した。
いた。
黒い祭壇の近くに、小さくて不敵な情報屋の姿があった。
朝日を浴びて、短い金髪がオレンジ色に輝いている。
「ばかやろう、なんで戻ってきた!」
彼女は一人だった。
それもそのはず。
こんな短時間で援軍を連れてやってこれるはずがない。
そもそも最初から期待などしていなかった。
彼女が安全地帯にあればそれで良かったのだ。
アルゴは悪びれもせず、いつものようにニヤリと笑って見せた。
「約束も守れないようじゃ、女が廃るってもんダロ?」
去り際、彼女が残した言葉を思い出す。
すぐ戻ル。
確かに、彼女はそう言った。
だからといって、こんな状況下で律儀に守る奴があるか。
アルゴの登場に、アキは多少驚いていたようだが、すぐに平静さを取り戻して言った。
「これはこれは、手間が省けました。あなたに用があったのです」
「へぇ、奇遇だネ。私もだヨ。そこのおっちゃんを返して貰おうか」
アルゴの態度は実に堂々としたものだった。
「ダメです。彼はもう私のもの。あなたには首輪になってもらいます」
「首輪?」
「ええ、彼を従順にする首輪です。ペットに噛まれては堪りませんから」
それを聞いて、アルゴは顔をしかめた。
「お前とは心底相性が悪そうだヨ」
「私もそう思います。ですから、手早く済ませましょう」
マントの男たちが、彼女に対する包囲網を縮める。
彼女にとっては一人でも荷が重い相手だ。
「まさか、一人でなんとかなると思ったのですか?」
「逆に聞くけど、何の策もなしに戻ってくると思ったカ?」
アルゴは不敵に笑いながら続けた。
「お前らに、とびっきりの情報を教えてやるヨ」
ポンと軽快な音を立てて、アルゴがアイテムストレージを開いた。
祭壇に具現化されたアイテムが並ぶ。
脈打つ心臓、獣の頭蓋骨、黒い土塊。
どれも生々しく、邪悪な雰囲気を纏っていた。
「これだけ集めるのに苦労したヨ。なにせ急ぎだったからね」
「……あなた、何をするつもりですか?」
「呼び出してやるのサ。ありがたい神様ってヤツを」
最後に、アルゴは自らの髪を一房、短剣で切って祭壇に置いた。
「これで全部ダ」
「早く、彼女を捕らえて!」
「もう遅いヨ」
その時、恐ろしい咆哮が辺りに響き渡った。
祭壇から黒い影が伸び、そこから毛むくじゃらの手が現れた。
太さは俺の胴体ほどもある。
続いて這い出てくる全身もまた巨大で、羽や尻尾を合わせた全長がどれくらいになるか想像もできない。
金色の瞳が辺りを睥睨する。
顔立ちは人と獣を掛け合わせたような感じで、長い牙が下顎から生えている。
それはフロアボスを彷彿とさせる、ネームドのモンスターだった。
名前は《カルガラ》と読める。
表示されるHPバーは五段で、明かに多人数のレイド戦を想定したものだ。
俺は勿論のこと、アキやその取り巻きも呆気にとられている。
唯一平然としているのは、事を仕組んだアルゴだけだ。
「こんな風に、特定条件を満たすと現れる裏ボスがいるんだヨ。自分たちのアジトに何が祀られているか、しっかりと勉強しておくんだったナ」
得意気なアルゴの背後で、化物がカッと口を開ける。
「おいおい!」
俺が全速力で彼女に覆いかぶさった瞬間、凄まじい衝撃波が背中を掠めていった。
紫色の稲妻だった。
放射線状に広がったそれは、塔の最上階を更地にする勢いで駆け抜ける。
連中の殆どは上手く避けたようだが、何人かは直撃をくらって身動きが取れなくなっている。
なんにせよ、大混乱だ。
「ヨー、おっちゃん。今のうちに逃げるゾ」
「言われなくても」
俺はアルゴの背中を押し、自らもその後に続く。
背後では、化物と激しい戦いを繰り広げる音がする。
もはや俺たちにかまっている余裕もないようだった。
「お前は大した奴だ」
俺の独白に、彼女は答えた。
「これで借りは返したゼ。カッコつけめ」