ティシュタルがごとくにその一矢は駆けた。トゥランに取り込まれるだろうと言われたこの村も、十日ほど前まで血に濡れていた国境も通り過ぎて。その矢は早馬よりも早く、隼よりも遠くへ、日没まで飛び続けた。
戦争が終わるという報せがわたしたちの村に届いたのは、条約が結ばれた三日後のことでした。知らせに来たのはもう十年も戦ってきたであろう兵士で、王宮警護兵の紋をつけていました。可能な限り触れ回るために彼のような、本来はこんな辺境に来るはずのない方まで駆り出されているのだと笑っておりました。とても気の良い方で、村の歓待すら、ここはトゥランに近いのだから今後のために取っておきなさいと断っておられました。
戦争には負けたこと。
「国境は明後日の夜明け、ダマーヴァンドの頂から放たれた矢の届く先を、そう定めるとか」
彼は別段、それを誰が行うとは言いませんでした。けれどきっと、わたしや子供たちがダマーヴァンドの麓へ向かいたいと言ったなら手配してくださったのでしょう。私の夫の名はアーラシュ。この国一番の弓手と名高い、あのアーラシュ・カマンガーでございます。
わたしははじめ、彼の兄シディーヤに嫁ぎました。13の時です。アーラシュはわたしの二つ上で、その時の夫は更にその五つ上でした。三年のうちに子を二人授かりましたが、上の娘の方は流行病で五つの時に死にました。下の子が生まれる年にシディーヤは兵としてトゥランとの故郷に行き、そしてそのまま、帰っては来ませんでした。その頃既に弓兵として何度か前線に向かっていたアーラシュに、嫁が必要だろうという話が出たのは息子が三つになろうかという頃。
アーラシュはシディーヤの弟ですから、寡婦のわたしを引き取る意味もあったのでしょう。話はとんとん拍子に進み、まだ小さかった子供たちを連れて、わたしは再び彼らの家の娘となりました。
シディーヤと同じかそれ以上に、わたしはアーラシュを愛しております。たとえ彼が戦争期の夏だけでなくずっと村の外に出ていて、年に数度しか会えないとしても。たとえ彼がわたしのことを、他の女性たちと同じようにしか見ていないとしても。
子供はおります。私の方からお願いしたのです。あの人はいつかいなくなってしまうと思ったから。けれどそれ以上に、それが女であるわたしの務めであるからでした。
アーラシュが拒むことはありませんでした。それが愛ではなく義務によるものだったとしても、わたしはそれで満足です。満足、です。
こんな辺境の村の出身であるにもかかわらず、彼は王から直接声をかけられるほどの高位にあるそうです。あくまで兵としてですが、近衞と同じだけの扱いをされていると聞きます。彼のおかげでこの村はずいぶん豊かになりました。
アーラシュ。頑強なる人。彼は強大に過ぎたのでしょう。誰も彼の隣に立つことはできず、誰も彼の隣に立とうとはしなかった。将軍も、王でさえ彼のそばにいるには脆かったのです。
であれば、わたしなどが彼の隣にいることなどできるはずもありませんでした。
彼がダマーヴァンドの山頂に着いた頃、わたしはまだ寝床の中におります。日が昇るすぐ前になってようやく子供らを起こして食事の支度を始める、そういう普段の通りの日でした。ええ。何も変わった所のない日のはずでした。あの人からは、あるいは他の誰からも、彼がその矢を放つ手筈だという連絡はありません。
それでもふと思い立って、日が昇ろうというときにわたしは家の外に出て南を向いていました。けれどその山はあまりに遠すぎて、あるいは昇った日があまりに眩しくて、何も見ることは叶いませんでした。今思い返せばなにかが光ったような気がしたようにも思えますが、それも思い違いでしょう。そのあとはただいつものように家の中へ戻って、竃の前に立ちました。
家には今年で三つになる息子とつい
日が昇り切らないうちに畑に出て、世話をする畑を変えながら日が落ちるまで作業を続ける。アーラシュがいないのはいつものことです、なにが変わることもありません。
それは娘を背負って村の子供達と畑の世話をしている時のこと、下の息子が不意に空を指して叫び声を上げました。
「流れ星だ!」
「ちがうよ、こんな真昼間に星が降るものか。あれはきっと矢だよ。ざまあみろトゥランの連中!これで僕らはずっとペルシャの人間だ!」
父親違いの弟の言葉に兄はそう言って、二人とも畑から駆け出して行きした。北の方へ、まるでそうすることで天翔る矢に追いつけるとでもいうかのように。それとほとんど時を同じくして、背の娘が泣き出しました。まるでそうすればわたしが南へ向かって、それで父に会えるとでもいうように。
誰かが、国境決めの矢が飛んでいくといいました。
誰もが、空を見上げました。流星のような一条の光を、誰もが見ておりました。
わたしも、娘をあやすことすら忘れてそれを眺めていました。
ええ、たった一人しか。
子供たちの父親は、帰って来ませんでした。敵に討たれたわけではないにせよ、アーラシュもシディーヤと同じくこの戦で命を落としたのでしょう。わたしの母が生まれるよりも前から続いてきた戦いに幕を下ろしてしまって。
アーラシュ。獅子の如くに、マズダーの遣いが如くに勇敢なあなた。
あの人の身体は見つからなかったそうです。色々な人が、色々なことを言います。色々と、身勝手な願いを口にしました。
死に穢れることなく聖なる大地に帰ったのだと言う人がおります。
今でも山の中で暮らしているのだと言う人がおります。
神に与えられた力を失い只人となって軍に入り直したのだと言う人がおります。
アムシャ・スプンタの一つとなって山中を風として巡っているのだと言う人がおります。
わたしは、なにも言わないことにしました。たしかに願いはあります。感謝もあります。けれどアーラシュがどうなったにせよ、彼は十分すぎるくらいにそれらを負わされましたから。わたしももういい歳ですから、子供を産むのを求められることもありません。畑であの人を待っていても誰も文句は言わないでしょう。
どうか、あの人が帰ってきますように