赤い森のイリス 作:ぬまわに
週明けの月曜日、この気だるさをどう表現したら良いだろう。
早朝、とは言えない。一月も待たずに梅雨に入るこの時期だ、すでに日の入りは遅く、日の出は早い。ここの所の先取りしたとしか思えない暖かさ、否、これはもう暑さだろう。学校に登校する生徒たちもどこかげんなりとした表情だ。
葉山直人という少年もまた、その中に混じり、疲れたような、重たげな息を吐いていた。
「よおおおおおおおっッス!」
突如。
ドバン、とすさまじい勢いで背中を叩かれ直人は悶絶した。
「……づぅ、うおぉ、道長ァ。てめぇええ」
直人はホラー映画のゾンビか何かが蠢くように不自然な動きでぎしぎしと向き合い、恨みの目で睨む。
道長と呼ばれた少年は垂れ目気味の目をにっこりと細めて笑った。
「んははは、その調子だとやっぱ師範にこってりやられてたな?」
「その通りだよ畜生! なんなんだよあの変態は、昨日は変な投技ばかりかけられて、聞いたら柔術の渋沢流もやっていた事があるとか言って、昔疑問に思わなかったのが運の尽きだ」
「あー、俺の聞いた話じゃボクシングとムエタイにカラリパヤットもやった事あるって」
雑食過ぎる。直人は口の端をひきつらせ、低い呻きをあげた。
幼い頃から通っている伝統派空手の道場だった。
病んだ父がのこした遺言。遺言というよりただ子供にわかりやすいように道筋を示したかったのだろう。
迷いに迷って結局『男の子なんだから強くなって家族を守れ』などという何番煎じだか分からないくらいよくある言葉になってしまったのは、後に母が苦笑していたところでもあった。あの人は考えすぎてありきたりな言葉に落ち着いてしまう、プロポーズだってそうだった、と。
そんなありきたりだけど、しっかり頭を悩ませてくれた言葉に従って、直人は父が亡くなった次の月からは近所の小さな空手道場の門戸を叩いていた。その選択自体は間違ってなかったと今でも直人は思っている。体は丈夫になり、人並み以上の体力はできた。余裕のある家庭ではなかったため浮いていた時期もあったが、いじめだのと言った陰湿な事からは無縁でいられた。後から入ってきた目の前の同級生と知り合えた、というのもぎりぎり後悔はしていない。
ただ――
「ほんとあの師範はどうにかならないのか……」
「無理だなー、あれは筋金入りだ。真面目な葉山の事はお気に入りだし、将来的に総合デビューするまで離さねーんじゃね?」
「そんな博打みたいな世界は勘弁してくれ、運送とか引っ越し業界で十分だから」
「枯れてんねえー、その気が無いなら俺みたいに辞めちゃえばいいのに」
自由な時間はいいぞ、フリーダム万歳イエヤァ、などと言ってバッグを宙に放り、キャッチする。
お前は色々自由すぎる、と直人は内心でつぶやく。
三国道長、変わった苗字と時代がかった名前のこの友人は普段から『好きな事を好きなだけやりたい』と言っている通り、本当に好き放題に生きている。女の子が好きで、運動が好きで、アニメが好きで、ミリタリーが好きと、とにかく節操がない。空手のように飽きればさっさと辞めてしまうのだが、移り気が激しいのかと思いきやずっと続けている趣味も有り、単純にそうとも言えない。直人には理解しがたい部分の多い友人だったが、かえってそれが良いのかもしれなかった。
「んー、プロとかに興味無いのは確かだけど完全に辞めるってのは違うだろ」
「そうしてズルズルと空手の復権を目指す師範の生贄に……」
「怖いこと言わないでくれ……って叩くな!」
直人は筋肉痛に痛む体を面白がっていじろうとする悪友から距離を取り、それはそれとして、アルバイトで時間を十分に取れない現状があり、そろそろ考えなくてはならないのかなと、漠然と思った。
◆
変わり映えのないいつも通りの授業の時間が過ぎ、集中力もぽつぽつと続かなくなってきた生徒たちが増えた頃、数学の教師が、少し早いが、と授業を切り上げた。
購買のパンと弁当は早いもの勝ちだ、人気のあるものは昼休み開始10分で売り切れてしまう。わずか数分の切り上げであってもこれを喜ぶ者は多く、露骨にガッツポーズを決めている者もいた。
昼休みの時間、特に決まったルールは無いため、それぞれ思い思いの過ごし方をしている。教室で食事を取るのは大体半数くらいだろうか。椅子は半ば自由席のようになり、仲の良い者たちで集まり、多いと七人も八人も集まって話に興じる姿もよく見かける姿だった。
直人の席は窓際の奥だ、周囲の席は昼休み中ほぼ空くため、いわば昼休みのたまり場として重宝され、このしばらくのところ友人達は直人の机の周りに集まるようになっている。
「よっし、俺も買いに行ってくるわ。なんか欲しいものあんならパシられてやんよ?」
道長が軽い調子で言う。小柄な、見方によっては女性とも見えてしまうような中性的な容姿の少年がぱちんと指を弾く。
「マスター、いつものを二つ」
「かしこまりました、食パン二つでよろしゅうございますね」
「構わないよ、一ヶ月後、よく熟成されて青くなった食パン二つが衆人環視の中、道長の机から出てくる事になる」
「エグい! この子エグいよ!」
「というわけでカレーパン二つ」
いつものじゃねーし! とオーバーな動きで頭を抱える道長。
やがて脱力したように身を起こすと、直人と、その斜めに座る少女に目をやり、二人はどーする? と声をかけた。
直人は無言でホイルの包みを持ち上げ、少女も大丈夫と答えた。
道長はほいほい、と奇妙な返事を返し、軽い足取りで教室を出る。
直人は斜め右と左に座る二人を見て、こいつらとも長いなとふと思う。
岩木なんて苗字は普通だが
そして夏希、佐藤夏希という少女とはいつの間にか、本当にいつの間にか親しくなっていた。長身、そこらのグラビアモデル顔負けの体型に、可愛いというより美しいとも言える顔、その明るさとコロコロ変わる表情が無ければ冷たいとすら言われていたかもしれない。
二人とも直人が中学時代からの友人だ。普通科が四クラスあるこの学校ではクラス替えがある。一年次はバラけた四人だったがどういう偶然か二年次は一緒になっていた。それぞれ別口の友人があるにせよ、昼休みはこうして何となく昔なじみで集まる事が多くなっていた。
「しかしなあ、直人ンもとうとう色気付くようになったか。なっちんという者がありながら」
道長が購買から戻るのを待ち、昼食を食べ始めた所で早速といったように道長がサンドイッチを齧りながら飛ばしてきた。
直人は自分で作った握り飯を口の中に入れた所で止まり、何を言っているんだこいつ、と言いたそうな目で見る。
「そうそう僕というものがありながら浮気なんて」
飛鳥がカレーパンを口に放り込みながら続き、直人はとうとう頭が腐ってきたのかと言いたげな憐憫の目で見た。
「授業中、あれだけ吉野さんの方気にしていればねー。綺麗だから分かるけど」
夏希が弁当のミニトマトにフォークを刺そうとし、逃げられては刺そうとし、また逃げられながら言った。
直人は二つほどまばたきをすると、口の中のものを飲み下し、ついでに水筒の緑茶を飲む。水出しの緑茶は時間が経っても渋みが立たずに旨い。そんな事を思いつつ口内をすっきりとさせる。そして一つ頷いた。
「全然気にしてないぞ」
「ダウト」
男二人が同時に言う。
道長は続けて指を直人に向け、くいくいと振った。
「だがね君、彼女にアプローチをかけるつもりなら非公式ファンクラブ一番の僕に話を通してからにしてくれたまえ」
「一人しかいないファンクラブね」
「まー本当に作ろうと思えば作れそうだけどな。人気自体は結構高いんだぜ、男人気だけど」
「それは分かるよ、何というか普通の綺麗さじゃなくて……うーん、触ったら壊れそうな脆さというかそういうのがあるよね、歩く姿とかピンと決まってるし、お嬢様臭というかお姫様っぽいというか」
直人は頭の中でイリスが蛇の尻尾をもってぐるんぐるん振り回す姿を想像し、そして全く違和感無く想像できてしまう事に内心ため息を吐く。世の中には知らないなら知らないでまあ幸せな事もあった。
男二人がやいのやいのと言い合っていると、夏希が無念そうに口を出す。
「ぐぅー、海外の血は強い、おのれぇあたしにも血筋をぉ、ハーフになりたいー」
「いやいやなっちん、学校で一番日本人離れしたボディ持ってるやん、というか吉野さんより圧倒的に攻撃力高いだろ、ふじこプラス10」
「やめてそのあだ名まじでやめて、情報暴露というか公開処刑だからやめてほんと」
「98、65、98」
うわああああ、と大声で道長の声を夏希は遮りにかかった。
結局話はわきに逸れ、ぐだついた話のまま四人は食事を終えた。
それを見計らったかのように、飛鳥は牛乳を一口飲むと、いかにも意地の悪そうな顔になり内緒話でもするように机に肘をつき、声を潜めて言った。
「まあ大きな声で言えないけどさ、彼女には悪い噂も結構あったりするんだよ」
「……ま、マジで? おいおい、どういうのだよというかこんな所で話して大丈夫なんかィ?」
道長が少し慌てた様子で周囲を見る。教室は食事の後に出ていった人もいて、随分人数は減っている。
飛鳥はひょいと肩をすくめた。
「こういうのは誰にも見えないところでヒソヒソやった方が逆に気持ち悪いだろうさ、ただの噂話もそれやると陰口になっちゃうからね」
「ん、おぉ……おお? なんか丸め込まれたような」
「気のせい気のせい、それに噂自体は女子の中から出てきたものっぽいし、こういうのだと大体九割根も葉もないんだよね」
あー、と少し納得したような声を出した夏希に視線が集まる。夏希はしょうもないとでも言いたげにふっと天井を見、話した。
「聞いた事あるなーと思って。彼女SNSのクラスグループにも入らないし、お昼休みとか放課後はすぐ居なくなっちゃうからね」
良い的になってるというかね、そう言いもごもご口を濁す。
「要するにイジメみたいなもんか?」
直人が端的に言った。
飛鳥はにやりと笑い、多分ね、と片目で一つウインクを送る。直人は精神的にげんなりとした。
「
「うわぁ……女子えっぐいなあ」
道長はそう感想を漏らす、夏希は視線をそらし、言った。
「そういうの一部だから、きっと、うん、絶対多分」
「絶対多分ってもうわけわかんねえな」
直人が言うと、夏希は逆側に目をそらした。
飛鳥はあまり意味もなく小首を傾げ、顎に指を当て笑みを作った。
「なっちゃん割と当たり。僕が聞き出した感じだと噂の出どこはお隣のクラスのちょっと面倒臭いグループかな」
「相変わらずお前ってやたら女子から警戒されないよな」
「いいっしょ? ただみっちーには無理かな、そういうノリ解んなさそうだし、相手が引くって思わないで話しちゃうタイプには最初っから近づかないし」
道長はそういうもんかー、と腕を組み、分かったような分からないような言葉を出す。
そういうもんだよ、と飛鳥は言い、言葉を続ける。
「去年の秋くらいから流れてたみたいだね、それとゴミ漁りしてたとか、昔同級生虐めて自殺させたとか、ヤクザ絡みの人だとか、クスリに手出してるとか、色々ね」
「なんかそういうのはアレだなあ、ムカついてくんなあ」
素直な怒りで口をへの字にする道長に、飛鳥は笑って言った。
「女子はそんなの信じないよ、出どこが良くないからね。ああまた適当な事言ってるよ、はいはい、面倒なのに睨まれた吉野さん気の毒に、でおしまい。ただ、結構長い時間悪口言いふらされてるし、吉野さん自身とっつきが良くない……というより噂とかどうでもいいみたいだし。色々相まって面倒臭いから触れないでおこうって感じになってるみたいだね」
道長は、なるほどなーと頷く。
「しかしよく知ってんなあ飛鳥」
「みっちーが美人美人って騒いでたから僕もちょっと興味が沸いてね」
飛鳥はそう言い、飲み終わったらしい牛乳パックを特に意味もなくペコペコと膨らませ、萎ませる。
直人は、少なくとも噂のうちゴミ漁りはあながち嘘というわけでもない、と思ったがそれも心の中で言うにとどめておいた。
「んでも、葉山君も気になるにしては結構唐突だよね。吉野さんの話って結構してたけど先週まで全然興味なさそうだったのに」
夏希はそう言い、不思議そうに小首をかしげる。
「そうそう、なっちんのいじましさときたら。目移りしそうな女子の話題ばかり直人ンの前で振って反応見るからなあ」
「三国さぁん? そういうイジり要らないからねー」
「ひぃ、聖母の優しさの声音が怖い」
「悔い改めなさい。大体そういう話は二人も一緒に聞いてるでしょ」
道長は顎に手を当て、ロダンの考える人のごとく、あるいは
「なっちん、最初から4Pはハードル上げすぎじゃないか?」
「死ねばいいのに」
表情を消し、怜悧な顔で放たれた言葉に道長は心臓を抑えのけぞり、おおうと呻いた。
「な、なっちんの女王様顔で言われると癖になりそうだ」
「女王様顔って……」
クールとも言えそうな顔が自分ではあまり気に入っていないのか、夏希はむぅ、と不満げな声を出し、自らの頬を指でぐにぐにとマッサージでもするかのように押す。
「まあ確かに硬派のようなへたれのような直人にしては珍しいかもね、直人から女の子に興味持つってあんまないでしょ? 気軽に手を貸すから知り合う機会は多いけど」
飛鳥の言葉に、そんなに自分は興味薄かっただろうかと直人は考える。
「いや割と……なんだ、性欲とか人並みだと思うんだが」
「んにゃ性欲の話じゃなくてね……というか駄目だこの大きい子、鈍いのか遅れてるのか」
「葉山君はいつも目の前に集中しちゃうから、やる事あるとそっち以外目が向かないんだよね」
「ほーぅ、つまるところ直人ンの今目の前の事ってのがイリス姫って事かぃ? なーにがあったのかなぁ?」
道長が問い詰めるように立って近づき、机に手を付くと刑事モノのごとく、ネタは上がってんだよ、吐いちまいな、と言った。
直人は観念し、両手を出す。
「……刑事さん、俺がやりました」
「よし、婦女暴行の容疑で逮捕する」
「道長、せめてもう少しマシな容疑にしてくれないか?」
「よし、未成年略取誘拐、及び強盗殺人、死体損壊の容疑で」
極悪だね、と飛鳥が突っ込み、夏希もまた寸劇に乗り、目を伏せて涙を拭う振りをし、こんな事をするような人じゃなかったのに、と悲しげにつぶやいた。
「しかし自分で口にしておいてなんだけど、イリスって名前もなんか凄いよな、あんまり聞かなくね?」
割とどうでもよくなったのか、道長は寸劇を止め、言った。
ああ、それならと飛鳥が答える。
「アイリスと同じ意味だってさ、花の名前の。ドイツとかベルギーとかオランダとかあの辺りだとそういう発音なんだって、ひょっとすると親御さんがそっちの人だったのかもね」
「物知りだなあ、それも調べたのか?」
「そそ、なんかこういうのってほら、一度調べたらしっかり調べたくなるもんでしょ」
そう言った飛鳥に道長はおっかねーとわざとらしげに震えた。
「飛鳥には調べられたくねーな、丸裸にされそうだぜ」
「ん? 僕に剥かれたいって?」
ぞくりとするような流し目を向けられ、道長はガクガクと生まれたての子鹿のように震えた。
「そ、そっちの趣味ねーから! てか大丈夫だよな、俺はお前を信じていいんだよな!」
「大丈夫、僕もそっちの趣味はないよ。興味があるのは人妻くらいだから」
「何さらっと大変な事言ってんだよ!」
「みっちーが結婚するのが待ち遠しいよ」
「何をする気だやめろォォ!」
結局グダグダになってくる会話を横に、夏希が普通に尋ねた。
「それで結局吉野さんとは何かあったの?」
「んー、何かあったというか、バイト帰りに見かけたんで……帰り道送ってったくらい、かな」
あまり人には話せないような部分を除くとそうなった。
夏希はふーんとつぶやき不思議そうに言う。
「知らない人に送ってって貰いたいって思うかな」
「あーいや、声かけてきたのは向こうからだよ」
「え、そうなんだ」
夏希は意外そうに目を開く。
「人付き合いとかあまり好きじゃないんだと思ってたけど……クラスメイトの顔と名前覚えてるって事は、ほんとは仲良くしたいのかも。ちょっと今度声かけてみるかな」
そこはどうなのだろう、と直人もまた首をひねる。
そして何となくそうではない可能性であってほしいと思う自分に気づき、少々げんなりした。
◆
一日の授業が終わり、開放されたような、どこか気怠いような不思議な感覚に包まれるわずかな合間。
吉野イリスという少女はそのふとした間に既に教室から出ていってしまったらしい。
直人も彼女に意識を向けていたのを友達に気づかれていた事が恥ずかしく感じてしまい、午後は意識して目をやらないようにし、授業に集中していた。授業が終わり、帰り支度をした所でふと目をやれば既に居なくなっていた、という状況だ。
と言っても、姿があったらあったで、何か行動するのかといえばしないのだろうが。
四人は昔からの付き合いがあるからといっていつでも一緒というわけでもない。仲間というにはゆるい関係であり、馴染みの友人というのがやはり一番しっくり来るものだっただろう。飛鳥は自分の所属している文学部の部室に行き、道長は本来関係ないはずなのだが、勝手に文学部の部室に出入りしているらしく、何とも厚かましい事に倉庫代わりにしているらしい。今日も何冊かの漫画を持ってきたようで、連れ立って行くようだった。
校舎を出て、この時間日陰になる場所に自転車置き場と第二体育館がある。
他愛のない雑談をしながら歩いてきた直人と夏希は立ち止まり、直人は少し考えるように視線を上に投げ、戻し、言った。
「一応言っとくけど、あんま激しい運動はすんなよ?」
「大丈夫大丈夫、そこは部長も分かってるからさ、それに三週間も柔軟くらいしかやってなかったからねえ、勘を取り戻すのが先かなー」
「夏希の大丈夫はあてにならないからなあ……」
「あはは……」
夏希は我慢強い。いや、我慢強いというより直人の見るところ、自分に無頓着な所があり、それが我慢強く見せているのだろうと思っていた。
体操部の練習で手首を捻挫し、にも関わらず練習を続けてしまい、結果的に治療時間が延びてしまったのもそれだ。それでも医者からすれば呆れるほど治りが早いという。若さだなと言われたのだとか。
ともあれ、昔からそういう面を見ている直人からすれば一言釘を刺しておきたいところではあったのだ。
「まーまー、あたしもさすがに復帰初日で頑張りすぎるとかは無いって。葉山君はバイトでしょ? 時間は割と余裕なんだっけ」
「おう、シフトが夕方からの交代だしな」
「ふーん、何だったら練習でも見てく?」
「あー、えー、いや……遠慮するよ」
以前練習の見学にと入った時の事を思い浮かべたのか、タジタジとなり唇の端をひくつかせた。
夏希はその顔を見て吹き出し、直人はため息を吐く。
この学校の体操部、男女比率が半端ない、というより女子しかいない。一応男女共に在籍できるようにはなっているらしいが、あの女の園に飛び込める男はよほどの勇者だろう、と直人は思った。
「んじゃ、ほどほどにな」
「ん、葉山君もバイト頑張ってー」
挨拶を交わし、直人は校門に向かう。
アルバイト先は駅近くの酒屋だ、学校は駅の北、山側に位置し、距離として二キロ以上は離れているものの、学校で何か用事があった時のためにアルバイトに入る時間には十分な余裕がとってある。のんびり歩いていっても問題はないし、それでもなおどこかで時間を潰さないといけないかもしれなかった。
「ん……?」
校門を出てすぐの十字路で、目の端に金色が見えたような気がした。
気がついたのは、先日の夜の一件から妙に気になっていたからか、あるいは今日一日気にしてしまったからか。
吉野イリスその人だった。
どうも年上らしき男子、同じ巳浦高校の制服を着ている誰かに連れられ、どこかに行こうとしているようだ。
遠間であり、その表情までは見えないが、直人は何となく胸にもやもやとしたものを感じた。
「……いやいや。気にしすぎだろマジで」
自分で自分にそんな突っ込みを入れつつ、腕を組み、空を眺めて二、三秒考える。
「まぁ、ちょっと遠回りになるだけだし、時間潰しになるしな」
直人はうむ、とかなり苦しい言い訳をしつつ、角を曲がっていった二人の後を追った。
◆
空気の綺麗な場所だった。
木々の枝に切り取られた空にうっすらとした雲が筋状にたなびき、鳥のさえずりがそこらから聞こえる。
五月晴れといっていい、穏やかな日差しとは裏腹に時折強い風が吹き、梢を揺らす。
八房公園という、なかなか規模の大きな公園がある。
ハーブ園やドッグレース場、池が幾つか有り、ボートで遊ぶ場所があれば、釣り人がのんびり糸を垂らす池もあった。イベント会場では毎月のように催事を行い、外周部の手入れされた雑木林では散歩を楽しんだり、夏ともなれば子供が昆虫採集に夢中になったりもする。
そんな市民の憩いの場所で、直人は大きな木の陰に隠れ、自己嫌悪に陥っていた。
(ほんと、何やってんだ俺は……)
やっている事といえば、覗き見だ。
イリスと、彼女を連れてきた男子は、ベンチに座るでもなく、微妙な距離を保って池の水鳥を眺めている。ぽつぽつと会話があるものの、二つ三つ言葉が交わされると途切れる。
(というかこれってアレだよな)
色恋沙汰に疎い直人とはいえ、さすがに判らざるを得ない。この場所、この雰囲気で今から決闘というわけでもないだろう。
直人は頭を抱えた。
だが半ば流れとはいえ、ここまで来てしまったのだ。振り向くそぶりを見せたので反射的に木の陰に入ったら、かえってこちらの方が景観が良いのか近づいてきてしまったのも運が悪かった。
声もしっかり聞ける距離だ、今立ち去ろうとなんてすればすぐバレてしまう。にっちもさっちもいかない。
「それで、そろそろ話というのを聞きたいな」
イリスの声が聞こえた。言葉だけとってみれば無駄がなさすぎて情緒もへったくれもないが、口調そのものはとても穏やかだ。何を言い出しても受け入れて貰えそうなほど。男もその口調に誘われたのか、二呼吸ほどの間を開け、告白した。よく考えたのだろう、短いながらも十分に伝わるだけの熱意はこもっている。
そしてそんな所を出歯亀している自分、消え去りたい、と直人は思った。なんで人の告白をピーピングしているのかと。
「――うん、すまないけど断るよ」
そしてイリスはあっさりと振ったようだった。声音に罪悪感が少し含まれている。
「……そ、そうか。あー、その。理由を聞いても?」
呻きにも似た残念そうな声。希望を砕かれても見苦しいものは表に出すまいと努めているような気がして、直人は自分の事でもないのに胃が痛くなる気がした。
「うん。そういった男女の付き合いをするほど私は先輩と親しくないし、知らないからね」
「それは……そうだよね。なら友達になってくれないかな?」
イリスは小さく笑った。嘲笑でも馬鹿にしたのでもなく、ただおかしいから笑ってしまったというような。
「順番が前後してるよ先輩。下心があるのを伝えてから友達になりたいと言っても友達には見れないかな、それでOKしたら準恋人という事になってしまうよ」
ばっさりと。
袈裟懸けに切り落とされたようだった。
友達からというのも駄目なのかと直人は痛ましさに胸が痛くなった。
ちらりと木陰から様子を見れば、男の方は言葉が出てこないのか、ただ立ち尽くしている。
頭が真っ白になっているのか、あるいは悔しさからか、ぱくぱくと口を開き、そして絞り出すような声で言った。
「う、噂は本当なのか?」
言ってからしまったと言うように顔が歪んだ。
「噂といっても色々あるだろうけどどの噂だろう?」
「金で体を売ってるとか、そういう噂だよ」
いっぱいいっぱいになっているのか、口は止まらなかった。
しかし、イリスはかえって面白そうに笑い、言う。
「本当だったらどうするのかな?」
「か、買うよ! 金なんかでいいなら」
イリスはなるほど、と頷き、先程より幾分か柔らかい声音で答える。
「さっきの告白よりずっと良いと思う。何の飾りもない言葉でそっちの方が好きだよ」
まともな女の子にはやめた方がいいけど、と続け、ぽかんとした顔になっている相手に向かって目を細めた。
「先輩、悪いけど噂は噂なんだ。金で自分をやりとりはしてないし、今後もその気はないよ」
そう言うと、相手はどこか安心したような溜息を吐き、そうか、とつぶやいた。
ただ、とイリスは続ける。
「さっきの言葉は良かったと思った。だからゲームでもしよう」
「……ゲームか?」
少女は頷き、言う。
「鬼ごっこ、私を捕まえて組み伏せられたらイリスは君のものになる。逃げられたら諦めて、きっと縁が無かったんだ。やる?」
不思議な言い回しをした。
向かい合う男は目を大きく開き、呆れたような、重い物が取れたような、そんな笑いを浮かべた。
「まったくなんて子だよ。やるさ、そりゃあ」
「じゃあ、時間は今から始めて今日が終るまでにしよう」
今から、という言葉に呆気にとられたものの、じわじわと理解すると、男は「やっぱ無し」は無しだぞと言って姿勢を低くし、飛びかかった。
一連の話を聞いてしまい、何やってんだあいつは、と自分をさし置き、直人は呆れた。
足音が離れていくのを感じ、はあと声を出して溜息をつき、木陰から出る。
結局自分には最初から最後まで無関係な話であり、人だったのかもしれない。そんな、どことなく寂しいような、寂しさを感じるのもまた違うような、不思議な無聊感を感じ、直人は肩をすくめ、公園の出口に向かい歩き出した。
風、そして目の前に人が落ちて来た。
そう感じるしかない状況に、直人は、な、と口を開けて固まった。
「誰かと思えば、また君かい?」
さっき離れていったはずのイリスが直人の前で悪戯気な笑みを浮かべていた。
◆
全身が汗で濡れていた。
肺は酸素を求めて喘ぎ、足はもはや感覚もない。脾臓の痛みはもう限界一杯だ。
これほどまでに全力疾走をしたのは何時ぶりだろう、直人は軽くぼうっとする頭でそう思った。
商店街のベンチから空を眺めれば日は落ち始め、夕日が雲を赤く染めはじめている。
「ほい」
と横から手が延びてきた。
スポーツドリンクの冷たい缶を受け取り、プルタブを開け、二つ三つ深呼吸をして息を整えると、それを呷った。
喉を鳴らして飲む。
体が水分を感じ取ったのか、なおさら汗が吹き出した。
「っふはぁ」
缶から口を離し、数秒するとようやく体が落ち着き始め、直人は空手でやる息吹に近い呼吸で息を整える。
ああ、とスポーツドリンクの代金を渡そうと財布を出そうとして、イリスに止められた。
「いいよ、奢り。この間は手伝ってもらったし、その一部と思って」
「ああ」
頷く直人。実のところ財布を出すのもおっくうだった。
それにしても、と隣に座ってちびちびと缶コーヒーを飲むイリスを見て思う。
色々無茶苦茶だな、と。
公園から駅前商店街まで、どのくらいの距離があるだろうか。
三キロは優に超えるだろう。それをほぼ短距離走に近い走りで走ってきてしまった。記録を取っていないのが残念だ。寿命をすり減らした気分さえする直人とは裏腹に、先を走っていたイリスは汗一つかいていない。いや正確には、走っていくイリスの後を直人が必死で追いかけていたというだけだったのだろう。
「このくらい離れれば先輩も見失ったかな」
そりゃ見失うだろう、と直人は心で突っ込んだ。直人とて別に足が遅いわけではない、走り込みは日課になっている、足の速さにも持久力にもそこそこ自信はあったし、陸上部から誘いが来た時もあった。それが何とか付いていくだけでやっとの有様だ。
「いろいろありえん」
直人の心情を一言で表せばそれだった。
「ありえん、なのは
「……ぐ、すまん」
素直に謝った。それは自身も悪いと思っていた事だ。
「にしてもいつから気づいてたんだ?」
「ん、学校出た辺りかな」
最初からバレバレかよ、と直人は頭を抱えたくなった。
何となくもう考えるのも面倒臭くなり、頭を振って色々な雑念を振り払う。元よりごちゃごちゃと考えるのは得意ではなかった。
「しかし、いつもあんな事やってんのか?」
「あんな事?」
「鬼ごっことか言う奴さ」
ああ、とイリスが何でもないように頷いた。
「と言ってもああいう事自体がそんなに無かったからね、去年から数えて今日が三度目くらいかな。本気だったのは今日は初めてだね。あれは私なりの精一杯の誠意だよ、あの言葉は割と本当に気に入ったからね」
む、と何故かイリスが固まった。緊張した面持ちで直人に向き直り、恐る恐る言った。
「えーと、まさか直人も鬼ごっことかに興味があるのかい?」
「いやいや、違う」
直人が首を振ると、イリスは露骨に安堵した様子で息を吐いた。
「良かった、どうしようかと思ったよ。さすがにそれはねぇ」
「さ、さすがにそこまで嫌がられると俺もヘコむものがだな……」
ずぅんと陰を背負う直人。
イリスは慌ててぱたぱたと手を振る。
「違う違う、その、あれだよ。混乱するというか困惑するというか、別に嫌ってないって」
「お……おう」
態度の豹変に直人の方が混乱させられそうだ。
あー、と頭を掻き、話を変えるように言った。
「しかし、ああやって自分を賭けてとか安く扱うのはどうかって思うぞ」
「んー、そうかな?」
イリスは不思議そうな面持ちになり、自分の体をぺたぺたと触りだした。
「背はちんまいし胸も尻も今ひとつだし、売りと言えば線の細さくらいだよね。女としては君の友達の佐藤さんの方がずっと凄いと思うよ」
「あー、そういう見方だとなあ」
佐藤夏希の体は確かに凄い、中学三年のあたりで成長著しくなり、その頃は直人も密かに性欲と友情の間でグラグラと揺れていたものだった。顔だって悪くない、むしろモデル体型にモデル顔なのだからルックス的には完璧に近いかもしれない。もっとも本人がその顔を冷たいから嫌と言っているのが玉に瑕だが。
対してイリスは一番しっくり来る言葉は儚いだろう、と直人は思った。背は直人より頭一つ小さく、女性らしい起伏はあるが全体的に華奢だ。そして小ぶりなその顔は冗談のように整っている。
妖精じみた、と言えるのかもしれない。触れれば溶けてしまいそうな雪と、しっかり根付いた大樹のような矛盾した両面をあわせたような。
「ああ、洋ロリ好きには受けいいよねきっと」
「真面目な顔で洋ロリとか言わないでくれ」
しかも鈴がなるような声で。
あまりの残念さに直人は一気に現実に引き戻された気分だった。
「さて、私もやることがあるしそろそろ行かないと」
イリスはそう言い、立つと、ベンチに座った直人の前に来て身をかがめた。
間近に白皙の美しい顔を見て、直人の心臓が跳ねる。
そんな事に気づいた様子も見せず、イリスは直人の額に指先をちょんと付けると、何語か分からない言葉を一言唱え、そして身を離す。
「……なんだ?」
「疲れの取れるおまじないだよ、いかにも乙女っぽいだろう?」
ふふんと面白げに笑う。
「いや自分で言うのかそれを」
「言うさ、それじゃ私は行くね。またね
そう言い、買い物のため人が増え始めた商店街、その人波の中に消えて行く。
直人は、そろそろ自分もバイト先に向かうかと時間を確認し、ふと体の軽さに気づいた。虚脱感もなくなっている。
「……おまじない、なあ?」
ベンチから立ち上がり首をひねる。
一つだけ分かったのは、とりあえず今日のアルバイトに支障をきたす事はないだろう、という事だった。