赤い森のイリス   作:ぬまわに

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四話

 空が渦巻く。

 何もかもを飲み込み、何もかもを吐き出す。

 世界は朱に染まり、あるいは碧に染まり、あるいは翠に染まる。

 上も下も、右も左も判らず、ただ手を伸ばした。

 人が、飲み込まれかけているからだ。

 いけないと思った。あのままでは行ってしまう。戻れない場所に行ってしまう。

 初めてできたともだちが。

 いつだって一緒だった幼馴染が。

 

「のぞむ」

 

 呼びかける。

 ともだちは手を伸ばした。

 その姿は空に撒かれるように消えてゆく。

 伸ばした手は届かなかった。

 

 ◆

 

 目覚めた直人が一番最初に思った感情は、悔しさだった。

 状況の変化など忘れ、ただ悔しさに身を貫かれ叫んだ。

 

「ちくしょうが!」

 

 夢見が悪かった。

 同じだ、あの時と。

 強くなれと言われ、空手を始め、役には立たなかった。

 掴んだ手が力を失い、黒い塊に引き込まれて行く。

 また何もできなかった。

 直人は頭を振る。

 

「……また?」

 

 夢と現実を混同している。いや、あの黒いものはなんだったのか、どこからどこまでが現実なのか。

 直人は自分の頭が混乱しているのを感じ、頭を振った。

 そこでようやく今の自分の状況に気がつく。

 どうやら車内に居るようだった。

 前の座席に座っている男が振り向き言う。

 

「よう、起きたかい、まあ混乱すんのも判るがとりあえず落ち着け、あと飲んどけ」

 

 そう言い、スポーツドリンクを渡す。恐ろしく人相が悪い。

 直人は判断に迷うようにそれを見ているとさらに前の助手席から声がかかる。

 

「飲んでおいて下さい。かなりの重傷でしたので。治療自体は済みましたが、失った血液は戻るものでもありませんし、賦活剤の副作用で脱水症状が出やすくなっています」

 

 できる秘書然とした容姿の女性だ、言うべき事は言ったという感じで首を軽く傾げ、タブレット端末を操作し始めた。

 直人は肩の力を抜き。渡されたスポーツドリンクの蓋を開ける。口を付けると、実際脱水症状に近かったのかもしれない、ただの変哲もないスポーツドリンクが恐ろしく旨く感じた。

 水分を摂り、やっと人心地ついた気分の直人は一つ瞬きをし、息をつく。

 

「病院に運んでやっても良かったんだが、君の意識が戻ったらすぐ聞きたい事があってな」

標津(しべつ)さん、聞くより最低限の自己紹介なりはすべきでは」

 

 助手席からそんな言葉が飛ぶも、男は耳を貸さず、直人に向かって言った。

 

「君が巻き込まれたのは異能による犯罪だ、訳わからんだろうがそういうもんだと思ってくれ。それで聞いておきたいんだが、巻き込まれたのは君一人か?」

 

 直人は顔を歪め、首を振る。

 みっともなく喚いてしまいそうな自分を抑えるため、拳ダコが出来た拳を強く握り、それでも足らずに左手で潰すように握った。

 

「違う、友達が居た。あいつが目的みたいだった。連れ去られ――」

 

 ぎし、と音が出そうなくらい強く歯を噛みしめる。

 黒蛇が無数に集まったような塊に夏希は飲み込まれていた。あれは本当に連れ去るなんていう生易しいものなのだろうか、と思ってしまったのだ。

 爪が食い込むほど握り込んだ拳に、大きな手が重ねられた。

 傷が二条走った凶悪な顔を歪ませ、ニヤリと笑い、標津は言う。

 

「すぐに追って助ける、安心しな。ああいう奴が居るんだ、そういう奴を取り締まる俺たちみたいなのも居る」

 

 目の前の男は夏希を攫った男より、三倍は増して悪どそうにも見える。ただ、直人は、信用できると感じていた。

 

 ◆

 

 昼間吹いた風のせいか、空気は澄み渡り、冷え冷えとしている。

 寒暖差は激しい、冬が戻ってきたような寒さに精一杯葉を伸ばしていた木々もどこかしゅんとしているかのようだ。

 大きな月が地を照らし、寒さにうなだれたものたちに、精一杯のぬくもりを分け与えているかのようでもある。

 そんな白々とした光に照らされ、無骨な、剥き出しのコンクリート作りのビル。ヒビが入り、蔦が這う三階建てほどの小ぶりなものだったが、明かりも漏れず、シンと静まったその様相は、どこかテーマパークのお化け屋敷めいて見えた。

 

「……こんな場所が?」

 

 遠巻きにその建物を見ながら、直人がつぶやいた。

 

「普通過ぎて意外か? でもなあ、結構多いんだよこういうの。空き家空きビルは増えるばかりだしな」

 

 標津がそう答え、ビルの近くから戻ってきた海別に、どうだ? と聞く。

 海別は頷き、メガネを持ち上げた。

 

「間違いないようです。感知、遮音、それに珍しい特性ですがおそらく熱源探知の性質を備えた結界が張られています。葉山君からの情報を(かんが)みても、類型外のタイプでしょう。とはいえ」

「ああ。お前さんの敵じゃなさそうだ。が、どうも胡散臭くてな……お前さんが居るのは相手も折り込み済みな感じだ。ついでに言えばやっこさんは俺の事も確認してるかもしれん、その状態で待ちを選ぶ。考え過ぎならそれで良いが……万が一の引き際は誤るなよ」

 

 はい、と真面目な表情で答える海別。

 標津は、さて、とつぶやき直人を見た。どこか困った弟を見るような目だ。直人は歯を噛み締めた。

 

「君の役割もこれで終わりだ。協力を感謝する。でな、来れるギリギリの線はここまでだ。これ以上は命の保証なんぞしねぇし、むしろ足手まといだ。待ってろ」

 

 厳しい言葉に直人は予測していたかのように頷いた。

 

「でも、行く。知らない所で全部始まって終わってたなんて嫌だ、俺は」

 

 標津は後頭部をガシガシと掻いた。

 顔を歪め、考えあぐねるように額を拳で叩き、やがて肩を落とした。

 

「……仕方ねえ、絶対に俺の後から出んなよ、それは守れ、摩周、お前付いてな」

 

「標津さん、甘いです」

「いや……だってなあ、女目の前でかっ攫われたんだぜ? そりゃお前居てもたってもいられんだろう」

「む……ん? ……ああ、良いです、仕方ありません。クロにも叱られました。雄がつがいを思う気持ちを無碍にするなと」

 

 クロ? と直人が不思議そうに言うと、標津は『犬神(いぬがみ)』だ、と簡潔に答えた。

 

「あいつと常に一緒に居る。俺にも見えねーけどな」

「いや……えっと、つがいってわけじゃ」

「がっはは、若ぇな、照れんな照れんな! ここで助けて良い雰囲気になったらそのままラブホに連れ込んじまえ」

「標津さんそれ多分ハラスメントに当たります」

「えー」

 

 標津は面倒くさそうにつぶやき、世知辛ぇとぼやいた。

 緊張をほぐすためにわざとそうして剽げているのだろう。その目は直人の状態を測っているようだ。

 本当なら一般人を現場に参加させるなんて常識破りも甚だしいのだろう、あるいは何かがあったら全ての責任は誰かが取らなければならない。その辺りは直人にも理解できた、理解した上で直人は感情から我儘を申し立て、標津という男はそれを許してくれたのだ。

 直人は礼を言おうとし、次の瞬間、何も終わってないという事を思い、口を結んで何も言わなかった。

 目をつぶり、深呼吸をし、心を平常に、そして少しの緊張を持たせる。

 

 世の中には異能ってモンがある。

 直人が常識を覆されたのはその一言が始まりだ。

 目を覚まし、ざっとその時の状況を話し終えた後の事だった。

 異能? と直人がオウム返しに聞くと標津は腕を組んで答えた。

 

「ああ。別に超能力でも魔法でも何でもいいが、わかりやすく言えばそういうもんだ。もっとも俺も学者先生じゃねーから詳しい事は知らねーんだがよ」

 

 大雑把に言えば、と缶コーヒーを開ける。

 

「これから科学で解明される事になる現象、科学だと説明が付かない現象ってのがあってな、昔からそういうのを人間も利用してたんだよ。細かい事言えば人間だけじゃないんだが」

 

 超自然って奴なんだろうか、直人はふといつか道長が言っていた、科学者ほど神の実在を信じているという話を思い出した。ああ、ほれと標津は手を打つ。

 

「ゲームとかやるだろ? ああいうのでよくある奴だ」

 

 がくりと直人の肩が落ちた。

 

「いや、説明するのが楽でいいよな、もっと流行っていいぞ魔法とか超能力バンバン使う奴」

「良いんですか、えーと、あれだ、じゃあ、そういうのでよくある秘匿のために口封じとか」

 

 無い無い、と標津は手を振った。

 

「前提としてな、こういうのは――」

 

 指を一本立てると直人のバッグが前触れもなく()()()()

 呆気にとられる直人に、標津はコーヒーを一口含み言う。

 

「一人一能力、しかも遺伝しねえし誰がどういう基準で発現するかも分からん、ついでに数も少ない。異能者自体は見つけ次第囲ってる。たまたまそれを見た奴が何か言っても信じられんさ。記録も最近は手軽にイジれるしな」

「補足するなら、国際協定により定められたルールがあり、各国の政府と共同で情報の基本的な抑制はされています。無政府状態、あるいは極端に政府の力が弱い国では別ですが、日本においては十分に機能している状態です」

「いや、お前なあ、若いのにそういう言い方しても伝わらねえだろうよ」

「伝わるか伝わらないかはともかく、それなりに言っておかないと職務違反になりますよ、一応記録取ってますし」

 

 海別の言葉に、固い奴だ、と標津は肩をすくめた。浮かんだままのバッグが重力を思い出したかのようにシートに落ちる。

 

「もっとも、今回は君に協力を求めなきゃならんからな、さすがに口封じとかはないが、守秘義務の誓約書には後でサインしてもらう事になる。まあ破ったところで摩周が罰金払ってくれるから安心していいぞ」

「何でいきなり俺を犠牲にするんスか!」

 

 運転席から上がる悲鳴を他所に、標津は続ける。

 

「うちの海別は変わり種でな、まあ色々手立てがあるんだ、でな、その手立てのために手を貸して欲しいのさ」

 

 協力と聞き、直人は一も二もなく頷いた。自分にできる事があるならなんでもやるつもりだった。

 標津はよし、と頷き、行くかと言う。

 直人は即座の行動に驚きを顔に出すと、それを見越していたかのように助手席から声がかかる。

 

「葉山さんが回復するまでに打てる手は打ってあります。警察に呼びかけ主要道の交通規制、及び分析班により潜伏先と思われる拠点を八ヶ所まで絞り込みました。近い場所から回って行きます」

「異能とかって、警察の交通規制で何とかなるんですか?」

「なります。異能と言ってもピンからキリまでですが、例えばサイコメトリーや透視能力(クリアボヤンス)などは便利ですが直接の物理干渉力は持ちません、そのたぐいでない相手にも一定の牽制を期待できます、今回は私の能力を知っているふしがあるので、特に有効でしょう」

 

 私の能力、と聞いて直人は不思議そうな顔をした。

 それさえも見抜いているように、タブレット端末から目を離さず、何やら操作を続けて海別は言う。

 

「私の感知能力は駒ケ岳市全域にかけて有効です。遠くなれば分かりにくくはなりますが、異能が用いられればその地点が分かります」

「っていう馬鹿広い探索領域持ってるからついた名前が『犬女』だよ。過去大きな事件解決に持っていった事があってな。悪党連中に広まったらしい、言い得て妙というか、良いところをついてるっつーかな」

 

 標津が言葉を引き取りかき回す。海別は振り向き冷たい視線を後に送った。

 摩周がひええと声を出す。

 

「標津さん車内温度が低下するから勘弁して下さい、現場行く前に事故りますよ」

「その時は我が班の責任者、摩周春樹の渾身の土下座で何とかしてもらうさ、頼りがいのあるリーダーっていいなあ」

「話が進みません」

 

 ぴしゃりとやられて男二人はしゅんと黙り込んだ。

 海別は続けた。

 

「勝手に呼ばれている名前はともかく、私の能力は応用性が高く、感知はその一側面です。葉山さんに協力を求めたいのは、あなたを媒介とした能力行使による犯人の追跡です」

 

 海別は、これも言っておかなくてはいけないのですが、と前置きし、口を開く。

 

「あなたを媒介とする事で、葉山さんが敵対者から脅威と見られ、反撃を受ける可能性があります。サーチトラップ型の能力も、またそういう道具を作り出す異能者も存在しますから」

「朱里さんいつもあっさり探索(サーチ)してませんでした?」

「トラップが起動してもこちらに届く前に解体すれば問題ありません」

「なんか凄い事言ってません?」

「言いながら私もちょっとどうかと思いました」

 

 コホンと咳払いをし、海別は流れを戻すようにそれはともかく、と言った。

 

「極力危険は排除しますが、異能者相手にリスクが完全にゼロになるという事はありえません。それは承知していて貰いたいのです」

 

 その上で協力してくれますか、と聞き、直人は頷き、肯定の言葉を返した。

 標津が空になったコーヒーの缶を潰し、ゴミ袋に入れながら言う。

 

「長々となっちまって悪ぃなあ、うちの部下真面目でさあ」

「ほ、ん、ら、い、はリーダーのやる事なんですが、上司」

 

 言葉に込められた怒気に運転席の摩周が悲鳴を上げ、標津は柳に風と受け流した。

 走る車の中で、直人はまだ怠さを感じる体を起こし、聞いた。

 

「それで……俺は何をすれば、良いんでしょうか」

 

 海別は直人に向き直り、特には何もしなくて良い、と言う。

 

「地点到着後あなたの持つ(えにし)を通じて、力を周囲に向かって流します。犯人はおそらく結界を張って潜伏しているので、その場合特殊な反響になります。いわば潜水艦の探知機(ソナー)のようなものと考えてくれれば良いかと」

「……(えにし)?」

「何となくのニュアンスで捉えて貰えば良いです、あなたの知人友人家族につながる霊的な線のようなものだと考えて下さい」

 

 では、と海別はメガネを持ち上げ言った。

 

「第一地点到着までまだ間があります、蹴撃した犯人像の詳細、それと攫われた佐藤夏希さんの直前までの事で変わった事が無かったか、葉山さんからの視点で教えて下さい」

 

 ◆

 

 突入は無造作に行われた。

 遠慮の一欠片も、躊躇やためらいの一欠片もない歩みで標津が正面入口から堂々と入り、さすがに動きやすそうな靴に履き替えた海別がそれに続く。

 二人の姿が小さなビルに消えて数秒後、轟音が続けて響き、爆圧でもかかったかのように一階のフロアの窓ガラスが全て吹き飛んだ。

 そして三度の破砕音。

 静かになり、ややあって、渡されたインカムから「入ってきていいぞ」という声が届いた。

 

「ひとまずここは制圧した」

 

 標津が階段に腰を下ろし、煙草を吹かしている。

 周囲には瓦礫が散乱し、どういう事態があったのか、壁には大きな穴、そして天井に焦げ跡もあった。

 余裕っスね、と言う摩周に、そりゃな、と答える標津。

 

「とりあえず分かった事が一つ。ほぼ確定で相手は黒縄(こくじょう)(ヤン)だ。昔一度追っかけた事があるんだが(トラップ)の張り方が一緒だわ」

「げ、有名どころじゃないですか、俺と彼ここに居て大丈夫なんスか?」

「平気平気」

 

 そう言い、標津は手をひらひらと泳がせる。

 

「ガチ戦闘系ってわけでもないしな、罠も時間稼ぎに終始してその間に逃げる奴だ。今海別がかたっぱしから解体してるが、本人はとっくにここに居ないって可能性の方が高ぇや」

 

 その言葉に何もやり返せないのかと直人は歯噛みをし、いや、と首を振る。

 海別の話通りなら少なくとも夏希はここにいるのだ、ならそれで良いじゃないかとも。

 それでもやっぱり悔しさはこびりつくように残っていたが。

 黒縄の楊という名前は事前情報として知らされていた名前だった。

 直人がした話から割り出された異能者の名だ。その時点では確率が高いというだけだったが、確定らしい。

 世界を転々とする蒐集家(コレクター)であり盗人、異能者が作り出した特殊な道具、魔道具とも霊具とも呼ばれるそれを専門に狙い、売り払う。盗品を横流しするブローカーでもあるらしい。

 

「佐藤さん宅に護衛やっといて正解だったな。夏希ちゃんは人質に攫われた公算、大だ」

 

 そう言い、標津は中ほどまで吸った煙草を落とし、踏みにじって火を消す。

 ふっと訝しげな顔になると、おいおい、と言い身を翻そうとし、思い出したように振り向き、言った。

 

「お前らはそこで待機、いいな?」

 

 返事も聞かずに階段を駆け上がる。 

 何が、と追いかけそうになる直人を摩周は手で止めた。

 

「楊が居たんですよ、戦闘向きじゃないとはいえ僕や君みたいな一般人には危ないですねえ」

 

 直人以外にはインカムを通して通信が入っているようだった。

 摩周はジャケットの懐に手を入れると拳銃を取り出し、スライドを引き、上に向けて構える。

 

「……実銃ですか?」

「警察権は無いんスけどね、仕事が危ないもんで特例で認められてます。麻薬取締官(マトリ)みたいなもんですね」

 

 とはいえ、と摩周は肩をすくめる。

 

「9mmパラ程度じゃ驚かせるのがせいぜいっていう事も結構あるんで、こいつは当てにしないで、いざって時の、逃げるための牽制用と思っておいて下さい」

 

 にへら、と気を抜かせるような笑いを浮かべた直後だった。

 人の悲鳴が、響き渡った。

 

「な……つきッ」

 

 少女の声だ。

 何年も一緒に居て聞き慣れた声だ。

 同時に聞いた事もない。

 作り物(フィクション)でしかありえないような、断末魔のような叫びなんて、聞いた事もなかった。

 直人は指示も、摩周の存在も忘れて階段を駆け上がった。

 摩周は制止しようとしたが、すでに出遅れている事を感じ、その背中を追う。

 悲鳴は続いている。

 弱まっている。

 ところどころに傷が付き、瓦礫が落ち、明かりもない廊下を手に持ったわずかな光源で照らし、時折足を取られながらも、全力で走った。声の元へ、声の元へ。

 ――部屋から明かりが漏れていた。

 扉は獣が食い破ったように千切られ、開いている。

 もはやかすれたようなか細い声はその部屋の中から聞こえていた。

 見境もなしに飛び込むと、直人は何かに物凄い力で引っ張られ、そのまま床に叩きつけられる。

 

「がっ……」

「何で来たッ!」

 

 同時に標津の怒声が飛ぶ。

 次の瞬間、思い至ったのか、いや、と首を振り言った。

 

「あの悲鳴で来ねえわけがねえか……」

 

 声は止んでいた。

 床に押さえつけられたまま、直人は顔だけを動かし、それを見た。

 黒い蛇がのたうっている。それは文字にも絵にも見える不思議な模様を描き、流動し続けていた。

 魔法陣のようにも見えるその中心に、二人が居た。

 椅子に縛り付けられ、呆然の表情で天井を見上げる夏希、そして直人を襲った凶相の男。

 男と夏希の縛られている椅子からは、四隅に置かれた光源のせいか四方に影が伸び、その影から無数に黒い蛇が生まれ、沈んでゆく。

 何が起きているのかわからない。

 ただ、そのままにはしておけないはずだった。

 直人は全身の力を込めて身をよじり、視線を動かすと、標津と海別が険しい表情でそれを見ているのが分かった。

 

「なんで、だ。早く……止めてくれ!」

 

 標津は答えず、忌々しげに眉を寄せる。険しい顔がさらに険しくなった。

 口を開いたのは海別だった。

 

「現在、相当精密な仕掛けで佐藤夏希さんは内部干渉を受けている最中です。今私達が外部から破壊すれば、悪くすればどころではなく、逆流した力により確実に彼女を廃人にしてしまいます」

「……ああ、最悪だ。読み違えたぜ。佐藤夏希、彼女そのものにアイツは用事があったんだ」

 

 標津はそう、呻くように言った。

 

就是(その通り)。俺は時間を稼ぐだけで良かった、お前らに見つけられ、追い詰められても良かったのさ。手が合ったからな」

 

 蛇ののたうつ円環(サークル)の中心で男は口の端を上げ、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 

「こいつはすげーぞ、目利きの俺が言うんだから間違いない。錬金術師の最高峰“ゾシモス”の名を冠したラファエロ・コーテッサ、稀代の人形師にして造形師、その作品だ。売れば千金、間違いないがここは一つ、単純な力として使うとするかァ?」

 

 その言葉にどんな意味があったのか――

 標津は目を見開き、おいおいとつぶやいた。

 自然体で立っていた姿が、両足を開き、両手を軽く持ち上げる。

 直人にはそれが一つの構えのようにも見えた。

 気づけば直人の体にかかっていた重圧はない。身を起こし、()()()()()()()()()に見入っていた。

 色が抜け落ちていく。

 人間であった事をやめるように、ぽつりぽつりと淡いものが体から浮かび、宙に消え、その度に色が抜けてゆく。

 髪が白く。

 眉も白く。

 肌も白く。

 透き通るような肌の下の血の色だけは変わらないのか、唇の赤さはより鮮明に見えた。

 その変化を見て、楊はたまらぬ、と言ったように首を振り、溜息を吐いた。

 

「……真白(しんぱく)のホムンクルス、はは。幻の一桁台か、お宝だと思ったが……これほどかよ。なんでこんな所で遊ばしてンだよ、ひひ、はは。天才の考える事はわけわからねえなホント」

 

 風が巻いた。

 不可視の力の奔流。

 直人にはそれを明確に感じる事はできなかったが、そういうものがあったのは分かった。

 楊と夏希を囲んでいた黒い蛇とも縄とも見えるものが散らされている。切れ切れに寸断され、元からそんなもの無かったとでも言うかのように、薄れていった。

 

「……こいつァ、聞いていた以上だな。意識無しでこれかい。オペラ座を抜ける時には一体で百人相手にしたらしいが、こりゃ半端ねーな」

 

 楊は声を立てずに引きつるような笑いを上げ、指を夏希の前で複雑に動かし、起きろ、と言った。

 白い夏希の目がゆっくりと、しかし無機質な動きで開き、紅い、紅玉(ルビー)のごとき瞳が男を写す。

 

「倒します、誰ヲ?」

「あ?」

 

 ぼん、とコミカルと言えなくもない、軽い音がした。

 コミカルなどとはとても言えない惨状が広がった。

 支えを失った、男の胸から上の体が重力に引かれ、立ったまま残っていた膝から下だけの足の上に落ちる。ぐしゃり、べちゃり、と鈍く、液体の散る音が聞こえた。

 

「え……?」

 

 最後まで事態を飲み込めていない、そんな疑問の一文字が楊の最後の言葉になった。

 夏希は軽く手を前に動かしただけだった。拘束具などは意味をなさずにちぎれている。

 爆弾でもそこにあったかのように楊の胴体が吹き飛ばされ、粉々になり、血飛沫となり背後の壁を赤く染めた。

 

「逃しますか?」

 

 呆然となる直人の近くに、いつの間にか駆けつけていた摩周が居た。

 標津は、いや、と言う。

 

「近場に居た方がまだマシかもしれねえ、俺と海別の後から出るなよ」

 

 手を前に出したまま動きを止めている夏希の様子を探りながら二人はじり、と距離を詰めた。

 

「佐藤夏希さん? 私達は敵ではありません。言葉の意味はわかりますか?」

 

 海別がそう呼びかけると、夏希はただ声が聞こえたから見た、というようにひどく無機質な動きでそちらに顔を向ける。

 

「私ハ、倒します?」

 

 不思議そうな声音と、体の動きがまるで噛み合わない。

 そんな様子で立ち上がり、夏希は手を持ち上げ、そして何も起こらなかった。

 一筋の風がそよぎ、海別の髪を揺らす。

 

「噛み千切りましたが、標津さん。底が知れません」

「威力のほどは?」

 

 夏希はそのままの状態で一回まばたきをした。

 何をしたのか風の渦が巻き、直人にすら感じられるほどの力が収束する。

 それが無造作に放たれ、海別の立っている場所の外が脆く崩れ、破壊され、瓦礫が散弾のごとく後の三人に向かい、それが全て弾かれる。

 こりゃまずいな、と標津がつぶやいた。

 

「葉山君よ、悪く思うなよ。ほっとくにゃマズい事になった」

 

 言葉と共に直人の意識が薄れる。強制的に眠りにつかされるような違和感に目を見開き、抵抗しようとする。

 しかし、どうにもならなかった。

 悔しげな表情で目を閉じる直人の体を親指で指し、標津が言う。

 

「運んどけ、お前もできるだけ離れて待機、報告も入れ――ッ!?」

 

 能動的な動きを見せなかった夏希が目前の海別を無視し、標津に攻撃を放っていた。

 受け止め、逸し、力を上に逃す。

 圧力に耐えきれなかった天井があっさりと撃ち抜かれた。

 

「本格的に……ヤバいなッ!」

 

 標津は豪腕とも呼ばれる事になった能力、捻りも、てらいもない、ただ出力だけが馬鹿高い念動力(サイコキネシス)を全開にし、あくまで無機質に攻撃を加える佐藤夏希に応戦した。

 

 ◆

 

 瓦礫を月明かりが照らし出していた。

 つい先日までは壁や床であったはずの砂礫が風に舞い、飛び散る。

 不自然なほどの静けさ。

 結界が未だ作用しているのだろう。

 小さなビルはもはや廃墟とすら呼べるものではなくなっていた。

 いかなる力を以てしたか、一階から天井に向かい放射状に穴が空いている。上から見ればすり鉢のようにも見えるかもしれない。倒壊していないのは外壁のみでも残っていたためか。

 静謐の中で、倒れている少年を労るように、ひどく寂しそうに、白い少女が膝を貸し、その寝顔を見続けていた。

 

「……く」

 

 少年が苦しそうな声を上げ、大きく息を吸い、目覚める。

 目覚めた直後、自身の状況がよくわからないのか、真上に見える少女の顔を見て呆けた表情を浮かべた。

 

「な、夏希? お前……」

「うん……」

 

 少女は悲しそうに笑うと、大事なものを扱うように少年の収まりの悪い髪に手ぐしを通す。

 数秒し、やっと自分が何をされているのか理解したのか、少年が軽く混乱した様子で起き上がった。

 動揺している場合じゃない、と言わんばかりに首を振り、少女を見、言った。

 

「お前、大丈夫か、意識は!?」

「うん。平気だよ。制御術式に自己修復があるのすら分かって無かったみたい。強制的に書き換えられそうになって自己防衛とちょっとの誤作動を起こしてただけ」

 

 それでは――

 それではまるで自分がモノのようではないか、と少年は思った。

 

「夏希……お前は」

「ごめん、葉山くん。あたしは全部思い出しちゃったから。そういう意味では……誤作動はまだ続いているのかもね」

 

 そう言い、少女は立ち上がる。

 何となく、嫌な予感がした少年は立ち上がり、一歩歩み寄った。

 

「わかんねえよ。夏希は何言ってんだよ」

「うん。ただ、これ以上居れないんだ。だからごめん」

 

 少女はそう言うと、とんと足元を蹴る。冗談のように少女の体が浮き上がり、二階の窓枠があった場所に足をかける。

 

 ――あたしを忘れて。

 

 そんな言葉を残し、白い姿は消え去った。

 少年は力尽きたように膝を突き、歯を噛みしめると、拳で床を叩いた。

 瓦礫だらけの床を、どれほどの力で叩いたのか、空手で鍛えたはずの拳から血が滲む。

 

「何が……忘れろだよ、冗談じゃねえ」

 

 少年は立ち上がり、周囲の惨状とは裏腹に、自分の体には傷一つ無い事にようやく気づく。

 ここに来る前渡されていたLEDのライトが転がっている事に気づくと、それを拾い、点灯する事を確認した。

 

「インカムはどっか行っちまったか」

 

 つぶやきながら周囲を照らすと、瓦礫から避けるように二人の男と一人の女が寝かせられている事に気づく。

 近寄り、傷だらけだったが、息がある事を確認して少年は安堵の溜息をついた。

 揺すり、声を掛けてみたが目覚める気配は無い。

 少年は数秒、悩むように夜空を見上げ、やがて視線を戻した。

 

「救急車は呼んでおきますから」

 

 そう言い、身を翻す。

 瓦礫を踏み散らす音は遠くなり、やがて再び不自然すぎる静寂に包まれた。

 

 唐突に空間に音が入ってきた。

 風の音、虫の音、街路樹の揺れる音、車のエンジン音、遠くで慣らされたクラクション。

 深夜であろうと人の街なら当たり前な雑多な音が静謐な空間を揺らす。

 ジャリジャリと無造作に瓦礫を踏む音がした。

 夜に溶けそうな少女だった。

 月明かりに照らされ、青くも見える金の髪を揺らせ、少女はつぶやいた。

 

「変な結界があると思ったら……死体ひとつに気失ってるのが三人か。やっぱ組織同士でドンパチ? やだねえ、どこの世界でも戦、戦って」

 

 少女は呆れたような達観したようなもの言いをし、体重を感じさせない歩みで倒れている三人の側に行き、その状態を見て、不思議そうに首を傾げた。

 

「……よく分からない状況だなあ」

 

 まあいいか、とつぶやく。

 

「一応知らない顔じゃないしね」

 

 少女はスマートフォンを取り出すと、知り合いに電話をかける。

 成人三人、ついでに瓦礫の下に死体が一体。何をするにせよ、少し人手が必要なようだった。

 


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